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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第3章 シュガーリリィの恋
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第111話 雨宿りとお泊まり(1)


 やがて大雨は、ごうごうと街中に降りしきった。


 テレビを点けて夜の天気予報を見ていると、ここら一帯だけじゃなく関東全体がこんなかんじみたいだ。


 ざあざあと硝子窓を叩き破らんとする勢いの雨粒は音を聞いているだけで、くるみを歩いて送る気には到底ならない。それは彼女も同じらしく、リビングで参考書を開いて問題を解き始めたので、しばらくは帰るつもりはないようだ。


 碧も最後の追い込みと銘打ってラグに座り、あるいは心が軋むようなさっきのワンシーンを遠ざけるようにシャーペンを握って、問題集を広げた。


 すぐ隣には、さらりと落ちる髪を耳にかけ、ぴしっと美しく背筋を伸ばしたくるみ。


 自分を律することに誰より長けている彼女は、碧が横に座ったことに気づかないくらいに勉強に集中している。


 さっきまで可憐であどけない笑みを見せていたというのに、その眼差しは今は真剣そのもので、高貴さすらうかがえた。ギャップと温度差で風邪を引きそうになる。


 今話しかけるのは悪いかなと思ったが、ふと気になったことを訊ねてみる。


「……くるみさん、その格好まだ寒いでしょ」


「え? ううん。そこまでだから気にしなくても大丈夫」


「肩震えてるから。ほら、これ」


 試験前に体調でも崩されたら一大事なので、洗い立てのブランケットを広げ、くるみにぐるりぐるりと巻きつけてやる。


 やがて出来上がったのは、足先から首まですっぽりくるまった真ん丸ふくふくな豆大福で、久々に見るシマエナガちっくな愛らしさに思わず口角が弛んでしまう。


「で、でも。これじゃあペン握れないと思う!」


「はは……そんな大真面目に言わなくても。隙間から腕出せば——くしゅっ」


 不意にくしゃみが出てしまった。


「! 碧くんも寒いんじゃない?」


「これくらい大丈夫だから——へくちっ」


「あっ。やっぱりさっきちゃんと体拭かなかったんでしょう」


 もうすぐ夏だから油断してたんだ、と言いたかった反論は、次のくしゃみでキャンセルされた。呆れの視線がぐっさり突き刺さる。


 腕をさする碧を見たくるみは、一瞬迷うように口許に手を当てがって。


「……うん」


 自分に言い聞かせるように小さくそう呟くと、巻いているブランケットを手早く解いた。


 何をするつもりなのかと見守っていると、


「えいっ」


 可愛らしい掛け声と共に、ほのかな温もりの残るそれがばふっとかかってくる。


 こちらが驚いている間にもくるみはせっせと腕を回して、ブランケットを碧と自分に巻きつけていく。彼女がそろそろと身を寄せ、温かいふあふあがふたりを包んでいく。


「なんかまだ少しだけ寒い、かも。もうちょっとこうすれば……いいのかな」


 もぞもぞと毛布の下でくるみが動き、恥じらう声が九センチの距離で耳朶をくすぐる。


「……くるみさんこれ」


 最近彼女から甘えて擦り寄ることが多くなったとはいえ、ちょっとこれは予想外。


 詰まるところ、ふたりで一枚のブランケットに包まるかたちになっていた。


 すぐそばには肩や二の腕を存分に密着させながら、体温を共有する少女。すぐに誰と判別がつくような、嗅ぎ慣れた甘いミルクと白桃の香り。


 厚手のパーカー越しでもはっとするほどの、熱と柔らかさ——。


「ほ、ほら……こうしたら寒くない、でしょう?」


「あ……ありがとう。けどくるみさんはその、こういうの平気なの?」


「い、いいの。私、あなたにくっつくのは好きだから。それとも碧くんは嫌……だった?」


「! 嫌じゃない……け、ど」


「じゃあもっとこっち来るの。いい子だから」


 言われるがまま、自分からも距離を詰める。


 出会って間もない頃は碧からためらいなく近寄って、近頃はくるみから甘えるように距離を寄せて。けど、それぞれの意志でここまでくっついたのは多分、初めてだ。


 体がじんわり火照るのは、間違いなくブランケットのせいだけじゃない。


「……くるみさんは、さ」


「はい」


「今どんなこと考えてるの」


「なんだと思う?」


「ええと。疲れたし糖分補給したいな、とか?」


「私からじゃなくて、碧くんからも甘えてくれないかなって思ってる」


「……ぜんぜん掠ってないじゃん」


「そう。碧くんは私の理解がまだまだみたい」


「こんなの難問すぎる」


「じゃあ余計に私を知ることが必要なのかも。だから今してるこれは、そういうことだからしかたがないのです」


 言い含めるような口調で展開される不明瞭な理論に、表情が人に見せられないものになる。もちろん期待と悦びが滲んだ、曰く言い難い表情だ。


 自らを棚に上げてちらりと隣を盗み見ると、まるで何でもないことのように机のノートに意識を戻したくるみもまた瞳が潤み、頬がじんわり紅潮していて。


「……真っ赤だけど」


「み、見ないでよ」


「ごめん」


「……」


「……」


 それきり何も言うことはなく、どちらからともなく勉強を再開した。


 この格好じゃまず捗らないだろうなと予想したが、不思議と気が散ることはなかった。急上昇した心拍数も、すでに落ちつきを取り戻している。


 多分連日の試験勉強で体力を消耗しているからだと思うが、信頼できる好きな人と体温を伝え合うことは、羞恥や興奮以上に大きな幸福と安らぎをもたらしたようだ。


 夜中の静寂と温もりに身を委ね、しばらくペンを動かしてから、誰に言い聞かせるでもなく呟く。


「——僕、今回のは本気なんだ」


「うん」


「くるみさん前に自分の気持ちを大事にするって言ってたけどさ。大事にするよ、僕も。自分の叶えたいこと」


「…………うん。それでこそ碧くんだと、私は思う」


 まだ頬にどこか切なげに見える赤みを残しながらも、へにゃりととろけたような笑みと共に渡された全肯定の言葉に、碧はシャーペンをぎゅっと握り直す。

 その後もブランケットを共有したまま、二時間ほど並んで黙々と問題を解いた。



 もうとっくにくるみの家の門限はすぎていたけど、誰もそのことを口にはしなかった。



                *


 きりがいいところで碧だけ一足先に切り上げて、バスルームに向かう。


 むわりとした湿気と共にトリートメントの残り香が鼻をくすぐり、こそばゆい。ついさっき彼女が浸かっていたお湯だということはなるべく考えないようにした。


「……ふたりで一緒にドイツ旅行か」


 湯船に浸かりながらスマホで預金残高を確認する。そこには貯めたお小遣いと今までのバイト代が合わせて云万円。


 自腹でベルリンへの航空券を買えるようになるにはまだまだだが、幸いにも直近に夏休みが待ち構えている碧にはたっぷりの時間がある。


 なんてことを考えつつ、一人暮らしの節約方法を調べていたらつい逆上せそうになった。


 暑さでふらふらしながらタオルで体の水気を拭い、シャツに着替えたあと脱衣所を出てリビングに向かう。


 門限を過ぎてまで一緒にいるのは二度目のことだが、こんな真夜中の桟橋まで同級生の女の子と一緒にいるのは何だか不思議な気持ちだ。


「くるみさんお待たせ。雨まだ止んでない?」


 返事はない。


 耳を澄ませると、静かな室内に、深夜のニュースを読み上げるアナウンサーの抑揚のない声だけが小さく流れていた。それに時折交じって、ぱらぱらという僅かな雨音と一緒に、すぅすぅという小さな寝息が聞こえてくるのに気づく。


 まさかと思いながらカウチソファをそっと後ろから覗き込むと、果たしてそこには横向きに丸まって眠り込んでいる可憐な少女がひとり。


「……やっぱこうなるか」


 時計を仰ぐと、もう二十二時半ば。


 高校生が就寝するにはやや早い時間だが、テスト前は平気で何時間もぶっ続けで勉強するくるみはもちろん疲れてるだろうし、無理もない話だ。


 折角なので近寄って可愛い寝姿を観察する。自分の意識がない間に見られることを彼女は嫌がるかもしれないと思ったが、そんな心配など全て跳ね除けてしまう程、くるみは綺麗だった。


 深く輝くブラウンの河のように広がった豊かな髪が、ソファの崖で重力に従ってそのまま垂れ、見事な亜麻色の滝を生み出している様は掛け値なしに美しく、溜め息が出そうなほどだ。


 前にも一度、碧の家で転寝(うたたね)されたことを思い出す。


 あの時と決定的に違うのは、今が言い逃れしようもない深夜だということ、彼女の家に明日まで親がいない故に門限があってないということ——そして、互いにさらなる親睦と信頼を深めたということだ。


「ほらくるみさん起きる」


 しかし手を出すことなんかできるはずもなく、というか碧が不義理をしたくなかったので、揺さぶってみたり柔らかな頬をぺちぺち優しく叩いてみたりで起こしにかかる。


「もう帰る時間だから、ほら」


「……ぅん……」


 しかし時どき甘く喉を鳴らすのみで、覚醒の気配は一切ない。それどころか、ふにゃふにゃとふやけた表情でよくわからない寝言を喋り出す始末だ。


「本当にこのお嬢様は……」


 まるで警戒心の欠片もない。


 普段しっかりしている人ほど反動が大きいというが、それにしてもと思う。


 ——くるみにとって自分は、一体どんな存在なんだろうか。


 前に教室で言っていたように、ただ自分より物を知っているから、憧れて()()()いるだけ?


 答えを求めるように、どっぷりと眠りの海に浸かる彼女の髪を、絡ませないように優しく(くしけず)る。天鵞絨(ビロード)のような極上の手触りをゆびさきに伝えてくるそれは、日頃の丹念なお手入れの賜物だろう。


 それを気の赴くままくるくる指に巻きつけてみたり、昔してた千萩の世話を思い出しながら大雑把に編み込んでみたりして、優しくも思うまま弄ぶ。


 そのまま手を下に滑らせ、白磁のように真っ白な頬をそっとなぞる。やがてゆびさきは、雨上がりに咲く花のようにつややかな唇へと行き着いた。


 ——いくら白雪姫(スノーホワイト)とはいえ、目覚めのキスなんてできるわけがないのに。


 碧がくるみに求めることは、幸せでいることだ。


 初めて誰かを愛おしいと思った。目が離せなかった。幼い頃からあらゆるものを制限されて育ってそれでも健気に人並みの幸せに手を伸ばし続けたくるみの世界を、どうすれば幸せで満たすことができるんだろうと、ずっと考えてきた。


 だけど彼我の事情を鑑みると、それは限りなく困難で。


 なのに将来の予定も計画もそっちのけに、彼女と会うたび話すたび日に日に一途な恋情は深まっていく。


 『役に立てることを、模索して実行していくしかない』——そんな先刻の言葉に『生涯を掛けて』のたった一文を加えられないところが、何よりも優しくて温かくて、不確かで儚くて壊れやすい今のふたりの関係の、暗示だった。


 雨の音だけがカーテンと窓の向こうでしとしと響いている。


「……大切なものは、胡座かいてるとロストバゲージする、か」


 こんなのは、答えの先延ばしにすぎない。


 碧は将来海外で働く。それが確固たる信念であり、(たが)うことの出来ない約束であり、けど本当は彼女と共にいたいという気持ちが芽生えていることにも、気づいている。ただ見ない振りをしているだけだ。


「ん……あおくん」


 その時、ゆっくりとくるみが目蓋を持ち上げた。ぼやけた瞳は涙でとろんと滲んでいて、しょぼしょぼとしている。


「あ、起きた。まだ雨降ってるけどもう少ししたら帰れそう? 立てる?」


 ていうか帰ってもらわないと困る。さすがに泊めるのはまずい。


 だが碧の祈りは儚く散ることとなる。くるみの眠気はまあまあ限界のようで、一瞬立ち上がるもののふらりとよろけて碧に寄りかかった。


「んー……」


「眠い? 起きれない?」


 問いかけの意味を分かっているのかいないのか、数秒後ゆるく肯首する。


「ほら。家近いとはいえあんまり遅くなると危ないし、タクシー呼ばなきゃいけないから」


「……ぅん……でもねむたい……」


「じゃあどうするの」


「……だっこ」


 まるで何もかもを預け切って父に甘える幼い娘のように、とろんと瞳を細めてねだるように両腕を伸ばすくるみに、天秤がぐらりと傾きかけた。


 僕のなかの天使がいつ仕事を放棄してもおかしくないのに? と思ったが、せっかく甘えてくれるようになったのにはっきり断るのも何だか良心が咎めたから、こくりと喉を鳴らしつつ「そうな」と曖昧に笑ってごまかす。


 くるみは今のが最後に言い残した遺言かの如く、そのまま糸の切れた人形のようにふにゃふにゃと床に崩れ落ちそうになるので、碧は咄嗟に彼女の体を支えた。


 すぅすぅと肩をくすぐる寝息を聞くにつれ、絶望と愛おしさという世にも珍しい組み合わせの感情が同時に襲ってくる。


 そこからはもう、半分やけくそだった。


 横抱きにしてくるみを持ち上げ、慎重にベッドに運ぶ。


 タクシーを呼ぶという手もあったが、上枝さんが帰っているだろう時間に意識のない女子高生を一人で帰らせるのはかなり忍びない、というか常識的に駄目だろう。


 自分のベッドにそっと横たわらせると、真っ白なシーツの海にくるみの華奢な体が、ふかっと淡雪のように沈み込む。


 寝ぼけたくるみが何かを手探りするので咄嗟にぬいぐるみを渡したのだが、どうやら正解だったらしい。ぎゅうっと愛おしげにハスキーを抱え頬擦りするあどけない姿に内心で悶え散らかす自分は、どう考えても大間違いでしかないけど。


 掛け布団をかけてやると、ようやく一息吐くことが出来た。


 けれど感情の混濁はそのままだ。


 少しは好きでいてくれているのか、はたまた人間として心を許しただけなのか。


 もし前者なら、どれほどいいだろう。そうすれば、こんなやきもきすることもないのに。


 そして後者なら、自分はどれほど心底安堵出来ただろう。だって自分ひとりが恋情を、鍵のついた引き出しに仕舞い込むだけで済むのだから。


 これ以上考えては眠れなさそうだったので、碧は思考を放棄した。


「おやすみ、くるみさん」


 挨拶を残し、戻ったリビングのソファに寝転んだ……のだが。




 ——起きなさい、碧。


 遠くからぼんやり誰かの声が、聞こえる。


 くるみだろうか。自分より早く起きたのなら、さぞ混乱したことだろう。ずいぶん長いこと寝ていたらしく体がずしりと重い。


 ……そうだ。昨日の残りのカレーがまだあるんだった、温め直して朝ごはんに……


「碧。起きなさい」


 多分、目覚まし時計よりずっと早い時間なのだろう。


 まぶたを持ち上げれば、窓から差す光の角度が、普段より低い。


 そして何かが、白い朝日をさえぎっている。


 どっぷりとした深い夢に浸っていたはずだが、やけにはっきりきびきびした誰かの声が、いつものアラーム代わりに眠気を揺さぶった。


「ん……くるみさん……もう朝?」


「くるみさんって、碧のベッドで寝てるお人形さんのこと?」


「!?」


 眠気が、飛ぶ。


 聞いてはならない台詞を、聞いてしまった。とてつもない嫌な予感と共に、船に釣り上げられた魚もかくやの勢いでがばっと跳ね起きる。


「あらあら、やっと起きた。昔とかわらず寝坊助なんだから」


「なんで……母さんが!?」


 すぐ目の前にあったのは実に数ヶ月ぶりに見る顔。


 おっとりしつつ溌剌としたパンツスタイルをした盛年の女——碧の母親こと琴乃(ことの)だった。


まもなく、3章前半の佳境です。

お読みくださりありがとうございます!

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