第110話 家に帰らない日だから(3)
ぱたんと脱衣所の扉は閉じられ、やがてシャワーの水音が響き始めた。
鍵のないドア一枚を隔てた向こうで、同級生が——それも誰もが認める美少女がお風呂に入っている。そう意識するとやっぱりちょっと人には説明しづらい気分にはなったし、むしろならないほうがおかしいとさえ思う。自分で生み出した状況なだけに笑えないが。
それにさっきはあっさり流していたけど、親御さんが家にいなくて門限がないって話——あれもどう捉えればいいか分からない。
まさか深夜まで……好きな女の子と?
「考えるな、考えるな」
雑念を吹き飛ばすべく、カレーづくりに奔走することにした。
何もしていないよりは手を動かしていた方が余程いい。それにいつもくるみに料理のメインは任せてしまっているから、今日くらいは楽をさせてやりたい。
最近よく調理を手伝うので、鍋やまな板の場所はしっかり覚えている。確か野菜も揃っているはずだ。長持ちする万能の食材だからと常に切らさずストックしてある玉ねぎにじゃが芋。その他にも夏野菜が少々。人参は一本だけ残っていたが、多分この間の五目煮の時に余ったもので、きっとこのままにしていても後日くるみがサラダや炒め物にしてしまうだけだから、使って問題ないだろう。
少しでもシャワーの音を遠ざけたくて、Bluetoothのスピーカーからback numberの『花束』を流す。
段々と様になってきたエプロンを引っ提げ、腕捲りをして気合を入れてから、最近ようやく慣れてきた手つきで余り野菜をひとくちサイズにとんとん切っていく。
ついでに煩悩を払う為に、玉ねぎを深いブラウンになるまで炒めた。時短で飴色玉ねぎにするこれはくるみ直伝の技で、揚げ焼きにするつもりであまりひっくり返したりせず、時折差し水と木べらで鍋底に焦げついた旨みをこそげ落とす調理法だ。フランス語でデグラッセというらしい。
全部の材料を入れた鍋がことこと穏やかに煮えるのを聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。彼女が料理が好きだと言う気持ちがちょっと分かる気がする。腕前は天と地ほど差があるけど。
手際のいいくるみに倣って、煮込んでいる間にキッチンの片付けを済ませる。
「えーっと後は……隠し味いれるといいんだっけ?」
やがてルウも投入し、南国産スパイスのいい香りがリビングを満たした頃。
スマホに映したレシピサイトを見ながら残りの工程をチェックしていると、かちゃりと廊下の扉が控えめに開かれた。
見ると、碧の用意した服を着たくるみが、体からほかほかと湯気を立てながら、ぽすぽすとスリッパを鳴らしてキッチンを覗き込んできた。
「ふわぁ、なんかいい匂い」
「おかえりなさい。湯加減はどう……——」
「お風呂ありがとう、すごく気持ちよかった。晩ごはんはもしかしてカレー?」
「……まあ」
曖昧な返しになってしまったのは、くるみの格好を見たせいで、急速に思考にストップがかかったからだ。
湯上がりでつやんと上気した頬。衿ぐりから覗く火照った鎖骨と首筋。こちらを待たせないためにドライヤーを急いだからか、まだ湿り気の残った髪の毛。いつもなら上から下まで完璧に整えているくるみの、隙だらけの姿。
これだけでも男子高校生の脆い忍耐を決壊させかねない恐ろしい色気を誇っているのに、それ以上に碧の貸したパーカーの格好がやばかった。
男物ゆえかなりだぼだぼで、持ち前の華奢さがより強調される格好になっている。袖もたっぷり余っており、捲ってようやく小さな手が見える始末だ。
丈も妙に長いせいでワンピースのようになっているのだが、そのせいでショートパンツがぎりぎり見えなくなっており、まるで穿いてな——もとい逆説的に危険度が上がっていた。
つるんと伸びた白磁のおみ脚に見惚れてしまうものの、くるみが気づいた様子はない。
いつもは堅牢な守りのお嬢様として通している本人が今だけは自分の放つ色香に一切自覚がなさそうなのが、またやばい。
碧しかいないから警戒を解いているのだろうか?
……こちらが立派な男だと言うことを忘れないで頂きたい。
「わあ、ちゃんと洗い物も済ませてある。ちゃんとして偉い! いい子いい子」
慈愛のこもった眼差しをこちらに向けたくるみは、動きづらいスリッパのつま先でわざわざぐぐっと背伸びをしてまで、小さい弟をあやすように撫でてくる。
いつもなら「子供扱いは禁止だ」と文句を返す場面だが、彼女から自分と同じシャンプーの匂いがふありと一瞬遅れて押し寄せて来たので、つい黙りこくってしまった。
「どうしたの? なにか失敗しちゃった?」
「してない! それより寒くないですかその格好。ぜったい寒いですよね。ここがシベリアならくるみさんおしまいですよ。うわー風邪引いちゃうなあ」
「何その棒読み」
「湯冷めしたらよくないしスウェットがあるから。寝室のクローゼットの一番右に。今すぐ穿いてきてください。ほら早く、さーんにーいーち」
「どうしてまた敬語に戻ってるの? ……わ、分かったから。そんなに急かさなくても」
ちょっと無理やりかなと思ったが、あまり訝ることなく素直に寝室に行ってくれたことにひっそり安堵した。説得のために男子高校生の隠さぬ本音をぶつけてしまえば、くるみは羞恥の果てに確実にへそを曲げることになるからだ。
戻ってきたくるみは言いつけ通りちゃんとスウェットを穿いていて、碧は人知れずほっとため息を吐いた。だがそれすら袖がぶかぶかに余っているので、しゃがんで何重にも折ってやる。
くるみは任せきりが心苦しいらしく、調理台を覗き込んできた。
「あの、私も何か手伝う?」
「今日は僕の当番の日って決めたし、もう完成だから大丈夫。くるみさんは座ってて」
「分かった。じゃあ座ってる」
キッチンに入ってこようとするくるみの肩を押してやんわりリビングに追い出すものの、根っからの働き者らしい彼女は宣言に反してめげずに舞い戻ってきたかと思いきや、パーカーのフードを目深にかぶると誇らしげにこう言った。
「これなら『くるみさん』じゃないでしょう?」
「……あれー。知らない人がいるなあ。誰だろう」
展開された謎理論に乗っかると、くすくすとあどけない笑いがはじけた。
「家事手伝いのブラウニーです」
「そういう呼ばれ方、嫌なんじゃなかった?」
「自分で言うのはいいんです……じゃなかった、私はくるみさんじゃないから知りません」
早速ぼろが出かけたものの、何とか取り繕い直すや否や、こちらに肩を寄せてふれあわせると、麦茶のポットをグラスに注ぎ出した。
「ブラウニーさんあとは大丈夫だから。スプーンだけ持って行ってくれる?」
「ふふ。はぁい」
家事手伝いを認められてそこはかとなく嬉しそうなくるみは、ついでに何故かこちらの髪をもふもふとひと撫でしてから、二本のスプーンを持ってリビングに戻っていく。
昔は碧から詰めると「近い!」と言われ距離を取られていたのに、最近は向こうから接近してくることが多いから、くるみもこんな気恥ずかしい気持ちだったのかと、相手構わず近寄っていた自分の行いをちょっぴり反省した。
席に座らせ、注いだドリンクと用意した皿をダイニングに運ぶ。オクラや茄子や南瓜に、ついでに半熟の目玉焼きを乗せた特製の夏野菜カレーだ。
おまけに福神漬けの代わりのザワークラウトもそえてある。意外に思われそうだが、これがなかなかにマッチするのだ。
「わあ、豪華。おいしそう」
始終不安そうだったくるみだが、皿の中を見た途端にぱっと表情を明るくさせた。どうやら味はともかく、見た目は合格水準らしい。
「料理自慢に振る舞うのってすげー緊張するな。どうぞ召し上がってください」
揃っていただきますをして早々、とろりとした黄身をカレーと一緒にすくって、慎重に口に運ぶ。碧は彼女の反応が気になるため、スプーンも持たず様子をうかがうばかりだ。
もぐもぐと静かに食事するくるみに、緊張に耐えかねた碧は思わず尋ねた。
「どう? 辛くない?」
「うん、丁度いい塩梅で美味しい。優しいお味のおうちのカレーってかんじで好き」
思ったより好評らしく、碧は椅子の背もたれにゆるゆると寄りかかった。
「そっかあよかった……」
「これ隠し味に入れてるのはオイスターソース?」
「うわすご、よく分かったね。さっきググって出てきたから、試しに入れてみたんだよね」
「ふふ。味覚には自信がありますので」
碧もスプーンでカレーを口に運ぶ。代わり映えのしない味だけれど、自分でもなかなか上出来だと思っている。もちろんくるみの料理と比較はせず、だが。
「味覚かぁ。くるみさんはそうやって料理も上達してきたんだよね。すごいな」
「いいお手本が近くにいたから。……碧くんは料理上手になりたいの?」
テーブルの向こうでくるみが小首を傾げる。
「まあ、本来なら一人暮らしするなら料理スキルはマストだしなあ」
「別にいいのに。だって碧くんのごはんは全部私がつくりたいし」
「……え」
突然の逆プロポーズめいた言葉に椅子から転げ落ちそうになるが、くるみは一切気づいていない様子で、スプーンの柄を親指でさすりながら続ける。
「もともと、いつか上枝さんみたいに誰かを幸せにしてあげたいなって気持ちで覚えた取り柄だから。もし碧くんが喜んでくれるなら、私はこれからもあなたのためにフライパンを振ってもいいのかなって」
どうやら今の発言は裏がある訳じゃなく、純粋な好意百%によるものらしい。
「が、がんばったって言ってたもんね……??」
「うん。母の目を盗んで、よくキッチンを覗き込んでは技術を目で覚えて、上枝さんにこっそりお料理教室してもらって教わって。料理本も沢山買ったし、どのレシピも必ず一度は挑戦した。だから、その……」
何故か自信なさげに語尾を揺らがせ、しおしおと項垂れたくるみに首を傾げる。
「急にどうしたのさ」
「だって……こんなに料理が得意でも、碧くんが一人暮らしに十分なくらいスキルを身につけちゃったら、私は立場がないというか……お払い箱かもしれないでしょう」
その発言を聞いて、どうして寂しげな表情をするのか理解した。
ついでにいつだったか、碧に料理を教えるのを渋っていた姿を思い出す。
——そうか、そういう心情だったか。
「ふふっ」
思わず吹き出すと、くるみがむっと不可解そうに睨め上げてくる。
「な、何で笑うの」
「だってさ、それこそありえないから。僕はそこまで上達するつもりも予定もないし、そもそも無理だし。それにくるみさんの料理が一番好きだから」
くるみは、碧が今からどうしたって到底追いつけない高みにいる。どうしたら上達するのかを幼い頃から毎日本気で考えながら何年も弛まぬ努力を重ねてきた人相手に、ぽっと出の碧がちょっと習ったからって、太刀打ち出来るはずがない。
世界はそう優しく出来てはいない。
「だからこれからもしばらくは頼みたいかな。僕も相応の働きはするからさ」
しばらくはぽーっとしていたくるみだが、碧の励まし——というよりは本音が効いたらしく、やがて上機嫌そうに淡い笑みを浮かべた。
「はい、頼まれました。碧くんのカレーがどれほど美味しくても、シェフの役目は譲りません」
「すげえ頼もしいな」
「他にも出来ないところがあるなら、助け合えばいいものね。私ならドイツ語と世界の知らないこと、碧くんならお料理と日本史と古典とそのほか家事みたいに」
「百理ある。僕の方が多いのは聞かなかったことにしておくけどさ」
「それは事実だから仕方ないもの。でも、足りないところは補い合えばいいでしょ? さっきみたいに碧くんががんばりたいときでもお手伝いくらいなら出来るし。ひとりでするよりふたりでしたほうがいいもの。そんなスタンスでいれば五年後だって十年後だって——」
ご機嫌な言葉が、俄かに途切れる。
窓をぱらぱら叩く雨音までもが、しんと遠ざかった。
——『……いつまでもこんな時間が続けば、いいのにね』
いつだったか。あれはホワイトデーの前だ。
大人でも子供でもない、高校生でいられる時間に限りがあることを、彼女もまた気にかけていたことを思い出す。
「くるみさん」
「……ずっとこのままがいいなって」
垂らした横髪が儚げに揺れる。
「思っただけなの」
碧は返すべき言葉を、見失っていた。
ありふれた『さよなら』はいつしか必ず訪れる。
いつまでも同じ時間が続かないことくらい、誰だって本当は分かっているんだ。
ただ自分の解釈と彼女のそれが、致命的に違うだけで。
目の前で、繊細な睫毛を震わせて曇り硝子みたいに微笑むくるみが、夜の光にとけて透きとおってこのまま見えなくなってしまうような錯覚を覚えて。けどあの時の嘘を上塗りする言葉はどうしても出てきてくれなくて。
ただ、少しでもこの時間に繋ぎ止めておきたかったから、碧はスプーンですくったザワークラウトをずぼっとくるみの口に突っ込んだ。
「!」
急なことに混乱しつつ、しかし表情をきらきらさせるくるみがリスに見えて、思わず相好を崩してからからと笑う。
「これドイツの家族から送られてきた。もっと要る?」
首をこくこくと上下に振るので瓶ごと手渡す。
「いつかさ、また海外に行ったらお土産に持って帰るよ、外国のコイン。僕が大学生になったら旅行する余裕もできると思うから」
口を空にしたくるみが一瞬、なぜだかちょっぴり泣き出しそうな表情をしてから、どこか寂しげに口角を上げる。
「……そういうことに、しておいてくれたのよね」
「何のことだろ」
「ありがとう、碧くん」
健気に礼を言うくるみが見てられなくて、窓を叩く雨粒に視線を移して告げる。
「……僕は対等な立場でいたいから。くるみさんが今後も面倒見てくれるっていうなら、僕も料理以外でくるみさんの役に立てることをこれから模索して実行していくしかないかな」
さっきプロポーズめいた言葉をかけられた意趣返しのつもりな返事に、くるみは〈Now Loading〉とでも表示されそうな面持ちで、固まっていた。
「ほらカレー冷めちゃうよ」
「う……ん」
促されるまま目の前の皿に向かい合ったくるみは結局、休めることなくスプーンを握った手を動かすことで遁走としたらしい。
だがそれこそが、碧のがんばった成果に対する何にも勝る褒め言葉な気がした。




