第109話 家に帰らない日だから(2)
人の気配のない帰り道を、ふたりで歩いていた。
霧がこの街を包み込んだような、繊細で穏やかな甘雨だ。間もなく大雨になるだなんて信じられないくらい、天の恵みそのものだった。
もう黄昏時だからか、通学路に人影はない。傘で外と切り離されて、まるで世界にふたりきり取り残されてしまった錯覚さえある。
「……早く止むといいな。雨」
「碧くんは雨が嫌い?」
「嫌いってほどでもないけど、どちらかというと雪のが好き」
「そっか。私は雪の日も雨の日も、好きだけど」
「どういうところが?」
「だって映画みたいじゃない? いつもと違う天気だとなんだか、いつもと違う誰かの人生を歩んでいる気持ちになれる気がして」
「へー。雨に打たれたら僕もくるみさんの気持ちが分かるようになるかな。刑務所から脱出した時のテンションで」
「そんなことしなくても、隣からこうして同じものを見てるだけで十分だと思います」
くるみは雨のどこが好きなのかを詳しく教えてくれた。
曇天の下で優しいヴェールに包まれたような、ほの暗くも柔らかな陽光。
聞く人間の数だけ存在する豊かな雨音に、色褪せた世界にカラフルに咲き誇る傘の花も。たっぷりと水を吸い込んでみずみずしく咲き誇る紫陽花たちに、緑の広げた葉をぱちぱちと弾く雨粒の煌めきも。
雨上がりの後の洗い立てのように清浄な空気や、水溜りに映る青空の広さまでもが、くるみの世界を彩る大切な日常の一ページらしい。
「もちろん自分の気持ちひとつで見える世界はひっくり返るものだけれど、それはその、碧くんが一緒にいてくれるから余計にきらきらして見える……というか」
「僕くるみさんのそういうとこ」
「?」
「……いや、僕にはくるみさんが、この世界がどれほど綺麗に映っているのか想像もつかないときがあるなって」
うっかり危ないことを言いかけた碧がするーっとごまかすと、くるみは気づいた様子もなく淡い微笑みを見せた。
空から落ちてくる雫のように、穏やかに潤んだ瞳がやっぱりオコジョみたいで綺麗だなと思ったが、またくるみの機嫌を損ねたくないから心に秘めておく。
「私は碧くんがどれほど広い世界を見ているのか、まだ想像もつかない」
「同じ街で暮らしていても、見えてるものが違うってのも不思議だよね。花鳥風月っていうけど、こういう季節とか日常をいろんな角度で見て、宝物を見出せるのもくるみさんのいいとこだよ」
人生で出会いは数えきれないほど存在する。
それは人と人との出会いだけでなく、いつもと違う帰り道で出会った小さな見知らぬパン屋さんとの出会いや、あるいはベランダに訪れた雀との出会いのような、些細な事も含まれる。
この目まぐるしく忙しない現代社会で、そんなひとつひとつに目を向けることのできる人間はどれほどいるのだろう。
けれど少なからず目の前の少女は……道端で出会った猫や、誰かさんに貰ったぬいぐるみとの出会いをずっと覚えていて宝物に出来るような、そんな子だ。
やがて彼女の予言した通り、じわじわと降る雨の具合は勢いを加速し、あっという間に烟るようなざあざあ降りになった。
横殴りの雫が打ちつけるような激しいそれは、もはや走って帰った方がましなほどだ。
「家まで走るか。くるみさんは平気?」
「え? うん——きゃっ」
返事を貰ったそばから、途中で解けないようにしっかり手を結んで、駆けていく。ざあざあとした煩い雨音で半分聞こえていなかったらしいくるみは、驚きに声をひっくり返しつつ手を引かれるようについてくる。
ぎゅ、と手が握られたので足を動かしながら振り返ると、くるみはお気に入りの長靴で水溜まりに飛び込む少女のように、晴れ間に差す光そのものの笑みを浮かべていた。
「碧くんっ」
「んー?」
ぱしゃりぴしゃりと水玉が宙を舞う。
「あなたは、私が見つけたなかで……一番の宝物なんだよ」
くるみが小さく何か言った気がしたが、雨にかきけされて届くことはなかった。
*
折角の優雅な雨散歩もそこそこに、後半は半分駆け足で道を抜けたため、マンションまではすぐ着いてしまった。
一緒に外を歩ける貴重な時間が終わってしまうのが切なかったが、そんな惜別の思いも儚く、エントランスでふうと息を整える。受け取った傘の水をくるみが払って閉じ、それから碧の方を見てあっと声を上げた。
「たいへん。碧くん、反対がびしょ濡れじゃない」
「シャワー浴びる手間が省けたかもなあ」
戯けるものの、呆れた眼差しで怒られてしまった。
「もう、省けたかもなあじゃないでしょう。……傘、私の方に傾けてくれてたのよね」
「くるみさんの鞄はちゃんと濡れないようにしたから」
「……本当に、優しいひと。とにかく早く拭かないと。風邪ひいちゃう」
「けどくるみさんも肩が……」
「ありがとう。けどこれくらいなら大丈夫、碧くんに比べればぜんぜん平気」
確かにもう夏も目の前とはいえ、雨を被っているとちょっぴり寒さすら覚える。
くるみは碧を引っ張ってエレベーターに乗り込み、七階の突き当たりで率先して鍵を開けた。まるで本当の家族と一緒に帰ってきたようで何だかこそばゆい。
「拭いてあげるから、じっとしてて」
お出かけの時に買ったおそろいのハンカチを鞄から取り出して、碧の体を優しく丁寧に拭っていく。今度は気持ちの問題ではなく、物理的にくすぐったかった。
「碧くんはきちんと湯船に入ったほうがいいわね。そのままじゃ風邪をひいちゃう。私タオル持ってくるから、寒いならリビングで待っててね」
「分かった、ありがとう」
くるみは玄関の上がり框にすとんと腰掛けると、衣替えしてから穿くようになった白いニーハイソックスを指でぐいと下ろし始めた。
裾をよいしょと押し下げる度に、柔らかさを帯びつつも程よく引き締まった、すらりとした長い脚があらわになる。人の目も陽の光も知らぬ、あまりに眩すぎる真っ白な素足がさらけ出されていくのは見てはいけないものを見てしまっている気がして、視線を逸らした。
——見るな、見るな……
くるみがタオルを取りに家の中に引っ込んで行き、狭い玄関が空いたので、碧もずっと我慢していた靴を脱ぐ。
爪先立ちでリビングに入り、エアコンを自動運転にする。そのままそこで、着替えるためにびしゃびしゃの制服のシャツのボタンを外していく。
そのまま前を開けて中のシャツも脱いだところで、廊下の扉が開き——
「きゃあっ!」
丁度タオルを手に戻ってきたらしいくるみと目が合えば、裏返った悲鳴が上がった。
碧に向かってタオルをぴょいと投げつけては、紅潮した頬を両手で覆い、雷光の如き勢いでぐるんと後ろを向く。
「わっ私がいるのに脱ぐとはどういう了見なのっ!」
「えっ? いや、いないから脱いだんだけど」
へなへなっと情けない軌道を描いたタオルをキャッチしつつ、珍しく声を荒げるくるみに碧は気圧され苦笑した。そういえば男の裸を直視できないんだっけと思い出す。
「だってタオル持ってくるって言ったでしょう! 着替えるのはその後にしてっ」
「分かったけどさ、そろそろ慣れてもいい頃じゃない? 僕、夏に寝る時は上を着ないことあるしさ、この間みたいに急に訪問した時に驚くのはそっちの方っていうか……」
「そ、そうなの……?」
一瞬ちらりと振り向いて指の隙間からこっちを覗く。それだけじゃなく、不本意にも現場を想像してしまったらしく、くるみの頬がより激しい真紅に染まり、瞳がぐるぐる模様を描き始めた。
「ばか! 風邪引くから寝る時の……は……裸は、めっだから!!」
全く怖くない叱咤に苦笑しながら替えのシャツを手に取ると、ぐいぐい押されて寝室に放り込まれたので、半笑いになって扉の外にいるくるみに言う。
「くるみさんも雨当たったんでしょ? なら、くるみさん先にシャワー浴びてきなよ」
「え……?」
「僕どうせまた送る時に外に出るし、女の子は温かくしないと駄目じゃん。そうでなくても客人が先」
雨が止まなければ門限ぎりぎりまでこの家にいることになる。
なのに雫に打たれたままでは彼女も嫌だろう。
リビングにはくるみの私物入れにバスケットを用意しているし、そこに日用品もあるらしいので問題ないと思ったのだが、くるみは断固として譲ろうとしない。
「駄目! 碧くんの方が先に決まってる。だって私のせいでそんなにびしょびしょになっちゃったんだから」
「いいよ僕は、後でも大丈夫だから。ほらこれタオル。晩ごはんの支度まだでしょ? くるみさんがいない間にやっとくから、出来れば長風呂だと助かるな。いつも任せっきりだから、偶にくらいは出来るところを見せないといけないし」
シャツを着て廊下に出る。
ロングヘアの彼女ならドライヤーの時間も込みで結構な時間かかりそうなことを見越して、気後れしないように口実を用意してみたのだが、くるみを見るとやはり後ろめたそうに……というか、複雑ななにかを内包した眼差しを投げてくる。
「そんな目しなくても、別にくるみさんに何かしようとか考えてはないから。門限までにはちゃんと家に返します」
「別に心配はしてないというか……そ、それに今日は両親が仕事で家に帰らない日だから、上枝さんもお休みだし……門限はそこまで、気にしなくてもいいと、いうか」
「じゃあ、着替えの問題? なら大丈夫、僕の服貸すから……あ」
自分が致命的なまでに配慮が足りていなかったことに、愚かしくもここまで会話を重ねてようやく気がついた。
問題は替えの下着だ。
特に今日は体育でバスケットボールまでしたのだ。運動して丸一日肌にふれさせた下着をまた着るなど、女の子なら尚のこと嫌だろう。
だがくるみは碧の考えを読んだらしく、ぶんぶん首を振って亜麻色の絹糸を揺らした。
「着替えのこと心配してるなら……大丈夫。実は……その……夏場は体育で汗かいたりするから万一の為に、鞄の底に替えを忍ばせてるの。ぜったい他の誰にも言わないでよね! 悪用も禁止! …………あんまり見ないでよ、ばか」
思春期男子にはあまりに生々しすぎる衝撃的な情報だったので、彼女のスクールバッグについ視線を吸い寄せられていたら、当たり前に怒られたので、慌てて体ごと明後日の方を向いた。これから鞄を見る度に思い出しそうで辛い。
シャワーやらドライヤーなどの説明をして、そそくさと退散した。
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