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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第3章 シュガーリリィの恋
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第108話 家に帰らない日だから(1)


 くるみが謎の決意表明をしてみせたあの日から、今までよりも近くなった。


 一言で言えば、甘えてくるし甘やかしてくる。


 おっかなびっくり勇気を出して、という表現こそ抜けないものの、家のソファで隣同士になればぽてんともたれて頬擦りしてくるし、雑誌を読んでいれば様子をうかがいつつ一緒に隣からくっついて覗き込んでくるし、キッチンで紅茶を淹れていればリビングからずっと目で追ってくるし、皿洗いをしていれば後ろから袖を捲ってくれる……のはいつもの事だった。


 挙げ句の果てに、疲れてないかやけに気遣っては肩揉みしようとしたり、背伸びしながら頭を撫でて労わろうとしてくる始末だ。


 約束の料理はともかく、家政婦でもない彼女を余分に働かせるのに賛成できない碧は、くるみの親切を傷つけないようやんわり断るのに難儀した。


 もともと彼女は信頼した相手には警戒を解き、とろけるような根の甘さと隙を見せるたちだったのだが、これまでの油断で寄ってくる行動とは違い今回は本人による何らかの意志を思わせる。


 さすがにその意志の正体がなんなのか、までは自分は判断つかないが。


                *


「あーくんのこと好きなんじゃないのー?」


 手からスマホがすべり落ち、湿った都会のコンクリートにかつんと落ちた。


 プレゼントで貰った革のケースのおかげで傷はついておらず、ほっと息を吐く。


 ——いや、それよりも。


「今なんて?」


「人生相談でしょ。だる絡みしてくるツンデレ男子がいるってぼやいてたじゃん。あーくんのことぜったい好きだよその子! 愛情の裏返しってやつ! いじわるは好きの証!」


 憤慨したかと思いきや、今度はぴえんという名を冠しそうな表情で、ほたるがぐいっと迫って来る。


「そんなことより聞きたいんだけど! この間の子って、あーくんの彼女なの!?」


「会って早々にそれですか」


「だってやっぱり気になるんだもーん! 彼女とか聞いてないようわーん!」


「うわ(うるさ)っ……悪いけど七十デシベル以下で喋ってくれません?」


「私それ掃除機並みにうるさいってことだよね??」


「あとくるみさんはそういうんじゃないよ」


「もうこの会話の流れで情報出されても信じられなーい!」


 本格的な梅雨がやってきた、六月のとある水曜日。


 空気が微睡むように重いその日、碧はほたるの買い物につき合わされていた。


 経緯(いきさつ)としては、湊斗の店でコーヒー片手に次の試験勉強をしていたところに、共通の知り合いとしてこの場所を知るほたるが訪問。荷物持ちという名目で、そのまま碧を強制連行のように引っぱり出して今に至る——という訳だ。


 ちょっと説明が雑な気がしないでもないが、本当にこのまんまだから仕方がない。


 そもそも、中間試験目前な高校生を連れ出す時点で、ほたるはどうかしてると思う。


「ていうかていうか! 折角新宿の方まで出て来たのに、あーくんのそのマイバッグはなに? なんで醤油と味醂なんか買ってるわけ? 近所でいいじゃん!」


「だって特売みたいで最寄りのより二十円くらい安かったし」


「何それ、主夫?」


 買い出しは碧の担当なので、品物の値段感覚はこの半年で身につけたものだ。


 それに引き替えほたるは、さっきデパートで購入したコスメが丁重に包まれた、ハイブランドの分厚いショッパーを提げている。庶民っぽい碧とは、同じ街ですれ違うところすら想像がつかない。


 新宿の人々は一足早く夜が訪れたような青い空気やら川の底みたいな暗い湿っぽさなんてお構いなしに、忙しなく靴を動かしている。


 昨日降った雨の水溜まりが車のライトを映し出し、ぼんやり浮かび上がった。


「……そんなことより、何で最近になってやたら絡んでくるんですか。前は帰国したばっかの時と、カットの練習と文鳥の時しか会いにこなかったのに」


「あーくんがいつも既読無視するからじゃん! もうこれは無理にでも会いに行かなきゃ駄目だなーってなったの! 返事なんかモチちゃん預かっての時に『わかった』の一言だけだし!」


「読んだってことが伝わってるんだからよくない?」


「はい出ました塩対応! そもそも敬語ってのもおかしいじゃん。何でなの?」


「敬語使うのってその人を尊敬している時と距離をおきたい時の二種類あるらしいですよ」


「うわどっちなのか聞きたくなさすぎる。あーくんさ、皆んなにもそんなことしてる訳? 間違いなく友達いなくなっちゃうからね?」


「いや、ほたるにしかしてないけど」


「こんな嬉しくない雑な特別扱いでも喜んじゃう私……」


 項垂れつつも目がハートなほたるに、碧は追い討ちを止めない。


「もう買い物終わった? 早く帰って勉強したいんですけど」


「受験生じゃないんだし単語帳なんかによそ見しないでよ。折角のデート気分を味わってるんだからもうちょっといいでしょ?」


「年下を(たぶら)かしてるやばい人にしか見えないと思いますよ」


 僕だけ制服だし、とつけ足すと、ほたるはむきーっとじだんだを踏む。


「ルカちーだったらぜったいそんなこと言わないのに! あほ!」


「じゃあルカと遊べばいいんじゃない。会いに行ってきたらどうですか」


「遠すぎだって! 最近ルカちーこっち来る予定ないの? また皆で遊びたいなあ」


 中学の頃ほたるは夏休みのたびにはるばる飛行機に乗って会いにきており、その時にルカとは知り合っている。三人でいろいろ遊んだりもした。


「秋休みに来るって言ってたから、十月頃じゃない」


「じゃああーくんの高校の文化祭にルカちーと一緒に乗り込んじゃおうかな!?」


「僕にも友達との予定あるだろうし、来るなら事前に言って」


 返答が気にいらなそうに、ほたるはぼそっと呟く。


「……私たちからもう、足しも引きもしなくていいのに」


「いやいまさらそんな腹をわられても。って、また追い討ちかけますよ」


「ひどい!? あと人の四則演算で遊ばないで!!」


 その後もいろいろと引きずり回され、乗り込んだ列車が自宅の最寄り駅に停まったのは、時計の針ですらどんより淀んだ空気の重さに負け始めた頃だった。


「散々つき合ったしもういいでしょ。僕は帰りますんで」


「えーちょっと待ってよ! 私も降りる! 今日は家に帰らない日だから。泊めて♡」


「いや語尾にハートマークつければいいと思うなよ」


 ほたるがカルガモの親子のように後ろを追ってくる。ロック画面の時計を見るともう十七時半。くるみも碧の帰りを待ってるだろうし、この状況で同級生に見られでもしたら厄介だ。そう思いホームからの階段を降りたところで、


「!」


 何かの気配。


 ばっといきなり振り向き、後ろをついてきていたほたるが驚き仰け反った。


「び、びっくりした。急にどうしたの?」


「今誰かに見られてたような……」


「えーいつものことでしょ?」


 勘違いではなく、確かに誰かに見られていた気がしたのだが——。


 しかし正体を探ろうとすればするほど、気配は人混みにまぎれて霧散してしまった。


                *


「あれ、碧っち……?」


                *


 妙な気分のまま改札を出て、それからついと空を仰いだ。


 しとしと雨音がしきりなしに響いていたからだ。


「降ってる」


 ぽつりと呟くと、律儀についてきたほたるが、鞄を探りながら焦った声を洩らす。


「あ……どうしよう、わたし傘持って来てない。行きで晴れてたから油断してた……」


 スマホの天気予報アプリを開くと、一時間ごとに雨のマークがついている。それは今日の真夜中まで続いており、雨宿りが意味をなさないことを表していた。


 ドイツでは、まるで小さな子供の機嫌のようにころころと天気が変わる——久しぶりのドイツ語講座だがそのことを〈|Frühlingswetter《春の天気》〉という——上に降られてもすぐに乾くので、傘を持ち歩く習慣の人は少ない。


 かつては碧もそうだった。


「わざわざ買うのもなあ。あーくんは? 持って来てる?」


「一本だけなら」


 普段はめったに使わないが、この季節は持ち歩くようにしている。


 日本に帰国した去年の梅雨の時期、曇天の下を雨に降られながら堂々歩いて、一度ひどい風邪をひいたからだ。


「じゃあ悪いんだけど、いれてもらってもいい? 家で雨宿りさせてほしいな」


 乞うような瞳で見上げてくるほたる。


 頷くことはなかった。くるみが家で碧の帰りを待っている姿を、思い浮かべたから。


 気づけば碧は、ほたるの買い物品の詰まったショップバッグと一緒に、自前の折り畳み傘を押しつけていた。


「それ貸しますよ。僕は走って帰るからいい。寒いの慣れてるし」


「あっちょっと——」


 ほたるの声が雑踏に揉まれて遠くなるのを聞きながら、小走りで通りを抜けていく。


 よく見たらさほど本降りではない。糸雨(しう)と言ってもいいだろう。


 冷たい雫に打たれながら、スマホのロックを解除した。


 想い人の女の子と交わした一番最後の会話は、こうなっている。


〈湊斗の店行くって言ったけど ちょっと用事出来たので新宿の方に出かけて来る

 十七時半頃には帰れると思うけど帰りに何か買ってく?〉


〈私も先生から頼まれ事あるけれど、先に帰れそうなら晩ごはんの準備してるね

 味醂(みりん)とお醤油がなくなりそうだったけど寄れたらでいいよ〉


〈分かった、買ってく〉


〈ありがとう〉


 出会いたての頃はなかった、語尾に控えめに絵文字をつけたメッセージ。


 そこから、ぺこりとお辞儀をするウサギのスタンプひとつと、二時間半の空白を挟み。


〈碧くんはもうすぐ駅につく?〉


〈あと十分くらいで着く〉


 最後にまた可愛いゆるキャラのスタンプが送られて、ここでやりとりは中断している。


 くるみから距離を寄せるようになってから、会うのがなんだか面映い。勘違いしないようにしたくても、もしかしたらと思ってしまうから。


 このまま雨に打たれて帰ったらさぞ叱られるんだろうなあと、怒った表情まで可愛いくるみの姿を思い浮かべながら堂々と歩いていたところで、


「碧くん?」


 甘く涼やかな、聞き慣れた女の子の声が耳朶を掠めた。


 振り向けば、まずは曇天の下に咲く爽やかなライムグリーンの傘、そして次に初夏の雨でも決して曇ることのない眩い美貌が碧の目を射貫く。


 まるで彼女の周りだけ一足先に、梅雨明けしているようだった。


「……え、くるみさん?」


 偶然なのか、迎えにきてくれたのか。まさかこんなところで会うとは思うまい。


「どうしたの? 雨の中こんなところまで」


「もうすぐ帰るって連絡いれてくれたし、私が頼んだのだから、荷物を持つの手伝おうかと思って。それに……」


 続きが紡がれなかったのは、こちらの髪が湿り気を帯びていることに気づいたからだろう、くるみは慌ててぐいぐい袖を引っぱってきて、碧はすぐそこにあるコインランドリーに連れてこられた。


 乾いた空気と共に、今の天気からは味わえないお日様の香りがふあっと包み込む。


「やっぱり。こんなことだろうと思った」


 それから鞄から出したハンカチでせっせと髪を拭ってくるので、碧はされるがまま目を閉じて身を預ける。


「……本当だったのね。あの時の言葉」


「あの時?」


「〈雨に降られても砂糖じゃないからとけない〉でしょ?」


 いつかの雪降る帰り道に言ったドイツの諺、その和訳だった。教えてないのにどうして、と言おうとするとくるみが先んじて制する。


「碧くんのことだから、別に平気だしーとか言いながら今日もまた傘ささずに帰るかも知れないなって。それか誰かに貸したとか。間もなく土砂降りっていうのにね?」


 彼女の読みは完璧に当たっていた。


「だからわざわざ迎えにきてくれたんだ」


「風邪をひかれたら、看病するのは私ですもの」


 義理でも返報でもなく、当たり前のようにそう言い切ったくるみにくすぐったさとむず痒さを覚える。本来なら一人暮らしである以上自己管理は言葉通り自分ですべきだが、私の役目だと主張するくるみの言い分を認めざるを得ないほどの時間を、二人は重ねてきた。


「わざわざありがと。けどわざわざ折り畳みを二本も持ち歩くなんて、くるみさんはよくできた人というか、しっかり者というか……」


 照れ隠しに碧がそう笑うと、それを聞いたくるみは何故か一瞬むっとし、それからすぐに悄然とした様子になりうつむくと、今度は何かを訴えるような眼差しで碧を下からじっと見つめた。


 僅かな間にころころと転がる表情に、目が離せない。


 そんな碧にくるみは呆れのため息を吐き、しめやかな雨の音に打ち消されてしまいそうな小さな声で、呟いた。


「二本も持ち歩くわけ、ないのに」


「え?」


「だから傘は一本しか! ……ないのに」


 彼女の言わんとするところに思考が行きつく。くるみは頬をほんのり季節外れの花のように染め、若干むすっとしつつ視線を伏せていた。


「……半分こってこと」


 ああ、悪いことをしたなと思う。


 詰まるところ、それはいわゆる相合傘だ。


 思わぬシチュエーションに心の準備が追いついていないが、このままコインランドリーに居座るわけにもいかず、碧は素直に承諾した。


「じゃあ僕が持つよ」


 傘を受け取るついでにくるみの学生鞄もさりげなく奪うと、くるみは申し訳なさそうにおろおろしたが、今回は甘える気になったらしく諦めたように隣に寄り添い、腕にしがみついた。教科書や資料集が詰まったそれは想像より重くて、これはきっとくるみが誰かに頼れなかったぶんの重みなんだろうな、と思う。


 今は碧が、代わりにそれを持つだけだ。


「ごめんなさい……重いよね。頼まれた書類整理を家でやろうと思ってて」


「優等生」


 それだけ返すとくるみを雨に曝させないために、そっと彼女の体に手を回して自分の方に寄せる。彼女もそれに甘えるように、僅かに体重を掛けてくっつく。そのまま二人は軒下を出て、いつもよりぎこちない歩調で歩き始めた。


 傘が咲かせた花の上で、雨粒がぱらぱらという音で水玉のダンスを踊る。


 彼我の距離はもうない。肩と肘がひやりとふれあい、咽せるような雨土の匂いにまじって彼女の甘い匂いが香り立つ。


 駅前で人知れず行われるそんな秘め事の口実がしとしとと降り続けるこの街を、二人でこっそり堂々と歩いていく。


  澄み渡った女の子らしいホワイトティーのような、あるいはしゃぼん玉のように清潔なこの芳香は、彼女のシャンプーのものだろうか。


 すぐ傍で見下ろす、彼女の下睫毛の長さを改めて知った。


「……ね? 傘の下から見る水玉模様の空だって、悪くないよね」


 甘く浮いたささやきが、雨音のシンフォニーにまじって聞こえてきた気がした。


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