第105話 スノーホワイト様の決意(1)
お出かけはあっという間だった。
茜差す夕方、行きと同じ路線を引き返すために列車に乗り込む二人。だが朝と違って、ゴールデンウィーク真っ只中の夕刻ということもあり、車内は混雑していた。
碧は通学も徒歩だし、車社会のヨーロッパの地下鉄もこんなに混雑してはいないので、慣れない人混みに四苦八苦だ。母親が通勤電車を嫌って会社近くの社宅で暮らしてるのも納得である。
車窓は人影で見えないし、座席も吊り革もとっくに誰かのものになっていて、名も知らぬ他人と肩が擦れる。かろうじて捕まえられたのは、座席の横のポールくらい。
——なのでこうなってしまうのも、ある意味仕方のないことだった。
「ごめん」
「碧くんが悪いんじゃないから謝らないで」
人が出入りするのと反対のドアに追いやられた二人。居心地悪そうに扉に背中を預けるくるみを守る格好で、碧は壁に掌をついていた。
何と言うか、ものすごく近い。
なんとか拳ひとつぶんの隙間は守り通しているものの、碧の懐にすっぽり収まったくるみが困惑したように目を泳がせているのも尤もで、だからこそ碧は先ほどのように謝ったのだが、それが却って気を遣わせてしまったらしい。
ふあふあと笑みを浮かべながら健気にお礼を言ってくる。
「守ってくれてるのよね。ありがとう」
「まあ。……いや、僕の意志じゃなくて仕方のない成り行きってことにしといてよ。これ結構恥ずかしいし」
そう返したところで次の停車駅で止まり、アナウンスと共にまたもや人の波がぞろぞろ押し寄せてくる。
一緒にいるくるみは碧よりずっと小柄だし、華奢な体は押されて平気でいるほど頑丈に出来ていないのだ。自分が守らなければと、己を支える腕に力を込める。
様子をうかがうべく見下ろすと、くるみが恥ずかしそうに視線を下げていた。夕陽に照らされた伏目がちな睫毛がまた儚げで色香があって、こんな余裕のない状況でもつい目を奪われてしまう。
惚れた弱みとは言うが、まさにその通りだ。自分がこんないじらしい表情をさせていると思うと、それだけでもう……
「おっと」
そのとき誰かが、どんっと後ろから力強くぶつかった。
つい忘我してた拍子に、雪崩れ込む乗客に強く押されたらしい。
「すみませんっ」
ドミノ倒しの要領で碧を押してきたらしい女子大生くらいの人が慌てて謝罪するので、ぺこりと会釈をする。その人ははっとしてこちらを見たが、構わず首を戻した。
見惚れた代償と言ってはなんだが、おかげで保ち続けた空間はほとんどなくなり、密着——と言えるほど、くるみとの距離は近くなってしまっている。
両の前腕で壁を押さえて、何とか彼女を潰すことのないようにしているが、今のこの角度じゃくるみの旋毛しか見下ろせない。大丈夫だろうか。息苦しくはないだろうか。
無事かどうかの確認で、指でとんとん耳をつつくと、くるみが徐にこちらを見上げた。その瞳にはなぜか剣呑さがちらついている気がする。
「大丈夫? 具合悪くない?」
「私は平気だけど、碧くんは? さっき押されてたけど大丈夫?」
「大丈夫。……何かあった?」
「なんにもない。ただ、私を隠してほしくなかったってだけ」
「え、どうして?」
「碧くんには帰ったらお話があります」
「何言われるんだ僕」
「碧くんのいいところも駄目なところも、私だけの秘密って話」
訳が分からず聞き返すが、それ以上は続ける気がないようで、ぷいとそっぽを向く彼女。ひょいっと覗き込めばまたつーんと逸らされるいたちごっこだ。
焦れったくてやきもきした碧は、ちょっとした策に出た。
明後日を向いたくるみのおとがいを左手で持ち上げ、ぐっと前を向かせれば、乙女然とした強情や意地など、碧の親指一本でたやすく崩れ去る。
伏せられていた美貌と驚きに彩られた面差しが呆気なく持ち上がり、くるみは見るからに狼狽え始める。
「に、逃げられないからって意地悪しないでよ。ばか」
「意地悪って。くるみさんが言おうとしないからじゃん」
「……碧くんのばか」
反応が一々可愛すぎるせいでつい掌の上で転がすようにからかってしまうのだが、そのいとけなさに心が鷲掴みにされた結果、毎回やりすぎてしまい後悔する。人間はそうおいそれと学習はしない。
すっかりむつけたくるみは頬をふくらませて、ぼそりと苦言を呈す。
「私、ただでさえ自分の行きたいところばかり選ばせてもらって、いろんな国に行ったことある碧くんは楽しめてるのかなって……不安だったのに」
「ごめんごめん。けど僕も楽しかったよ。すごく」
「本当?」
「僕はくるみさんが鎧を捨ててはしゃいでるところ見られたから、それでいい。ていうか、それがいいんだよ」
初めはきょとんとしていたくるみだが、言葉を受け入れるにつれ様子はころりと打ってかわり上機嫌に。もじ、とはにかみながらほわりと瞳を細める。
「じゃあ……今度また一緒に、デートしようね」
そんなくるみの破壊力のある不意打ちで、碧は危うく死にかけた。
*
最寄駅からはそのまま、二人で碧の家に直行した。
外はもう夜の帷が下りて、紫紺のカーテンには星が瞬いている。
角を曲がりマンションが見えたところで、エントランスの開き戸の向こうがわ——閉ざされたオートロックの扉の手前で、所在なさげに壁に寄りかかる少女がいた。
「……ほたる」
まさか待ち伏せているとは思わず、我知らず少女の名前を呟くと、知り合いだと察したらしいくるみが気を遣ったのか歩調を控え、二歩ほど後ろについた。
ぼんやりしていたほたるが、ぱっとこちらに気づく。
「あーくん! やーっと帰って来た」
「ずっと待ってたの? いつから?」
「実習のあとついでに友達と旅行してさっき帰ってきたの。モチ受け取りにきたよ〜……」
ほたるの声が尻切れとんぼになったのは、すぐ後ろにいるくるみに気づいたからだろう。
気の強そうなアーモンドアイは、心底意外そうに瞬かれている。
「え。知り合い? 同じマンションの人?」
「いや違いますけど。……くるみさん、僕もすぐ行くから先に上に昇っててくれる?」
誘導するとくるみはほたるにぺこりと会釈をしてから、エレベーターの方に向かう。
ほたるはすれ違い様のくるみの優美な歩行を見ては瞳を二、三度瞬かせていたが、すぐに碧に向き直ると、ひそひそと内緒話。
「本当に知り合い? あーくんの隣に女の子とか、ちょっと信じらんないんだけど」
「ちょっかい出すなよ」
「出さないよ! けどなんかどこかでみた気がする。一度見たら忘れないかんじだし。もしかして会ったことある?」
「この間学校来た時に見かけたんじゃない? 同級生だから」
「ふーん……そっか」
あっさりしたトーンでそれだけ返すと、いつもの調子でじゃれてくる。
くるりと結んで拵えたお団子が、ぽよぽよ首筋に当たってきて、とてもむず痒い。
「ね。ところでモチちゃん元気だった? ちゃんとお世話してくれてた?」
世話はくるみが率先してやってくれてたのだが、紹介もしてない段階の今は何となく言いづらい。ほたるを今家に上げる訳にはいかないから、絡む腕をいつもより雑に振り払い、ロビーのソファに座らせる。
心做しか、ほたるはいつもよりむっとしていた。
「それより連絡してから来てって言ったと思うけど。LINE来てたっけ」
「今回はちゃんと連絡したよ。返事なかったけど見てなかったの?」
「ごめん見てなかったかも」
「うえー! 未読スルーとかまじでなーい」
一日外出だったのでスマホの連絡は後回しにしていたのだが、確かにそれは自分が悪い。
「じゃあモチ連れてきますんで」
「うん! あ、結婚式場の写真いるー?」
「要らないって」
遠くでかすかに、ぽーんとエレベーターが到着する音がする。ちらりと様子を伺うと、もうくるみの姿はなかった。同時にスマホが鳴る。
そこに表示されたメッセージは——〈来客なら今日は帰ります〉
振り向き、エントランスを出た道路のむこうに亜麻色の風がなびいたのを見咎めた瞬間、マンションを飛び出した。
「! ちょっとねえ……」
ほたるの呼び止めには応じず、彼女の街まで走って探していく。
しかし一夜の幻のようにいなくなったくるみは、いくら探せど見つからなくて。
碧はその日、彼女と再び逢うことはなかった。
*
ゴールデンウィークも終わりを迎え、世間はいつもの日常へ。
あれから数日が過ぎたが、まだ碧の家には行けていない。
どんなに授業に集中しようとしても、くるみは二人でお出かけした日を忘れることは出来なかった。
ましてや、その帰り道の出来事なんて尚更。
〈碧くんに女の子の知人がいた〉
言葉にすると呆気ないし何のことはないのに、ずっともやもやが続いている。そっくり同じ文字をつばめへのトークに打ち込んだが、結局送信できないまま削除してしまった。
いつもより足取りが重いせいか、さっきから赤信号に引っかかってばかりだ。
だって!! 結婚式って言ってた!! そんなの聞いてない!!
勝手に帰ったのが大人気ないことくらい、分かる。でも咄嗟に、見たくないって思ってしまった。
「……つばめちゃん、最近お仕事で忙しいから心配かけたくないし……」
あの綺麗な人がただの友人なら、気に留めることはない。なのにひっかかるのは爆弾発言以上に、腕を組んでくっついているのをこの目で見てしまったからだろう。
〈どんな関係?〉
そう問えればいいのに、出来なくて。
——女の子の連絡先は私とつばめちゃん以外知らないって言ってたし……家を知ってるくらいだし文鳥預かるくらいだし……ただの知人じゃないよね?
——ううん、そしたら私が合鍵返さなきゃだもの。ぜったいに違う、違う……。
それはおおよそ、ただの希望だった。
日本では知り合いが少ないとはいえ、あんなに素敵な人なのだから、べつに女の子の友人が居たって何もおかしくないのに。
友人、と勝手に思い込もうとしていることに気づいて、きゅっと口を結ぶ。それこそ自分に都合のいい想像でしかない。
ぶるりとスマホが制服のポケットで震え、思わずびくっとする。
「……つばめちゃん」
親友から届いたメッセージにはこう記されていた。
〈くるみーん! 先週二人でお出かけしてきたんでしょ?
最近お昼一緒できなかったし 撮影前になるけど明日話聞かせてー!〉




