第103話 お出かけの行き先は(3)
時計の針の進みも空腹も忘れて、ふたりは目一杯歩き回った。
初めの方は余裕があった気がする。
けどもうくるみの一挙一動にやられていた碧は彼女を連れて、ランチと称して休憩のために近くのカフェに入っていた。
GoogleMapで探して評判の良さそうなところを選んだのでまず外さないであろうが、今の碧の心配は全く別のところにあった。
——やっぱり反則じゃん、これ。
こちらの心拍数を加速させる原因の少女は、碧が椅子を引いて座らせた後、こちらにもメニューが見えるように傾けてテーブルに身を乗り出しながら、注文するものを真剣に吟味している。
理由は明快だ。跳ねてはしゃいで、本来のあどけなさを存分に見せつけられ。夜に始まる野外シネマの前を通りかかりホラー映画の予告が流れていれば、脱兎の如く逃走したいくるみからぐいぐい腕を引かれて。メリーゴーラウンドに並べば一緒の白馬にしようと楽しそうに提案され。思ったより早くて怖かったのか、後ろからぎゅっと抱きしめられ。
リーフレットを読もうと一瞬だけ腕を離した隙にはぐれそうになり、拗ねたくるみの方からしっかり捕まえられたり……要するにスキンシップだらけだ。
初めてくる場所で多少気持ちが浮いてるのは分かる。全部わざとであれば、あざと可愛いとしてこちらもそのつもりで接することが出来るのだが、初心ゆえの仕草なのが、彼女の恐ろしいところで。
——ってか意識しないわけないってこんなの。
とりあえずこのまま居ていいとも思えないので、自分はカルボナーラの大盛りに分けっこする予定のピザと、くるみの選んだラザニアを注文すると、ようやく人心地ついた。
「ありがとう注文してくれて」
「いいよ、お礼」
オープンテラスの席を選んだので、通り抜ける風が心地いい。すぐ目の前の道はいろんな愛犬家の散歩コースになっているらしく、行き交うゴールデンレトリバーやトイプードルのご機嫌な様子を見ると、動物好きとしては頬が弛んでしまう。
しばらく待っていると、湯気を立てた料理が運ばれてきた。
碧の嗜好を把握しているだけあって好みで言うとくるみの料理に軍配が上がるが、評判の店なのもありなかなかに美味くフォークが進む。
「くるみさんは本物のドイツに行ったら何がしたい?」
「うーん……碧くんのご家族にご挨拶して、桜並木見て、碧くんが育った町を散策して……後は何だろう。碧くんの向こうのお友達は、どういう過ごし方をする人が多いの?」
「休みの日は僕の同級生はよくサッカーしてたな。あとサイクリング」
「じ、自転車……かあ」
ナイフとフォークが止まる。上品に料理を切り分けていたくるみの表情が、見るからに曇ってしまった。理由を考えてすぐに察する。
「あーそっか。お嬢様は自転車とか乗らないのか」
通学もずっとバスって言ってたっけ。なら乗れなくても仕方ないと思うけれど。
だが本人は出来ないことがあるのが悔しいらしく、子供じみた反論をする。
「で、でも。お庭で三輪車なら小さい頃にあるというか」
「いや笑かせないでよ……」
肩を振るわせると、くるみがさっと頬を紅潮させた。
「笑わせたくて言ってません、ばか。……なんか最近私ばっかり情けない姿知られてる気がする! 碧くんも私に駄目なとこ教えるべきだと思う」
「女の子に格好悪いところ見せてどうすんのさ……」
「私だけの秘密にする」
「……」
「もしかして照れた?」
「冗談っぽいかんじじゃなくて真剣に訊いてくるところ、くるみさんだよね」
運ばれてきたデザートも平らげ、くるみもころっと上機嫌になった頃。彼女が午後の行き先を調べている間に席を立ち会計を済ませれば、気づいたくるみが慌てて財布を出そうとするのでシャットアウトした。
「いいよ気にしないでも。僕はバイトしてるんだし」
「でも」
「気にするなら、今日は僕が選んだ店だし今度くるみさんの好きなとこ行こう」
「……うん、ありがとう。ごめんなさい、ご馳走になっちゃって」
次は本命の一つでもある買い物だ。
歩道のすみっこに寄り、スマホの地図を見つつ、桜木町駅の方へとくるみの腕を引いたところで——
「あれ、くるみちゃん?」
知らない誰かに声をかけられた。
碧ではなく、隣にいる少女が。
振り向くとそこにいたのは犬の散歩中らしく、リードにつないだ真っ白なポメラニアンが楽しげに息巻いている。
「おー可愛い」
……じゃなくて。
繋がる紐の先を見上げれば、それを連れた女の人がひとり。
知人だとすぐに分かったのはくるみが警戒心なく応じたからだ。
「ミアさん。それにマロンちゃんも。ごきげんよう……じゃなかった、こんにちは」
「あははっ懐かしいその挨拶! それにしてもすごい奇遇、二年ぶり? 髪伸びたねー! 中学からさらに綺麗になっちゃって!」
黒髪をショートウルフにした美女だった。
吊り気味な狐目から抱く印象とは真逆のフレンドリーさでくるみに駆け寄る。誰かは知らないが、どうやら知り合いとの久しぶりの再会の場面らしい。
「どーも! ごめんなさい、急に話しかけちゃって」
ミアと呼ばれた女の人が会釈をするので、碧もまたぺこりと目礼。
成り行きを見守ろうと一歩下がる前に、くるみがそっと紹介してくれる。
「碧くん、この方は中学の時の私の二つ上の先輩で、同じ生徒会役員だったの」
「あっけど私はお嬢様とかじゃないよ。中高だけの特待生だったし、今はしがない大学生」
「どうも。ミアさんでしたっけ? 日本じゃ珍しい名前ですね」
「そーそー親がね、海外でも通じる名前にしたいって。まあ海外なんか行ったことないんだけど。そういう君はくるみちゃんの?」
「友達……ってか同級生です。いろいろとお世話になってる間柄です」
くるみが横目で不服を申し立ててきた気がしたが、嘘はよくないので正直に言う。
「そっかあ同級生! くるみちゃんのとこってあの柏ヶ丘? 共学なんだっけか」
「ミアさんは先輩なんですよね。中学の時のくるみさんってどんなだったんですか?」
「あ、碧くん?」
会話の取っ掛かりとして尋ねてみると、くるみは慌てて袖を引いてきたが、んーっと考えるそぶりをしてからミアは語り出した。
「そりゃあもう女子校だったけどすごい人気だったよ。この子働き者だし、頼み事断れないからいろんな人から頼りにされて。バレンタインなんか靴箱にチョコどっさり」
「僕思うんですけど。それ、どっちかっていうとミアさんの話ですよね?」
「えっ何で分かる!? 初対面なのに!」
「何となくそうかなって。部活終わりに待ち伏せしてた後輩からラブレター貰うタイプでしょ」
「うわー当たってる……けど私そういうの卒業したし黒歴史だから言わないでー!」
察した通り、女子校の王子様だったのだろう。
向こうもオープンなおかげもあってすぐ打ち解けたが、くるみがやや拗ねたように袖を引いてきたのでここまでにしておく。
「そういや散歩中だったんですよね。ごめんなさい、再開をおじゃましてしまって。僕のことは空気だと思ってどうぞ」
「ううん! 私もそろそろ行くよ。乱入してごめんねえ。くるみちゃんさ、また話したいし連絡先教えてもらってもいい?」
世間話をしつつQRコードを読み合う二人に水を差さないように空気になりすまして、僅かばかり離れたところでひっそりスマホを弄り始める。
やがてマロンと呼ばれた小さな真っ白い犬が尻尾を振って寄ってきたので、そっと手の甲を差し出して好きなように匂いを嗅がせたりしていた。
……故に、ふたりの間で秘めやかにこんな会話が交わされたことも、気づかずにいた。
「ねえねえくるみちゃん、あの人って本当にただの同級生?」
「本当にただの同級生です!」
「そうなの? 一見取っつきづらそうだけど話せば気さくだし、よく見たらすごく格好いいじゃない。大学に行って垢抜けたら周りの女子ほっとかないタイプだよ!」
「か、格好いいのは私も十分に毎日思ってるといいますか……」
「……ははーん? これはくるみちゃんの片想いかあ。世にも珍しいなー」
「ど、どうして分かったんですか」
「分かるよ、表情が前よりずっと可愛いもん。私でよければ相談に乗るからねー♡」
マロンを撫でながら二人の方を見ると、なぜかくるみが顔を赤くしていた。女子同士で何か話があったのだろうか。
「僕、あれなら向こう行ってましょうか」
気を遣ったつもりでそう声かけたが、ミアはぶんぶん首を振った。
「あーごめんね、もう行くから大丈夫! くるみちゃんまたねー! ほらマロン行くよ!」
嵐みたいな人だったな……と思いながらマロンと並走して小さくなる姿を見送ってから、手を振りつつまだほんのり頬に赤みを残すくるみが言う。
「初対面であんなにすぐ打ち解けちゃうなんて、碧くんはやっぱりすごいのね」
「言葉通じない状況からスタートに比べたら別にすごくもなんともないよ」
「ううん、すごいのよ。だって初めて会った時、どうみたって浮世離れしてる私に、同情も邪心も何のためらいもなく善意だけで話しかけてくれたのも、貴方だけだった。そういういいところを……学校のみんなも知ればいいのにね」
「まあ」
「学校でも一緒にいたいからもそうだけど、それ以上にやっぱり……貴方のために、みんなには知っておいてほしい。碧くんがわがままを許してくれるなら、私は……それがいい」
小さく落とされた、控えめでいじらしいわがまま。
しかし今はまだ自信を持って返せる返事は持っていない。
くるみの隣に立つにあたり恥をかかせないために、一緒にいる約束のために……出来ることはする。父の言葉同様、誓いは必ず守るのが自分の信念であり美学だ。
だが時に考えてしまう。もしそれが彼女の為ではなく自分の為という一点のみで考えるのであれば、二年後には卒業なのに、今さら行動を取ることに意味などあるのだろうか、限られた親密な人たちが事情を知ってくれてるのならそれでいいんじゃないか、と。
自分は捻くれている自覚があるから、そんな後ろ向きな逡巡が存在していることにもすぐ気づいてしまうのだ。『本当は自分なんてものを持たないくせに』と鎌首をもたげる、仄昏い感情さえも。
「……それがまだ出来ないなら、みんなのかわりに私が碧くんを大切にするから」
くるみは何かを見抜いたように、何処までも透き通った眼差しを持ち上げる。
さっきのマロンのように潤んだそれは、碧の全てを受けいれてしまいそうな深さと鋭利さがあり、なんだか居心地が悪い。
「その理論で言うと、僕今のままの方がくるみさんに大事にしてもらえ……いへへっ」
「可愛くないことを言うのはこのお口?」
居た堪れなさをごまかすように、返事を下手な揚げ足取りに貶めれば、頬を両の手で掴んでうにうにと伸ばされた。
「こんなことを言うのは可愛くないかもしれない。けれどね? 私があなたに甘えていいように、あなたにももっと私に甘えてほしい。私はそれを支えるから」
「……わはった」
情けない返事で妥協してもらえたらしく、くるみはぱっと指を離した。
しかし代わりに、途方もないほどの信頼のこもった眼差しを向けられるので、ばつは悪いままだ。
「さっきミアさんはごまかしてくれたけど、本当は私にとっての白陵院は優しい檻みたいな世界だった。何も知らない私を守ってくれて、私にとっても大事なところだったけれど、見上げた空はすごく遠くて……でもあなたは殻の中の私を見つけてくれた。小さな箱庭から連れ出してくれた。道標になって私の辿る先を光で照らしてくれた。したいことを叶えるって約束してくれた」
「僕は別に何もしてないよ」
「……ばか」
その罵倒にどんな意味がこめられているか理解が及ばなかったのは、いつもみたいな罪と罰とかは飛んで来ずに、こちらの懐に額をぽすりと預けてきたからだった。
押し寄せるくるみの甘い香りについ息を潜めていると、くるみは一歩離れ、見上げた。
「ばか、碧くんのばか。私にとっては大きなことをしてもらったのよ。本当は一本の道しかなかった私の将来に、光溢れるもう一つのルートをくれたの」
ちっぽけな言葉をまるごと否定するように、華奢なゆびさきがこちらへ伸びる。
優しく羽のように、ふれるかふれないかのぎりぎりの距離で碧の頬をなぞると、ヘーゼルの瞳を柔く細める。
近くの巣に訪れた二羽のつばめが、羽ばたき、自由な空に見えなくなる。
「未知に踏み込む私の震える手を握ってくれる人を、多分ずっと探していた。そして今あなたが、私が足踏みしないで済むように、こうして掌をつないで一緒に歩いてくれている。だから私もあなたに少しでも返していきたいの。知ってるでしょう? 私がお礼をせずにいられないくらい、義理堅いってこと」
甘く澄んだ笑い声で、くすくすと上品に喉を鳴らす。
「……あのだし巻き玉子からずいぶんと、わらしべ長者しちゃったな」
それがあんまり眩しかったから、照れ隠しに彼女のキャップのつばを下げると、駅に向かってやや強引にぐいぐいと手を引っぱった。
後ろからは、鈴を転がすような楽しげな笑みが、しばらく細やかに響いていた。




