第102話 お出かけの行き先は(2)
ふたりの今日の行き先は横浜方面だった。桜木町駅を出て、レトロで真っ赤なデザインの周遊バスに乗り込み、やがて到着したのは日本大通りのあたり。
ゆとりのある造りのなだらかな歩道と、青々とした銀杏並木。日本有数の玄関口として、かつて外国との貿易や文化の出迎えが盛んに行われた痕跡が、立ち並ぶ建物の至るところに刻まれている。
あまり関東の遊び場には詳しくないが、ここから港に進んだあたりが、男女で遊ぶ時の定番スポットらしい。湊斗がみなとみらいデートの妄想を語ってたのを他人事みたいに思い出した。
——ていうか、その理論で言うとこれってもしかしなくてもデート……
自分だけがそう思ってたら死ぬほど恥ずかしいから言わないけど、くるみがどういう認識なのかは気になって止まない。
だというのに、隣のくるみはこちらの気持ちを知ることなく、異国情緒あふれる街並みと目の前に広がる花たちに、足取りをぽんぽんとまりのように弾ませている。
「ふわぁ……すごい、なんだか日本じゃないみたい」
濃密な花の香りを漂わせるネモフィラやマリーゴールドやチューリップが、色とりどりに歩道の花壇から出迎えてくれた。植物に詳しくない自分がなぜ花の名前が分かるかというと、隣の少女が現在進行形で教えてくれているからだ。
今の時期限定のフラワーガーデンの催しで、横浜の春の風物詩らしい。くるみの言うとおりレトロで西洋風な建物もどこか違う国のようだった。
「ここにいたら一緒に海外旅行にいく時の練習になりそう。なるかな?」
「国によるけど、日本語一切通じずだからどうだろうな」
東南アジアやグアムだと限定的に日本語を話せる店員がいたりするけど。
「英語は勉強してきた知識があるから少しは分かるし話せるし、何とかなる……と思う。でもドイツ語はまだまだだし、通訳おねがいしちゃうかも」
「僕の唯一の取り柄だから逆に任せてくれないと困るな」
「ふふ。しっかり頼りにしてます」
右頬に手を寄せる秘密のサインをはにかみながら見せてくる。澄んだ笑いにあわせてくすくすと揺れる髪をみて、不思議と碧はほんの数ヶ月後、一緒にベルリンの桜並木を散歩する自分とくるみの姿を想像していた。
みらい予想図の中にいるくるみは今よりほんの僅かに髪が長くて、自分は今より少しだけ大人っぽい。ふたりの距離が今よりずっと近い気がするのは、願望だろう。
植物を見ながらのんびり進むと、湾を挟んだ横浜港には、この辺のシンボルとも言えるランドマークタワーや停泊中の客船が見える。広場にはさっきよりも沢山の花たちが海と陸の狭間を埋めるように待っていて、目を楽しませてくれた。
花の芳香の乗った甘い風に混じって、どこか懐かしい匂いがする。
「桜は散っちゃったけど、今は別の花がいろいろ咲いてるんだ」
「そう考えると、お花って毎月の代表選手みたいじゃない?」
「そういう考え方は詩人っぽくて面白いな」
「碧くんは思わない? まるでお花のリレーみたいで、可愛いなって。バトンは季節」
「幼稚園のときに園庭の花の蜜吸ったなーくらいしかないなあ」
「いつかお腹壊すわよ」
この人の紡ぐ言葉を聞くといつも、世界を眺める視点が切り替わったような錯覚をする。
「くるみさんのやりたいことリストってあと何あったっけ?」
お出かけの約束をした時、くるみが指差した文字は〈横浜に行ってみる〉で、早速クリアしてしまったのだが、折角なので可能な限り叶えてやりたい。
さすがに分厚い日記は荷物になるので今日は持ってきていないが、写真に残しておいたらしく、くるみはスマホの画面を見せてきた。
「んーと〈可愛い服を買う〉〈映画館に行く〉〈碧くんを撫でる〉……?」
どれも慎ましく細やかな希望なのが可愛らしいが、ちょっとおかしいやつが混ざってるのは気のせいにしておく。お隣さんも本人に見せることを考えてなかったようで真っ赤になって呻いてるし。
「あ……〈カメラで写真いっぱい撮る〉なら今すぐ出来るんじゃないか?」
「撮るのは撮るので、いいんだけど……碧くんと一緒に、撮りたいなって」
「そんなんでいいならお安いごようで」
もじ、とはにかむように言ってのけたくるみに頬を緩めた碧は、カメラを受け取ると、くるみを隣に呼び、目一杯手を伸ばしてレンズを遠ざける。
柵の後ろには船の行き交う大きなハーバーと港街。おまけに真っ直ぐ引かれた飛行機雲。この角度であれば綺麗に写ってくれるだろう。あとはくるみがもう少しこちらに寄ってくれれば完璧だ。
「くるみさんもうちょっとこっち」
「え? えっと……こう?」
「もっと」
最近は警戒心の欠片もない近所の家の猫みたいに近づいてきているのに、今日ばかりは外だからか。ほんの僅かしか縮まらない距離が焦れったくて、碧はくるみの肩を手でぐいっと優しく引き寄せた。
柔らかな絹糸がこちらの頬を掠めると同時に、ぱちりとシャッターが切られる。
「さて取れたかなって、そうだ。見れないんだった。……あれ、くるみさん?」
「……不意打ちはよくないわ」
チューリップより赤くなって何か言いたげなくるみに、碧は小さく笑った。
*
この日ふたりは、本当にたくさんの写真を撮った。
停泊中の船をバックに一枚、巨大な観覧車の前でまた一枚と。
「碧くん! 次はあっちに行こうっ」
まるで初めて草原に出た子兎のようなぴょんぴょこした足取りで、碧の手を引いてはどんどん前に進むくるみ。何年も降り積もった、ずっと冒険したかった望みが解放されたようなはしゃぎ様だ。
そんな彼女は今日もやはり数多の視線を惹いているが、いつものとはカテゴリーが少し違う気がした。
学校じゃ羨望や憧憬などの眩しいものを見る眼差しを向けられることが多いのに、今日は小さな子供を見守るような微笑ましいそれが多いみたいだ。
けど確かに、美しい少女が『こんなに楽しいことは他にない』と全身で語る姿は、目を惹いて仕方ないのかもしれない。
「見て、鳥がいる!」
「多分あれはゆりかもめだね」
「あっちはシーバス……っていう乗り物? 私初めて見る! 碧くんは?」
「横浜のはないけど、ベネチアにあるヴァポレットなら。すごいのんびり運河を走るの」
「そっかあ。わ、見てみて、あっちにくるくる回る乗り物ある! 行ってみたい!」
はしゃいだ足取りと戯れた笑みを見て、思う。
——こっちの方が、よほど妖精姫なんだよな。
完璧で学生離れしていて、凛として気品がある少女。学校の人たちはそんなくるみをそう渾名し、慕っている。
だが碧からしたら、等身大で年相応のあどけなさを見せる純真な一挙手一投足こそ、よほど雪の妖精みたいじゃないかと思う。
かつて他人に境界線を踏み込ませなかったくるみが今は、ありのままの感情を、素直に仕草に乗せている。
出会った頃からは考えられないし今も自覚はないのだろうけど、これが多分、彼女の本当にありたかった姿なのだろう。
そう鑑みると、碧は、どうしても嬉しいと思うのをやめられなかった。
くるみ自身まだ気づいていないような、彼女の美しさとか透明さとか尊さみたいなものをまとめてラッピングして、この人に届けてやれればいいなと思った。
「……なんだか演奏が聞こえる?」
「ん? 本当だ。なんかやってるのかな」
歩いているうちに辿り着いた赤レンガ倉庫で、耳が何かを捉えた。お隣さんも音の正体を探ろうときょろきょろ首を回す。
それにしても何だか懐かしいかんじがするなと思っていたが、理由が分かった。
ドイツの〈|Frühlings Fest〉という春の風物詩を模した催しが開かれているらしく、小麦や酒の匂いがふんわり漂ってきたからだ。
晴天に響く音が、より大きく近くなる。曲もここで奏でられているのだろう。
本家じゃ大人のためのビール祭りと言ってもいいくらい酒が豊富だが、それだけじゃなく未成年も楽しめるような乗り物があったりする。そこも再現しているようで、向こうには絵本の世界みたいなメリーゴーラウンドがぐるぐる回っているのが見えた。
——後でくるみさんにも乗りたいか訊いてみよう。
周りを見渡すと、やはり連休だけあってそこそこ混雑している。きらきらした面持ちのくるみが、新たに入場した怒涛の人にながされそうになっていたので、碧は肩をぐっと抱き寄せて捕まえ、そのまま近くのワゴンに連れて行った。
「折角だしこういうの買ってみたら?」
そこはドリンクを販売している店だった。ラドラーやファスブラウゼの瓶など、碧は慣れ親しんでいるが日本じゃ珍しいものがずらりと並んでいる。ちなみに前者は白ビールとレモネードを混ぜたもので、後者はベルリン版よいこのビールみたいなものだ。
「これドイツの紅茶。試す?」
指差したメニューには〈Glücksgeheimnis Tee〉とある。直訳すると〈幸せの秘訣の茶〉で、味が想像つかないことになっていた。くるみはこういう場面で意外にも冒険したい派なので勧めてみたのだが、やはりすぐに頷いた。
「おいしそう! 碧くんのお勧めなら私それにする」
「僕はじゃあファスブラウゼで」
早速購入したアイスティーのカップ片手にほくほくした様子で、けどこれだと手がつなげないことに気づいたくるみは、深刻な表情で狼狽え始める。
その様子が微笑しくてじーっと眺めていたら、いつもみたく拗ねて額をぶつけてこようとして……しかしそうすればハーブティーが零れてしまうことを察してぴたりと動きが停止したくるみに、碧はとうとう吹き出してしまった。
「わ、笑わないでよ」
「だって表情に全部出てるの笑うじゃん……そしたらこうすればいいよ」
ハンドバッグを受け取り、代わりに折った肘を差し出す。
「はぐれたら困るから」
くるみは碧の目と腕に向ける視線を何度か往復させ、それから意を決したように、ちょこんと袖をつまんだ。
「それどんな味? やっぱり幸せの味する?」
「うん。幸せの秘訣をさっそく一つ知ったから、名前に嘘はないみたい」
「……はは。僕もそれにすればよかったな」
慣れてきたのか、袖を掴むのは止めて、代わりにたおやかな腕を回してくる。
からん、といつもより早くカップの氷が解けていくのは、温かな初夏の気温のせいにしたい。それと同調するようにくるみは、沫雪が解けるみたいに柔らかく口許を弛ませ、ぽてっと甘えるように身を寄せた。
「初めてここに来れたのが、碧くんと一緒でよかった」
「おおげさ。これから先まだまだ時間はあるんだからさ」
——言葉とは裏腹に、どうしようもなく嬉しかった僕は。
歓喜と狼狽を悟られまいとそっぽを向き、なるべくゆっくり、歩を進めた。




