第101話 お出かけの行き先は(1)
——反則でしょあれは。
京王線のホームで電車を待ちながら、碧は誰に聞かせるでもなくため息を吐く。
目が覚めたのは明け方。
ふと意識が浮上すると、スマホが眩い光を放っていることに気づいた。
何事かと見ると、なんと〈7時間31分20秒〉という、フライト以外では見たこともないような数字が現在進行形で刻々と数字を重ねているではないか。
彼女がお眠なのが分かった時点で切ればよかったのに、そうしなかった理由は唯一つ。
以前くるみがよくない夢を見てうなされていたこともあり、心底安心し切ったように幸せの滲んだ声を聞かせてくれる彼女との電話を、切る訳にはいかなかったからだ。
というのが本音であるのだがそれだけじゃなく……好きな人と深夜に電話をすると言うシチュエーションに若干感情が昂っていなかったと言えば、嘘になるけど。
もちろん、気持ちが溢れかけて告白未遂をしてしまったことの後悔も。
「……もう駄目かもしれない」
恋仲でもないのにこんな許しあいはよくない——そう、どこかで警鐘が鳴っている。
くるみは自分を信頼し切っているから警戒もなくああいう甘え方をしてくるのだろうが、これ以上いくところまでいけば、告白の文化のない国で育った碧からしたらもう、そういう関係と認めざるを得ない。
今日のお出かけは気を引き締めなければと、警笛を鳴らし突風を引き連れてホームにやってきた列車を見据えて、自分に言い聞かせた。
*
目的の駅には三十分も早く着いてしまったので、碧はホームから違う鉄道の改札に向かってのぼーっと歩く。
家は近いのだが、くるみの提案で、行きは乗り換えの駅で待ち合わせすることになっていたからだ。
乗り込んだエレベーターで鏡を見ると、昨日湊斗が勝手にしたコーディネートして買わされたデニムジャケットに白シャツが映っている。いつもは大雑把に手でわしゃわしゃしてセットしてるつもりの黒髪も、前にほたるに伝授されたやり方でそれっぽく整えている。いつも見た目なんか清潔さ以外ほとんど気にしないから、何だか見慣れない。
そんなそわそわの碧が、耳に届いた子供のぐずりに足を止めたのは、乗り換え先の改札の階で降りた時だった。
構内のすみっこでしゃがみ、涙ぐみ、ひとりでべそをかいてる女の子がいる。
碧は迷わず近寄った。
「君、誰かと逸れたの? お父さんとお母さんは?」
ミニリュックを両腕いっぱいに抱っこした女の子はこちらを見て一瞬泣き止み、ぴゅいぴゅい首を振る。どうやら迷子らしい。
「どうやって来たの? 電車?」
尋ねてみるが黙ったまま。どこかの路線の窓口に連れていく手は使えなさそうだ。
さらにゴールデンウィークなので、あたりは人混みだらけ。ならせめてどこか座らせられる場所はないか——ときょろきょろして、あるものに目が留まる。
人の行き交う道で取り残されたようにぽつねんとある、ストリートピアノ。
「……そういえば、くるみさんにいつか連弾したいって言われたっけ」
ふと古い引き出しをひっくり返したように、昔の光景がよみがえる。
ドイツで出会った、ルカ以外のもうひとりの仲間と一緒に連弾した、懐かしいセピアに染まった日々を。
その友人が一番好きだった曲の名前も楽譜も、全部覚えている。
「ほら、今からお母さん呼ぶからこっちおいで」
気づけば女の子を手招きし、導かれるように座っていた。
ピアノなんて何年ぶりだろう。人差し指で確かめるようにそっと鍵盤を一つ押してみる。ぽーんと木霊のように、蝶のささやきの如く小さな〈ド♯〉の音階が返事をする。
今度は両手を冷んやりとした白鍵の並びにふれさせる。
やがて終わりかけのオルゴールのように、あるいは錆びついた蝶番のように、辿々しくぎこちない手つきで演奏が始まった。
初めに押した音から連想するように、ぱっと思いつきで選んだのはドビュッシーの『アラベスク第一番』だ。
その古い友人に教わった曲の、ひとつ。
何度も弾いて手に染み込んだ曲だが、もちろん空白期間があるため記憶もあやふやで間違いも多いし、二拍三連のクロスリズムでは速度が落ちる。
「お兄ちゃん下手っぴだね」
「僕はね。けど僕の友達はすごいんだ」
それでもめげずにしばらく手を動かしていると、慣れてきたのか勘を取り戻したのか、鍵盤を交差するゆびさきの躍動はなめらかになっていく。寄せては返す夜の海、その波のような旋律の再現。
そうだ。自分はピアノを演奏している時の、この万能になった錯覚が好きだった。
ぽつりぽつりと立ち止まる人が現れたのを視界の端っこで捉え始めたのも、この頃で。
「……あ」
ぷつりと演奏が止まる。
群衆の中に、惚けたようにこちらを見詰めるくるみを発見したからだ。
「お待たせ、碧くん。まさかこんなサプライズを受けるなんて思ってなかったけど」
並んで歩き出しながら、くるみが言った。
待ち合わせより三十分も早いのだ。まさかくるみに聞かれているとは思わず、碧はばつが悪くなる。
迷子の女の子も、演奏に呼ばれるように探しにきたお母さんと再会できたので、その辺はよかったのだが。
「見苦しい演奏で失礼。やっぱり人前で練習はするもんじゃないな」
「もう。否定待ちで言ってない? 私、音楽の嗜みはあるからさっきの曲でも分かる。碧くんかなり上級者よね。ブランクあったから指運びにぎこちなさがあるってだけで」
「どうかな。あ、今度くるみさんには『亜麻色の髪の乙女』でも捧げようか?」
「……そう言いつつ本当は、私じゃなくて違う人のこと考えてたでしょ」
見透かすような榛の瞳がそっとうかがってくる。
「ピアノはその人に習ってたの?」
「昔のことは振り返らない主義なんだ」
「はぐらかそうとしてる」
「してないよ。ただ昔の友達に教わっただけ。それに音楽の街って呼ばれてるベルリンで何年も暮らしたら嫌でもこうなるって」
「そ、そうなの? ベルリンってすごいんだ……」
しょうもない嘘を真に受けるくるみが可愛くて小さく笑う。
「僕の腕前なんてどうでもいいけどさ。それよりその格好……」
なんてごまかし返しつつ、彼女を見下ろした。
待ち合わせの駅のロータリーに現れたくるみの格好は、やはり碧の助言……というかちょっとした失言を取り入れたようなものだった。
清楚な白いシャツワンピースに、ワッフル編みにされた淡いラベンダーのニットベストを重ねている。ふんわりとした袖は、二の腕が透けて見えるレースに繊細な花の刺繍が縫われており、今から訪れる夏を思わせるような涼やかな出立ちだ。
段々とティアードになったスカートの横には深くスリットが入っており、覗くのは細く美しい脚のラインを浮かび上がらせるようなスキニー。行き先が行き先なだけあって、お洒落さと同時に動きやすさも求めているらしい。
確かに碧の要望通り、いつもの彼女とは一味も二味も違う。
「どう、かな……? いちおうリクエストに応えた格好にしてみたんだけれど」
キャップの下からはにかむように視線を持ち上げるくるみ。
髮もいつもより手が込んでいるようだ。小花柄のリボンと共に一本に編み込まれ前に垂らしており、真っ白なうなじが惜しげもなく空気に晒されているのが目に眩しい。
横髪はゆるくふんわり巻かれ、細い鎖骨の上に控えめに光るのは、ホワイトデーに送ったネックレス。
女の子らしさを残しつつも色っぽくボーイッシュにまとまったそれは、普段のお嬢様な格好の彼女と違うが、美人は着る服を選ばないという格言の通り似合いすぎなくらいだった。
「今日もすごく可愛いし、よく似合ってるよ」
「……ありがとう」
誉めるとくるみは、ふありと雪が解けるように頬を弛ませて、首を傾けた。もちろん見た目も可憐だけど碧からすればこういうふとした仕草こそ可愛く思える。
が、何だか今日はちょっとぎこちない。そわそわしてる、とでも言うのか。
「……もしかして昨日のこと気にしてる?」
肩が僅かに跳ねたのは、図星だからだろうか。
「覚えてる? 寝る前のこと」
「……えっと……記憶が曖昧だから、あんまり。……私へんなこと、言ってなかった?」
ここで〈声が好きって言われたんだけど〉とか〈ぬいぐるみと寝るなんて可愛いよな〉なんて言ったら、くるみは真っ赤になって逃げ出して今日の外出は滅失する気がしたので、その発言の真意と意味を問いただしたい気持ちをぐっと抑え、敢えてクールを装って言う。
「そっか。ならまあ、いいんだけど。今日なんか堅いのってそのせい? なら大丈夫だからさ。折角行きたいところに行くんだしリラックスしなよ」
「うん。……あ、でも違うの。それもあるけどそうじゃなくてっ……迷子の女の子助けたり、あとピアノとかもだけど……そういうの引っ括めて……」
「なに?」
「本当は今日の碧くんが、すごく、か、かっ……」
「?」
「格好いい、から」
すとんとまっすぐな褒め言葉に、妙な空気が生まれる。
慣れないことをされると、人間というものは、次の言葉を探すのに時間がかかるらしい。来世ではアップデートで改善を求む、切実に。
羞恥で口許をもにょもにょと波打たせ、ぷるぷる震えているくるみは、放心する碧にこれ以上は言及する気はないらしく「とにかくっ」と多少強引に締めくくると、
「今日はわがまま聞いてくれてありがとう。ずーっと楽しみにしてたの。だからほら、行きましょうか」
珍しく彼女の方から指を絡ませ、どきっとしつつお出かけはスタートした。




