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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第3章 シュガーリリィの恋
100/263

第100話 寝落ち通話

今回ちょっと長めです。文字数としては2話分くらい。

ゆっくり読める時にどうぞ。


〈何かあったらいつでも連絡くれていいから〉


 ——そんな碧の言葉が何日も経った今も、ロック画面に表示され続ける予定みたいにずっと耳から離れてくれなかった。


 学校は休みに突入し、その日は世間で言うところのゴールデンウィークの真っ只中。くるみのカレンダーで言うところのお出かけの前日。


 大事な日ということで、大好きなバスタイムではSABONのスクラブで普段より入念にお肌のお手入れをし、価格帯の高いパックやJILL STUARTのヘアミストで潤いを与え、くるみはウォークインクロゼットに引きこもって明日の服に悩んでいた。


 真正のお嬢様であるくるみのワードローブは多岐に渡るが、それゆえに勝負服となると目移りして迷ってしまうのだ。


「……どのお洋服が可愛いって思ってもらえるかな」


 お出かけが決まった日から候補に選んでいたのはタイプの違う二着。右手のハンガーには豊かなフリルがあしらわれた、上品で清楚なブラウス。左手には(ささ)やかな冒険心と健全な色香のある、氷菓みたいに涼しげなシースルーレースのワンピース。


 前者はくるみの好みで購入したもので、後者はつばめとのショッピングで勧められて買ったものだ。


 大きな鏡の前に立って、両方を交互にネグリジェの上に重ねてみたりするものの、どっちが彼の好みにそぐうかどうかなんて分からない。思えば、好きな女の子のタイプなんて聞いたことない気がする。


 碧はあまり自分の好みを話さない。お泊まり会の時のビデオ通話で一度そういう話になりかけたことはあったが、くるみが眠気に負けそうだったせいで、話さぬままお開きになったのだ。


 ああなるくらいならブラックコーヒーでも淹れておけばよかったと、ちょっと……いやかなり後悔している。


 ——明日はせっかく二人きりで過ごせる一日だから、碧くんの好みに応えたいのに。


 うぅんと唸った末に、答えを求めるようにスマホにそっと手を伸ばし、未読の通知がないかちらりと確認。何もないことを確認すると、さらにトーク画面まで開く。


「……最後に連絡取り合ったの、美術の授業が最後。もう三日も前だ」


 今日のところはずっとこの調子だ。


 普段は誰かからの連絡なんか気にすることはないのに、今日は気が散るどころか、視線はいくどもスマホに吸い寄せられてしまっていた。


 わがままかもしれないけど、離れていてもおしゃべりしたい。

 たとえ通話越しでも、一秒でも長く一緒にいたい。


 確かにいつでも連絡してくれていいとは言ったが、あれは有事の際にって意味だし、こんな夜に何の用事もないのにメッセージを送っては迷惑だろう……そう思って端末を置こうとした時、とある閃きが舞い降りた。


 ——あ。もしかして明日の服、今電話して聞けばいいのかな?


 嬉々としてスマホを持ち上げかけ、再び降ろす。


 ——けど、それだけで夜に電話するなんてやっぱり迷惑じゃ……。


 そんな怪しい挙動を反復していると、ふと端末がぶるぶると震え画面が点灯した。


「!」


 わくわくしながら手に取るものの、


「広告のメール……」


 しょんぼり落胆しながらスマホを机に戻す。


 光を失ったディスプレイに映る自分の表情が思いの外残念そうで、くるみは改めて碧に抱く確かな好意を再認識する。


 それも、ただの好きな相手じゃなくて、大好きなひとだ。


 ずっと狭い世界で生きてきた自分の境遇を理解し、外に連れ出してくれた人。自分の意思を尊重して手を差し伸べてくれた人。


 くるみをくるみでいいって言ってくれた、大事な人。


 見守ってくれている、大切にしてくれている……言葉と表情と仕草の全部で伝えてくれる彼を。初恋だからおおげさだと思われそうだけど、運命の相手とすら思っている。


 けどがんばり方はまだ手探りだ。ましてや「あなたを好きになったらどうすればいい?」なんて本人に聞けるはずもないので、今は自分のしたいことに正直になるしかない。


 ——やっぱり電話、したい。服の話はただの建前で……ただ声が、聞きたい。


 そう決意したくるみはハンガーを戻した後、ベッドの縁にちょこんと腰掛け、ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま碧とのトーク画面を開いた。


 ぷるぷると震える指がそっと通話ボタンに伸びる。


 が、後一歩で勇気が出ずに電話を掛けるに至らない。勉強中ならじゃましちゃうかなとか、今はルカさんと喋ってるかもとか、余計なあれこれを考えてはぐるりぐるりと迷いが渦を巻いてしまう。


 ためらいが、通話ボタンへのタップを後一歩のところで足止めしてくる。

 スマホを抱きしめながら、うだうだしていると。


 ——ピロン。


「ひゃあっ!?」


 突然メロディを鳴らし、くるみは手をすべらせてスマホをベッドに落とした。


 ぽよんとワンバウンドしたスマホが画面を上向きに静止し、慌てて覗き込むと、そこには碧からの通知が表示されている。


 どきどき高鳴る心拍を宥める時間すら取れないまま、焦りつつトーク画面を開いた。


〈今って起きてた?〉


〈だいじぶ! おき〉


 しゅぽっと途中送信。きゃあああっと気づいてすぐさま打ち直す。


〈大丈夫! 話せる! 起きてる!〉


 打ち間違いのせいでさらに心の余裕が失われたのをごまかすような、びっくりマーク三連打。なんでこんなに焦っちゃうの……と羞恥で真っ赤になりつつ、スマホをぎゅっと握り締めて返信を待っていると、代わりに聞き慣れない呼び出し音が連綿と流れた。


「え……?」


 状況を理解するより早く音がぷつりと止み——代わりにスマホがささやく。


 大好きな人の、声を。


『もしもし? くるみさん?』


「あ、碧くん」


『どうしたの急に。電話なんて珍しいじゃん』


「電話って、わっ私が?」


 どうやら、こちらが間違ってかけてしまったらしい。重なる失敗にもう思考はショート寸前だった。急すぎて心の準備も何も出来ていない。


「えっあ……あの! もっもしもしっ……ご、ごめんなさい」


『あはは、何で謝るの。僕が起きてるか聞いたからわざわざかけてくれたんでしょ。ていうか、逆にこっちがごめん。もしかしなくても眠るところだったみたいだし』


 電話の向こうから気遣うような声が紡がれ、くるみは余計に身を固くする。


 多分、くるみが珍しく打ち間違えをしたことからそう推測したのだろう。


「う……ううん! いろいろ考えててまだ寝てなかったし、私も丁度LINEしようと思ってたから大丈夫。けどやっぱりごめんなさい……」


 情けないことに自分の声は上擦っているうえに早口で、緊張していることを悟られまいとしたくも、どうしたら平常心を取り戻せるかも分からない。


 向こうはいつも通りだから余計に恥ずかしかった。


『ならよかった。起こしたならさすがに悪いし。けど眠いならすぐ終わらせるから』


「……すぐ終わらせなくて、いいのに」


 電話越しに聞く碧の声はいつもより低くて気怠げな響きがあって、そんな些細なところにもいちいちきゅんとしてしまう。そんな時間が長く続けばいいなんていうのは完全にこっちのわがままだから、声に出したのを後悔するように呑み込んだ。


「な、何でもない。それより用事って何?」


『……ああ、えっと……明日はたくさん歩きそうだから動きやすい靴で来なよって言おうと思って』


「そ、そっか。お気遣いありがとう」


『まあ……あとは、明日楽しみにしてるって言っておいた方がいいのかなって。こういう時ってそういう気の利いた言葉あった方がいいみたいだし。ってGoogle先生が言ってた。あ、いや、そういうの要らなかったらごめん……』


 何故かびみょうに言い淀むのがおかしくて、思わず笑みが零れた。


「……ふふっ。うん、私も楽しみ」


 もしかしたら向こうも、会えない夜に話す口実が欲しかったから連絡してくれたのかな、と想像する。くるみがそう思いたいだけかもしれないし、マイペースな碧に限ってなかなかなさそうだけれど、そうだったらいいなと思いながら、大切なウサギのぬいぐるみをぎゅうっと抱きしめスマホに頬擦りをする。


 ——あなたと交わす何気ない会話さえ、私にとってはため息が出そうなほど嬉しいなんて言ったら……きっとびっくりするんだろうな。


「碧くんはまだ眠くないの?」


『さっきまでは平気だったけどくるみさんの声聞いたら眠気来た』


「それどういう意味?」


『たぶん1/fゆらぎみたいなのが声から出てるんじゃないかな。一緒にいると眠くなるってよく言われない?』


「ううん? 一度もない」


『じゃあ一緒にいる時間長くなった僕の特権か』


「ふふ、そうかも。あの……折角だしもう少しだけ、お話ししても……いい?」


『ん? いいよ』


「碧くんは今日何して過ごしてたの?」


『湊斗にゴールデンウィークの予定聞かれて、明日はくるみさんと出かけるって言ったらいろんな服屋とか連れ回されてた。そっちは?』


「私は勉強かな」


『……ある意味予想通りではあるけど。ほんとストイックだよね』


「出かけるにしても人混みはじろじろ見られるからあまり好きじゃないの」


『それは君が美人で目立つからでしょ。まあけど明日は丁度いい息抜きになるんじゃないかな。混んでも僕がついてるし』


 照れも臆しもせずさらっと言ってくるところが、碧の最大のいいところでもあり、悪いところでもあると思う。


「……そういうの、ずるい」


『あれ、自覚してないの?』


「してるけど人に言われるのはまた別なの。ばか」


 照れ隠しに可愛げのない罵倒すると、彼は笑い、何となしの沈黙が落ちてくる。


 また明日ね、とこのまま電話を切られるのがちょっぴり怖くて、しんと鳴る静けさを遠ざけるように別の話題を出す。


「あの、よかったら私の相談に乗ってもらっても……いい?」


『いいよ。何?』


「碧くんって……女の子のお洋服はどういう系統のが好み?」


『え、服?』


 折角なら彼の好みにちょっとでも合わせたい。

 安直かもしれないけれど、少しでも可愛いと思ってほしいから。


「たとえば綺麗系でお上品なのとか、お仕事の時のつばめちゃんみたいにすらっとして格好いいのとか」


『うーん……くるみさんの着たいのを着ればいいんじゃない?』


 むむっと唇を巻き込む。洞察力があって普段は鋭いくせに、どうしてこういうときは気づかないんだろう。


「……折角並んで外を歩くから、碧くんにも可愛いって思えるお洋服がいいなって」


『そういうこと? でも僕、女の子のお洒落な服とかあんまり詳しくないし……あ、でも僕のマウンテンパーカー貸したときのくるみさんすごくよかったな』


「え?」


『オーバーサイズで丈とか袖が余ってて、なんかちっちゃくて可愛かった』


「な……なんか子供扱いされてる気がする。私ちゃんと高校生なのに」


『だからこそギャップがあったっていうかさ。身長あるっていっても、僕からしたらそりゃ小柄な訳だし、くるみさんすごく細いじゃん』


 確かにひとまわり大きい服を着るのは、華奢さを強調する着こなしのテクニックとして存在し、親友のつばめも仕事の時と違う印象にするために学校ではよく用いている。だが自分のあれは、子供がお父さんの服を勝手に着ました、みたいなだぼだぼ具合で、お洒落とは程遠かったと記憶していた。


 あれをいいと思う碧の男心はよく分からないが、女子校育ちのくるみも、余った袖からちょこんと覗いた自分の小さな指を見ては、男女の体格差というものを初めて自分事として目の当たりにしたのも事実だ。


 出会った頃はそこまで大きな身長差もなかったのに、くるみの手料理の差し入れの成果もあってか遅咲きの碧は最近どんどん背が伸びているみたいで、今はこちらが踵を上げてようやく目線が合うくらい。


 見上げる角度の移りかわりだって、くるみにとっては愛おしい。


「じゃあ、そういう格好にする」


『待って半分冗談だから。五月にあれは暑いでしょ』


「……碧くんの好みの服装がいいもん」


 そしたら、と観念した碧が言う。


『いつもの君とは一味違うくるみさんが見たいかな』


「一味違う私?」


『くるみさんいつもお嬢様っぽい清楚系な格好多いじゃん。まあ本物のお嬢様なんだけど。あっそうだ、じゃあ午後はショッピングにでもする? くるみさんに似合う服を僕が、せいいっぱい見繕わせていただきますので」


「ほ……ほんとう?」


『男に二言はありません』


 電話の向こうで悪巧みするような響きながらも、きっぱり言い切った碧。降って湧いた幸運みたいな話に、くるみは心が俄かに踊り出した。


 ——大好きな人に、お洋服を選んでもらえる。


 そう考えると嬉しいあまり、心の中できゃーっと歓声を上げながら、真っ白なシーツの雲でころんころんと転がってしまう。


「碧くんが似合う服選んでくれるの、すごく嬉しい!」


 喋々(ちょうちょう)しいかもしれないけど、もう片隅にちょっとどころか、世界中どこもかしこもハートマークでいっぱいだった。


 無駄に広いクイーンベッドを三往復くらいしたところで、今度はどこか打ってかわって優しく染み込むような声。


『寝るとこだったんでしょ? もう夜遅いから、詳しいことは明日以降決めよう』


「……うんっ」


 彼がこの場所にいなくてよかった、と思う。


 こんなに甘くて、ふにゃふにゃな表情を見られなくて……よかった。


「明日、すっごく楽しみ」


 ふあっと暖かいブランケットに(くる)まり、幸せいっぱいな気持ちに耽りながら、電話の向こうに素直な言葉をストレートに届ける。他意が合った訳じゃなくただ嬉しさのあまり思わず出てしまっただけなのだけど、そんなのくるみには何だってよかった。


 ——明日、いっぱいお洒落しなくちゃ。


 前に誉めてもらった編み込みにもう一度挑戦しようかな。それともたまには巻いてみようかな。……可愛いって思ってくれるといいな——


 想定外に現れた新たな予定に体を解かされているような心地でいると、段々と微睡みが訪れてくる。羽根が生えたように浮き沈みを繰り返しては、波間にたゆたう(いかだ)のようにふあふあと揺れていく。


 多分、大好きな人との慣れない電話による緊張の糸が弛んだのだろう。


 だから半分寝ぼけた調子のまま、スマホ越しに、普段は踏み込めないような親密な話をするにはうってつけだったのかもしれない。


「服は分かったけど、もっと碧くんの好きのおはなし、聞きたいな。たとえば、わ、私の好きなヘアアレンジ、とか……?」


『私のって、その聞き方だとくるみさん限定?』


「そう、くるみさん限定です」


 おうむ返ししてくすくす笑う。


『僕はあの編み込みとかすごいなって思うな。どういう原理か分からないのがすごい。最近も会うたびにヘアアレンジ違うし』


「……だって碧くんに誉められるのが、一番嬉しいから」


『僕からしたらそーゆーの方がずるいと思うけど』


「そ、そういう意味じゃなくて、碧くんは可愛いって言ってくれるから……その、モチベーションが上がるって言いたいの。そう、そういうことなの」


 枕に頬を乗せながら、半年前の冬を想起する。


 ——憶えていますか? あの日のこと。


 クリスマスに雪遊びをした時、くるみの編み込みを碧が誉めてくれたのだ。


 ——それが恋だと気づいたのはずっと後からだけど、私に白雪(スノーホワイト)なんて呼び名があること、ちょっとだけ嬉しいって思えたんだよ。


「……ね、あおくんは眠る時、明かりはつける?」


『明かり? いや、真っ暗にしてる』


「ブランケットはかぶってる?」


『もう少し暖かくなったら仕舞おうと思ってるけど、今は二枚掛けしてるかな』


「じゃあじゃあ……ハスキーのぬいぐるみは近くにいる?」


『高校生男子がぬいぐるみと寝てたらいろいろ問題でしょ。で、さっきから何の質問? 何かの心理戦?』


「ううん。ただ碧くんは寝る時どうしてるのかなって、気になっちゃったから。ふふ……そっか。じゃあぬいぐるみ以外は私とおそろい、だね」


『お揃い?』


「うん……いっぱいおそろいで、なんだか一緒に寝てるみたいって、思ったから。こっちにはウサギさんもベッドにいるからちょっと違うけれどね」


 返事はすぐには帰ってこなかった。


 最初に僅かな呻きが聞こえた以外は、まるでチェスの対局中のように、ただ自分の持ち時間をいっぱいに使って返答を考えているかのような沈黙が訪れる。


 何かおかしなことを言っちゃったかな、と自らの発言を点検しようとしたけど、思考は霧のようにふわふわと漂うばかりで、一向に形を成してはくれない。


 会話が途絶えたことによって、一度大人しく鳴りを潜めていた微睡みがまた大きな波となって、くるみを眠りの沖へと押し出しに来たらしい。


 まぶたを支える力もなくなり、ぐらぐらと枕に全てを委ねたところでスピーカーから再びか細い声が迷いを内包して発せられた。


『あのさ。そういうのは好きな人に言う台詞……として、取っておかないと駄目だと思う。僕はそれでも嬉しい、けど、さ』


「ん……? ぅうん……」


 現実に引き戻され、聞き返そうとするものの、喉から洩れたのは掠れた声だけだった。


 たった今、碧が何を言っていたみたいだが、うとうと微睡んでいた隙にすっかり聞き逃していた。


「あおくん……?」


 今度こそ名前を呼ぶと、彼がため息交じりに小さく笑った気配が、その声を細かな振動として耳に伝えてくる。どうやら同じことは二度言ってくれないようだった。それならきちんと起きていればよかった、と少し残念に思う。


『いやなんでもない。聞いてなかったならさ、いいよ。それよりくるみさん眠い? 電話切ろうか?』


「ゃ……まだ、少しだけ。もうちょっとだけ……おはなし、したい」


 眠気があることも、わがままなことも承知の上で、しかしくるみはこのまま電話を終わらせることはしたくなかった。


 毎日両親の帰りが遅く、歳の離れた兄は独り立ちし、誰かにおやすみの挨拶をすることも出来ずに広大な邸宅でひとり眠りに就くことが日常だったくるみの、久しぶりに誰かと一緒にいれる寂しくない夜なのだから。


 今のところは何とかなっているけれど、これまでの自分の人生は一度も休むことなく大海を泳ぎ続けるような人生だった。楪家のレールから落ちたくない。完璧であるべく全てを自分の力で何とかしなければならない。そんな自分を理解してくれる人も少なくて。


 壁は際限なく現れ続け、気を抜けば溺れてしまいそうで、おちおち熟睡なんかしてられなかった。


 けれど、彼に頼ってもいいんだと分かってからは、すとんと地に足がついた。嫌な夢を見なくなった。次に会える日が、明日が来るのが楽しみになった。


 遠い世界の人なのに、今だって距離は離れているのに、名前一つ呼ばれるだけですぐ隣にいるみたいに安堵できる。この声を聞くと何も考えられなくなる。


 甘えてしまう。どうしようもなく——。


「……駄目、だった?」


 控えめに乞うように訊ねると、再び沈黙していた碧は、今度こそ返事をくれる気になったらしい。


『じゃあ後ちょっとだけね』


「……ほんとう? 嬉しい」


 もう少しだけ通話ができる。碧の声を聞いていられる。


 そう思うと嬉しくて幸せでいっぱいで。くるみはふにゃふにゃとくすぐったそうに口許をふやけさせると——もはや自らの意志に反して、心のままの言葉を理知で添削すらしないまま呟いていた。


「すき」


『え……』


 ひっくり返ったような碧の驚きの声も、今の夢見心地なくるみには届かない。


「あおくんの……こえ、すきなの。落ち着くしもっときいてたい、から……うれしい」


『……いつも聞いてるじゃん。明日もさ、聞けるじゃん』


「だって……すき、だから……」


 もはや筋道すら通っていないしっちゃかめっちゃかなうえに、羞恥で一週間は目を合わせられない爆弾発言であるが、そのことに気づくほどの平常心をくるみは持ち合わせていなかった。


 夢と現実の隙間を手でかき分けて進みながら、声を発するスマホに頬擦りする。

 こちらは構ってくれないのか、と言いたげにじっと見詰めてくるウサギのぬいぐるみと目が合って、愛でてあげなきゃと懐に引っぱり込みぎゅっと抱きしめた。


 それが最後だった。


『くるみさん』


 呼び止めるように碧が名前を呼ぶも、くるみには届かなくて。


 枕の横にスマホが転がり落ちる。真っ白なシーツの上に投げ出されたそれが、表示された通話時間の数字を一秒ごとに加算していく。すぅすぅ……という健やかな寝息は、幸せな夢を見ていることだけを教えてくれた。


 スマホの声が空虚に喋る。


『……僕も君のこと、好きって言ってもいいかな』


 スピーカーから彷徨い出てきた言葉は、彼が一番届けたいであろう(あるじ)に伝わる前に、空気に解けて消えた。


100話到達しました!

ここまで読んでくれてる方ありがとうございます!

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