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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
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第10話 Verwickelter Faden(2)

「わ、来た」


 約束通り、四時間目の授業終了後すぐ。


 美術室の扉を開けた碧にかけられた第一声はそれだった。


 その日、碧は言われたとおり廊下を早足でたったか通り抜け、第二校舎を訪れていた。


 湊斗には訝しがられるし、すれ違った数学の先生に怒られそうになったし、よく考えたら走ってこいなんて言われてはいなかった気がしたが、どうだっていい。もしかしたら、立て続けに色々なことが起こったから、ちょっとやけになっていたのかも知れない。


 碧のクラスの授業が少々長引いてしまったからか、くるみは先に来ていた。背もたれのない木の椅子に美しい佇まいでちょこんと腰掛け、読みかけの文庫本に栞を挟んでぱたんと閉じる。


 理不尽と不可解を押し返すために、碧はぜぇぜぇと息を荒げながら、渋々口を開いた。


「いくら僕が美術室でよく退屈を凌いでいるとはいえ、来てって言ったのくるみさんじゃないですか」


「それはそうだけど、本当にくると思ってなくて……」


 碧が不服そうな声を上げると、くるみはちょっと目を伏せて気まずそうに小声で呟く。どこの世界に自分から人を呼びつけてそんなことをいう人がいるのか。


「もしかして悪戯いたずらでしたか?」


 首を傾げる碧に、切羽詰まった声が投げられる。


「とっても失礼。いたずらじゃありません! ……さ、早くここに座りなさい」


 言われるがまま、いつも碧が座る窓際の席に腰掛ける。


「あの、くるみさん。すぐって言われたから、僕まだお昼ご飯も買いに行けてないんですよ。お礼ならそれ買ってきた後でもいいですか? 早くしないと売り切れちゃうから」


 購買のパンは数に限りがある。人気の商品は、運動部の使いっ走り下級生の連中なんかがまとめ買いでたくさんかっさらってしまうので、早めに行かないと外れ感のあるコッペパンや塩パンしか残っていないなどざらだ。


 人の波に逆らってまで売店と正反対の第二校舎にきてしまっているのだから、もう手遅れだろうが。


「……確かお昼はいつも、購買のパンなのよね?」


「はい。お昼はメロンパン一個です。あと紙パックの牛乳」


「え……それだけ!?」


 大きな声で驚いてみせた後、何かを察したようにはっと表情を改めた。


「こういうこと聞いていいのか分からないけど……ご家庭の事情とかがあるのかしら?」


 くるみは眉を下げて、慎重に碧の表情を伺う。どうやら、菓子パンの一つしか買えないほど家が貧困していると思われているらしい。


「いえ、そういうわけではないですけれど。僕、食事なんかあんまりこだわりないし、食べれさえすればなんでもいいと思ってるし、お昼はてきとーなんです」


「……信じられない。よく今までそれで生きてこれたわね」


 可愛い顔に似合わずかなり辛辣な言葉を賜ったが、事実なので何も言い返せない。


「それをいつもなの?」


「とりあえずこの高校に入学してからはそうです。料理もできないし」


「……はぁ、聞いて呆れた」


 信じられないといった様子で、呆れたため息を吐き出すくるみ。

 花をあしらったトートバッグから藤で編み込んだバスケットを取り出すと、その中からさらに小さな包みを取り出した。


「はい、これ」


「え、なんですか?」


 くるみは少しためらいながら静かに呟いた。


「……ごはん」


「ごはん?」


 思いもしなかったワードに、碧は呆気に取られ、おうむ返しをした。


 彫刻刀で無数の傷がつき絵の具の飛沫でカラフルになった木の机に置かれているのは、それ以上なくそれ以下もなく、確かにどう見てもお弁当の包みだった。


 白地に小花柄の可愛らしいハンカチの包みは、ご丁寧にお弁当のてっぺんにリボン結びまで咲かせている。


「あなた、一人暮らしのくせに自堕落。自炊しないならせめてこれを食べて、少しは男子高校生らしい元気を取り戻すことね」


 可愛らしい声でお小言をいうくるみは、高校生らしいあどけない面差しに反して、まるで世話焼きのお母さんのようだった。


 分かったよ母さん、なんて冗談も出てこず絶句していると、包みに続けて、バスケットから箸やら絞ったミニタオルを次々と出してくる。


「はい、これはスープジャー。熱いから気をつけるのよ。それでこっちは水筒」


「い……いや悪いですって。これくるみさんのお弁当ですよね?」


「私のは別にあるに決まってるでしょ」


 くるみは真冬の朝の空気みたいにつんとすげない声で言い放ったが、碧がこのお弁当を黙って受け取れる理由にはなっていない。


「ありがたいですけれど……もう貸し借りはないはずなんじゃ? なんでこれを僕に持ってきたんですか?」


 その問いにくるみは一瞬迷うそぶりを見せてからしおしおと眉を下げ、零れた言葉にリボンをかけてそっと手渡すように、静かに返してきた。


「あなたは私に鯛焼きをくれた。あれが嬉しかったから」


「鯛焼き? けど僕あれのお礼はいいって……たかが二百円のおやつですよ?」


「だって……鯛焼きなんて食べたことなかったから」


 泡沫(うたかた)のように儚げで、か細い声。

 どこか神妙な様子を見て、碧は得心した。


「あー、そういうことですか。じゃあこの間のは初めての鯛焼き記念日ですね。けどだからと言ってお弁当もらっちゃうのは悪いな」


 碧の呑気な言葉に、くるみは虚を衝かれたように一瞬瞠目する。


「……驚かないの?」


「全く驚かないと言ったら嘘になるけど、とりたてて思うことといえば、そういう人もいるよなってくらいかな。世界には七十億人もいるんだし、いろんな人がいて当然です」


「……そう」


 くるみは実に名状し難い面持ちで、(けぶ)るような長い睫毛を伏せた。


 何かを恥じるようにも、安堵しているようにも見えた。


 ——あぁ、そういうことか。


 そんな彼女の様相を見て、碧はなぜくるみが鯛焼きひとつであんなに綺麗で透き通った表情を見せたのか、その真なる理由を悟った。


 それはまさに、彼女が今言ったとおり。


 あの鯛焼きが彼女史上、初めてのことだったから。


 きっと、未知の世界の甘味を背伸びして覗き込んだから。


 別に鯛焼きを食べたことがないくらいの人なら探せば珍しくもないのかも知れない。なのに彼女が鯛焼き一つでそこまで感銘を受けたのには、他にも事情があるからなんだと思う。その事情とやらまではさすがに分からないが、なんとなく想像をすることはできた。


 ただそれをこの場で開けっ広げに尋ねることは、どうしてもためらってしまうが。


「だからそのお礼。少しだけれど、知らないことを知れて嬉しかった。そこには二百円という数字じゃ推し量れない価値があるの」


「そっか。……じゃあこのお弁当は素直に受け取っておいた方が良さそうですね。ちなみに知らないのって、鯛焼きだけですか? たとえば同じキッチンワゴンによくあるクレープは? 他にもちょっと系統をかえて……世界共通で誰でもするような隠れんぼとかはさすがにしたことありますよね?」


「全部ない。けれどいいの。そういうのを知らないぶん本をたくさん読んでるから」


 現代日本で生きていく上で一度は直面するようなものを挙げてみたが、回答は芳しいものではなかった。


 碧の想像したとおり、彼女は正真正銘の——箱入り娘のようだ。


 しかし穏やかに断じた彼女はすでに気丈さを取り戻していたので、そういう問題の話じゃないだろうとは碧も言えなかった。先ほどまでの風前の(ともしび)が如く儚げな様相はすっかり消え、いつもみたいに柔らかな面持ちでこちらを見る。


 自分の境遇を、すっかり受け入れている。そんな風情だった。


 それゆえに碧から何かを言うことは憚られる。


 けれども今なお、一瞬だけぱちりと目があった美しいヘーゼルの瞳に翳りがあった気がして……碧は衝動のまま、言葉を落としていた。


「くるみさん」


 彼女が、こちらを見る。


「もし、僕が——」


 そこで言葉は止まる。心の底にほうきで掃いて追いやったはずの迷いと後ろめたさが、ぷかりと浮かび上がってきたからだ。


 ——もしよければ、僕がくるみさんの知らないこと教えましょうか?


 こんな烏滸がましいことを申し出て、彼女は果たして喜ぶのだろうか。


 いい迷惑だと突っぱねられるのではないか。

 そもそも、望んでなんかいないんじゃないか。


 彼女は誰にも頼ろうとしない。そんなの分かりきったことじゃないか。


 きっとそんな大きなお世話はいらないと跳ね除けられるに決まっている。


 それに、碧は入学式の時に悪目立ちをしていた。今だって本当にごくたまにだけれど、自分にまつわるよからぬうわさを耳にすることもあれば、今朝みたいに思い切り好奇や嫌悪の目で見てくる人もいる。


 もともとくるみに深く関わろうとしなかったのは、自分のせいで彼女に迷惑をかけたくないという気持ちがあったからだ。


 だから、ここから続けるべき言葉を探しているさなか——碧のスマホの着信が鳴り、会話が途絶えたのは神の采配とすら思ってしまった。


 ただ一つ問題点をあげるとすれば……画面に表示された名前がドイツの友人のものだということか。


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