第三十四話 『惨劇』-其の弐-
時刻は夕暮れ前ーー。
夏休み明け初日の今日は始業式だけだったのだが、宿題を忘れていたため居残りをさせられていた。
他の生徒たちはほとんど下校をして、教室に残されていたのは士郎だけだった。
士郎は、だるいだるい、とぼやきながらも何とか宿題を終えて職員室にいる担任に提出しに行く。
「うむ、帰ってよし」
提出した宿題を担任が一通り一瞥する。すると、担任から下校の許可が下りる。
士郎はくたくたになりながら廊下を歩いていると、ごっそりとプリントを携えた西岡と杉野宮とすれ違う。
三人とも満身創痍のボロボロだ。だから、
おう・・・・・・、という覇気のない挨拶を交わすのみであった。
士郎は下駄箱で靴を履き替え、正門を出る。
「たしか、エリスの家って言ってたよな」
声に出して目的を確認し、足を運んで行く。
*
「お邪魔しまーす、っと」
脱いだ靴を玄関に置いてはいかず、手に持って部屋へと歩いて行く。
一K九畳の部屋には二段ベッドとクローゼット、そして、壁側に沿って設置してあるソファの前には、成人男性がお父さん座りをすれば面積が全て埋まるぐらいの小さめのベージュカラーの机がポツンと置かれてある。
至ってなんの変哲もない素朴な部屋だ。
部屋の隅に存在する呪穴がなければ。
「・・・・・・」
《呪世界》へ行く時はいつも誰かと一緒なのだが、こうやって一人でこの穴に飛び込むのは初めてだった。
慣れていたつもりだったが、自分以外誰もいないこの部屋で呪穴を見つめるのは、なんだかとても不気味だった。
闇を見つめる時、闇もまた自分を見つめ返すーー。
どこかで聞いたような言葉が頭をよぎる。
「あらよっと」
士郎は穴を跨いで進んでいく。
いつもは普通に入っているのだ。
少し怖くなってきたぐらいで引き返したりなんてことはしない。
この先には──、
仲間がいるのだから。
穴の中を数秒歩いたところに出口がある。
「あらよっと」
さっきと同じ掛け声で出口を跨ぐ。
靴を履いて、エリスとセシリーの住む部屋と酷似した部屋を出る。
ガチャ。
「う!? ごほ、ごほ!」
押し寄せる熱。
不愉快な煙。
鼻をつん裂く匂い。
「ま、マジかよあいつら・・・・・・、やりすぎってレベルじゃねーぞ・・・・・・」
見渡す限りの辺り一面が業火に包まれている。
「おーい! 大丈夫かー!」
熱い、今にも溶けてしまいそうだ。
こんな火の海の中だ。既に皆はこの《呪世界》から出て行っているはずだと考えたが、それなら呪穴が閉じられていたはずだ。
何か、何かが起こっているのだろうか──。
士郎は迷った。
明らかに引き返した方がいい。この業火の世界に焼き払われる前に。
思考をほんの数秒ほど繰り返す。
どうする、どうする……。
いくら考えども、答えには辿り着かない。
「くっそおお!」
もう、何も考えずに飛び出した。
自分の命も、仲間のことも、全ての思考や感覚を意識の外に放り出し、走った。
時折ゴワァと迫り来る火の波を躱しては走る。
体力はすぐに尽きた。
はぁ、はぁ、と歩きながら進んで行く。
すると、地面に佇む長方形状の紙切れが目に止まった。
「これは、<お札>?」
<お札>とは呪いを込めることができるセシリーのアイテムだ。
血を<お札>に与えると込められた呪いが発動する。
どんな呪いが込められているかは真ん中に描かれている模様の形で識別できるらしいのだが、そこまでは分からなかった。
辺りがこんなにも燃え盛っているのにも関わらず、まだ燃え尽きていなかった奇跡の紙切れをオレはポッケにしまった。
こんな紙切れが燃え尽きなかったんだ。
皆はきっと無事だ。
そう信じ、再び足を歩ませようとしたとき──、
「──っ!?」
数メートル離れた道の壁にもたれて倒れこんでいる誰かがいた。
いや、誰かは一瞬で分かった。
でも、信じることが、受け入れることが出来なかった──。
美保だ。
頭から血を流し、足や腕に大きな青いあざがいくつもできており、片方の目が殴られた後のように膨らんでいる。
オレは駆け寄って、美保の肩を支えるように持ち上げる。
「おい、おい美保!」
……反応はない。
「なぁ、なぁ美保! 起きて……起きてくれよ……」
本当は──、
本当は、もう美保が目を覚ますことはないのだろうとなんとなく分かった。
美保の肩を支えた時、まるで人形に触れたかのような感覚だった。
なにより、こんなにも燃え盛る業火の世界だというのに、美保の体はこんなにも冷たい。
そして、次の瞬間、
美保の体が無数の光の球体となって霧散し、天へと昇って行った。
マンガとかアニメなら死ぬ間際の場面ではせめて一言ぐらいはあるものだというのに。
──それすらもなかった。
涙が出てきた。
気持ち的には、辺り一面に広がる火を全部消火できるぐらい出てきた。
これは夢だ。そうだ、夢だ。
学校で居残りをさせられているときに寝てしまったんだ。
ああ──、
また──、
儚い希望を抱いてしまった──。
泣いてぐちゃぐちゃの顔で少し歩いた。
今度は二人が倒れていた。涙で目の前が見えにくいが、風見と真桜だっていうのは分かった。
オレはぎこちない走りで二人のところを目指す。
「うぅ……、かざみ、まお……」
先ずは風見のところにたどり着く。
しかし、なんとまあ無慈悲だこと。
たどり着いたと同時に、まるでオレに見せつけるかの様に風見が美保と同様に無数の光となり天へと昇っていく。
「うぅ、あぁぁ……まって」
真桜の方を向くと、もう既に天へと昇っていた。
風見なら、とか、真桜なら、とか。
そんな希望はことごとくこの業火の世界に焼き払われる。
悲しみに暮れながらもうしばらく歩いた。
ジジイが天に昇っていくところを見た。
オーガが天に昇っていくところを見た。
ゴブリンが天に昇っていくところを見た。
セシリーが天に昇っていくところを見た。
何回も同じ場面を見せられている内に、涙はもう枯れていた。
パターン的には次は魔人ちゃんか、エリスだろう。
しかし士郎はそんな思想を顔を横に振って振り払う。
「だめだだめだ。まだ見た訳じゃないだろう」
内心はほとんど諦めているが、最後の最後まで確認して見ないと分からないじゃないか。
でも━━、
本当はもう帰りたかった。
これ以上ここにいてはオレ自身がこの地獄の業火に焼き払われるのは時間の問題だ。
怖い。
自分が死ぬことも。
仲間が死ぬことも。
また涙が出そうになってきたが、今はまだ堪える。
「魔人ちゃん!」
道の先に魔人ちゃんが倒れているのを確認するや否や、士郎は全力で駆け寄っていく。
「魔人ちゃん! 起きてくれ、オレだよ。士郎だよ」
デスオリではいつも風見に喧嘩を売られ、その度に風見をボコボコにしていた魔人ちゃんだが、時々真桜の家事の手伝いもしてくれていた。
家のソファでだらけているだけの美保に注意もしてくれた。
暗殺者だということを忘れるくらいに、魔人ちゃんは暖かく、そして、優しかった。
「……」
案の定反応はない。
しかし、士郎は歯を噛み締めて必死に呼び掛ける。
まだ、確認はできていないから──。
「頼むよ……起きて。また……通学路に居てくれよ」
オレは祈るように魔人ちゃんの手を握った。
「……ね……」
「──魔人ちゃん!?」
魔人ちゃんの口元がミリ単位で動いたその瞬間を士郎は見逃さなかった。
穴が空いた様に暗かった士郎の目に希望という名の雫が埋まる。
「ご……めん……ね」
魔人ちゃんの前髪の隙間からキラリと光る何かが見えた。
「なに謝ってんだよ、やめろよ」
「み……な……まも……れな……」
「そんなことないよ! この一瞬でも魔人ちゃんと話せてオレはスッゲー救われたよ!? だから! ……また……話そうよ……」
微笑む魔人ちゃんの頬を雫が何滴も何滴も伝っていく。
最後の最後まで魔人ちゃんの手はとても温かく、たくましく、優しさに満ち溢れていた。
今日何度目かの悲しみに暮れているオレの頬を光が撫でた。
そのまましばらく天に昇っていく魔人ちゃんを見上げていると──、
ドスーン!
目の前に何かが落下してくる。
「あいたたた……」
煙の中から聞いたことのあるような声が聞こえた。
煙は徐々に引いていき、声の主の姿が鮮明になってくる。
「え、エリス!?」
オレはまだ何が起きているのかは理解できていなかった。
ただ、この世界に立って生きているその姿を見て安心できたし、ほんの少しだけ前までの元気を取り戻せた気がする。
「へ、し、士郎!? 何をしているのデスか! 今すぐここからはなれ──」
「え、エリスー!」
しかし、今日だけは一切の油断を許されないことを士郎は悟った。顔から膝丈ほどのフードを纏った人物がエリスを襲撃する。
エリスは光のライフルでガードを成功させるが、この夕空に向けて砲丸投げのように長い距離を吹き飛ばされる。
「もしかして、お、お前が皆を……」
「……」
無言の《謎フード》と士郎が向かい合う。
このシチュエーションを色づけるかのように辺りの火炎がプロミネンスを巻き起こした。