63 目覚め 3
「ごめんなさい。すごく美味しいと思うのだけれど、……お腹がいっぱいだわ」
ベッドの上に設置された簡易テーブルの上に、持っていたスプーンを置くと、ミレナは悲しい顔をした。
それも当然だろう。
私は10年もの間、食事もせずに眠っていたのだから、体が目に見えて細くなっていた。
そんな私を料理長もミレナも心配して、胃に優しいスープを作ってくれたのだけれど、たった2口で満腹感を感じて、食事を終わりにしようとしているのだから。
原因は分かっている。
必要以上に長く眠り過ぎたため、人としての感覚が薄れてきているのだ。
対処法も分かっていて、無理矢理にでも食事を口にして、人間らしい生活を送ることが大切なのだけれど、これ以上一口だって食べられる気がしなかった。
そのため、スプーンを置いてミレナを見つめると、彼女はそれ以上強要することなく、皿を引こうとした。
その時、こんこんと控えめなノックの音がする。
けれど、音が響いたのは廊下へ続く扉からではなかったため、はっとして音のした方向を振り返った。
すると、続き扉が半分ほど開き、フェリクス様が半身を覗かせる。
……そうだわ。私の寝室はフェリクス様の部屋とつながっていたのだわ。
フェリクス様はお風呂上がりのようで、シンプルなシャツ姿だったけれど、髪がまだ半分ほど濡れていた。
まあ、国王という大事な立場なのだから、風邪をひかないように髪をきちんとふかないと、と思ったけれど、私が口を出せる範囲を逸脱している気がして唇を引き結ぶ。
その間に、フェリクス様はミレナに何らかの指示を出したようで、彼女は一礼すると退出していった。
一方、フェリクス様は部屋の隅にあるティーテーブルから椅子を一脚抜き出すと、私のベッドの横に置き、その上に腰を下ろした。
「ルピア、君は目覚めてから、水しか口にしていない。そして、初めての食事で、……その量は少な過ぎる。目覚めた以上、もはや君は食物からしか栄養を摂取できないはずだ。苦しいとは思うけれど、もう少しだけ食べてはくれないか」
フェリクス様の眼差しが決意に満ちた強いものだったため、私は視線を落とす。
「……どうして、私が少ししか食べていないのが分かったの?」
私の質問を聞いたフェリクス様の体が、ぎくりと強張った。
「……すまない。君のことが心配で、続き扉を薄く開いたままにしていた。君は食事を開始したばかりで、すぐに終えようとするから、思わず声を掛けずにはいられなかった。私のことを煙たがってもいいから、もう少しだけ食べてくれないか」
できればフェリクス様の言う通りにしたいとは思うものの、とても食べられる気がしない。
そのため、黙ってスープを見つめていると、彼が手を伸ばしてきて、スプーンを手に取った。
それから、スプーンに半分ほどスープを掬うと、彼自身の唇に押し当てる。
「……うん、熱くはないようだね。ルピア、どうしても食べられないと思ったら吐き出していいから、口に入れてみてくれ」
懇願するような眼差しを向けられたため、思わず小さく口を開ける。
すると、口の中にするりとスプーンが入ってきた。
反射で口を閉じると、ゆっくりとスプーンが口から抜かれる。
舌の上に残ったスープをそのまま飲み込むと、少しずつ体の中に沁み込んでいくのが分かった。
不思議なことに、先ほどは「苦しい」としか思えなかった食事が、「苦しいけれど美味しい」に変化する。
けれど、苦しいのは変わらないので、これ以上は飲めないわと思っていると、フェリクス様が皿の上からパンを手に取り、小さく千切ったのが見えた。
「これはね、料理長が特別の小麦粉とバターで焼き上げた、君のためのパンだよ。私も味見をしたが、ふわふわでほとんど噛む必要がなかった。料理長を労う意味で、一口だけ食べてくれないか」
そう言われれば、無理をしてでも食べるしかない。
せめてもの抵抗に小さく口を開けると、パンをつまんだ指2本が唇に触れる形になり、どきりして口を閉じる。
もきゅもきゅとゆっくり噛んでいると、フェリクス様は私の咀嚼がとても大事なことであるかのように熱心に見つめていた。
ごくりと飲み込むと、彼は「12回か」と呟く。
「咀嚼回数が10回で済むパンを作るよう、料理長に申し付けておくよ」
そう言うと、彼は先ほど私の唇に触れた2本の指を自分の口元に持っていって、ぺろりと舐めた。
「えっ」
驚いて声を出すと、フェリクス様も驚いたように目を見張る。
「えっ、どうかした?」
どうやら、無意識の仕草のようだったので、私は「何でもありません」と呟いて俯いた。
すると、彼は「これで最後だから」と言いながら、もう1度、スープの入ったスプーンを差し出してくる。
とても食べられる気がしなかったので、恨めし気に彼を見やると、フェリクス様は申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんね。君のお腹がいっぱいなのは分かっている。でも、どうかあと一口だけ食べてくれないか……腹の中にいる、子どものために」
そんな風に言われたら、食べないわけにはいかない。
私は仕方なく口を開けると、差し込まれたスプーンの中のスープを飲んだ。
もう無理だわという意思表示で、体をクッションにもたせかけると、フェリクス様は手を伸ばしてきて、何度も頭を撫でてくれた。
「よく頑張ったね。ありがとう」
……冷静に考えたら、私は食事をしただけだ。
褒められるようなことは何もしていない。
そのことに気付いて、じっと彼を見つめると、フェリクス様は綺麗にカットされたグラスを差し出してきた。
「水だよ。ゆっくり飲んだら、どんな食事よりも美味しく感じるから。騙されたと思って飲んでごらん」
……それは分かる気がするわ。
私は両手を差し出したけれど、フェリクス様は先ほどの食事と同じように、自らの手で私の口元までグラスを運んだ。
こくり、こくりと水を飲み、私がもう十分と思ったタイミングで、フェリクス様はグラスの傾きを戻してくれる。
これまでの食事から考えたら、すごく少ない量だったけれど、食事自体が久しぶりだった私は、その行為だけで疲れてしまい、目がトロリと下がってきた。
そのことに気付いたフェリクス様は、私をベッドに横にならせると、ベッドの上にセットしていたテーブルを手早く片付ける。
それから、カーテンを閉め、灯りを1つだけ残す形にして、部屋を暗くしてくれた。
彼は再び私に近付いてきて、私の額に手を乗せると、私の体温を確かめるかのように数秒間、そのままの姿勢でいた。
その慣れた手付きに、ああ、フェリクス様は毎晩、こうやって私の様子を見ていたのかもしれない、と眠たげな頭で考える。
彼は顔を近付けると、頬と頬をくっつけるようにして囁いた。
「おやすみ。私の大事な君に、安らかな眠りが訪れますように」
まるでそれが眠りの呪文であるかのように、彼の声を聞きながら、私はすぐに眠りに落ちた。
そのため、フェリクス様が枕元に置いた椅子に座り、一晩中私の眠る姿を眺めていたことを、私は知らなかった……。
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