30 誤解 3
私が妊娠したという噂は、いつの間にか王宮内に広まった。
体調が優れないことに加え、食欲が減退していること、侍医が頻繁に私のもとを訪れることから皆は推測し、答えを導き出したようだった。
そして、突然私のもとに寄り付かなくなったフェリクス様の姿から、誰もが何らかの結論を抱いたようで、多くの者が私を避けるようになった。
王宮にいるほとんどの者は、私が魔女であることを知らず、私がこの王宮に戻ってきたのは数日前であることを知っているため、不義の子を身籠ったと考えているのだろう。
フェリクス様は沈黙を守っていたけれど、そのことが悪い噂を加速させた。
王妃が身籠っているのが王の子であれば、王は王妃を手厚く遇するよう、周りの者に告げるはずだ。それをしない意味は……ひそひそひそ。
まことしやかに、噂が王宮内を駆け巡る。
そして……。
『王は妃の懐妊を、なかったものとして扱っている』
―――私の妊娠が皆に知られてから数日後の、王宮の結論はそういうものだった。
私には色々と足りていないところがあるけれど、その中の一つは負の感情に弱いことだ。
そもそも、これまでずっと母国の家族から、そして、嫁いでからはフェリクス様から大事に守られてきたため、悪意にさらされたことがほとんどなかったのだ。
そのため、生まれて初めてと言えるほどの強い怒りを向けられて、私の心は竦んでしまった。相手がフェリクス様であったからかもしれない。
―――フェリクス様に疑われて以降、彼のもとを3度訪れた。
けれど、色々な理由を付けられて、一度も彼に会うことができなかった。
そうなると、彼のもとを訪ねることが怖くなった。
拒絶されることは、これほどまでに心を痛めることだと初めて知った。
これまでの彼は、どれほど忙しくても私のために時間を取ってくれていたので、その優しさに慣れ切っていたのだ。
「フェリクス様……」
私は王宮内の庭園のベンチに座ると、綺麗に整備されている花壇の花を眺めた。
どの花も、一度はフェリクス様が私のもとに届けてくれたもので、眺めていると、以前の優しさに溢れた彼の姿が思い出され、自然と涙が浮かんでくる。
ああ、私はあの優しい人に誤解されてしまったのだ。
どうしてもう少し思慮深く考え、きちんと説明することができなかったのだろう。
『物事はいつだって、最悪のことを予想して、準備をしておくものだ』
母国の兄は、いつだって私にそう説いていた。
けれど、私はつい最良のものを予想してしまう傾向があった。
今回だってそうだ。
定期的に、母国がスターリング王国に報告を入れているとの話を聞いて、私がバドの城で眠っていたことが、フェリクス様に正しく伝わっていると勝手に思い込んでいたのだから。
けれど、冷静に考えてみたら、そのようなことがあるはずもない。
なぜなら私が魔女であることを、この国のどこまでの者が知っているのかが不明な以上、母国の家族は誰が見るか分からない書簡に、迂闊なことを書けるはずもないのだから。
恐らく母国からの報告内容は、『ルピアはディアブロ王国で元気にしている』程度のものだったはずだ。
そして、家族にしてみれば、その伝言だけで、私が魔女だと知っている者には正しく伝わると考えたに違いない。
けれど、実際には、夫であるフェリクス様にも信じてもらえていないのだ。
「……今からでも、何とか信じてもらわないと」
ぽつりとつぶやいたところ、私の声に応える声があった。
「まあ、王妃様。何を信じてもらおうと思われているのですか?」
顔を上げると、見覚えのある顔が目に入った。
橙色、赤色、黄色の3色の神秘的な髪色を持つ『虹の乙女』アナイスだった。
「アナイス……」
「お久しぶりです、王妃様。お一人でいらっしゃるのが見えたので、私でお力になれることがあればと思ってお声掛けいたしましたの。私は昔から王宮に出入りしているため、顔見知りが多くいますわ。王妃様が『信じてもらいたい』と思っている方に、私からも必要なご説明をいたしましょうか?」
にこやかに助力を申し出てくれるアナイスに、私は無言で首を横に振った。
私が信じてもらいたいと思っている相手はフェリクス様で、その内容は『魔女であること』と言えば、彼女は困惑するに違いない。
話題を変えようと、王宮にいる理由を尋ねると、彼女は誇らし気に微笑んだ。
「宰相閣下に呼ばれてまいりましたの。『虹の乙女』として、何度も公務への参加依頼をいただきましたが、どうやら今回は趣が異なる内容のようでして。……ふふふ、もしかしたら今後は、顔を合わせる機会が増えるかもしれませんね」
そう言うと、アナイスは私の腹部をじっと見つめた。
それは不躾とも言えるほど長い時間だったため、彼女が何らかの意図を伝えたがっているように思われて困惑する。
居心地の悪さを感じていると、アナイスはふっと唇を歪めた。
「……恐らく、私たちは仲良くなれると思いますわ。結局のところ、私が長年望んでいた席に、座ることができるようですから」
彼女の言葉は曖昧過ぎて、私にはよく理解することができなかった。
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その日の夕方、フェリクス様から疑われて以降、私は初めて彼の訪問を受けた。
突然のことに驚いて硬直する私の横を通り過ぎると、彼は私と向かい合う形で立ち止まり、無言で私を見下ろした。
咄嗟に発する言葉が見つからず、同じように無言のまま彼を見上げると、数日振りに見るフェリクス様は、見て分かるほどに憔悴していた。
目の下に隈ができていて、体重も明らかに落ちている。
……ああ、私だけではなく、彼も苦しんでいるのだわ。
今さらながら、そのことに思い至る。
彼にしてみたら、命を懸けて戦っていた間、国元に帰した妻が浮気をしたと信じているのだから、私に裏切られたと感じて辛い思いをしているはずだ。
「フェリクス様……」
言いかけた言葉を、片手を上げて制される。
口をつぐむと、フェリクス様はゆっくりと私の前に片膝を付いた。
それから、私の手を取ると、まっすぐ私の目を見つめながら口を開いた。
「ルピア、私はこの数日間、ずっと君のことを考えていた。そして、私にも悪いところがあったのだと理解した。君は愛情深いタイプだから、常に愛する対象が身近に必要だったのだろう。出征していたとはいえ、君を2年間一人にさせたのは事実だ。だから……私は、この2年間の君の行動を許すよう努力すべきなのだろう」
「え……」
全く想定していない方向に話が展開し、思わず言葉に詰まる。
そんな私に向けて、フェリクス様は話を続けた。
「そのため、どうあれば私は君の2年間をなかったことにできるのだろうと、ずっと考えていた。……考えて、考えて、出した結論だ。一度しか言わない」
フェリクス様は私を握る手に力を込めた。
「私と君の間には、1つの嘘もあってはならない。1つでも嘘があれば、君は嘘を吐く人間だと認識し、君の全ての言葉を疑わなければならなくなるからだ。だから、……先日の言葉が、嘘であったと正直に告白してくれるならば、君を許すよう努力し、今後、君のどんな言葉でも信じると約束しよう。ルピア、……腹の子の父親は誰だ? 君が誰の名前を答えたとしても、それはこの部屋だけの秘密で、誰にも漏らすことはない」
フェリクス様はそこで言葉を切ると、私の返事を待つ様子を見せた。
彼の緊張した表情からも、先ほどの会話からも、私が身ごもっている子どもは彼の子どもではないと、心から信じていることがうかがえた。
そして、彼が最大限の譲歩を提案していることも―――実際に、裏切られたと考えているフェリクス様からしたら、破格の譲歩に違いない。
……ああ、彼は裏切られたと思ってもなお、私を許す道を探してくれたのだ。
そして、これほどまで私の裏切りを信じている彼の考えを、今ここで覆すことはほとんど不可能だろう。
だから、私は一旦引いて、状況を改めてから……たとえば、バドが戻ってきてから、あるいは母国から誰か証言できる者を呼んできてから、改めて話をすることが大人の対応なのだということは、十分分かっていた。
けれど。
一時的だとしても―――私には、お腹の子どもの父親が、彼以外であると口にすることは、どうしてもできなかった。
悪手であることを理解しながら、私は彼の目を見つめて口を開く。
「お腹の子の父親は、あなただわ」
声が震え、涙がぽろぽろと零れ落ちる。
「……………………分かった」
フェリクス様はしばらく私を見つめた後、何の感情も表さずにそう答えると、ゆっくりと立ち上がった。
それから、握っていた私の手を離すと、そのまま踵を返して部屋を出て行った。






