141 魔女の生まれた地 5
「えっ?」
まさかそんなことがあり得るとは予想もしていなかったため、私は驚きのあまり目を見開いた。
そんな私に対して、フェリクス様は真剣に訴えてくる。
「偶然、知る機会があったのだ。その時からずっと、私はキト様にお会いしたいと思ってきた」
「どうして」
私は最後まで言葉を紡ぐことができず、フェリクス様を見つめたまま言葉を途切れさせた。
どうしてフェリクス様は、キトに会いたいの。
言葉にならなかった私の疑問を、フェリクス様は的確に読み取ってくれたようで、彼は真剣な表情で口を開いた。
「幼い頃に出会って以降、君はずっと私を守ってくれた。幼い頃は私の心を。長じてからは私の命を」
フェリクス様が言葉にしたのは、彼と私が出会って以降の話だった。
それは私の疑問に対する直接的な回答ではなかったため、フェリクス様は私に何を伝えようとしているのかしらと疑問に思いながら、決して聞き逃すことがないよう耳をそばだてる。
「君が何度も慈愛を与えてくれたから、私は自分が愛される存在なのだと認めることができ、周りの者を信じられるようになった。それから、君が2度も私の命を救ってくれたから、今こうして君と一緒にいることができている。君が私のためにしてくれた全てのことについて、私は心から感謝している」
フェリクス様の表情は真剣で、その声には真実の響きがあったため、彼の感謝の気持ちがまっすぐ私に伝わってきた。
嬉しく思いながらこくりと頷くと、フェリクス様は手を伸ばしてきて、私をぎゅっと抱きしめた。
えっ、この場にはイザークやバド、村長がいるというのに、フェリクス様は人前で何をするつもりかしら。
動揺のあまり、フェリクス様をぐいっと押しのけようとしたけれど、彼はびくともせず、私は彼の腕の中に囚われたままだった。
私の頭が彼の肩口にこつりと当たり、フェリクス様の顔が見えなくなる。
どうしていいか分からずに動けないでいると、頭上から彼のかすれた声が降ってきた。
「君に大切にされ、守られる生活は心地いいが、私は深窓の姫君ではないのだ。だから、自らの手で剣を握り、君を守りたいと考えている。苦しむ君をなすすべもなく見つめるのではなく、髪一筋も傷付けないよう、私が君の盾になりたいのだ」
フェリクス様は顔を下げてくると、私の額に彼の頬を擦り付ける。
「ルピア、君が非常に優秀な魔女だということも、魔女であることに高い矜持を持っていることも知っている。そして、それを否定するつもりは一切ない。しかし、……私も君のために何かしたいのだ。……何だって」
フェリクス様の訴えるような言葉を聞いたことで、ああ、そうだわ、彼は小さな子どもではないのだわ、と改めて理解する。
もちろんフェリクス様が小さな子どもでないことくらい、ずっと分かってはいたのだけれど、……私の中のどこか深い部分には、初めて出会った時の私より年下で、背の低い、自分に何かあっても悲しむ者はいないのだと寂しげに口にするフェリクス様が残っていたようだ。
だからこそ、彼は私が守らなければいけないと、ずっとずっと頑なに思い込んでいたのだろう。
けれど、……フェリクス様はいつの間にか、私をすっぽりと抱きしめることができるほど大きくなっていて、抗ってもその腕の中から抜け出せないほど力が強くなっていた。
そして、彼は私に守られるだけの生活をよしとはしないのだ。
私は身代わりの魔女だから、お相手の怪我や病気を引き受けることは当然のことで、それが自分の役割だとずっと考えてきた。
だけど、それを望まれないとしたら、どうすればいいのかしら。
突然、私がやるべきことが分からなくなり、途方に暮れていると、フェリクス様が腕の力を緩めて体を離し、私の顔を覗き込んできた。
「ルピア、私が今ここで君を抱きしめることができているのは、命をつないでくれた君のおかげだ。私はそのことを生涯感謝する」
……フェリクス様は本当に、他人の心の動きに敏感だわ。
私は何も言っていないのに、やるべきことを間違えたのかしらと不安になった気持ちを読み取ってくれるのだから。
それから、私の行動に間違いはなかったと、きちんと言葉にして言ってくれるのだから、相手を安心させる方法を分かっているわ。
「私は君への感謝の気持ちを、礼を言うだけでなく行動で示したいと思ったのだ。だから、そのチャンスらしきものが見つかったことに興奮しているし、とても嬉しい。まさか魔女の生地で、君のためにできることのヒントが見つかるとは思いもしなかったから」
「…………」
フェリクス様が丁寧に説明してくれたから、彼の気持ちは理解できたけれど、何があるか分からない泉の底に一人で潜るのはやはり危険なことに思われる。
そのため、心配のあまり返事ができないでいると、フェリクス様は言い聞かせるような声を出した。
「ルピア、君に救われた命だ。私は絶対に粗末にしない。もう二度と死ぬような目には遭わないと約束する」
フェリクス様はそう請け負ってくれたけれど、私は心配な気持ちを捨て去ることができなかった。
「フェリクス様は不明の場所に行こうとしているわ。泉の底には何があるか分からないのよ」
思わず心配な気持ちを漏らすと、フェリクス様は自信満々な様子で、きっぱりと言い切った。
「ルピア、行く先は君の聖獣の城だ。むやみやたらに相手に害をなすはずがない」
彼の言葉は、『身代わりの魔女』への全幅の信頼があってこそ成り立つものだった。
フェリクス様はいつの間にか、私のことも、私に連なる全てのことも、無条件に信用してくれているのだわ。
そのことを嬉しく思って顔を赤らめると、フェリクス様も同じように顔を赤らめた。
まあ、考えを読まれ過ぎるのも考えものだわ。
私は気を取り直すと、ずっと昔に別れた聖獣キトのことを考える。
ピンク色の優しい聖獣が、甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれたことを。
「……そうね、キトは優しい子だったわ。あの子が私のお相手であるフェリクス様に、危害を加えるはずはないわよね」
自分に言い聞かせるように呟くと、なぜかフェリクス様はもう一度頬を赤くした。
「ありがとう、ルピア。君の言う通り、私と君の絆は切れてはいない」
その言葉を聞いて、私がフェリクス様のことを「お相手」だと表現したことを、彼が喜んでいることに気付く。
フェリクス様は頬を赤くしたまま立ち上がったけれど、その表情には強い決意が表れていた。
そのため、もはや彼を止めることはできないかもしれない、という気持ちになる。
助けを求めてイザークを見つめると、諦めろとばかりに肩を竦められた。
「フェリクス王を止めるのは無理だろうな。彼の決意はたった今なされたものではなく、10年かけてなされたものだ。そんな固い決意を覆す言葉を、僕は持っていない」
イザークの言葉が胸に突き刺さる。
……彼の言う通りだ。キトの城を訪れることについては、たった今閃いたのかもしれないけれど、フェリクス様は長い時間をかけて、私の助けになる行動をとりたいと、決意を固めてきたのだろう。
恐らく、眠り続ける私の隣で。
彼を止める言葉が見つけられずに俯いていると、バドの皮肉気な声が響いた。
「面白いね、フェリクス。君の話のほとんどは、君の推測で成り立っている。それなのに、一体どんな行動を起こそうというのか」
具体的な行動を尋ねられたフェリクス様はまっすぐ背筋を伸ばすと、静かにバドを見つめた。
「バド様が言われた通り、私の話の大部分は推測で成り立っています。しかし、その推測を否定しなかったのはバド様です」
「……どういう意味だい?」
バドが剣呑な表情を浮かべてフェリクス様を見返したけれど、フェリクス様は怯むことなく言葉を続ける。
「バド様は『虹の女神の聖獣』としての記憶を継承している、と教えてくれました。ただし、記憶の大部分については、いまだ思い出すことができておらず、必要に迫られた時に必要な部分のみを思い出すのだと」
それは初めて聞く話だったので、私は驚きながらフェリクス様の言葉を聞いていた。
先日、大聖堂を訪問した際、私は初めて三連祭壇画を目にし、バドが虹の女神の聖獣であることを知ったのだ。
それなのに、フェリクス様は既にそのことを知っていて、さらには聖獣について詳しい様子だ。
一体どうして虹の女神の聖獣について詳しいのかしら、と不思議に思ったものの、すぐに答えが浮かんだ。
……そうだわ。フェリクス様はスターリング王国の王族として、幼い頃から頻繁に教会を訪れていたはずだ。
そうであれば、何度も祭壇画を目にしたことがあり、そこに描かれたバドの姿に気付いたのだろう。
バドは私の聖獣ではあるけれど、虹の女神の聖獣としての記憶を継承しているのであれば、フェリクス様とも縁が深いのかもしれない。
そう考えながら成り行きを見守っていると、バドが不承不承といった様子で頷いた。
「……そうだね」
まあ、『虹の女神の聖獣』の記憶について、必要な時に必要な分だけ思い出すのだとバドが認めたわよ。
フェリクス様がこの場でこの話を持ち出したのは、バドが何か「必要なこと」を思い出したということかしら。
とても大事な話が展開しているように思われ、息を詰めて見守っていると、フェリクス様がさらに畳みかけてきた。
「先ほどバド様は、この村の泉にキト様の城があることを思い出した、と言いました。恐らく、私たちがキト様と『身代わりの魔女の夫』の話をしていた時に、それらの話を思い出したのでしょう。にもかかわらず、バド様は一切言葉を差し挟んできませんでした。それは、私の推測に訂正すべき点がなかったからではありませんか?」
バドは少し黙った後、つまらなそうに尻尾を振った。
「……フェリクスには数多くの欠点があるが、頭が弱いということだけは当てはまらないな」






