126 フェリクス様の苦悩
その日、フェリクス様は晩餐の席に現れなかった。
最近はクリスタとハーラルトとも一緒に晩餐を取っているのだけれど、その二人が「珍しい」とわざわざ発言するくらいには滅多にない出来事だった。
仕事が忙しいとのことだったけれど、眠る時間になってもフェリクス様は寝室に現れない。
私はベッドに横になると、窓越しに月を眺めた。
私が目覚めて以来、眠る時はいつだってフェリクス様が側にいてくれたため、彼の不在を寂しく感じる。
それでも、疲れた体に引きずられたようで、いつの間にか眠ってしまったのだけど……。
夜中にふと視線を感じて目が覚める。
目を開けると、フェリクス様がベッドの縁に座って私を見下ろしていた。
「……喉が渇いた?」
フェリクス様は尋ねながら手を伸ばしてくると、私の額に手を当てる。
熱が出たのではないかと心配しているようだ。
喉は渇いてないと返事をすると、私はフェリクス様に質問した。
「満月が南の空に輝いているから、今は真夜中よね。こんな時間までお仕事をしていたということは、何か問題でも起きたの?」
「いや、何もないよ」
「だったら、ディアブロ王国に行くために無理をしているの?」
「……ほんの少しだけ。今夜遅くなったのは、仕事に集中できなかったからだ」
フェリクス様はそれ以上説明しなかったので、恐る恐る温室の話をする。
「……温室の外であなたを見かけたわ。あの時、あなたはとっても顔色が悪かったように見えたわ。体調を崩しているのではないかしら?」
「君は私をよく見てくれているのだね。あの時は確かに体調が悪かったが……持ち直したから大丈夫だ」
フェリクス様の言葉を聞いて、やっぱり彼は体調が悪いのだわと心配になる。
「だったら、今日は長椅子で眠るのは止めた方がいいわ」
「こんな夜に、私を追い出そうというの?」
フェリクス様の言う『こんな夜』が何を指すのかは分からなかったけれど、彼が非常に落ち込んでいることは見て取れた。
月明かりに照らされたフェリクス様は、半分以上が陰になっていてその表情を読み取ることはできなかったけれど、声が愁いを帯びている。
こんなに元気がないフェリクス様を、何年も使っていない冷たいベッドで眠らせることはできないわ。
私は少し考えた後、ベッドの端に寄った。
「じゃあ、一緒に眠るのはどうかしら?」
「…………何だって?」
全く理解できない様子で聞き返してくるフェリクス様に、私はぽんぽんと布団を叩いてみせる。
「我が国の太っ腹な国王陛下がふわふわのお布団をくれたから、私のベッドはすごく快適なのよ」
フェリクス様は困ったように唇を歪めた。
「……そんな誘い文句は必要ないよ。硬い板の上に一緒に眠ろう、と君が誘いかけてきたとしても、私は頷くから」
「そう」
「ルピア、優しいことは美徳だが、君はいつかその優しさのせいで、酷く傷付けられるかもしれない。絶対に何があったとしても、優しさで男性を寝台に誘うものではない。……こんな慈悲は示すものじゃないんだ」
フェリクス様は話をしている途中でどんどん俯いていったため、その声もどんどんくぐもっていく。
普段とは異なるフェリクス様が心配になり、私はその手を取ってぎゅっと握りしめた。
「フェリクス様、私が優しさを示すのは、傷付けられてもいいと思う相手だけよ」
静かな部屋に、フェリクス様が息を呑む音が落ちる。
長い沈黙の後、フェリクス様は低い声で話し始めた。
「ルピア、君が眠っていた10年間、私はずっと君の側にいた。眠り続ける君は何もできなかったから、寒いと震えればブランケットを追加し、暑いと汗をかけばブランケットを減らして汗を拭った」
「ええ」
フェリクス様が唐突に昔語りを始めた理由は分からなかったけれど、彼が眠っている私を大切に扱ってくれた情景が見えるような気がして短く頷く。
「その状態は10年間続いたから、いつの間にか、私がいないと君がどうにかなってしまうのではないかという気持ちが生まれた」
フェリクス様の声はかすれていて非常に聞き取りにくかったため、必死で耳をそばだてる。
「私が側にいることで、君の役に立てると考えていたが、……それは私の勝手な思い込みに過ぎないのかもしれない」
フェリクス様は言葉を切ると、ぐっと唇を噛み締めた。
「君が好きだと思った相手が、君の側にいるべきだろう」
フェリクス様はそのまま黙ってしまったので、彼の言いたいことが分からず、尋ねるように見上げる。
それでも、彼は口を開かなかった。
困って目を瞬かせたところで、ふと温室で見た光景が思い出される。
それから、もしかしたらフェリクス様は私がハーラルトのことを好きだと思っているのかもしれない、という気持ちになった。
あの時、ハーラルトと私は一緒に笑っていたから、傍からは好き合っているように見えたのかもしれない、と。
「もしもハーラルトが本気で私のことを好きだと分かったら、彼に私のことを譲るつもりなの?」
思ったことを質問した途端、なぜだか胸の中にずしりと石を詰め込まれたような気持ちになる。
一方のフェリクス様は痛みを覚えたかのように顔を歪めると、しばらく躊躇った後で口を開いた。
「そうするつもりはなかったし、したくはないが、……そうしなければいけないのだろうかと悩んでいるところだ」
「そう……」
発した声が普段より低く、ああ、私は落ち込んでいるのだわ、と自分の声を聞いて自分の感情に気付く。
「ハーラルトの希望であれば、拒否することは間違いないが……他ならぬ君がハーラルトの隣にいることを希望したら、私はどうすべきなのだろうと考えていた」
苦悩する様子で黙り込んだフェリクス様に、私は気になっていたことを尋ねてみた。
「でも、フェリクス様はハーラルトの接近禁止を解いたと聞いたわ。ハーラルトを信じているからこその行いでしょうけど、……彼に私を譲ってもいいという気持ちが、少しはあったのじゃないかしら」
フェリクス様は驚いた様子で顔を上げると、強い調子で否定した。
「私が自ら君を譲ることは一切ない! だが、ハーラルトの外見は私にとてもよく似ている。弟が君に熱心に言い寄る姿を見た時、……私も16歳の時、あんな風に君に接するべきだと思ったんだ」
それは先日、ハーラルトがレストレア山脈からシーアの花を摘んできてくれた時のことだろうか。
フェリクス様の言葉を待っていると、彼は表情を隠すかのように俯いた。
「私は遠い国から嫁いできてくれた君の前に跪いて花を差し出し、恋の歌を捧げるべきだった」
そうしてくれたら私は喜んだろうけれど、そうしてくれなかった12年前も、私はとっても嬉しかったし幸せだった。
それに、フェリクス様もレストレア山脈からシーアの花を摘んできてくれたのだ―――恋の歌はなかったけれど、それでも私はとても嬉しかったし、一瞬で幸せな気持ちになった。
「フェリクス様、あなたは十分私に優しくしてくれたわ。初めて一緒に朝食を取った朝、あなたは自分も甘いものが好きだと言いながら、私にデザートをくれたのよ」
「それくらい」
弱々しい様子で口元を拭うフェリクス様に、私は言葉を続ける。
「それから、『もしも君が一日だけの王妃なら、頑張ってもらうけどね。君はこれからずっと私の妃なのだから、無理をさせてはいけないだろう?』と言ってくれたのよ。あなたは私とずっと一緒にいてくれるつもりなのだわ、と嬉しかったわ」
「そんなこと」
やはり弱々しい調子で短い言葉を口にするフェリクス様に、私はこれ以上誤解を生まないようきっぱりと言った。
「私は知っている人がいない国に一人で来たの。だから、とっても心細かったけれど、あなたは信頼できるミレナを私に付けてくれた。それから、忙しいのにいつだって私のために時間を取ってくれ、何くれと気を遣ってくれた。だから、私はこの国で心穏やかに暮らすことができたわ」
「そうだ、君は一人でスターリング王国に来てくれた。心細いだろうから、君のためにできることは何でもやろうと思ったんだ。当時は精一杯やっているつもりだったが、私はまだ他にもできたと思う」
頑なに自分の意見を曲げないフェリクス様を前に、どう言えば伝わるのかしら、と言葉を重ねる。
「フェリクス様、私は本当に十分なことをしてもらったわ。12年前の私はとっても嬉しかったし幸せだったのよ」
何度も同じ言葉を繰り返したからか、それともじっと彼の瞳を覗き込んで話をしたからか、フェリクス様はやっと私の言葉を受け入れる姿勢を見せた。
「……そうか。だとしたら、多分、……私が君のためにもっとしたかったと後悔しているんだ。君が喜んでくれる姿をもっと見たかったと」
それっきり黙り込んでしまったフェリクス様の手を、私はするりと撫でた。
「フェリクス様、眠くなってきたわ。でも、体調が悪いあなたを長椅子で眠らせたりしたら、気になって眠れそうにないわ。だから、私のために今日だけ一緒に眠ってくれない?」
フェリクス様はしばらく無言で私を見つめていたけれど、私の手を持ち上げると、恭しい仕草でその甲に唇を付けた。
「……どうか君の優しさに、それ以上の優しさが返ってきますように」
それから、至近距離で私を見つめてきた。
「ルピア、私はもう二度と絶対に君を傷付けないよ」
それは私の先ほどのセリフに対する返事だろう。
『フェリクス様、私が優しさを示すのは、傷付けられてもいいと思う相手だけよ』
フェリクス様は丁寧な手付きで布団をめくると、静かに私の隣に体を横たえた。
「おやすみなさい、フェリクス様」
「おやすみ、ルピア」
―――その日、私は初めてフェリクス様と同じベッドで眠ったのだった。
いつも読んでいただきありがとうございます!
7/5(金)身代わりの魔女コミックス1巻が発売されるので、ご紹介します。
めちゃくちゃ可愛らしい2人ですね!!
ノベルを上手に再構成してもらい、ものすごく面白い漫画にしてもらいました!
最初から最後までルピアがものすごく可愛いし、フェリクスもめちゃくちゃ素敵で優しいです。でも、ちゃんと不穏さも描いてある素晴らしさ。
ノベルよりも糖分高めで、きゅんきゅんするオリジナルページもたくさんあり、ハラハラドキドキとときめきが詰まった最高の1冊になっています!
そんな素敵なコミックス1巻に、SSを書かせていただきました。
〇【SIDEフェリクス】ルピアとともにいる幸福
彼女の言葉に合わせる形で好意を口にした瞬間、胸がつきりと痛む。
なぜだか突然、正しく自分の感情を伝えられていない気持ちになったのだ。
(結婚当初、フェリクスがルピアへの想いに胸を痛める話(フェリクス視点))
その他、カバー下にショート漫画が描かれていたり、可愛らしいあとがきもありますので、ぜひお手に取っていただければと思います!
私が言うのもなんですが、本当におススメです!!
どうぞよろしくお願いします(*ᴗˬᴗ)⁾⁾






