116 フェリクス様の望み
フェリクス様の震える手を見て、彼がどれほど無理をしてディアブロ王国への帰省を申し出てくれたか、分かったような気になった。
彼は元々、私が母国に戻ることに難色を示していたけれど、それだけでなく、私の家族と会うことを苦手に思っているのかもしれない。
なぜなら私は合計12年もの間、眠り続けたのだ。
それが私の役割だったとはいえ、フェリクス様は申し訳なさを感じているようだから、私の家族にも同じようにすまないと感じているのかもしれない。
そうであれば、私の家族に会うことに緊張し、気が重くなるのは当然のことだろう。
それに、私の家族であれば、遠路はるばる同行してくれたフェリクス様に対しても、苦情の一つや二つ……もしかしたら10や20くらいは言うかもしれない。
その場合、フェリクス様はせっかく母国に付いてきてくれたというのに、嫌な思いをするだろう。
「フェリクス様、あの、無理をして付いてこなくてもいいのよ」
フェリクス様にそう返した私の気持ちを、彼は理解してくれていただろうけれど、即座に首を横に振った。
「君が一人で母国を訪問した場合、君がもう一度、私のもとに戻ってきてくれるだろうかと、私は心配になるだろう。君がこの国に戻るまで、私は食べることも眠ることもできなくなるはずだ」
大袈裟ではないかしら、と思ったけれど、最近のフェリクス様を見ていると、あながち冗談とも言えない気がしてくる。
「それなら、どうしてディアブロ王国への訪問を提案してくれたの?」
思わず疑問が口を衝いて出た。
先日、フェリクス様は私が母国で暮らしたいと言ったならば、彼には引き留められないと発言した。
フェリクス様は私の望みに従って、私を手放すことも考えているのだ。
しかしながら、一方では、フェリクス様の日々の言動から、私にずっとこの国にいてほしい気持ちが伝わってくる。
そんなフェリクス様からしたら、一時的にしろ私を母国に戻すのは悪手じゃないかしら。
「私をディアブロ王国に帰すのは、あなたにとって上手い方法とは思えないわ。もしかしたら私に里心が付いて、スターリング王国に戻りたくないと言い出すかもしれないでしょう?」
不思議に思って尋ねると、フェリクス様はぽつりと呟いた。
「……私がディアブロ王国に付いていくのは、そのリスクを少しでも抑えるためだ」
「えっ?」
どういうことかしら、ともう一度尋ねると、フェリクス様は考える様子で口を開いた。
「君に付いていって、同じものを見て、同じものを食べたい。そして、君が母国に焦がれる様子を見せるたびに、君の大事なものが何かを把握し、同じものをこの国でも提供できるよう努めるつもりだ」
「…………」
とんでもないことを言われたわ。
驚いて返事ができないでいると、代わりにフェリクス様が言葉を続けた。
「それでも、君がディアブロ王国で暮らしたいと言ったら……私にはどうすることもできないが」
そう発言したフェリクス様がものすごく苦しそうだったため、私は心から不思議に思って、同じ言葉を繰り返す。
「だとしたら、フェリクス様はやっぱり私に、母国を訪問するよう提案すべきじゃないわ。私がディアブロ王国に帰りさえしなければ、悩む必要もない問題だもの」
私を母国に帰す、という選択肢がなければ、フェリクス様が悩むことはないはずよ、と素直に思ったことを口にすると、彼は困ったように私を見た。
「私の都合だけを考えたらそうなるだろうが……ルピア、これまでの君はいつだって、自分の望みは二の次にして、私のことだけを考えて行動してくれた。だから、私は君と一緒にいる時には、君を手本にするようにしているんだ」
「えっ」
私がフェリクス様のお手本に? と、びっくりして声を漏らす。
一方のフェリクス様は弱々しく微笑んだ。
「私の感情に任せていると、君の都合を考えずに、『君のためになると私が考えた方法』を取ってしまいそうになるからね。……君だったらどんな風に相手に接するだろう、と必ず一度考えるようにしているんだ」
フェリクス様は言葉を切ると、私の腹部に視線を向ける。
「君は今、とても大切な時期だ。多分、母君や姉君、家族とともに過ごし、私に言えない話や、たわいもない話をする時間を持つべきだ。それらが何か役に立つのかと言われれば、何の役にも立たないかもしれないが、……そういう優しい時間が君には必要だと思う」
どこまでも私のことを考えたフェリクス様の言葉を聞いて、私はもう一度質問した。
「私がその優しい時間を持つことは、あなたが私を失うリスクを冒すこと以上に、あなたにとって大切なことなの?」
「そうだ」
フェリクス様がきっぱりと言い切ったため、私は驚きで目を瞬かせた。
まさかそう答えられるとは思っていなかったからだ。
「……フェリクス様は……」
彼がやろうとしていることは、とても真似できるものじゃないわ。
好きな人には側にいてほしいと、どうしても望んでしまうもの。
以前のフェリクス様はこんな風に思考しなかったから……彼は変わったんじゃないかしら。
最近のフェリクス様は全てのことを差し置いて、まず私のことを優先させようとしてくれるのだから。
もしかしたらフェリクス様が変化した原因は、私かもしれない。
そうだとしたら申し訳ないことだわと思いながら、感謝の言葉を口にする。
「フェリクス様、ありがとう。ディアブロ王国に戻って家族に会えると思うと、すごく嬉しいわ」
フェリクス様は笑顔で頷いたけれど、どこかまだ緊張しているように見えた。
やはり私が母国に残ると言い出すことを心配しているのかもしれない。
自分の感情を抑えつけ、私を心配させまいと笑顔を保つ彼を見て、思わず言葉が衝いて出た。
「あの、何か私にできることはないかしら?」
フェリクス様は驚いたように目を見張ったけれど、「私が好きでやっていることだから」とやんわりと断ってきた。
けれど、私が諦めることなく、フェリクス様のために何かしたいともう一度お願いすると、躊躇う様子を見せる。
その態度を見て、きっと私に何らかの要望があるのだわ、とぴんときた。
そのため、私が三度目となる質問を繰り返すと、フェリクス様は迷う様子で口を開いた。
「一つだけ、君しか叶えられない望みがあるが……これは非常に図々しい願いだ。口にすることも許されないほどの」
フェリクス様はいったん口を噤むと、視線を地面に落とし低い声で呟いた。
「だから、……聞いた後に断ってくれて構わない」
フェリクス様は私の母国を一緒に訪問しようと、何でもないことのように提案してくれた。
けれど、提案時の軽そうな言動とは異なり、実際には非常に大変なことだというのはよく分かっている。
一国の王が妃の里帰りに付いてくることなど普通はあり得ないし、身籠っている王妃を国外に出すことも、常識的に考えられないことだからだ。
フェリクス様は大変な無理をして、私の望みを叶えようとしてくれているのだ。
その対価であれば、彼が言うところの『口にすることも許されないほどの図々しい願い』でなければ釣り合わないだろう。
断るつもりはなかったけれど、まずはフェリクス様の願いを聞き出すことが第一だわ、と彼の心を軽くする答えを返す。
「分かったわ、私には無理だと思ったら断るわ」
フェリクス様は緊張した様子で頷いた後、私の片手を握ると深く頭を下げた。
「ルピア、まず初めに謝罪する。これから君が思い出したくない場面を思い出させることについて」
「え?」
フェリクス様は一体何を言い出すつもりかしら。
つられて私も緊張していると、フェリクス様は顔を上げてかすれた声を出した。
「私の願いは……10年前、君が子どもを身籠ったと伝えてくれたシーンをやり直すことだ」
「えっ!」
まさかそんな要望を出されるとは思わなかったため、びっくりして目を丸くする。
無言になった私を何と思ったのか、彼は座っていたソファから滑り降りると、私の手を握ったまま足元に跪いた。
「君は私の子どもを身籠ってくれた。私は君に感謝して、愛を捧げるべきだったのに、真逆の行動を取ってしまった。私はそのことを、この10年間ずっと後悔してきた。何度考えても、私の行動は酷過ぎる」
「でも」
思わず反論しそうになったところで、フェリクス様が痛ましい物を見るような目で私を見てきた。
「分かっている、私が全てを台無しにしたことは。実際には、過去をやり直すことなどできないし、君があの時のことを忘れることはないことも重々承知している。しかし、それでももう一度、あの場面を再現させてほしい。不可能なことは分かっているが……私は少しでも、君に大事な時間を返したいのだ」
フェリクス様は唇を噛み締めると、縋るような目で私を見つめてきた。






