102 彼のためにできること 5
ブルーノ料理長は手軽に食べられる料理をたくさん籠に詰めてくれていた。
そのおかげでテーブルの上にはたくさんの料理が載っていたのだけれど、フェリクス様はほとんど食事をすることなく紅茶ばかりを飲んでいた。
食べる量があまりに少ないので、それでは午後からの仕事に支障をきたすのじゃないかしらと心配になる。
けれど、心配になってちらちらと視線をやるたびに、「ルピアが淹れてくれた紅茶を楽しみたい」と言われる。
そう言われると何も言えなくなって、もきゅもきゅと無言でパンを食べていると、彼は温室の花を見ながら、美味しそうに紅茶を飲み続けていた。
たまたまだろうけれど、彼が長時間視線を止める花はいつだって白色か紫色で、その後に色を比べるかのように私の髪や瞳に視線を定める。
そんな彼の仕草に困ったような、気恥ずかしいような気持ちになっていると、食事が終わったタイミングでフェリクス様が口を開いた。
「ルピア、相談したいことがあるんだ」
食事の間中、フェリクス様はどことなく緊張している様子で、会話も少なかったため、何か気に掛かることがあるのではないか、と気になっていた。
けれど、食事が終わってナプキンをテーブルの上に載せるまで話を切り出されなかったので、悪い話かもしれないと予想する。
目覚めてからずっと、フェリクス様は私の食事時間をとても大切なものだと認識しているようで、食欲を失うような一切の話題を食事中は排除していたからだ。
私が気落ちするようなどんな話かしらと身構えていると、フェリクス様はゆっくりと手を伸ばしてきて、私のお腹に当てた。
「ルピア、侍医の見立てでは君は妊娠3か月とのことだ。そして、王宮舞踏会を行う1月末には、妊娠状態は安定しているだろうとの話だった」
「ええ」
舞踏会の頃には妊娠4か月になっているから、その頃には赤ちゃんについての心配も減るだろうと侍医から教えてもらっていた。
楽しみだわと顔をほころばせていると、フェリクス様は私の表情を確認するかのようにじっと見つめたまま口を開いた。
「君さえよければ、王宮舞踏会で君が身籠っていることを皆に公表したい」
「それは……」
フェリクス様の発言は当然のものだった。
彼は私が子どもとともにこの国に残ることを希望しているのだから、何も後ろ暗いことはないと示すために、通常の手順を取ろうとしているのだ。
色々な考えが混ざり合って、咄嗟に返事ができないでいると、フェリクス様は気遣う様子で尋ねてきた。
「君が決断を下す材料にしてもらうため、我が国の風習を説明してもいいかな?」
「ええ」
頷くと、フェリクス様は私のお腹から手を放した。
「我がスターリング王国王族は妊娠を公表する際、皆の前で虹色のリボンを妊婦のお腹に巻くのが通例となっている。虹の女神の祝福が腹の子にも与えられるように、との祈りの儀式だ。公表する場所は時期や立場によって異なり、茶会の席だったり、聖堂だったりするが、大勢の者が立ち会うほどに子は多くの祝福を受けることができ、無事に生まれてくるものだと信じられている」
それは虹の女神を信仰するスターリング王国らしい慣習だった。
王族の子どもは生まれてくる前から皆にその存在を認知され、無事に生まれてくるようにと祝福を受けるのだ。
それはとても素敵なことだけれど……。
「王宮舞踏会で公表するのは、よくあることなの?」
フェリクス様が舞踏会で公表したいと提案したのは、王族として一般的な方法だからかしらと考えて質問する。
残念ながら私の予想は外れたようで、フェリクス様は首を横に振った。
「いや、多くはない。そもそも王宮舞踏会の場を選択できるのは、王妃が懐妊した場合だけだから機会が限られるのだ。さらに、妊娠を公表する時期が舞踏会シーズンと重ならなければならないため、条件を満たすことが非常に困難だ。私の代でいくと、王宮舞踏会で公表されたのはハーラルトだけだ」
「そうなのね」
フェリクス様ははっきり言わないけれど、お腹の子どもの妊娠を公表する場として王宮舞踏会が最上であることは間違いないだろう。そうなのだろうけれど……。
俯いていると、フェリクス様が私の手を取り、自分の頬に押し当てた。
いつの間にか指が冷えていたようで、指先に当たるフェリクス様の頬を温かく感じる。
「ルピア、私は何度だって君に誓うよ。一生涯、君と私たちの子どもを慈しむと。君にじっくりと考える時間をあげたいけれど、腹の子は刻一刻と育っていくから、まずは王妃である君と私たちの子にとって、この国で暮らすために1番理想的な形を提案した」
フェリクス様は私が迷っていることを分かっているようで、優しい声でそう言った。
「君はまだこの国で暮らす決断はついていないよね。というよりも、君はこの国で暮らすことについて、私の希望とは反対の意思表示をしている状況だ。この状態で妊娠を公表しても、君にプレッシャーを与えるだけだろうから、今回は見送ろう」
「えっ」
私は本当にびっくりして彼を見上げた。
なぜならここは、彼が何としてでも押してこなければならない場面に思われたからだ。
それなのに、彼の表情には一切の強引さは見られず、ただ私を思いやってくれているような優しさだけが浮かんでいた。
「最初から君が承諾するのは難しいだろうと覚悟をしていた。それでも私は、このような選択肢が存在することを君に示したかった」
物事を決断するために、どのような選択肢が存在するかを知るのは大事なことだ。
だから、フェリクス様は正しく選択肢を示してくれたのだろうけれど、……実際に示しただけで、それらを選択することを強制するつもりはひとかけらもないのだ。
彼は頭がいいから、簡単な道、正しい道がどれかを分かっているだろうに、ただ私の希望を優先させようとしてくれる。
そして、私に断ることの罪悪感を抱かせないために、あえて軽い調子で話をしているのだ。
それを証するかのように、フェリクス様はおどけた様子で片目を閉じた。
「実際のところ、君が私の子を身籠っていると公表するつもりになってくれた場合、後からいくらでもフォローできるから心配しなくていい。ただ1つだけ分かってほしいのは、私がどうしようもないほど腹の子の父親になりたいと願っていることだ」
フェリクス様の言葉を聞いた私は、びっくりして目を見張る。
「この子のことを、あなたの子どもだと信じてくれたのではないの?」
お腹に両手を当てて尋ねると、フェリクス様は安心させるように頷いた。
「もちろん、信じている。そのことについて、私が馬鹿げたことを言い出すことは二度とないから安心してほしい。私が言いたかったのは、私は君を全力で引き止めるし、そのためなら何でもするが……もしも君が子どもとともにこの国を去ると言い出した場合、私には君を止められないだろうということだ」
それはフェリクス様が初めて、私が母国に戻ることを受け入れる様子を見せてくれた瞬間だった。
これまでどれだけ希望しても、受け入れがたい様子を見せていたため、突然の態度の軟化にびっくりする。
同時に、彼は私を手放す選択肢を視野に入れているのだわと、胸がちくりと痛んだ。
そんな自分の心の動きに驚き、戸惑っていると、フェリクス様が思い悩む様子で言葉を続けた。
「だから、私が父親として子どもと暮らすことができるかどうかは、君の決断に懸かっている」
私はこれまでずっと母国に戻りたいと言い続けてきたのだから、彼の発言は私に決定権を委ねてくれたということなのだろう。
フェリクス様はとても優しいから、最終的には私の希望通りにしてくれるつもりなのだ。
何と言えばいいのか分からなくなり、……というよりも感情が乱れて、自分の心すらよく分からなくなっていると、フェリクス様が雰囲気を変えるかのように明るい声を出した。
「ああ、残念ながら時間のようだ。君といつまでも一緒にいたくはあるが、そろそろ君の体に障るだろうから、お開きにするべきだな。私としてはこの後、君には私室でゆっくりしてもらえると安心なのだが」
フェリクス様とは異なり、私はすぐに感情を切り替えることができなかったため、困ったように彼を見つめる。
彼の言った通り、お腹の中の赤ちゃんはどんどん大きくなっていく。
だから、色々と決断しなければならないことは分かっていたけれど、妊娠を公表することはもちろん、決断済みだったこの国を去ることについても迷いが生じてしまい、何ひとつ返事をすることができなかった。
そんな私の困惑を読み取ったわけでもないだろうに、フェリクス様は申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ルピア、君に必要なだけの時間をあげることができなくてすまない。赤ん坊は育っていくから、どうしても時間的な制約が生じてしまう」
「それは少しもフェリクス様のせいではないわ」
当然のことを口にすると、フェリクス様は寂しそうに微笑んだ。
「……私のせいにしてほしいのかもしれないね。そもそも君が妊娠したのは私が理由でもあることだし、私は君のあらゆる局面に関わっていると感じたいのだろう」
フェリクス様の言葉は、私が気を遣うことがないように、との優しさから発せられたのだろう。
けれど、どういうわけか優しさは半分で、残りの半分は彼が心からそう思って発言したように、私には思われた。






