雨粒に光は宿る
大きめのトランクケースを片手に、私はひたすら歩く。スマホは圏外。バスは、しばらく来ない。
だが、天気は快晴で、うだるような夏の暑さが、体の中に潜む熱をじりじりと呼び覚ます。
あの時は、何がなんだかよくわからなかったけど……。意外と距離があったんだな。
降りた木造のバス停から、その手前のバス停までの道のりは、想像していたよりも長かった。もっとも、あの時はトランクケースではなく、リュックだったし、今より若くて元気だったから、足取りも軽かったはず。
私は、はぁ、と額ににじんだ汗をぬぐって、ペットボトルの水を飲み干す。
もう少しだ、と顔を上げると、不意にピアノの音がした。
聞き覚えのある、透き通った、雨粒みたいなピアノの音が。
晴れていると、雨の日よりもよく聞こえる。私は思わず音の方へ駆け出す。まるで、あの時みたいに。
古民家の前で、私は足を止め、ぜぇぜぇと肩で息をした。日ごろからジムへは通っているものの、トランクケースを担いで山道を走ったことはない。
「いらっしゃい」
懐かしい、穏やかな声に、私は顔を上げる。
「古民家カフェ、雨宿りへよう……光ちゃん?」
やどりさんは、あの頃と変わらない。モデルとして人気が出てきた私でさえ、うらやましくなってしまうような顔立ち。綺麗だ、と思った昔の私のセンスは、間違っていなかった。
「お久しぶりです」
「え、え⁉」
やどりさんは、数年前、安堵と怪訝な気持ちの狭間でさまよった私と同じ顔をした。
「本物⁈」
「偽物に会ったことあるんですか」
私は、敷居の前で靴を脱ぎ、玄関脇の棚へと靴をしまう。今日は、靴も汚れていない。
「いつもテレビ越しだから……夢みたい」
「やどりさんも、テレビ出てましたよね」
その割に、カフェは相変わらず繁盛していないようだが。
「光ちゃんに会って、もう一度ちゃんとピアノを弾こうかなって思ってたら……たまたま、拾ってもらっただけよ」
やどりさんの作ったピアノの曲は、スケート選手のフリープログラムに使われて、ちょっとした騒ぎになった。だが、世間のブームが過ぎ去ると、あっという間にその名を聞くことはなくなった。
「長くは続かなかったけどね」
やっぱり、私にはここがいいみたい、とやどりさんは苦笑した。
あの時の私には、大人ってものがわからなかったけれど、今ならわかる。やどりさんは浮世離れした雰囲気がある。普通の世界ではきっと、うまく生きられなくて……着飾ることでしか生きられない私に、少しだけ似ている。
「光ちゃんは、モデルさんか」
「たまたま、拾ってもらっただけですよ」
やどりさんの言葉を借りたが、本当に拾ってもらったという表現が合う。
せめて何か自分が好きなことを、と続けていたヘアモデル。その写真が……どういうわけか、芸能事務所まで流れ着いてしまったのだから。何が起きるか分からないものだ。
「浅煎りコーヒー、まだ流行ってる?」
「流行ってますよ。ここ、宣伝しても良いですか?」
「ダメ。忙しくなっちゃいそうだもん」
やどりさんは、そもそも働くのがあまり好きではないみたいだ。大人のくせに。
「光ちゃん、いくつになったの?」
「二十、二? ですかね?」
「なんで疑問形?」
「やどりさんは?」
「……三十二?」
「なんで疑問形?」
前にもこんなやりとりをしたかな。顔を見合わせて笑う。
「よかったら上がって。今度は、お金請求するけど」
「おいくら万円ですかぁ?」
「それ、流行ってるの?」
「レトロブーム再来中なんで」
「マジ?」
「大マジ」
やどりさんが入れたコーヒーはおいしい。すっきりしていて、飲みやすくて、あんまり苦くなくて。やどりさんと飲むから、かもしれない。
そんなことを考えていると、パタ、と小さな音がする。
「「あ」」
私とやどりさんは、玄関の向こうに立ち込めた雨雲を仰ぐ。
「雨宿りしてく?」
「そのつもりで来ました」
トランクケースには、一泊分の荷物が入っている。久しぶりの休暇をどうして過ごそうか、と思っていた時に、ラジオから聞こえてきたクラシックが私をここへと呼び寄せた。
「ドビュッシーの月の光、弾いてくださいよ」
「ちゃんと覚えてたんだ。えらい」
「クラシック詳しくなりましたよ。やどりさんのせいで」
「勉強中にも聞いた?」
「聞きました。やどりさんの、昔の演奏も」
「それは恥ずかしいな」
「やどりさんのピアノの音が好きなんです。なんていうか、その……感動するんで」
やどりさんの弾くピアノの音は、それはそれは、透き通っていて美しい。
雨の匂いと、コーヒーの香り。やどりさんの柔軟剤の匂いが、ピアノの音に混じって、空間を満たしていく。
ショパンの英雄、リストのラ・カンパネラ、モーツァルトのキラキラ星変奏曲。
スラスラと作曲家と曲名を答えれば、やどりさんは楽しげにうなずいた。
「光ちゃんの思い出に入れてもらえて、嬉しい」
ポーン、とピアノの上をかけていく夢を、その美しい指を、私は追いかける。
最後の残響が、雨音に混ざって溶けて、消えていく。
「リストの、愛の夢」
やどりさんはふっと柔らかな、花が開いたような笑みを浮かべる。
「まだ、止まないね」
雨は、降り続く。
しとしとと長く、果てしなく続くピアノの五線譜のように、まっすぐに、細く。
「次は、やどりさんの曲が聞きたいな」
私のリクエストに、やどりさんは「別料金になります」とおどけた。
だが、すぐに白鍵と黒鍵の上に指を置いて、トーン、と軽やかに一音目を鳴らす。
雨宮宿の、雨粒に光は宿る。
いつか、私が願いをかけたあの日の雨が、今日も外には降り続く。
ピアノの音が、あたたかくて、優しくて、雨の音みたいに世界を包む。
――私たちは、この世界で二人きりみたいだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
憂鬱になりがちな雨の日が、このお話を通じて、少しでも楽しくなったな、と思っていただけましたら嬉しいです。




