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雨粒に光は宿る  作者: 安井優


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5/5

雨粒に光は宿る

 大きめのトランクケースを片手に、私はひたすら歩く。スマホは圏外。バスは、しばらく来ない。

 だが、天気は快晴で、うだるような夏の暑さが、体の中に潜む熱をじりじりと呼び覚ます。

 あの時は、何がなんだかよくわからなかったけど……。意外と距離があったんだな。

 降りた木造のバス停から、その手前のバス停までの道のりは、想像していたよりも長かった。もっとも、あの時はトランクケースではなく、リュックだったし、今より若くて元気だったから、足取りも軽かったはず。

 私は、はぁ、と額ににじんだ汗をぬぐって、ペットボトルの水を飲み干す。

 もう少しだ、と顔を上げると、不意にピアノの音がした。

 聞き覚えのある、透き通った、雨粒みたいなピアノの音が。

 晴れていると、雨の日よりもよく聞こえる。私は思わず音の方へ駆け出す。まるで、あの時みたいに。


 古民家の前で、私は足を止め、ぜぇぜぇと肩で息をした。日ごろからジムへは通っているものの、トランクケースを担いで山道を走ったことはない。

「いらっしゃい」

 懐かしい、穏やかな声に、私は顔を上げる。

「古民家カフェ、雨宿りへよう……光ちゃん?」

 やどりさんは、あの頃と変わらない。モデルとして人気が出てきた私でさえ、うらやましくなってしまうような顔立ち。綺麗だ、と思った昔の私のセンスは、間違っていなかった。

「お久しぶりです」

「え、え⁉」

 やどりさんは、数年前、安堵と怪訝な気持ちの狭間でさまよった私と同じ顔をした。

「本物⁈」

「偽物に会ったことあるんですか」

 私は、敷居の前で靴を脱ぎ、玄関脇の棚へと靴をしまう。今日は、靴も汚れていない。

「いつもテレビ越しだから……夢みたい」

「やどりさんも、テレビ出てましたよね」

 その割に、カフェは相変わらず繁盛していないようだが。

「光ちゃんに会って、もう一度ちゃんとピアノを弾こうかなって思ってたら……たまたま、拾ってもらっただけよ」

 やどりさんの作ったピアノの曲は、スケート選手のフリープログラムに使われて、ちょっとした騒ぎになった。だが、世間のブームが過ぎ去ると、あっという間にその名を聞くことはなくなった。

「長くは続かなかったけどね」

 やっぱり、私にはここがいいみたい、とやどりさんは苦笑した。

 あの時の私には、大人ってものがわからなかったけれど、今ならわかる。やどりさんは浮世離れした雰囲気がある。普通の世界ではきっと、うまく生きられなくて……着飾ることでしか生きられない私に、少しだけ似ている。

「光ちゃんは、モデルさんか」

「たまたま、拾ってもらっただけですよ」

 やどりさんの言葉を借りたが、本当に拾ってもらったという表現が合う。

 せめて何か自分が好きなことを、と続けていたヘアモデル。その写真が……どういうわけか、芸能事務所まで流れ着いてしまったのだから。何が起きるか分からないものだ。


「浅煎りコーヒー、まだ流行ってる?」

「流行ってますよ。ここ、宣伝しても良いですか?」

「ダメ。忙しくなっちゃいそうだもん」

 やどりさんは、そもそも働くのがあまり好きではないみたいだ。大人のくせに。

「光ちゃん、いくつになったの?」

「二十、二? ですかね?」

「なんで疑問形?」

「やどりさんは?」

「……三十二?」

「なんで疑問形?」

 前にもこんなやりとりをしたかな。顔を見合わせて笑う。

「よかったら上がって。今度は、お金請求するけど」

「おいくら万円ですかぁ?」

「それ、流行ってるの?」

「レトロブーム再来中なんで」

「マジ?」

「大マジ」


 やどりさんが入れたコーヒーはおいしい。すっきりしていて、飲みやすくて、あんまり苦くなくて。やどりさんと飲むから、かもしれない。

 そんなことを考えていると、パタ、と小さな音がする。

「「あ」」

 私とやどりさんは、玄関の向こうに立ち込めた雨雲を仰ぐ。

「雨宿りしてく?」

「そのつもりで来ました」

 トランクケースには、一泊分の荷物が入っている。久しぶりの休暇をどうして過ごそうか、と思っていた時に、ラジオから聞こえてきたクラシックが私をここへと呼び寄せた。


「ドビュッシーの月の光、弾いてくださいよ」

「ちゃんと覚えてたんだ。えらい」

「クラシック詳しくなりましたよ。やどりさんのせいで」

「勉強中にも聞いた?」

「聞きました。やどりさんの、昔の演奏も」

「それは恥ずかしいな」

「やどりさんのピアノの音が好きなんです。なんていうか、その……感動するんで」

 やどりさんの弾くピアノの音は、それはそれは、透き通っていて美しい。

 雨の匂いと、コーヒーの香り。やどりさんの柔軟剤の匂いが、ピアノの音に混じって、空間を満たしていく。

 ショパンの英雄、リストのラ・カンパネラ、モーツァルトのキラキラ星変奏曲。

 スラスラと作曲家と曲名を答えれば、やどりさんは楽しげにうなずいた。

「光ちゃんの思い出に入れてもらえて、嬉しい」


 ポーン、とピアノの上をかけていく夢を、その美しい指を、私は追いかける。

 最後の残響が、雨音に混ざって溶けて、消えていく。

「リストの、愛の夢」

 やどりさんはふっと柔らかな、花が開いたような笑みを浮かべる。

「まだ、止まないね」

 雨は、降り続く。

 しとしとと長く、果てしなく続くピアノの五線譜のように、まっすぐに、細く。

「次は、やどりさんの曲が聞きたいな」

 私のリクエストに、やどりさんは「別料金になります」とおどけた。

 だが、すぐに白鍵と黒鍵の上に指を置いて、トーン、と軽やかに一音目を鳴らす。


 雨宮宿の、雨粒に光は宿る。


 いつか、私が願いをかけたあの日の雨が、今日も外には降り続く。

 ピアノの音が、あたたかくて、優しくて、雨の音みたいに世界を包む。

 ――私たちは、この世界で二人きりみたいだ。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。

憂鬱になりがちな雨の日が、このお話を通じて、少しでも楽しくなったな、と思っていただけましたら嬉しいです。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 5/5 ・やばいですねこれ。私の好みです [気になる点] 「雨粒みたい」ですねもう、思い出 [一言] 素敵な小説をありがとうございました
[良い点] 素敵なお話でした。 「たまたま、拾ってもらっただけですよ」 という言葉は、作中で表現されている❝仕事として能力を拾ってもらった❞という意味だけでなく、 大雨の中にもかかわらず光の耳が、宿…
2021/05/29 15:01 数屋 友則
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