一時でも、思い出の価値は
「……勉強、するんじゃなかったの?」
音が鳴りやみ、私はやどりさんの声で我に返る。あまりにも綺麗な音で、私はすっかりやどりさんのピアノに聞き入っていたのだ。
「なんか、感動しちゃって」
私が素直に言葉を吐き出せば、やどりさんは少しだけ驚いたように目を見開く。やがて、それはふわりと花が開くような笑みに変わった。ほころぶ、とはこのことか。
「天然人たらしだねぇ」
やどりさんは照れ隠しか、視線を合わさなかった。ピアノの上にのせられていたいくつかの楽譜を広げ、再び白鍵と黒鍵の上に指を置く。
私が勉強を再開すると、やどりさんのピアノもそれに合わせて音を並べる。
優しくて、穏やかで、美しい。雨が外界を遮断して、この世界は私たち二人だけのものになる。
シューマンのトロイメライ、ショパンのノクターン、サティのジムノペディ、ベートーヴェンの悲愴。
やどりさんは、弾き終わると私に曲名を教えてくれた。作曲家の名前も。テストもないのに、私はそれを忘れないように、ルーズリーフのはしに書き留めた。
どれも、落ち着いた曲ばかりだったけど、やどりさんが私のことを考えて、勉強の邪魔にならないような曲を選んでくれたのだと思う。
ピピピ、とその場に似つかわしくない音が鳴り、いつの間にか勉強に集中していた私も、ピアノを弾いていたやどりさんも顔を上げた。
「乾燥が終わったみたい」
やどりさんは、演奏する手を止めて立ち上がる。パタパタとフローリングをかけるスリッパの音が、先ほどまでのリズムを引きずって刻む。
私はスマホの電源ボタンを押して、時間を確かめた。雨が降っているせいで、空の様子も分からず、ずいぶんと長居していたみたい。
「雨は弱くなってきたけど、バスが来るのはまだ先だし、家まで送るよ」
私の制服を抱えたやどりさんの笑顔が、寂しそうに見えたのが、私の勘違いでなければいい、なんて。
制服からは、やどりさんの貸してくれた服と同じ、柔軟剤の匂いがした。
「そうだ」
私はスマホを取り出して、なんてことのない、コーヒーが入っていたマグカップへスマホを向けた。
「記念」
パシャ、とスマホのシャッター音が響く。
「光ちゃんの思い出に入れてもらえて、嬉しい」
やどりさんの声に、雨の匂いがした。
*
やどりさんのカーステレオからは、やはりピアノの曲が流れてきていて、よほど好きなのだな、と思う。
車のガラス窓を打ち付ける雨音が、ピアノの音の粒に重なる。
時折響く、車のワイパーがフロントガラスにこすれる音や、ウィンカーの音でさえ、なんだか心地良かった。
ドビュッシーのアラベスク、ショパンの舟歌、ラヴェルの水の戯れ。
道中も、やどりさんは、曲名と作曲家の名前を私に教えてくれた。いくつか会話もしたけれど、後からはあまり思い出せないようなものばかりだ。
家の近くまで着くころには、雨もすっかり止んでいて、
「台風一過だね」
とやどりさんは笑った。
車の窓の向こう、灰色の分厚い雲の隙間に、チラチラと明るい星が見えた。
「ここで、大丈夫です」
私が声を上げたところで、やどりさんはカチカチとハザードを焚いて、車を路上脇へと寄せる。
「本当に、ありがとうございました」
私が頭を下げれば、やどりさんは「どういたしまして」とあの柔らかな笑み、穏やかな声を私に向けた。
「私も良い気晴らしになったよ」
やどりさんは、またお店に来て、とは言わなかった。
車内にかかっていた曲がちょうど終わり、やどりさんが私を見つめる。
「リストの――愛の夢」
私の思いが雨粒に宿って、小さくきらめく。
やどりさんも、少しくらいは雨に濡れてくれればいいのに。
私は、曲名を心の奥底にメモして、車を降りる。
それじゃ、とやどりさんの車が走り去る音と、車が水たまりを跳ねる音の隙間、かすかにピアノの音が聞こえた気がした。
家まではすぐそこだったけれど、私はわざとゆっくり歩いた。
制服を濡らす雨は、やどりさんの言うように気持ちが良くて、けれど少しだけ、やどりさんのピアノの音みたいで、寂しかった。