コーヒーとピアノ
教科書を乾かし終えたころには、コーヒーも随分とぬるくなっていた。入れたてがおいしいんだから、という友人も今日はおらず、のんびりとぬるいコーヒーを味わう。
やどりさんは、ルーズリーフと一緒に持ってきた楽譜を眺めている。
「それ、なんの曲ですか?」
「月の光。ドビュッシーだよ」
聞いたことのあるような、ないような。クラシックなんて、音楽の授業くらいでしか聞かない。その授業だって、体育を選択している私には専門外。だから、音楽の授業自体、中学の記憶で止まっている。
コーヒーをすすりながら、ペンを動かす。やどりさんが入れてくれたコーヒーはおいしかった。良しあしなんてものは分からないけれど、飲みやすくて、すっきりしてて、あんまり苦くない。
「このコーヒー、おいしいです」
「良かった。最近の子は浅煎りが好きだって、この間テレビでやってたの」
浅煎りがなんなのかはわからなかったが、最近の若い子、なんて言うやどりさんがお年寄りくさくて面白い。
「やどりさんって何歳なんですか?」
「二十八かな?」
「なんで疑問形?」
「大人になると不思議とね、自分の年齢を忘れちゃうのよ。祝ってくれる人がいないからかもしれないし……忙しくて、誕生日なんて忘れるからかも」
つい最近、友達に誕生日を祝ってもらったばかりの私には理解できない話だ。けれど、私の両親が「年を忘れた」と事あるごとに言うのは、はぐらかしているのではなく、本当かもしれないな、とは思う。
「まだ二十八なのに、最近の子とか言うのお年寄りみたいです」
言ってから、失礼だったと気づいたが、やどりさんは気にしていないようだ。
「もう、二十八だよ」
あっという間にね、とやどりさんはつけ加える。
「私、大人になりたくないです」
「わかる」
やどりさんは、もう立派な大人なのに、私の心からの声に同意した。
「その髪、自分でやったの?」
やどりさんは、私に勉強する気がないとわかったのか、それとも楽譜を眺めるのに飽きたのか、楽譜をたたんでおしゃべりを再開した。
「ううん、ヘアモデルのバイトで」
「へぇ、すごい」
「別に、普通ですよ。知り合いの美容室で、バイト兼実験台的な」
「でも、よく似合ってる」
ふ、と微笑むやどりさんの髪が、さらりと耳元で揺れる。
グレーがかった色素の薄い瞳も、ブルーが混ざったような黒い髪も、綺麗だなって私は思う。カラコンでもない。染めてもいない。着飾って自分を偽っていない。
楽器をやってる人が格好良く見えるってやつは、ピアニストだと美人に見えるのかもしれない。
やどりさんの指も綺麗、なんて眺めていると、やどりさんが私のネイルをひとしきり褒めてくれた。私は、ネイルがなくても美しく整えられていて、ほっそりと白い、お手本みたいなやどりさんの指が羨ましい。
やどりさんが思い出したように口を開く。
「光ちゃんは、何になりたいとかあるの?」
大人が好きな質問だな。そう思った。
私とやどりさんは、あんまりにも違う世界の人間だ。
「いや、私は……別に」
私には、何もない。空気読んで、友達と騒いで、それだけ。流行に敏感な今時の女子高校生っていうステータスだって世間から与えられた借り物だ。
唯一誇れるのは、たまにSNSを見た知らない人が、かわいいですね、とか、おしゃれですねってリプライを送ってくれるくらいなもので。でも、だからって芸能人になれるわけじゃない。
私が視線をさまよわせれば、やどりさんは「そっか」と小さく呟いた。
「私も、なかったなぁ。しかも、私にはピアノしかなくて」
ピアノが弾けるなんてかっこいいと思うけど、やどりさんには違うようだった。
「ピアノの練習があるからみんなと遊べなくて、光ちゃんみたいに青春してるって感じの子がうらやましくてさ。大学も音楽推薦だから、勉強もからっきしだしね」
「やどりさん、なんでも出来そうなのに」
「それは嬉しいな。でも、大人だからって完璧じゃないよ。大学卒業して、オーケストラに所属したり、ピアニストで頑張ったりもしたけど……結局、今はこれだもん」
冗談みたいに笑ってから、やどりさんは私のことをまぶしそうに見つめた。
「お金とか、どうしてるんですか?」
「貯金と、村の人たちのささやかなお礼で」
一応、畑もやっている、とやどりさんは窓の外を指さした。家庭菜園だって。
「貯金って、そんなにたまりますか?」
バイトはしているが、私の口座はいつもギリギリだ。友達付き合いとか、自分の趣味とか、そういうものに消えていく。
「たまたま、いいところのオーケストラに拾ってもらったおかげ、かな?」
謙遜なのか、事実なのか。やどりさんのピアノは素人でも上手だと思ったから、多分、謙遜だけど。
「ピアノ、弾いてもらえませんか?」
「え?」
「私、普段は音楽聞きながら勉強してて。何か音がないと落ち着かないっていうか」
私のお願いに、やどりさんは「今時の曲とか知らないよ」と不安げだ。
「いいです。なんでも。やどりさんの好きな曲とか、さっきの、月の光? とか」
私がやどりさんの方へ楽譜をずいと寄せると、やどりさんは諦めたのか、
「ここからは、別料金になりまーす」
と冗談めかして宣言した。
「おいくら万円ですかぁ?」
「なんか言い方が古いよ、光ちゃん」
「やどりさんに合わせたんですよ! 若者言葉、伝わんないでしょ」
他愛もないやり取りが心地よかった。
私は、ふにゃふにゃになった教科書を広げ、問題と向き合う。
「それじゃ、失礼して」
改まったように咳払いを一つすると、やどりさんはピアノチェアに腰かけて、楽譜と向き合った。
ポーン、と一つ、音が鳴る。
雨音に混ざり、溶けて、泡のように浮かび――音は輪郭を持つ。
弦に弾かれて空気に触れた途端、やどりさんの指からその姿を顕在させる。
雨をスロー再生したように、透明の水晶のように、構造色によってさまざまな色に変化する真珠のように。やがて、夜空を瞬く無数の星々のように、空間を満たしていった。
蛍の光が明滅するみたいに弱く、フラッシュみたいに強く。花火のように華やかで、揺れるろうそくの火みたいに儚く、時にはガラスをたたきつける外の風みたいに激しく。
月の光、ドビュッシー。
私はその旋律を、一生忘れることはないだろう。