雨宿りは光の中で
「ありがとう、ございました」
私よりも背が高い女性の服は、腕も、足も丈が余った。だぼだぼの袖や裾を引っ張って持ち上げたけれど、サイズが合っていないことは一目瞭然だ。他人の家の柔軟剤の香りがまた落ち着かない。
「あったまった?」
「はい、ありがとうございます」
女性は、私のふやけた教科書にドライヤーを当てている所だった。ブォォ、と遠慮なく響くドライヤーの音が、外の雨音をかき消す。
「えっと、その……」
私が所在なく視線をさまよわせれば、女性は首をかしげた後「あぁ!」と声を上げた。
「ごめん! もしかして、私、大事なこと言ってない⁈」
彼女はドライヤーのスイッチを切ると、慌てて玄関先――靴箱の上に置かれた小さな名刺のようなものを差し出した。
「ようこそ。古民家カフェ、雨宿りへ」
渡されたカードには、『古民家カフェ 雨宿り』の文字と、紫陽花を模したようなQRコード。受け取れば、カサリと紙ずれの音がした。
女性を疑う気持ちが消える。同時に、今しがた消えた空白を罪悪感が埋めていく。
「その、別に疑ってたとかいうわけじゃ」
「いやいや、疑うよね? あなたみたいに若い子なら、なおさら」
女性の方も、謝る私に苦笑した。
「こんな台風の日に、まさかお客さんが来るなんて思ってなかったから……私も慌てちゃって。驚いたでしょ。ごめんね」
人間、パニックに陥っているときに正常な判断ができないのは――彼女の場合、最善の行動ではあったが――大人になっても同じようだった。
「私は、ここの店長、っていっても私しかいないんだけど。雨宮宿です」
「雨宮、さん」
「宿でいいよ。みんな、そう呼ぶの」
みんな、とは誰のことだろうかと思ったが、「やどりさん」と私が呼べば、女性は満足げに目を細めた。
「もしかして、雨宿りって……」
私がショップカードとやどりさんを見比べると「安直な名前でしょ」と、やどりさんは笑う。コロコロと鈴の音みたいな笑い声だ。
「カフェっていうよりバスを待つ人の休憩所、みたいな感じだけどね」
やどりさんは穏やかに言って、再びドライヤーにスイッチを入れる。
「私やります。自分のなんで」
「そう? じゃ、コーヒーでも入れようか。飲める?」
「一応」
女子高生の間でカフェ巡りがちょっとしたブームになっている。やっぱり私もその一部で、先日コーヒーデビューを果たしたところだ。いまだに違いとかはよくわかんないけど、コーヒー豆を挽く音とか、お湯をカップに注ぐ時の音とか、コーヒーの泡がはじける音とか……そういうのは好きだ。
やどりさんはコーヒーを入れる間、私はドライヤーで教科書を乾かしている間。
私の緊張をほぐすためか、やどりさんは話を続ける。
「ピアノが好きでね。でも、都会じゃ騒音だなんだって、自由には弾けないでしょう。だから、ここを安くで譲ってもらって、リフォームしたのよ」
最近流行りの、リノベーションってやつだ。天井から下がっている、星みたいな形をした間接照明はその成果か。
「最初はただ、ピアノを弾くために借りたんだけど、バス停まで聞こえてたみたいで」
コポコポとお湯を注ぐ音が、ドライヤーの音の隙間に聞こえる。
「そのうち、バスを待ってる人が遊びに来てくれるようになってね。それなら、ってカフェを始めることにしたの。みんな、お金やら野菜やらを好き勝手置いていくもんだから」
その時のことを思い出したのか、やどりさんはクスクスと笑った。
思っていたより、気さくな人だ。落ち着いていて、穏やかで、私なんかよりもよっぽど大人びて見えるのに。笑うたびに肩口のあたりで揺れる髪も、全然着飾ってなくて、でも綺麗だった。
私の視線に気づいたやどりさんが肩をすくめる。
「ごめん、私ばっかり話してるね。年を取ると、おしゃべりになっちゃうみたい」
「いえ! いい、と思います」
私が愛想笑いを浮かべれば、やどりさんは私を見つめて、何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、名前、聞いてなかったね」
私の方こそ怪しいやつである。やどりさんはそんなこと思わないだろうけど。
「音田光です」
「音田さんか」
「光でいいです。みんなそう呼ぶから」
やどりさんの口ぶりを真似てみれば、やどりさんはクスクスと笑った。
「わかった。光ちゃん」
大人の人にそんな風に呼ばれたのは初めてで、私の名前を呼ぶやどりさんの声が妙にくすぐったかった。
「どうして光ちゃんは、こんな台風の日に、こんなところに?」
「バス、寝過ごしちゃって」
変に家出だなんだと勘繰られたり、騒動になったりでもしたら大変だと私は素直に答える。恥ずかしいことだったけど、やどりさんは笑ったり、バカにしたりしなかった。
「それは災難だったね」
ただ、そううなずいてくれる。大人だな。
「普段は自転車通学なんですけど、今日は台風だし、バスにしたんです。寝過ごして、結局濡れちゃったんですけど」
「バスとか電車って、気づいたら寝ちゃうよね」
今日は雨音も気持ちがいいし、とやどりさんは窓の外へ視線を向けた。
トントン、パタパタ。ポツポツ、ザァ――
確かに、さっきまであんなに早く消えて欲しいと思っていた雨音も、やどりさんと聞く雨音だからか、無性に心地よかった。
「どこから来たの?」
「桜野です」
「桜高生か。桜野からここまで一時間くらいだから……よっぽど疲れてたのね」
「テスト前なんで、寝不足っていうか」
「そっか。中間考査の時期だもんね」
だから今日は、いつもなら友達とカラオケに行ったり、映画に行ったり、買い物に行ったりするのに……そんなこともせずに、まっすぐ帰ろうとしたのだ。そんな日に限ってこれだから、人生ってうまくいかない。
テスト前だった、ということを思い出し、私は憂鬱な気持ちで「あぁー」とうなだれる。
来年には受験が控えている。楽しいのは今のうちだぞ、と大人は脅す。そんな楽しい青春を奪っているのも、先生たちみたいな大人じゃん、と思うが、そうもいってはいられない。
現実は甘くない。生きるのに必要なお金を稼ぐためには働かなきゃいけない。その就職だって、良い大学をでなければそう簡単にはさせてもらえない。
「たまには息抜きも必要だから」
やどりさんが、机の上にマグカップを置く。コトン。都会の喫茶店で聞くよりも重たい音がした。どうやら、コーヒーをたっぷり入れてくれたらしい。
「ルーズリーフ持ってきてあげる。洗濯が終わるまで勉強するでしょ?」
息抜きも必要と言った直後に、勉強を、というところは大人だ、と私は思った。