雨粒は、いつもと違う世界を運ぶ
トントンと窓をたたく音が心地よかった。
その心地よさに身を預けていた私は、やがてその意識を覚醒させ――ガバリと体を起こす。
バスは、見たこともない山中を走っている。豪雨ににじんだ緑は、私の知る町の色彩からかけ離れていた。つまり、完全に寝過ごした。
「やば!」
スマホをタップすれば、画面右上に『圏外』の二文字。
パニックに陥っている人間の頭というのは、総じて正しい判断をはじき出せないものである。
私はすぐさま降車ボタンを押し、停車したバスから飛び降りる。
――近くに、逆方向へ行くバス停があるはず。きっとすぐに町の方へ戻るバスが来る。
木造のバス停。その屋根から滴り落ちる雨粒を避けながら、あたりを見回す。だが、土砂降りの雨に視界は遮られ、何も見えない。走り去ったバスが水たまりをはじく音だけがむなしく耳にこびりついた。
「今日は関東に台風が上陸し……」
今朝のニュースを思い出し、私はため息を一つ。
「傘忘れた!」
「台風くるって言ってたじゃん」
「どうせ大した雨じゃねぇって」
「うそぉ、絶対やばいよ」
「光は? バス?」
「うん。今日はさすがにね。てか、バスきちゃう! じゃぁね!」
と別れた友達との会話を思い出して、私はため息を二つ。
「最悪」
いつもリュックに入れているはずの折りたたみ傘も今日はなく、バスどころか、車一台通らない。
雨は時間と共に激しさを増し、雨露に濡れた私の体はだんだんと熱を失っていく。
「さむ……」
――死。
そんな言葉がフッと私の頭をよぎる。
「なんとかなる、よね?」
悩んでいてもしょうがない。どうせ後悔するなら、行動を起こしてからだ。
私は、神に祈るようにバス停を飛び出し、一か八か、バスが走り去った方角とは逆の――町があると思われる方角へと足を踏み出した。
バシャバシャと、コンクリートに溜まった水をスニーカーがはじく。リュックにつけたキーホルダーの金具がかしゃかしゃと音を立てる。負けじと激しい雨音。
「もうっ!」
自分がバスを寝過ごしたせいだが、だからこそ、余計にイライラが募る。とにかく、何かに向かって悪態をつかなければやっていられない。
肌に貼りつく制服の感触も、ぐしょぐしょになった靴下も気持ち悪い。今日のマスカラはウォータープルーフじゃない。
いろんな理由があるけれど、いつもよりもうんと暗い視界と雨音が、気持ちまでも暗くさせる。
何分ほどそうして走ったか分からないが、一つ手前のバス停が見えた時には、思わず喜びの声が漏れた。さすがに、ガッツポーズをするほどの余裕はない。
「まだ、走れる」
水を吸って、服もリュックも、靴も重い。だが、足は止められない。
――不意に、私の耳にピアノの音が飛び込んだ。
降りしきる雨によって千切りにされた世界の、その隙間を埋めるような音。
私が顔をあげると、田んぼと畑の並びに小さな明かりが見えた。足を動かすほど、明かりは大きく、鮮明なものになる。やがて、雨だれの向こう側に一軒の古民家の姿が浮かび上がる。
私は、古民家の中でピアノを弾く女性の姿に、ようやく足を止めた。
雨音に混じるピアノの音は、驚くほど透き通っていて、美しかった。
「いらっしゃい」
ピアノを弾いていた女性の瞳が印象的で目についた。ピアノの白鍵と黒鍵を混ぜたようなグレーがかった瞳。
和音の残響が止み、雨音と、やけに早い私の鼓動が響く。
女性は私の様子に「そこで待ってて」と、ピアノチェアから慌てて立ち上がった。パタパタと女性のスリッパがフローリングにぶつかる音が、玄関先の窓を打つ水滴の音に調和した。
ピアノの、黒くツヤのあるボディに、ズブ濡れになった自分の姿が映る。
明るく染めた髪は、水を吸ってその色をくすませているし、朝必死に巻いた髪も、もう意味を成していない。ぐしょぐしょのリュックも、制服も、自分を惨めに見せる。
泣いてしまいたくなるほど最悪で、笑ってしまいたくなるほど滑稽だった。
「大変だったね」
私のやるせなさを払拭したのは穏やかな女性の声。女性は真っ白なバスタオルをこちらへ差し出していた。
「これ使って。中、上がりなよ。あ、そこから土足厳禁だから、靴は脱いで上がってね」
女性が指さしたのは、私の一歩先にある敷居。あぶな。言われなかったら踏んでた、と私は一歩のけぞった。
靴を脱ぐよりも先に、差し出されたタオルを受け取っていいものか、と思案する。
いくら田舎といえど、今時、知らない人を家にあげたりする? 同性だからだろうか。
「早くしなきゃ、風邪ひくよ」
随分と手慣れた様子の女性は、私の戸惑いの先を行く。そして、死ぬことはなさそうだと安堵する気持ちと、どうしてと訝しむ気持ちに折り合いがつかないままの私を、どこまでも置いていく。
「後からお金を請求しようとか、取って食おうとか、そんなことは思ってないから安心して」
まさか、と慌てて否定したが、言われてからでは遅い。
私は渋々、タオルを受け取る。ふわりとした手触りと、太陽の匂いが優しく私を包む。タオルがほんのりと暖かい気がするのは、私の体温がそれほどまでに下がっている、ということか。
素直にお礼を言えば、彼女は人好きのする笑顔で私の謝辞を受け取った。
「靴はそこね。リュックはこっち。中は開けても平気?」
私は、言われるがまま靴を玄関脇の棚へしまい、差し出されたかごにリュックを入れる。女性はリュックから、すっかりふやけてしまった教科書を出していく。
「乾かしておくから、先にお風呂入ってきなよ。お風呂は廊下の突き当りを右。洗濯物は洗濯機に入れておいて。服は後で私のものを持っていくから」
「でも……」
遠慮の意味だったが、女性はそれを取り違えたようだった。
「大丈夫。乾燥機付きだし、二時間もすれば乾くよ。せっかく体を温めても、濡れた服じゃ風邪ひいちゃうでしょ」
柔らかな物言いだが、かなり強引。有無を言わせぬ、というか、ペースに引き込まれる、というか。優しい人だとは思うんだけど。
不自由しない程度の町に生まれて、隣の家の人の顔も知らなくて、でも、ネットでいろんな人とつながっていて、芸能人とかにだってSNSでリプライを飛ばせちゃうような私には、馴染みのない人種。
さすがにそんな私にだって、警戒心くらいはある。だが、私は結局その女性に押し切られて、あたたかな浴槽に体を沈めるのだった。