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死亡希望者の想い

作者: 沼野雷菜


自殺でも、他殺でも、病気でも、事故でもいい。


ただ、この世界からいなくなってしまいたかった。


だから、私は今日も死にたいってつぶやく。



私は苦しいことが嫌いだ。


何よりも。生きることよりも、死ぬことよりも、嫌いなトマトを丸かじりするよりも、蝉の死骸を踏みつけるよりも、苦しむことが何よりも嫌なのだ。


生きるのは苦しい。(しがらみ)が多すぎるから。


苦しみ続けるのは辛い。


死ぬのは怖い。経験がないから。


死ぬ苦しみは、この先の生と比べれば一瞬だろう。


だから、死ぬほうがマシだ。


人はみんな、生きて苦しみ続けるか、苦しんで死ぬかの選択肢を選べる。すぐに終わるのは死ぬ方だ。若く健康なら特に。


生きるか死ぬか、2つしか選択肢がないのだから、死にたいって主張することの何が悪いのだ。


私がおかしいのか、世界がおかしいのか。



せめて、人権の尊重を声高々に謳うのなら、人の権利として、自死の制度や安楽死という選択を増やすべきだろう。


健康な人だろうと、自分の意志で生きるか死ぬか決められるのが、人権や平等、道徳などではないのか。


生きることは推奨し、死ぬことは推奨されない世界の方がおかしくないか。それは死にたい人への差別ではないのか。


他人の生死は決められないだろう。でも自分の命の終わりさえ決めさせてもらえないのは、筋が通らないのではないか。


そして「長生きしたくてもできない人もいるのに、自分の命を大切にしないとは何事だ」という主張は間違いだろう。


なぜ、他人の命と自分の命を比べなければならない。比べていいものではないだろう。自分の命を生かすか絶つかの選択権はある。しかし、他人の命と自分の命を天秤にかける権利など、私にはないのだ。


私が病気で死ぬか、病気に殺される前に自死を選ぶかは選択できる。


不慮の事故という天命という名の寿命で死ぬか、なんでもない日に自死を選ぶかは選択できる。


「本当は生きたかったのに病気や怪我や事故で死んでしまった人もいる」のは別の事実であって、別の人の生死までを自らの命と比較するなんておかしいだろう。



もしもの話。


もしも、人間という生物が、生きることよりも死ぬことの方が圧倒的に難しい生き物だったなら。


もし、そうだったとしたら、きっと、死ぬことは美徳とされていただろう。


うまく、苦しまず、美しく、面倒なことはなく、死ぬシステムができるだろう。死亡手当なんかも出たりして、まだ生きてる家族などに渡るのだ。


ここまで死が忌避されることはなかったんだろうと思う。



それから、私が生きたいと思うのは、私に都合のいい世界だけだ。


死にたいとは思っても、生きていたい、生きていきたいと思うことはない。いつ死んでもいいとは思っても、いつまでも生きていたいとは思わない。


それはこの世界が私にとって、不都合なことがたくさんあり、とても苦しいからだ。


金に困らず、愛に困らず、生活に困らず、人間関係に困らず、娯楽に困らず、悩みなんてないまま、幸せに自由気ままに暮らしていけるのならば、もしかしたら死にたくないと思うのかもしれない。


そんな世界でなければ、私が死にたいと思わない日は来ないのだ。


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