後編
この一瞬でこの婚姻についてのあれそれを全て思い出した。起きながら夢を見たような感覚で現実逃避をしていることを自覚する。何をどう申し上げれば良いのか、もう一度考えてみたが結局良い言葉も話術も思いつかず途方に暮れた。しかしそれは王も同じだったようで、顔を片手で押さえながらもう片方の手のひらを何故かこちらに向けている。
「いや、その、すま、すまない。今のは間違いだ、いや、貴女が愛らしいのも傍にいて欲しいのも間違いではないが、そうでなく、間違いだ。あの」
「陛下……?」
「ここ数日、仕事がたまっていたのと今日が楽しみ過ぎて眠れなくて、だな。頭が回っていなくて、いや、その、あの」
「あの」
「怒鳴って申し訳なかった。しかし決して悪いようにはしないし、貴女の望むものなら何だって手に入れてみせるから、離婚だけは勘弁してくれ…!」
将軍王と言われた人が扉の前でわっと泣き出してしまった。奉仕活動で赴いた児童施設の子どものようだった。伝え聞いていた恐ろしい将軍王など架空の存在であるように思える。どうしようもなくて衝動のままに、はしたなくも裸足のままベッドから飛びおり夫となった人を抱きしめた。
「離婚なんて致しません、だからどうか泣かないで下さいませ」
「泣いてない……!」
「ええ……?」
「俺は、泣いて、ない!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめ返されて身動きがとれない。泣いてないと言いながら泣く男性のあやし方など習ったことはなかった。とりあえず、子どもにするように背を撫でてみる。更に腕に力が込められて苦しいくらいだったが痛くはないので、手加減はされているらしい。
「陛下、あの」
「泣いてない」
「はい、陛下は泣いていらっしゃいません。ですが、大変お疲れのご様子です」
「ヴァルだ」
「え?」
「俺は、ヴァル・ルミエールという。…本来はただの田舎者で、剣を振るうことしか能がない男だが何故だか今は国なぞ持っている」
すんと鼻を鳴らした夫がきゅうに私を抱き上げた。驚いて声もあげられず咄嗟にしがみつくと、昼間に抱き上げられた時と同じように顔が近くなってまた胸が騒いだ。夫はそのままずんずんと大股でベッドまで歩いたかと思うと、壊れやすい陶器の人形でも扱うかのようにそっと私を座らせて自身も隣に座った。言葉が出ず、お互いに何故が扉の方を向いてベッドに座り込む私たちは他人の目からはどう見えるのだろう。
「……」
「……」
「……三年前」
「え、あ、はい」
「三年前、俺は貴女を見た」
「……え?」
「女学院の慰問でダルダ王国の教会に行っただろう。それを、見た」
「あ、ああ、はい、そうですね。参りましたが、陛下にご挨拶は…」
「あの時は、その、ダルダに攻め込む準備段階の視察だったから、声などかけられなかった」
夫は赤い目元をそのままに言いづらそうに話し出した。確かにダルダ王国という国には学生時代に慰問に行ったことがある。生国では貴族の学生や子どもが慰問で様々な国を訪問し楽器を奏でたり歌ったりするのが慣わしとなっていた。私もいくつか国を巡りその一つがダルダ王国だったのだが、かの国はこのルミエール王国に攻め入られ消滅している。
「いや、そうでなくとも声などかけられなかっただろう。貴女は貴族令嬢様で俺は当時ただの田舎将軍だったから、ぴかぴかに光っている俺じゃ到底価値も分からない宝石みたいな人なんて畏れ多くて」
「そんな」
「けれど何人もいた女学生の中で貴女だけがずっと忘れられなくて、その、調べ、させて」
夫は前かがみになって片手で顔を覆ってしまった。耳と首元が赤いのはきっと気のせいではないし、私もそのあたりが熱い。
「……気持ちが、悪いだろう。貴女には婚約者がいたことも知っていた。知っていて、俺は。貴女を横から攫ったんだ」
「それは……」
「後悔はしていない、反省の気持ちもわかない。貴女に嫌なことを強いたことは理解しているからそれだけは申し訳なく思うけれど、それ以上に貴女がここにいてくれることが嬉しい」
「……」
「まるで絵本に出てくる悪者のようだ。けれど、貴女を勇者やら王子やらに返すつもりもない。さっきも言ったが、貴女には俺が死ぬまで隣にいてもらう」
何だかとてつもなく恐ろしいことを言われている気がするのに、この胸の高鳴りに嫌悪を感じられない。指と指の間からこちらを鋭く射貫く視線もきっと恐怖の対象であるべきだろうに、小刻みに震えている指先の方や赤いままの目元が気になってどうしようもない。私はどうかしてしまったのだろう。こんな、今日初めて会った人なのに。
「はい」
「嫌だと言われたって、返す気は」
「お側におります、ずっと」
「な、い……? え?」
「末永く、どうぞよろしくお願い致します」
「え゜」
がばっと起きた夫は横に長く薄く口を開けて、信じられないようなものでも見るように私を見た。私ですら自分を信じられないので、その表情には納得できるがあからさま過ぎはしないだろうか。
「え、あ……え? あ、ああ…。ああ、貴女は生まれながらに貴族だからな、そうか、そうだな。俺は、その助かる。助かるが、嫌なことは嫌だと言ってもいいと思うぞ」
今度は呆れたような声を出す夫に私も少し呆れてしまう。自身で連れて来ておきながら、しかも返さないと言っておきながら嫌だと言っていいとは支離滅裂である。
「貴族として政治的な意味合いがないとは申しません。でなければわたくしはここに来ることなどなかったでしょう」
「ああ、そうだろう」
「ですが、今、決心がつきました。わたくしは陛下のお側で一生貴方をお支え申し上げます」
「いや、え? え? あ、ああ、そうか、そう言えと言われたのか? だ、大丈夫だ。返す気はないが、無体を働くつもりもない。誓って乱暴もしないし、あの」
「わたくしの噓偽りない本心でございます」
確かにこの状況を信じろというのも無理がありそうである。何故かわたわたと早口になる夫の手を握ってじっと瞳を見つめた。こんなこと元婚約者にだってしたことはない。ここに来るまでは多少の恐ろしさを感じていた、つい先ほどまで悲しくて仕方なかった。しかし顔を赤くして慌てているこの人に感じるこの想いはそのどちらでもない。
「どうぞ、わたくしを貴方様のお側において下さいませ。……お妃様としての教育は受けてはおりませんでしたが、小国とはいえ侯爵家跡取り娘としての教育は受けております。きっとお役に立ってみせますわ」
「それは、その、願ってもないが、な、なぜ……」
「何故、かしら。分かりません、けれど……。こんなに強く乞われたことなど、初めてで、貴方のその想いに応えてみたくなったのかもしれません」
「……貴女は、駄目な男に捕まりそうだ」
「し、失礼ですわ」
へちゃりと顔を歪ませて少しだけ笑った夫はやっと手を握り返してくれた。涙が僅かに目尻に残っているが、その表情にまた胸がぎゅうと締め付けられる。
「そう、だな。貴女がそんな風なら」
「ルチア、ですわ。わたくしの名前」
「……ル、ルチア、がそんな風なら、俺が悪い男に捕まらないように囲っていた方がいいかもしれない」
「若干の不名誉を感じますが、そうですね。わたくしが変な人に連れて行かれないようにずっと手を握っていて下さいませ」
口元が自然に綻んでいく。この人となら良い結婚生活を送れるのではないかと、根拠もない自信が湧いて来た。夫はまた口を少しだけ開いてぽかんとした後すぐにはっと手を握ったままま姿勢を正した。
「結婚初日から情けない所を見せてしまったが、ルチア。これからよろしく頼む」
「はい、ヴァル様。こちらこそよろしくお願いいたします」
「俺は田舎者だが、人には恵まれているし腕に覚えもある。……そのせいで因縁をつけられることもあるから国内外の情勢はまだきな臭い所もあるが、ルチアが安心して住める国を作る」
「覚悟の上でございます、わたくしも微力ながらお手伝い申し上げますわ」
「ああ、あの、ルチア。きょ、今日から、その一緒に眠ってもいいだろうか…?」
「え?」
「も、もちろん、指一本触れないし、決して疚しいことは!」
「何も、なさいませんの?」
「し! しないとも! 俺はそんな無作法者でも野蛮でもない!」
「え?」
「え!?」
―――
嫁いできて一ヶ月、段々とこの国の作法にも慣れてきた。作法というようなものではないと笑われてしまったが、TPOにあった立ち居振る舞いができてこそ淑女であると思うのだ。生国で行っていたようなテーブルマナーも煌びやかなドレスに身を包んでの夜会も無いけれど、無いなら無いで別段困らないと知った。
夫はあの恐ろしかった噂は何だったのかと思わせる程に気さくで、あれやこれやと世話をやいてくれる。きっと一ヶ月程度では人となりは分からないのだろう、ただ優しいだけの人が数多の国を手中に収められる訳がないのだから。けれど。
「ルチア、そこに段差があるから気を付けてくれ」
「ルチア、貴女は算術は得意だろうか……?」
「俺は子どもの頃からこれが好きなんだ。ルチアの口にも合えばいいのだが」
あの夜に確かに私はずっと手を握っていて欲しいとは言ったがこの一ヶ月、手を離されていた時間の方が短かった気がする。隣で嬉しそうに笑っている夫を見るとどうしても、こんなに四六時中一緒にいたいと言った訳ではないとは言い出せなかった。
国政に関わる機密事項などまだ私が知るべきではないのではと聞いても『王妃であるルチアが知って困ることなどない』と言って執務室にまで一緒に入った。確かに夫は計算や政に疎い場面が私の目から見ても多々ある。その度に進言をするが結局一番間違えてはいけない所は間違えないし、物事を決めることに躊躇はなく本質もきちんと掴んでいる。周りも彼のそういう所を信頼している節があった。
「ルチア、何か困ったことはないか? 欲しいものは?」
「……ヴァル様、困ったことも取り立てて欲しいものも今はございません。毎日そうお聞きにならずとも」
「いや、だが。もうルチアと俺が結婚して一ヶ月経つし、一ヶ月記念の贈り物をしたいんだ」
「い、一ヶ月記念…?」
困っていることは特にはないのだ。それは本当なのだけれど、この国の結婚に関する決まりごとの多さには少しだけ戸惑っている。今日も今また新しい決まりごとを知った。にこにこと笑いながら手を離さない夫に何と返してよいものか、毎回苦労する。
まず結婚して一年の間は子を成してはいけない。つまり私が最後まで習うことができなかったことをしてはいけない、ということだそうだ。もしそれを破れば新郎は木の棒で滅多打ちにされるらしい。その他にも新婦は毎日新郎の額に口付けて抱きしめなければいけないとか、週に一度新郎が新婦を抱き上げて新居を一周しなければいけないとか、四ヶ月に一度果物や花を二人で採って周りの人たちに配らなければいけないとか色々ある。新婚の内にのみ行うものもあれば、新婚でなくなった後から新たに行わなければならないものあるのだそうだ。破ったとしても法律上の問題はないが、白い目で見られるらしい。
夫はこれらが全ての国で執り行われていることだと思っていたらしく、生国や他の国々では聞いたことがないと伝えると特に結婚して一年以内に子を成すことに関しては絶句し『何て野蛮なんだ、獣か何かなのか、俺は絶対にそんなことはしない!』とまで叫んだ。ところ変われば、とは言うがそこまで衝撃を受ける程なのかとは問えないくらいには驚いていた。
少し落ち着いた夫はこれらは田舎の風習だったのだなと笑って、別段国民にそれを強いる必要もないだろうができれば自分たちはそうしたいと控えめに言うものだから一にも二もなく頷いてしまった。
「ふ、普通ならどのようなものを贈り合うのでしょう?」
「普通? ううん、猟師の家とかなら熊とか」
「くま」
「ああいや、熊と言ってもあれだぞ。毛皮で作った敷物とかコートとか」
「毛皮の敷物」
「後は靴だとか服とか、新婦の好物の果物の木とか」
「ええと、新婦の方は何をなさいますの?」
「そっちはあまり教えて貰えないんだ。俺の母は刺繍したとか好物を作ったとか言っていたが、他はなあ……」
「でしたら、わたくしもヴァル様への贈り物を考えておきますね」
「……楽しみにしている」
夫は嬉しそうに微笑んで、私の頬に流れていた髪を耳にかけてくれた。そのまま目の横に口づけられて喉に空気が詰まる音がする。恥ずかしいだけでないこみ上がる何かが、勝手に耳と首の熱を上げる。ああ、国家の課題も多くまだまだ安定はしていないのにこんな風で良いのだろうか。けれど、いつ始まるか分からない破滅の時を恐怖するより今ある幸福を感じていたい。
「それでは本日の政務を片付けてしまいましょう」
「ああ、うん。……ちょっと遠掛けしてからでも」
「先に済ませましょうね」
「はい……」
このペンを持つことが苦手な夫を執務室に連れて行くだけでも事務官たちには喜ばれる。そもそも国家としてまだ若い上に国土ばかり大きくなって信頼のできる人材がまだ少ない。であるから、王自ら直接下さなければならない指示も多かった。私もお勉強などしている場合ではなく全て実地で学んでいる最中だ。幸いなことに夫の養父は以前亡国の宰相をしていた経験があるらしく、よく相談に乗ってくれている。
「ルチア」
「はい、ヴァル様」
「貴女が側にいてくれるなら、俺は正しく王であろうと思う」
「はい」
「ただ、貴女がもし、いなくなるようなことがあれば」
「……あれば?」
「それこそ物語の魔王が出現するだろうな、そして勇者は現れないだろう」
「……」
執務室に行きたくないのか、夫はたまにこういう話をする。しかしたったの一ヶ月であるのにもう何となく慣れてしまって。
「もう分かりましたから、ほら参りましょう」
「……ああ」
「お仕事が終わったら、今日も遠駆けに連れて行って下さいますか?」
「ああ、今日は西の方に行こう」
昔に習ったエスコートではないが、手をつないで今日も一緒に執務室に向かう。想像もしていなかった日常であるが存外一つも悪くはない。大変なことも多いけれどこれはこれで、十二分に幸せだ。
次はヴァル視点を更新予定です。
読んで頂きありがとうございます。