前編
「国を興した? 確かにそうだ、けれど俺は必要なかった。だというのにあっちが勝手に喧嘩を吹っ掛けてくるから迎え撃っていたら、いつの間にか国土なんてものを持たなければならなくなったのだ。王になるつもりなど一欠片すらなかった。俺は将軍になれればそれでよかったのだ、貴族どもが下手を打たなければこんなことにはならなかった! 何故、剣の代わりにペンなど持たなければならん! 俺は田舎将軍で十分だったのだ!」
「へ、陛下……」
「貴女にはご不幸なことだろうがな! 俺にだって癒しが必要なんだ! 愛らしい貴女が悪いのだ! 一生俺の隣で癒しを提供してもらうからな!」
この何だかよく分からない宣言を初夜のベッドで聞かされた私は、一体どう振舞うのが一番正しいのかよく分からなかった。現実逃避なのか今までのことを走馬灯のように思い出されて不思議な気分になる。
―――
ほんの少し前まで私は音楽の都と呼ばれる小さな国で暮らしていた。遠方の諸外国がある新興国に侵略を受けているようだと噂になりだした頃、侯爵家の跡取り娘だった私は当時の婚約者から婚約破棄の打診を受けた。
『婚約を解消したい、と?』
『ああ、その、大変に言いづらいが、言わねば君も納得できないだろうから理由をきちんと説明する』
『お願いします』
『ルチア、君も僕も成人をした。このままいけば古くからのしきたりに則り結婚することになるだろう、しかし』
『しかし』
『すまない、僕は、君を』
子どもの頃から見知っている婚約者は、決して悪い人ではなかった。その人が苦虫を嚙み潰したような表情で頭を抱えながら本当に申し訳なさそうに言葉を紡いでいたのをよく覚えている。
『君を』
『わたくしを?』
『幼い頃から共に育った君を、どうしても、そういう風に見れないんだ……!』
『……はあ?』
ため息をではなく、疑問から変な声が口から吐き出された。貴族令嬢としては礼儀がなっていなかっただろうが、抑えることはできなかった。何を言っているのだろうという疑問符で頭がいっぱいでそれ以上何も言えなかった。
『この婚約は国と家が定めたものだ、僕だって君と結婚できれば侯爵位を戴ける。本来そうするべきなんだ、分かってはいる! 分かってはいるんだ!』
『……』
『君とは近々の血のつながりも無く、きちんと成人した他家のご令嬢だって知っている。頭では理解しているんだ……』
『……』
『でも、どうしても、君のことを可愛い妹、以外に見ることができない……』
顔を青くして項垂れている婚約者を前に、私は自分が泣き出したいのを堪えて何とか口を開いた。
『貴方の御父上にはもうお伝えなさいましたか』
『……ああ、馬鹿な事と怒鳴られてしまったけれどね』
『では、わたくしも、父に申してみます。どうなるかは分かりませんが』
『い、いいのかい?』
『そうまで言われて、どうしても結婚して欲しいと言うほど、わたくしは厚顔ではありません』
『ルチア、君は悪くないんだ! 僕が全部……』
『当たり前です! わたくしが悪い訳がありません! 全部、貴方が悪いのです!』喉までそう出かかって、それでも何とか飲み込んだ。相性というものがあるのだから彼が全て悪い訳でないのは理解していたけれど、貴族ならばそれを隠し通してでも結婚するべきなのだ。数年年上だった彼は昔からお兄さんのように接してくれる優しい婚約者だと、このままこの人と結婚するのだと信じていたものに裏切られてヒステリックに叫んでしまいそうだった。それでもこれまでの良好な関係が邪魔をして、彼がそこまで言うのならどうにかしてあげたいと思ってしまう。
『どう、なるかは、分かりません。それでも結婚せよと命じられれば、わたくしにはどうすることもできないのですから』
『それでも構わない、勿論僕が』
『わたくしから、申し上げます。今日は、もう帰って下さい。……一人になりたい』
『……本当に、ごめん。ありがとう、ルチア』
悪いと思っているのなら、黙って結婚してくれれば良いのにと口に上りかけた言葉をどうにか抑えて自室に下がった。人払いをしていた為に何も知らない侍女たちが『喧嘩でもなさったのですか、いけませんよ』とにこやかに諭してくるので、どうしようもなく情けなくてベッドの中で一人で泣いた。
どうやって父にこの話をすれば良いのか分からず、でも今夜話さねばと使命感に似たものを感じて身なりを整え両親の帰宅で騒がしくなった玄関ホールに向かう。
『――だ!』
『しかし――』
『――そんなこと』
いつもなら父だけが仕事に行く王城にその日は何故か母も呼ばれていた。今思えば、その時には既に決まっていたことだったのだろう。この時はどうして言い争うような声が聞こえるのだろうと少しの不安を感じながら両親に声をかけた。
『お帰りなさいませ、お父様、お母様』
『ルチア!』
『ああ、ルチア。お母様たちはまだお話が済んでいないの、部屋にいなさい』
『夫人これはもう王命として機能する言でございます』
『馬鹿を言うな、娘は結婚を控えているのだ。それを今更あんな所などに、我が侯爵家が今までどれだけ王家に仕えてきたと!』
『しかし侯爵!』
玄関ホールには両親の他に高位の貴族と近衛兵が数名立っていた。皆見知った人たちだ、中には親戚もいる。しかし話なら応接間ですればよいのにと、言いだせるような雰囲気でないことは確かだった。困惑した私が母の言う通りに部屋に下がろうとした時、一人の貴族が声をあげた。
『ルチア嬢、貴女に縁談話があるのです!』
『伯爵、貴様!』
『止めて!』
『お相手はかの新興国、ルミエール王国国王ヴァル・ルミエール陛下! 貴女を是非にと! 我らが王はこれを受けるおつもりです!』
しん、とあれだけ騒がしかった玄関ホールが耳に痛いほど静まり返った。問題はいくつもあったが大きく分ければ三つだった。まず私には後数ヶ月で結婚予定だった婚約者がいた。次に私はこの侯爵家の跡取り娘だった。最後にこれが一番のネックだったが、相手がヴァル・ルミエールであったことだ。ルミエール王国は生国からは少し離れてはいたものの、ここ数年で近隣の国々を掌握し国土を広げ続けている新興国だった。国王のヴァル・ルミエールは稀代の将軍王と呼ばれており、その稀に見るカリスマ性と策略で多くの国を圧倒し配下に入れたという。しかしこの時、私をぞわりと支配したのは恐怖ではなかった。
『わたくしを、是非にと?』
『ルチア、聞かなくていい!』
『ええ、どこで貴女をご覧になったかは分かりませんが、どうしても貴女が良いと』
『どうしても、わたくしが』
婚約者にあんな話をされたからだろうか、それとも夢見がちな乙女心だったのだろうか。私はこの時、確かに震えるくらいには嬉しかった。そして瞬時に問題点を思い浮かべた。長く婚約をしてはいたが、勿論清い関係であったし何なら昼間に振られてしまっている。侯爵家の跡取り娘ではあるけれど、親戚は多いのだからその内の誰かに継いで貰えばいい。そしてヴァル・ルミエール。例え戯れに殺されたとしても、その時だけでも私を私だけを見てくれるのならそれも悪くないと本気でそう思った。若気の至りかもしれない、冷静になってみると同じことが思えるかは分からない。でも本当に心から、ただただその人に嫁ぎたいとそうせねばならないと、貴族としてでなく一人の娘として願った。
『わたくし、参りますわ』
それからは怒涛の日々だった。家は物凄い騒動になったし、両親にも婚約者だった彼にも本当に行ってしまうのかと何度も聞かれたが迷いはなかった。王家や他の貴族たちも私が無理をして国を守ろうとしているのだと同情してくれ、それはそれは色々な物を嫁入り道具だと贈ってくれた。別に無理をしている訳ではなかったが、ここはそのようにして私が出た後の侯爵家をくれぐれもと約束を取り付けた。
両親は頭を抱えていたが、そもそも断れる縁談ではない。もし断ってかの王を怒らせでもしたらこんな小さな国はすぐに滅んでしまう。そんなことになればきっとその際には周辺の国々も巻き込んでしまうだろう。少なくとも今はルミエール王国とは良好な関係を築かねばならないという思惑のある各国もこの結婚を祝福していた。
『今生の別れ、ではないと思うのです。そんなに嘆かないで下さい』
『ああ、ああ、そうだな、ルチア。とても綺麗だ、生きてまた会えるさ』
『ルチア、可愛い子。急に決まってしまったことではありますが、貴女はこれから王妃様になるのです。しっかりと務めを果たして、でも、体には気を付けて……ああ……どうして……』
泣いてしまった両親を前に、何と親不孝をしてしまったのだろうと後悔をしたけれど別れのキスをして迎えの馬車に乗り込んだ。たくさんの申し訳なさと少しの期待とにじみ出る不安が入り混じってどうにかなってしまいそうだった。
ヴァル・ルミエールという人に会うまでは。
―――
転移魔法を使ってもルミエール王国の王都までは五日を要した。初めの二日間は生国と周辺国の騎士や侍従に護衛をされていたが、残りの三日間はルミエール王国のそれに代わった。普通なら別の国に嫁ぐといっても両親が付いて来たり、正式に結婚するまでは生国の者に世話をして貰うのがしきたりではある。しかし国土を広げた際の戦によってまだ整備途中の場所が多くあるとあちらの国に言われてしまっては誰も何も言い返せはしない。少しだけ、乱雑な扱いを受けたらどうしようと思ってしまったが、ここまで来たのだから覚悟を決めねばと身構えてしまった。結果は。
『おひいさん、何か不都合はありませんか』
『何でも言って下さいね、何かあったら俺たちが王様に殴られるんで』
『あ、女の人もいますよ。呼んできますね』
と、あれやこれや世話をやいてくれて非常に快適だった。生国のそれとは違うが、彼らなりに丁寧に扱ってくれていることがよく分かる。言語に多少の訛りがある者もいたが決して聞きづらいことはなく、むしろ必死に言葉を並べてこれは通じますかと屈強な体を縮めてわたわたする姿は子どものように愛らしかった。隊には女性も数名いたが、私が生国で会った女性騎士たちよりも体格がよく傷も多く豪快に笑う彼女たちは、いつかに吟遊詩人から聞いた竜をも蹴散らす女性冒険者のようであった。
『おひいさん、着きましたよ。ここからは歩きです』
『長旅は初めてだったんでしょう、よく頑張ってくれました』
『あたしたちの王様は良い人だしめちゃくちゃ顔が良いから大丈夫ですよ!』
『でももし何か嫌なことされたら呼んでください、おひいさまの代わりに股座蹴り上げてあげるから』
『怖いこと言うなよ』
『おひいさんがそんなこと言う訳ないだろ! ねえ!?』
『ふふ』
侍従や騎士たちにここまで気安く接したことがなかったから笑ってしまった。嫌ではなかったしとても楽しかった。こんな人たちに仕えられている王であるならと現金にも不安はほとんど散ってしまった。
それでも王都に入る時には胸がひどく高鳴って苦しいくらいに緊張をした。元々戻れはしないのだけれど、王都を囲む壁の門をくぐってしまえば生国との繋がりもぷっつりと切れてしまうように感じた。
『あ、ほら、おひいさん』
『あれがあたしたちの王様! 遠目でも美形って分かるでしょ!』
『あれが』
あっけなくくぐってしまった門の奥には人だかりができていた。頑強そうな者たちの周りに老若男女がわらわらと集まっていて、その中心に指さされた“王様”が立っていた。例えるならば夢物語に出てくる大きな狼のようなその人はむっつりと口を閉ざし腕を組んでこちらをじとりと睨んでいた。確かに散々聞かされた通りのお顔立ちである、生国ではあまり見ない系統ではあったが彼の美しさを否定できる者は少ないだろう。何故だか急に恥ずかしくなって、髪の毛を撫でつけていると女性の護衛の一人が豪快に笑いながら背を押した。
『大丈夫、おひいさまはいつだって綺麗だから!』
『きゃ』
『おい、ジュリア!』
飛び込んだ先は“王様”の腕の中だった。元婚約者にだってこんな風に抱きついた事なんてなかったのにと自覚してしまって、顔がかっと熱くなる。不可抗力とはいえ、こんなはしたないことをしてしまってご不興を買ってしまったのではと、羞恥と恐怖の両方で固まってしまった。
『……大丈夫か』
『あ、も、申し訳ございません。問題ございません』
『そうか、なら良い』
『え、え? きゃあ!』
そのままひょいと抱き上げられてしまい何事なのかと、纏まらない頭で必死に考えたが答えはでなかった。おろおろとする私など気にならないようで周りの人々はわっと歓声をあげる。困惑する私に“王様”はそっと耳打ちをした。
『田舎の風習で悪いが、新郎は新婦を家に着くまで歩かせてはならないという決まりだ。暫く付き合ってもらいたい』
『え、あ、そう、でしたの。か、畏まりました』
『……礼を言う』
ぱぱぱぱと赤くなっていっているのであろう頬や耳を制御することができず、貴族の娘として感情を表に出さないようにと育ってきたはずの矜持やらなんやらがぺしゃんこに潰れてしまった。しかししかし、仕方がなかったのだ。“王様”の顔があまりに近く、嗅ぎなれない異国の香りが胸いっぱいに広がって苦しくて目を瞑ることしかできない。教育係たちの教えなどもう頭の片隅にもなかった。初めて会った人なのに皆が恐れる将軍王だというのに、恐怖も嫌悪もなくて分かるのは秒針よりも随分早いように思える鼓動だけだった。
そのまま王都をぐるりと一周されたらしいが、いっぱいいっぱいだった私の記憶には残っていない。あれよあれよという間に城に着き、生国とは違う形式の結婚式をしお披露目式をし、気が付いた時にはもうベッドの上だった。教育係や母や親戚の既婚女性に色々と話を聞き勉強もしたつもりだったが、結局のところ皆が皆『最後は殿方が良いようにして下さいます』と締めくくり肝心な事は分からずじまいだ。本にもそこまで詳しく書いているものはない。指を組みそれがぶるぶると震えているのを止めることができず、仕事の為に遅くなるという夫になった人を待つしかなかった。
そう、待った。たくさん待った。かちこちに固まった体をベッドの上でほぐす事もできず数時間は待った。ぼん、と大きな時計の音が低く響いてやっと深く呼吸を吐いた。
『……ええと』
気が付けばもう後数時間で空が白み出す頃だった。そうか私は初夜に渡って頂けなかったのか、と理解して安心と寂しさとやるせなさがどっと押し寄せた。そのやるせなさといったら、元婚約者に婚約を破棄して欲しいと言われた時よりよほど酷かった。どうしても私が良い、と言ったらしい夫となった人も実際に会ってみて彼のようにそういう風に見れないとでも思ったのだろうか。そう言えばじっくりとは見られなかったが、ちらと見えた横顔は決して微笑んではいなかった。そういう風とは何なのだろうか。私は、他の女性と何か違っていて、もうずっとそういう風に見てもらえないのだろうか。
不出来な自分に呆れてしまって、そしてどうしようもなく可哀想で泣けてくる。自分で自分が可哀想だなんておかしかったけれど、結婚した日に見放された花嫁なのだから少しくらい浸っても誰も何も言わないだろう。むしろ、かの将軍王に嬲られるようなことにならずに済んだのだから万々歳であるのだ。五体満足で清らかな体のまま生きていけるならそれも良いかもしれない。流れる涙も止めなければ、ここは既に生国でも生まれ育った家でもない。私はかの王と結婚して王妃となったのだ、強く気高くあらねばならない。幸いにも人々は朗らかで友好的だった。生国とは違う風習が多く特権階級と一般階級の人々も隔たりなく気安く接している。良い国なのだと思う。ならばそれに恥じぬよう良い王妃にならねば。
必死に目から零れていく涙を拭っているとがたん、と扉が音を立てた。まさかこの結婚を良く思わない勢力が、王が渡らなかったことを理由に私を害そうとしているのでは瞬時に考えつき、けれど味方などいないこの国で助けも呼べないと絶望して自身の腕を掴んで唇を噛む。
『起きていたのか』
『……あ』
『いや、起こしたか』
『い、いいえ、いいえ。起きておりました』
『そうか……』
自身の寝室だというのに王は所在なさげに扉の前で頭の下を掻いた。灯りは最低限なので表情までは読み取れない。
『あの、陛下』
『泣いていたのか』
『あ、これは、あの』
『……まあ、そうだろう。こんな野蛮な国のこんな粗野な王などに嫁ぎたくなどなかっただろうに、お可哀想なことだ』
『そんなこと、ご自身とご自身で興された王国をそのように仰らないで下さい』
そして、冒頭に戻る。
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