第七話 幻の人
リッポは路上で若くて美しい女性に声をかけられ、付き合ってほしいと言われた。女性の名前は影澤悠月という。リッポは仰天したものの、彼女と付き合うことになった。周囲の人間たちも驚いたが、堂原だけは、もしらしたら彼女に死が迫っているのではと藤倉に呟いた。
そんな中、リッポに嫉妬した西脇が、悠月の後を尾行した。彼は悠月の自宅の前で彼女に見つかり、自宅へ入るよう誘われた。
翌日、ひどく怯えた顔をした西脇が、悠月はバケモンだとリッポへ打ち明けた。
辺りは暗く、風はない。松林の向こうから、そっと漏れてくる明かりが、海岸の存在をおぼろげに照らしている。
月も星も見えない空から、音もなく、細かい雨が止めどなく降り続く。波のない海に波紋を作っていた。
柔らかくて湿った空気が堆積する中、雨は海と陸の境界を曖昧にした。
深く、光の届かない暗い場所から、浮かび上がろうとする存在があった。
それは外からの微かな嘆きを感じ取り、その悲しみを海へ浸透させていく。
悲しみは雨を通じて海岸に拡がり、辺りを陰鬱にさせた。
海が泣いてる。
一週間ほど前に気象庁は梅雨入り宣言をしていたが、雨は三日前に少し降っただけで、このところずっと晴れた日が続いていた。空からは、連日夏のような日差しが降り注いでいる。藤倉と堂原は入居者の昼食も終わり、ソファーに寝そべっていた。
「おーい、堂原さん。お客さんだよ」
ドアが開き、西脇が入ってきた。今日は黒地にヘビメタ風の黄色いロゴが入ったタンクトップと、色あせたブルージーンズのショートパンツを穿いていた。なぜか、口元にニタニタ下品な笑いを浮かべている。
「ああそうですか。すいませんが、呼んできてくれませんか」
西脇は突然真顔になって振り返り、「さ、どうぞ」と気取った声で通路に声をかけた。
「おじゃまします」
藤倉と堂原は反射的に腰を浮かせ、入ってきた人物をまじまじと見てしまった。
「あ、お昼休み中でしたか。すいません、出直しましょうか」
「いいえ……構いませんから」
女性だった。しかも、若くて美人だ。瞳は大きくきらきら輝き、小ぶりだが厚みのある唇は色気を感じさせた。淡いピンクにグレーの花柄をプリントした半袖のワンピース姿で、露出している手足は透き通るように白く、すらりと伸びている。彼女がいるだけで、くすんだ事務所がぱっと明るくなったような気がした。
正直言って戸惑う。女優かモデルのような女性が、こんな田舎の無料低額宿泊所に現れるなんてあり得ない。
「あの、どのようなご用件でしょうか」
「実は私、ここに住まわせていただきたいと思いまして、伺ったんです」
口を開きかけた堂原を遮るようにして、西脇が興奮気味に喋り始めた。「いや、私どもは大歓迎ですよ。実は今、一部屋空いておりましてね、早速手続きにはいりましょう」
「西脇さん、あなたはここの入居者でスタッフじゃないんだから、勝手なことは言わないで下さい。私たちが審査して決定します」堂原が渋い顔をする。
「はいはい、ご苦労さんです。西脇さんは外でゆっくりして下さい」
「おい、ちょっと待てったら」
抵抗する西脇を藤倉が事務所から押し出し、ドアを閉めた。
奥から声が聞こえてくる。「堂原さーん。彼女を住まわせてよ」
「すいませんね。陽気な爺さんなんですけど、ちょっと調子がよすぎまして」
「もしよければ、そこにお掛け下さい」堂原が向かいのソファを指し示した。
「ありがとうございます」
彼女がクッションがへたった合皮のソファに座ると、香水のいい香りが漂った。西脇のような下心はないつもりだが、妙にどぎまぎしてしまう。
「西脇さんが言うとおり、現在一部屋空きがありまして、入居する人を探しているは事実ですが、条件があるんですよ。ここは無料低額宿泊所と言いまして、色々な理由で自らでは生計が困難な人たちを住まわせる施設なんです。前提として、生活保護を受けられるような方たちが対象なんです。お見受けすると年齢も若く、健康なようですし、とても生活保護を受けられるような方には見えません」
「そうなんですか。門に『トコヨハイツ』と書いてあったので、普通のアパートかと思ったのですが」
若い女は肩を落とし、本当に悲しそうな顔をした。
「あの……。よろしければどうしてここへ入居したかったのか教えていただけないでしょうか。正直、こんな古ぼけた建物より、もっときれいなアパートはいくらでもあるじゃないですか。その中でここを選んだというのが純粋に疑問なんです」
「さっき、ここの前を通りかかったとき、どう言ったらいいんでしょうか」女性は考え込むように少し首をかしげた。「ぴたりとパズルのピースが合わさるような気がしたんです。ここがあたしの住む場所なんだって」
「要するに、インスピレーションみたいなものが働いたんですか?」
「ええ、そうなんです。この部屋で朝を迎えている自分の姿がイメージできるんですよ」 女性は目を輝かせて呟いた。
「でもねえ、ここは風呂とトイレは共同だし、無料低額宿泊所という縛りがなくても、あなたのような方には似合わないと思いますよ」
「わかりました。残念ですわ」
女性は小さくため息をついて立ち上がった。藤倉と堂原は西脇が何か吹き込むのを警戒して、出て行く女性を門まで見送った。案の定西脇は食堂で待っていて、何か言いかけたが、藤倉たちは彼女の横に並んで牽制した。
「なんで悠月ちゃんを住まわせないんだよ」
女性が帰ると、西脇は憤懣やる方ないといった顔で抗議した。
「ここは無料低額宿泊所ですからね。対象じゃない人は住めないんです。て言うか西脇さん、彼女の名前まで聞いちゃったんですか」
「おう、影澤悠月ちゃんだよ。電話番号も聞いてるからね」
「西脇さん、あの子に変なことを言わないで下さいよ。うちがあの子を入居させることはないんですから」
「へへへ、わかってるって」
へらへら笑いやがって。そこが信頼できないんだよなと藤倉は思う。
リッポは思い悩んでいた。堂原に言われてスーパーで炊き込みご飯に使う油揚げを買ってきたのだが、自分で食べるガリガリ君も買ってきて一緒に会計してしまったのだ。レシートを別にしないと、留美さんに怒られちゃうんだよな。やばいやばい。
でもガリガリ君はおいしいな。冷たくてしゃりしゃりしてて、すぐに食べちゃうよ。戻ってもう一本買おうかな。そうすればレシートもガリガリ君だけになるし。でも、油揚げはガリガリ君と一緒のままだっけ。
「あの……」
突然の声に立ち止まり、前を見た。十メートルほど先にお婆さんの後ろ姿が見えただけなので、気のせいかと思う。
「あの……。すいません」
再び声が聞こえた。今度は左右も見回した。
「わっ」
リッポは思わずのけぞった。すぐ横に若い女性が立っていたからだ。花柄のワンピース姿で、リッポより頭一つ分背が高く、肩幅は三分の一くらい狭い。大きな瞳で、リッポより一回り小さな顔だ。まぶしいくらいの美人だった。
「驚かせてごめんなさい。もしかして、トコヨハイツに住んでいる方でしょうか」
「ううん」リッポは激しく首を振る。「あそこには住んでいないよ。働いているんだ」
「そうだったんですか。前に一度、トコヨハイツにいたのを見かけたので、てっきり住んでいるとばかり思ったんです」
「そ、そうなんだ」
リッポがキャバクラ以外でこんなに若くて美人の女性に、笑顔で話しかけられるなんて滅多にない。身近にいる女性で一番若いのは留美だけれど、いつも素っ気ない顔をしているか、怒っているかどっちかだし。あとは六十過ぎのお婆さんばかりだった。
「あたし、トコヨハイツ住みたいと思ってたんですけど、管理人さんにだめだって言われちゃいました」
「へえ……。それは残念」
「あたし、影澤悠月と言います」
「僕はリッポ。望月リッポっていうんだ」
「リッポさん。いい名前ですね」
「あ、ありがとう」
「ねえリッポさん、お願いがあるんです」
「はい、なんですか?」
「あたしと付き合ってもらえませんか」
「はい、って……。ええっ」
手に持っていたガリガリ君が、溶けて棒からぽたりと落ちた。リッポは何も気づかないまま、棒を持ったまま、あんぐりと口を開けて悠月を見上げていた。
悠月は微笑んでいたが、ふざけている様子はなかった。きらきら輝く目で、まっすぐリッポを見つめていた。
「付き合っていただけるんでしたら握手してもらえますか」
悠月が細くて、すらりと伸びた右手を差し出した。
「は、はい」リッポは慌てて棒を口にくわえた。ガリガリ君で濡れた手をスウェットでごしごし擦ってから、恐る恐る悠月の手を握る。
リッポの太くて大きな手で、悠月の右手が包み込まれた。柔らかで温かい感触が伝わってきた。あんまり強く握りすぎると、なんだか潰れてしまいそうな気がして怖かった。
「ありがとう」
満面の笑みを浮かべた悠月がまぶしくて、リッポはくらくら目眩がしてきた。
「ねえねえ藤倉さん、ちょっと教えて欲しいんだ」
「なんだよ、かしこまって」
新聞を読んでいた藤倉は顔を上げ、モジモジしながら話しかけてきたリッポを訝しげに見た。気をつけの姿勢で、落ち着かなげにお尻を左右に動かしている。こいつ、また何か粗相でもしたのかなと思った。
「日曜日にデートに行くんだけど、どんな服を着てけばいいのかなあ」
「はあ?」あまりに意外な言葉に思わずのけぞった。リッポがデートなんて、想像の範囲を超えていた。
「デートって、どこへ行くんだよ」
「ドリプラで映画を見に行くんだ」
「おまえ、スウェット以外になんか服を持ってるのか」
「うーん、Tシャツと短パンなら持ってるよ」
「全然だめ。ジーンズとか持ってないのかよ」
「ううん。ああいうのって、きつきつになっちゃうから嫌いなんだ」
「だからって、その格好でデートするわけにはいかないだろ」
リッポの首回りがよれよれになったグレイのスウェットを見て呟く。
「どうすればいいのかな」
「お前みたいな体型だと、ユニクロも厳しいだろうしな。留美さん、この辺りでLLの服を売っている所ってありますか?」
「しまむらならあるんじゃないですか」
持参した弁当を食べていた留美は顔を上げ、関心なさげに呟く。
「そうですか、ありがとう。リッポ、土曜日に買いに行こうか」
「うん、ありがとう」
リッポはニコニコと、体中から発散させるような笑顔を浮かべた。
「ところで、その子とはどこで知り合ったんだ?」
「すぐそこの道だよ」
「お前、まさかナンパでもしたのか」
「ううん。歩いてたらさ、横から声を掛けられて、付き合って下さいって言われたんだよ」
「お前、それって宗教とか、商品の販売とかの勧誘じゃないだろうな」
「悠月ちゃんだから大丈夫だよ」
「悠月ちゃん? まさか……」
「そういえば、ここへ入居しようとしたら、断られちゃったって言ってたよ」
「なんだって」
「リッポ、あんた騙されてるんじゃないの?」
留美まで目を丸くしてリッポを見ていた。ここへ入居しようと訪ねてきた女性で、名前が影澤悠月。間違いなくあの目の覚めるような美人だ。大丈夫だなんてものじゃない、怪しすぎる。
「お前、デートに行くのはいいけどさ、お金を貸してくれとか、高い英会話の教材を買ってくれとか言われたら、絶対断れよ」
「へへへ、大丈夫大丈夫。僕、貯金とか全然ないし」
リッポは胸を反らしながら笑った。
「自慢げに言うんじゃないよ。お前でもサラ金へ行けば、五十万くらい簡単に貸してくれるんだからな」
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだじゃなくて。怖いお兄さんとか出てくる可能性もあるんだからな。何かあったら電話しろよ」
「はーい。わかったよ」
午後になって会合で出かけていた堂原が帰ってきたので、リッポの件を報告した。
「へえ……。リッポが影澤さんとデートですか」
堂原はわずかに沈んだ顔をして見せた。
「やっぱり、騙されていると思いますか」
「いや、そうじゃなくて」
堂原が何気なく食堂へ歩き出したので、後を付いていく。流しの入り口で立ち止まり、振り向いた。ここからなら、留美からも入居者からも声は聞こえない。
「もう一つの可能性は考えられませんか」
堂原の目が蛍光灯の光で暗く光った。
「と、言うと……」堂原が言わんとしていることがわかり、一瞬言葉に詰まった。
「影澤さんが近々死ぬから、リッポに引き寄せられたということですか。まさかあんな若くて健康的な子が。あり得ないですよ」
「彼女が最初にここへ来て、なんて言ってたか覚えていますか」
「確か、パズルのピースが合わさったみたいな話をしてたような気がしますけど」
「それって、ここへ引き寄せられたからじゃないですか。こんな所へ住みたいと言ったり、リッポに付き合ってほしいと言ったりするなんて、他に考えようがないですよ」
「じゃあ、彼女はどんな問題を抱えているんでしょうか」
「そのうちわかるでしょう」
堂原は目を伏せながら、軽く首を振った。
日曜日、リッポはドリプラに向かった。バスを降りて歩道橋を渡り、ユニクロの前を通ってオレンジ色の建物の前に立った。梅雨だというのに相変わらず空は晴れ、強い日差しが照りつけていた。
着ているのは前の日にしまむらで買ったズボンとシャツだ。サイズは合っているとは言え、スエットに比べて生地がごわごわしているので、いまいちしっくりこない。もちろんしっくりこないのは服のせいだけではなかった。今日のデートは何をしたらいいんだと、いつも使わない頭をあれこれ巡らせていると、いやが上にも緊張してくる。
背負ったリュックサックから、藤倉にプリントしてもらった映画のスケジュール表を見た。ええっと、東映マンガ祭りはだめだって言ってたよな。エクソシストは怖い映画らしいから、僕がだめだし、何にすればいいのかな。
「こんにちは」ふいに声がして顔を上げた。いつの間にか、目の前に悠月が立っていた。
「わっ」リッポは思わずのけぞった。今日の悠月は細身のジーンズにボーダーのTシャツ姿だった。シンプルであるが故に彼女のスタイルの良さが強調され、リッポは心臓が飛び跳ねるような気持ちになった。
「ごめんなさい、驚かしちゃったかしら」
「ううん、大丈夫だよ」
微笑む悠月がまぶしく、思わずリッポは目を瞬かせ、首を激しく左右に振った。
「それって映画の予定表?」
「そうだよ」
「なに見よっか」
悠月が近づいて、リッポが持っていたスケジュール表を覗き込んだ。さわやかな香水の香りに混じって、女性の柔らかな匂いを感じ、頭がくらくらしてくる。
「あたし、エクソシストが見たい」
「ぼ、僕もそう思ってたんだ」
思わずそう言ってしまい後悔したが、怖いところは目をつぶってればいいかと思う。
「あと十分で始まるわ。早く行きましょう」
「うん、そうだね」
二人は走り出した。悠月はヒールの高いサンダルを履いていたが、軽やかに駈けていく。リッポは左右に体を揺らしながら、どたどたと音をたてて後を追った。
四階でチケットを買い、無事に上映前に席へ着くことができた。上映時間、リッポは怖くて半分ぐらい目をつぶっていたが、悠月と一緒の時間を過ごせるだけで夢のような気分だった。映画の後は、海が見えるレストランで食事をした。リッポはトコヨハイツで起きた話を一生懸命披露した。悠月がケラケラ笑うたび、幸せな気持ちになった。
月曜日にトコヨハイツへ行くと、待ち受けていたように西脇が近づいてきた。
「おいリッポ、デートは大丈夫どうだったんだ。金とか要求されなかったか?」
「うん。なんにも問題ないよ」
「本当か? なんでお前みたいなデブでバカかが、あんなきれいな子と付き合うなんて、ありえねえだろ」
「だって、付き合って下さいって言われたんだもん」
「そこがおかしいって言ってんだろうが」
「西脇さん、やめなさいよ。みんな痩せたいい男が好きだってわけじゃないのよ。あの子にとってリッポみたいのが趣味だったのかもしれないし」
隣で話を聞いていた貴子というお婆さんが口を出してきた。
「でもさ、いくら何でもリッポはないだろ。もしかしたらあの子変態か?」
リッポは西脇の言葉を聞いて、瞬間的に怒りがこみ上げた。
「悠月ちゃんは変態じゃないよ」
「変態でなけりゃ大馬鹿だよ。世の中にはな、お前なんかよりよっぽど金を持ってて、いい男はいっぱいいるんだからな」
「そんなことわかってるさ。でも悠月ちゃんは僕のことを好きだって言ってくれてるんだ」
「本当にそう言ってるのか? もしかしたらお前の思い込みだけじゃないだろうな」
「違うよ」
「西脇さん、おはようございます。どうかしましたか」
食堂から堂原が現れた。後ろには貴子がいる。きっと僕たちが騒ぎだしたので、堂原さんを呼びに行ったんだろうと思った。
「なんでもねえよ」
西本は不機嫌な顔をして離れていった。リッポは思わずほっと息を吐いた。
「西脇さんは嫉妬しているんだよ。あんまり気にする必要はないさ」
「嫉妬?」そんな気持ちをぶつけられたなんて、初めてだと思う。堂原さんが一人でファミマのタマゴサンドを食べていたときなんかは、すごく腹が立ったことがあったけど。今の西脇さんもそんな思いだったのかなあ。
いずれにしてもめんどくさいし、めんどくさいことは嫌いだった。でも、だからといって悠月ちゃんと別れるなんてあり得ないし、どうしたらいいんだと思う。堂原さんは気にするなと言ってるけど、きっとまた絡んでくるんだろうな。リッポは今まで経験したことのない、もやもやした感情がわき起こった自分に戸惑った。
「いいか、西脇さんに限らず、お前の彼女のことで何か言ってきたら、きっちりあんたとは関係ないと言えよ。時間がたてば、みんな慣れてきて、何にも言わなくなるさ」
「うん、わかったよ」
それでもリッポの気持ちはなかなか晴れなかった。
清水駅の構内は日差しこそ遮られているものの、暑く湿った空気が立ちこめ、立っているだけで汗が滲んでくる。西脇は切符を買う悠月の後ろをさりげなく通り過ぎ、金額を確認した。彼女が改札へ向かうのを横目で確認しながら、自分も同額の切符を買い、改札へ向かう。エスカレーターを降り、ホームの下りに立っている悠月を、自動販売機の影からそっと見つめた。
悠月がリッポと付き合っているなんて、どう考えてもあり得ない話だった。きっと裏の事情があるに違いないと思っていた西脇は、リッポがデートに行くのを聞きつけ、一日中跡を尾けていた。金はないが時間だけはいくらでもあるし、半年だけだが興信所に勤めていたこともある。警戒していない女性を尾行するのは造作もなかった。
あの女の尻尾を掴んで証拠を突きつけたら、久々にいい思いができるかもしれない。西脇はそっとほくそ笑んだ。
下り電車が到着して悠月が乗り込んだので、扉が閉まろうとする瞬間、隣の車両に乗り込んだ。連結部から、隣の車両に座っている悠月を伺った。電車は各駅で止まりながら富士川を渡った。
吉原駅の手前で悠月が立ち上がった。電車が減速しながらホームに滑り込んでいく。ドアが開いて悠月が出たのを確認し、西脇も車両から出た。
改札を抜けて駅の外へ出た。日は傾き、オレンジ色に染まっていたが、まだまだ暑かった。時折乗用車が通り過ぎ、埃っぽい熱風を全身に浴びて不快な気分になる。
悠月はやや古ぼけた住宅が建ち並ぶ道に入っていく。歩いている人は前を歩く悠月と西脇だけだったが、気づかれている様子はない。悠月は四つ角を左に曲がった。間を置いて西脇は角をそっと覗き込んだ。
「あれ……」
悠月の姿が見当たらなかった。両脇には住宅が並んでいる。どこかの家に入った可能性もあるが、悠月の姿が見えなくなってから、十秒も経過していないはずだ。ドアを開けて閉めるまでの時間を考えたら、相当素早く行動しなければならない。西脇は不審に思いながら道を歩き始めた。
「西脇さん」
背後から声を掛けられた。ぎょっとして振り向くと、微笑みを浮かべた悠月がいた。
「あ……。こんにちは」
「こんなところで今日はどうされたんですか」
「こっちに従兄弟がいましてね、用があって会いに行ったんですよ。僕もこんな暑い日に出たくなかったんですけどね、あいつもこのところ膝が悪くて、外に出るのが億劫だって言うもんで、出向いたんですよ」
すらすら出てくるでまかせに自分で感心しながら、落ち着きを取り戻していく。
「そうだったんですか。あたしの家はこの近くなんですよ」
「へえ。そいつは偶然ですねえ」
「どうですか、お家で冷たい物でも飲んでいきませんか?」
「ぜひお願いします。従兄弟の奴、人を呼んでおいて何にも出しやがらなかったですよ。おかげで喉がカラカラで」
「それではご案内しましょう」
悠月が歩き出した。彼女の足取りが少しふわふわしているように見えるのは、暑くて少し頭がくらくらしているからなんだろうと思った。
藤倉は食事を配り終え、入居者が食事を始めるのを見ていた。その中に一つだけ手つかずになっている弁当を見つけた。妙に静かだと思っていたら、西脇の姿が見えなかった。
「リッポ、西脇さんがどこへ行ったか知ってるか?」
「ううん、知らないよ」
「どうしちゃったんだろうな」
西脇の部屋へ行ってノックをしたが、反応はなかった。あの人のことだから、どこかでスポンサーを見つけて飲んでいるのかもしれない。結局、午後七時になっても食事に来ないので、食事は一旦冷蔵庫へ入れ、戸締まりをして帰った。
翌日の朝食の時間、ぞろぞろと入って来た入居者の中に西脇がいた。いつもは仲がいい入居者に軽口を叩いているのだが、今日は何も言わず椅子に座り、弁当を開けて少しずつ食べ始めた。明らかに様子がおかしい。二日酔いなのかなと思いながら声を掛けた。
「西脇さん、昨日は夕食を食べなかったでしょう。食事は冷蔵庫に置いてありますけど、どうしますか?」
「ああ……。いらないから捨てちゃってくれよ」
「西脇さん、朝食もあまり進んでいないようですけど、調子が悪いんですか」
「何でもねえよ。昨日ちょっと飲み過ぎただけだ。あっちへ行ってくれ」
西脇は目を食事に向け、焼き鮭を箸でほぐし、少しだけつまんで食べた。飲み過ぎと言っても酒臭いわけでもない。ちょっと怪しいなと思ったが、当人が何でもないと言う以上、追求のしようがない。一応堂原に報告しておこうと思いながら西脇から離れた。
食事が終わり、リッポは入居者が使った箸や湯飲みを食洗機に入れていた。
「よう、リッポ」
背後で声が聞こえて振り返ると、西脇が立っていた。雰囲気がいつもより暗く、リッポは少したじろいだ。弱い蛍光灯のせいもあるのかもしれないが、西脇の目は妙に落ちくぼんでいるように見えた。
「西脇さん、どうかしたの」
「悠月のことだけどよ、あいつやべえぞ」
「は? どうして」
「俺は見ちまったんだよ、あいつはバケモンだ」
西脇の顔から、怯えが浮かび上がってきた。
「西脇さん、僕と悠月ちゃんが付き合っているから、嫉妬しているんでしょ」
「そんなんじゃない。本当だって」
必死になって抗議したので思わず信じかけてしまうが、この男は嘘つき西脇なのだ。気をつけないといけない。
「じゃあ、どういう風にバケモンなのさ」
「お前ら、昨日日本平動物園に行っただろ」
「うん、そうだよ」
「その時俺は、お前らの跡を尾けていったのさ。お前が清水駅で別れた後も、俺は電車に乗って富士まで追いかけていったんだ。その途中で、悠月に見つかっちまった。あいつ、おれに飲み物をごちそうするって言ってよ、近くの家に引き込んだのさ」
西脇は一旦言葉を止め、ひどく蒸し暑いにも関わらず、ぶるっと体を震わせた。
「俺は居間に案内されて、ソファに座ったんだ。そしたらよ、あの女がいきなり大口を開けて笑い出したんだ。
そのとき、顔が変わったんだよ。
俺を睨み付けながら、目をかっと開いて爛々と光り始めたのさ。口が耳まで裂けて、にゅっと犬歯が出てきたんだ。まるで般若の面みたいだったよ。俺はびっくりしてさ、大慌てで奴の家を出たんだ」
目を大きく見開いてまじまじと見つめる西脇に、リッポはたじろいだ。
「いいか。あいつは本当にヤバいぞ。下手するとお前、食われちまうからな」
西脇が言い放ち、背中を丸めて台所から出て行った。西脇さんの話だから、きっと嘘に決まってるだろうな。そう思ったものの、少し心配になってくる。携帯電話を取りだして、悠月の番号を呼び出す。
――はい、悠月です。
――もしもし、リッポだよ。
――こんな時間にどうしたの?
――実は今ね、西脇さんが話しかけてきたんだ。あの人、僕たちのことを昨日追っかけてたみたいなんだ。それで悠月ちゃんの家に行ったら、悠月ちゃんがバケモンになっちゃったって言ってきたのさ。般若とかいう顔みたいだってさ。
電話の向こうから、軽やかな笑い声が聞こえた。
――西脇さんが家の近くにいたのは本当よ。でもあたし、挨拶しただけで、家になんかも入れていないわよ。
――そうだよねえ。あの人、いつも嘘ばっかついてるんだ。悠月ちゃんが怖い顔になるわけないもんね。
――そうよ。きっとあたしたちを別れさせたくてそんなことを言っているの。
――うん、わかったよ。ありがとう。
リッポはもやもやがすっきりして、電話を切った。
その翌日の午後、トイレの掃除をしていたリッポは、堂原に事務所へ連れて行かれた。室内には誰もいない。指示されてソファに座った。
「リッポ、プライベートな話で恐縮なんだがな、お前、影澤さんと付き合っているんだろ」
「うん」
「影澤さんの件で、西脇さんが騒いでいるんだ。彼女の顔が般若みたいな顔になったって言いふらしているんだよ」
「それ、僕も聞いたよ。でも悠月ちゃんはそんなことないからって言ってたよ」
「あの人はいつも嘘ばっかりついてるからな、入居者たちも相手にしてない。俺も九割方そう思うんだが、ちょっと気になることがあるんだ」
「なあに?」
「お前、あの人に何か感じないか」
「近くにいるといい匂いがするよ」
「そうじゃなくて」堂原は苛立たしげに首を振った。
「お前は死に接している人を引きつけて、幻を見させる体質があるのはわかっているだろ。ただ、どういう形でそれが現れるかはわからない。もしも西脇さんが見たものが本当で、幻と関係があったとしたらどうなんだ」
「それって……。悠月ちゃんが死にかけているってこと?」
「あくまでも可能性なんだけどな」
「そんなはずないよ。悠月ちゃんはすっごく元気なんだから」
「ただな、西脇さんは良くも悪くも頭がいいから、嘘ももっと信憑性のある付き方をするんだ。悠月さんが化け物だなんて、嘘だとしたら小学生レベルなんだよな。あの人がつくような嘘じゃない」
「でも、僕は何にも感じない。本当だよ」
「お前が本当のことを言っているのはわかっているよ。俺の取り越し苦労かもしれない。妙なことを聞いて悪かったな」
堂原との話し合いが終わり、トイレ掃除に戻ったが、悠月との電話で消えた、もやもやした気分が復活してきた。
キャバクラへ行っても、かわいいとかよく言われるけど、付き合ってなんて言われたことはないし、僕ってモテないんだろうなって思ってたんだ。
それなのに、悠月ちゃんはどうして僕と付き合ってくれなんて言ったんだろう。一旦考え始めると、止まらなくなる。
「おいリッポ、早く水道を止めろ」
突然の怒鳴り声に驚いて周囲を見回すと、トイレの入り口でセンムが睨み付けていた。
「え? どうしたの」
「どうしたのじゃない、下を見ろ」
水道に繋いだホースから盛大に水が放たれ、床のタイルは水浸しで、廊下にまで溢れていた。
「あらあら」リッポはバシャバシャ音をたてて手洗い場へ行き、蛇口を閉めた。
「全くどうしようもねえ奴だな。廊下もちゃんと掃除しとけよ」
センムが去って行った。ため息をつき、トイレの床が排水されるのを待って、モップで廊下の水をトイレに押し戻す。濡れたタイルを擦りながらリッポは思った。不安だけど、やっぱり僕は悠月ちゃんが好きなんだ。ずっとずっと一緒にいたい。強く思った。
「ねえリッポ、今日はなんだか元気そうじゃないわね。具合が悪いの?」
悠月はリッポの顔を心配そうに覗き込んだ。
「ううん。大丈夫だよ」
「そう。だったらいいんだけど」
僕が元気じゃないなんて、あり得ないよ。だってだって悠月ちゃんが横にいるんだもん。笑顔はまぶしいし、握っているこの手だって、細くて柔らかい。なんだか違う生き物みたいだ。今日の悠月は白地に薄くて青い花柄の浴衣を着て、髪の毛をアップにしていた。その姿を見ただけで、リッポはくらくらしてしまう。
でも、心が晴れないのは本当だった。堂原さんの言ってたことがすごく気になっていた。悠月に直接話せればよかったが、怖くて勇気が出てこない。
今日は七夕まつりで、清水銀座は人でいっぱいだった。リッポと悠月は人をかき分けながら、頭上にかかげられている飾りを見て歩いていた。時刻は午後七時。商店の明かりのせいか、空は暗く、星も見えない。湿り気を帯びた生ぬるい風が、時折吹いていた。
「ねえねえリッポ、あれはなんなの?」
悠月が紙で作った台に乗った四つ足の動物を指差す。
「うーん、何かなあ」
「猫みたいだけど、ちょっと違うような気もするわねえ」
「足が太いし、犬じゃないの?」
「あっ、あそこに名前が書いてあるわ。『ロッシー』シロクマよ」
「あはは。ゼンゼン似てなーい」
「そうよねえ。シロクマじゃない」
二人でケラケラ笑い転げた。幸せだと思う。
踏切の露天で売っていたたこ焼きと、ペットボトルのお茶を買って食べた。
「あちちち」
「リッポ、大丈夫?」
「僕、猫舌なんだ。でも、たこ焼きは大好きだよ。熱いけど、中はとろとろだし、タコはおいしいし」
「あたしもたこ焼きは大好き」
高架をくぐって駅前銀座へ入ろうとしたときだ。前方からふらついた男が歩いてきた。顔は赤黒く、かなり酒を飲んでいるようだ。リッポは男を避けようとして、悠月を引き寄せた。それでも人が多いので、充分に距離を開けられない。
「きゃっ」
すれ違うとき、男がよろけて悠月にぶつかった。その時、男のビールが悠月の浴衣にかかった。
「馬鹿野郎、ちんたら歩いてるんじゃねえ」
「ぶつかってきたのはそっちの方じゃないか。それに悠月ちゃんの浴衣が濡れちゃったよ」
男の勝手な言葉に、リッポは憤る。
「なんだと、このウスラデブ。やろうってのか」
男は手に持っていたビールのコップを捨てると、悠月を押しのけてリッポへ近づいてきた。酒臭い息が吹きかかってくる。
「リッポ、よしなさいよ。あたしは大丈夫だから」
悠月がリッポの手を引いたが、一旦言ってしまったからには引っ込みがつかないし、酔っ払いも許さないだろう。半ば後悔しつつも、睨むしかなかった。騒ぎに気づいて人々がリッポたちを囲むようにして注視し始めたが、仲裁に入る者はいない。
酔っ払いがリッポのシャツを掴み、引き寄せた。不意に目の前へ男の額が迫り、鼻にぶつかった。
目の前がまぶしいくらいにチカチカすると同時に、鼻がカッと熱くなった。次の瞬間耐えがたい強烈な痛みが広がり、思わず顔を押さえた。
「ちょっと来いや」
周囲の人々に「おら、見てんじゃねえよ」と威嚇しながら、男はリッポのシャツを掴んだまま、右側に延びている路地へ引っ張っていった。踏切を渡り、薄暗い公園へ連れて行かれる。リッポは男に突き飛ばされ、地べたに転がされた。
「覚悟しやがれ、ぼこぼこにしてやるからな」
見上げると、闇の中で男が目を輝かせ、薄ら笑いを浮かべた。
「待ちなさいよ、そもそもあたしとのトラブルじゃないの。リッポは関係ないでしょ」
悠月がリッポの横で男を睨んでいた。
「おう、じゃあ何か? お前がやろうってのか。だいたいなんでお前みたいな女がこんなへなちょこといるんだ。俺の方が百倍いい男だぜ。どうだ、俺と付き合わねえか。だったら許してやらあ」
悠月へ嫌らしい笑いを向けた男に再び憤りを感じ、起き上がろうとした。それを制するようにして、悠月がリッポと男の間に入った。
リッポからは、悠月の後ろ姿が見えるだけだ。
波が引くように、すっと男の顔から嫌らしい笑いが消えていく。
ぽっかりと口を開けたかと思うと、驚いたように、目を大きく見開き始めた。
「ぎゃっ」男が叫び、よろけるようにして後ずさりした。街灯に照らし出された顔は、恐怖でひどく歪んでいた。
「こ、こいつ、バケモンだ」
男が足をもつれさせ、尻餅をついた。悠月が一歩踏み出すと、ずるずる尻を引きずりながら後退し、よろけつつも立ち上がり、港へ向かって走り出した。
危険が去り、リッポはほっと息を吐きながらも、別の不安がもたげてくるのを意識した。
「リッポ、大丈夫?」
悠月はしゃがみ込み、心配そうな顔で見つめた。
「うん、鼻はまだ痛いけど、ずいぶんよくなったよ」
手で触れると、まだ鼻柱が痺れるように痛かったが、鼻血は出ていないし、変に曲がっている様子はない。
しばらくすると、誰かが通報したのだろう、踏切を渡って二人の警官がやってきた。
「喧嘩があって、カップルがこっちへ連れて行かれたと連絡があったんですか、あなたたちですか」
「ええ。でももう仲直りしましたわ。この人が鼻を怪我しましたけど、そんなにひどい訳じゃないですし、大丈夫です」
「相手の方はどうしましたか」
「どこかへ行ってしまいましたよ」
「そうですか」
警官たちは忙しいらしく、リッポたちの住所をメモしてそそくさと帰っていった。
「せっかくのデートが台無しね。清水駅へ行ったら、どっかでご飯を食べて帰りましょ」
悠月が手を引いたが、リッポは動かなかった。「待って」
「どうしたの?」
「悠月ちゃん、なんであの男はびっくりして逃げていったの?」
「さあ……。よくわからないわ。暗いから、街灯の加減であたしの顔が変な風に見えちゃったのかしら」
悠月が曖昧に笑ったが、リッポは真剣なまなざしで彼女を見上げた。
「あのオジサンさんが、悠月ちゃんをバケモンだって言ってたよ。西脇さんが言ってたのと同じだよ。本当に顔が変わっちゃったの?」
「そんな事ないでしょ。ほら」悠月がニッと笑ってほっぺたをつまんで見せた。
「ふざけるのはやめて。堂原さんが言ってたんだ。悠月ちゃんが僕と付き合ったのは、悠月ちゃんが死ぬことと関係があるからじゃないかって。だとしたら、悠月ちゃんが化けも顔になったとしても変じゃないよ」
「そんなはずないでしょ」悠月は笑ったが、少し強ばっているように見えた。
「だったらどうして悠月ちゃんは僕と付き合いたいと思ったの? 僕は見ての通り、デブでチビでバカだし、お金も持ってないんだよ」
悠月が死に関わっているという懸念を心の片隅へ追いやりながら、リッポは日々のデートを楽しんでいた。しかし、酔っ払いとのやりとりを見せられてしまったら、もう自分をごまかすことなんかできないと思う。
悠月の顔から笑顔が消えた。悲しく、優しげな表情で、静かに首を振った。カタンカタンと音を立てて踏切が下がり始め、警告灯の赤い点滅が悠月の顔を途切れ途切れに照らした。
不意に、悠月の目から涙が溢れてきた。
「あたしはあなたを見た時、すごく自然にドキドキできたの。お金持ちとかかっこいい人とか関係ない。あたしはリッポと会うため、この世界に生まれたんだと思ったの」
「そんなの、答えになってないよ」
悠月の涙にたじろぎながらも叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
突然、悠月は覆い被さるようにして、リッポを抱き締めた。
浴衣越しに、温かくて柔らかな胸の感触が伝わり、悠月の甘い匂いが鼻孔に広がっていく。リッポも強く抱き締め返した。言葉は途切れ、怒りが切なさへ変わっていく。
「リッポ、あたしたちはもうすぐお別れしなきゃならないの」
「だめだよ、僕は悠月ちゃんが好きだ。ずっとずっとこうしていたいよ」
不意に悠月は、リッポを押し返すようにして離れ、清水駅へ走って行った。その姿を、呆然として見ている。
「悠月ちゃん」
はっとして追いかけたが、既に悠月の姿は闇に紛れていた。線路沿いを走り、清水駅の改札まできたものの、とうとう悠月の姿を見つけることはできなかった。仕方なく、バスに乗り、三保に帰った。
疲れていたし、鼻もまだずきずき痛んだが、やらなければならない事があった。アパートを素通りし、畑の間を歩いた。静かに佇む松原を越え、海岸に立つ。空には月はなく、暗い夜空にわずかな星が瞬いていた。波は見えないが、波頭が崩れる音が断続的に聞こえてくる。塩辛い湿った風が海から弱く吹いてきた。
リッポは眼を閉じ、海に向かって手を合わせる。
神様、教えてください。悠月ちゃんはどうして僕が好きなんですか。顔はほんとうに変わっちゃうんですか。本当に、もうすぐお別れしなくちゃならないんですか。
海は答えない。目を開けて、闇に隠れた海をじっと見つめた。
暗い中、海面がゆったりと上下し、表面へさざ波が立っているのが、おぼろげにわかる。
その上に、一陣の冷たい風が吹きつけ、湿った風と混じり合った。
海面の表情に、微妙な変化が生じる。
海が、泣いている。
「悠月ちゃんは死んじゃうの? そんなの嫌だよ」
叫んだが、闇の中へ吸い込まれていくだけで、海は返事をしない。
「どうしてさ、どうして悠月ちゃんが死ななきゃならないのさ」
リッポは膝を突き、ぽろぽろと涙を流し始めた。
浜辺には、波頭の崩れる音だけが響きつつけていた。
このところリッポはあまり元気がない。休みの日も家にいるだけで、悠月とデートに行っている様子はなかった。個人的な問題なので、恋愛の話を聞くのは憚られたが、悠月自身に不審な点もある。藤倉は思いきって聞くことにした。
「リッポ、最近影澤さんとはうまくいっているのか?」
夕食の後、力なく炊飯器の釜を洗っているリッポの後ろ姿に声を掛けた。リッポがのっそりと振り返る。
「それがね、だめなんだ」
「何がだめなんだよ。喧嘩したのか? それとも影澤さんが別れようとか言ったのか」
「ううん。喧嘩もしてないし、別れ話もしてないよ」
「じゃあ、どうしてそんなに元気がないんだこのところ、影澤さんと会ってないだろ」
「悠月ちゃん、もうすぐ死んじゃうんだ」
リッポから大粒の涙が溢れてきた。
「死ぬって……」
悠月が死と関わりを持っているのは薄々わかっていたが、初めて見るリッポの涙に思わず動揺してしまう。
「海が、悠月ちゃんは死んじゃうって言っているんだ」
「藤倉さん、リッポ。こっちへ来てくれないか」
背後から声を掛けられて振り向くと、堂原が暗く、哀しげな目で見ていた。事務所へ行き、藤倉たちをソファに座らせた。六時を過ぎているので、留美は帰った後だ。
堂原は泣いているリッポをじっと見つめた。「海がそう言ったのは本当なのか」
リッポが泣きながらこっくりと頷く。
「海がリッポに死ぬと伝えた人たちは、間違いなく一ヶ月以内に亡くなっています」
「悠月さんはどうして死ぬんだ」
「海は教えてくれなかったよ」
「堂原さん、どうにか影澤さんを助けられないんですか?」
堂原は悲しげな目で、ゆっくり首を振った。
「人の生き死には、すべて神様が決めるのです。我々は無力です」
「けれど、病気だったら治療を受けるとか、危険が迫ったから逃げるとかできるでしょう」
藤倉は必死な目で堂原を見つめていた。
「病気になれば治療を受けて、元気になるかもしれません。火事が起きたら逃げて難を逃れられるかもしれません。でも、それさえも神様の差配だとしたら」
不意に、血の気のない頬で、目を閉じている紗良が脳裏に浮かんできた。藤倉は胸が締め付けられる衝動を受けた。
「死に向かう人々を医療によって治すのが、尊い行為なのは間違いないんです。しかし、人にできる行為はあくまでも延命でしかない。死そのものからは逃れられず、最後に生と死を分かつのは、人間の力ではないのです。そして今、影澤さんの前には、死が迫っている。わかりますか」
人は生まれれば必ず死を迎える。それは百年後であるかもしれないし、十一日後であるかもしれない。人々が本能的に生きながらえようとしている以上、死の訪れは人の意志を超えたところで働いている。自殺や安楽死があると言われるかもしれない。しかしそうした人々は、様々な理由で死に追い詰められたからだ。人の本質が死を望んでいるわけではない。
誰もが死を望んでいなかった紗良は、あっけなく死んでいった。人間の意志ではどうにもならない力によって。
藤倉は目を閉じ、心が落ち着くのを待った。
「大丈夫ですか」
目を開けた藤倉を、堂原が心配そうに覗き込んでいた。
「申し訳ありません。ちょっとめまいがしたものですから」
藤倉は小さく息を吐いて堂原を見た。
「私が一度、影澤さんに会って事情を聞いてきます。死んでしまう理由がなんであれ、リッポにこんな思いをさせるなんてあんまりですよ」
「僕も行く」
「リッポは富士川を渡れないんだからだめだよ。あの人が富士市に住んでいるのはわかっているだろ」
「でも行きたいんだよ」
「リッポ、わがままを言うんじゃない」
堂原に怒鳴られ、リッポはしょんぼりとうつむいた。
「早速アポを取って行ってきましょう」
「すいませんが、よろしくお願いします」
「お願いします」
堂原とリッポは親子のように一緒に頭を下げた。リッポは力なく、いつもより小さく見えた。
早速リッポに悠月の携帯番号を聞き出し、アパートへ戻ってから電話をかけた。
――悠月さんですか。夜分申し訳ありません、私、トコヨハイツの藤倉と申します。
――ああ。その節は無理を言って、色々とお手数をお掛けしました。
――いえ、とんでもありません。こちらこそご期待に添えず申し訳ありませんでした。ところで、本日お電話させていただいたのは、私どもで働いている望月のことなんです。もしよろしければ一度会って、お話を伺いたいと思いまして。
――承知しました。では私が午後にそちらへ伺います。
――あ、それでは申し訳ありませんから、僕が行かせていただきます。
静岡市内だとリッポが来る可能性が出てくるから、富士で会った方がいい。
――そうですか。お手数ですが、よろしくお願いします。
悠月とは国道沿いにあるイオンタウンで会うことになった。翌日、藤倉は食事の支度をした後、そっと建物を出た。軽のバンに乗り、三保街道から港湾道路を東に向かって走った。途中高架を上り、国一に合流して更に進む。
イオンタウンに到着し、広い駐車場にバンを停めて店に入った。典型的なロードサイドのショッピングセンターで、華やかで手ごろな価格の商品が並んでいる。この手の店は結婚当初、祐理とよく行ったが、紗良の件があってからは、ほとんど足を踏み入れたことがない。二階のフードコートでアイスコーヒーを購入し、悠月を待った。
平日の昼なので、主婦の集団や、サボっている風のサラリーマンたちがパラパラと座っているだけだ。アイスコーヒーを購入して椅子に座る。
そろそろ時間だなと思っていると、女性が一人歩いてくるのが目に入った。だらけた表情のサラリーマンが、眼を瞠った。
悠月は淡いピンクのブラウスに、黒のプリーツスカートを穿いていた。シンプルな組み合わせだが、きれいな体型なので、地味な印象はない。周囲が、ぱっと華やかになって印象を受けた。
主婦の一人が気づいて、一瞬冷たい視線を走らせた。サラリーマンの男は、彼女がまっすぐ藤倉の元へ歩いて行くのを見て、つまらなそうな顔でスマホに視線を戻す。
「お待たせしました」
頭を下げた悠月に藤倉も立ち上がり、頭を下げる。「こちらこそお忙しい所をお呼びして申し訳ありません」
悠月のアイスコーヒーを購入し、テーブルに置いた。彼女は礼を言い、一口飲んだ。
「今日おいでいただいたのは、電話でお話しした通り、リッポの件なんです。
あいつ、このところ元気がありませんで。聞くと影澤さんとも会っていないようですし、どうしたのかと思いまして。もちろん赤の他人の僕がどうのこうのと言う筋合いはないんですが、彼は家族みたいな存在でして、こうしてお伺いした次第です」
あなたはもうすぐ死ぬんじゃないですかなんて、面と向かって言えるはずがない。とりあえず男女の仲について聞き出しながら、彼女にどんな死が降りかかろうとしているのか探っていくしかない。
悠月はコーヒーの入ったプラスチックのコップを包み込むように持ち、ストローの先をしばらく見つめていたが、不意に顔を上げて藤倉を見た。
「リッポのことは今でも好きです。でも、あの人はあたしにどうして自分のことが好きなのか聞いてきたんです。あたしはそれを答えられなかった」
「どうしてです? 恋人に対して、自分がどうして好きなのか答えられなければ、相手が疑念を持つのは当然です。ましてやあいつは女性にもてるような容姿じゃないですから、あなたのような人に好きと言われれば、そう思ってしまいますよ」
「ごめんなさい。それでも答えられないんです」
藤倉は悠月の頑なな態度に困惑した。やはりこの話は避けて通れないのだろうか。
「ぶしつけな質問で申し訳ありません、影澤さんはひどい病気を抱えていませんか?」
「病気……ですか」
悠月は思いもよらないという風に、戸惑いの表情を浮かべた。しかし、その瞳の中に、動揺が垣間見えたのを見逃さなかった。
「リッポというのは不思議な力を持っていまして、近々死ぬような人が彼の周りに引き寄せて、幻を見せるんです。実際私はいくつかそんな現象を見ています。リッポは影澤さんも、引き寄せられた人じゃないかと恐れているんですよ」
ばかなことと、笑い飛ばして欲しいと思った。しかし悠月は暗く、沈んだ表情になった。
「そうなんですか。正直言って、私がもうすぐ死ぬかなんてわかりません。この後交通事故に遭うかもしれませんし、地震が起きて津波にのみ込まれるかもしれないし」
悠月は笑っていた。しかし目の奥で、深海にひっそりと蠢く深海魚のような、冷たくて暗いものが、すっと横切った。
「影澤さん、それは一般論ですね。差し出がましいようですが、もし影澤さんの身に何か問題でもあるようでしたら教えていただけませんか。私やリッポに協力できることがあるかもしれません」
そう言いながらも――海がリッポに死ぬと伝えた人たちは、間違いなく一ヶ月以内に亡くなっています――という堂原の言葉を思い出していた。藤倉は、ひどく絶望的な気持ちになるのを押さえられなかった。
「ごめんなさい、あたし、本当にわからないんです。これで失礼させていただきます。コーヒーをありがとうございます」
悠月は立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。藤倉も引き留める理由もなくお辞儀を返す。暗澹とした思いを抱え、立ち去っていく彼女の後ろ姿を見つめていた。
リッポは目を開けた。周囲は真っ暗で何も見えない。目覚まし時計を手に取ってライトを付けた。午前二時を指している。悠月が死ぬと知って以来、このところあまり眠れていない。もう一度眠りたかったが、むずむずと不安が立ち上がり、たまらない気持ちになってきた。心臓が激しく鼓動してくる。
立ち上がって電気を点けた。ふらつく頭で布団の上に座り、目が覚めた意味を考える。網戸から、べとついて潮の匂いを含んだ風が吹き付けていた。
心の中に、見たくないイメージが形作られていく。
「海へ行かなきゃ……。悠月ちゃんが死んじゃう」
リッポはサンダルを突っかけて三保海岸へ向かった。台風が近づいているせいか、強い風が吹いている。畑を抜けて松原へ入ると、やかましいくらいの風切り音が響いていた。
浜へ出て、リッポは一人波打ち際に立った。海に向かって手を合わせる。空は曇り、月も星も見えない。リッポの背丈より高い波が、覆い被さるようにして立ちはだかった。波頭が砕け、地の底から響く重い音を立て、海水が足下を濡らした。
「神様、どうして悠月ちゃんを助けてくれないのさ」
力を込めて叫ぶリッポの目から、熱い涙が溢れ出す。
しかし、海は何も答えようとしない。波へ向かって歩き出そうとした時だ。
「リッポ」不意に背後から声がして、振り返った。
暗闇の中、浜にぼんやりとした光が浮かび上がっていた。光の中心には花柄のワンピースを着た女性がいる。すらりと伸びた手足、小ぶりな顔で肩まで伸びた黒髪。大きな瞳が哀しげに光っていた。
「悠月ちゃん……」
「リッポ、もうあたしのために悩まないで」
「だって、海が悠月ちゃんを殺しちゃうんだ。そんなの許せないよ」
「違うわ、海があたしを殺すんじゃないの。大きな大きな流れの中で、あたしは死に向かっているの。海はそれを受け入れてくれるだけ」
「だったらそんな流れ、消しちゃえばいいんだ」
「そんな事が出来ないのは、リッポが一番よくわかっているでしょ」
「どうしてさ……どうして死んじゃうのに、悠月ちゃんは僕の前に現れたんだ」
「リッポは死にゆく人を引き寄せて、幻を見せるんでしょ。だからあたしはリッポの元に来たの」
「でも、僕は悠月ちゃんになんにも見せてないよ」
希望を込めて言った。幻を見せていないのなら、悠月ちゃんは死ぬはずがない。
「ううん、ちゃんと見せているわ」
「えっ、何を?」
「今のあたしを見せているじゃないの。こうしてリッポと一緒にいるあたしを」
「言ってる意味がわかんないよ。悠月ちゃんは悠月ちゃんじゃないか」
「違うの、あたしは幻よ」
「それって……」
霞のようにぼんやりしていた風景が、不意に形を取り始めたかと思うと、一瞬でひび割れ、粉々に砕け散っていく。
「そんなバカな。だったら二人の思い出だって、みんな幻になっちゃうじゃないか。あり得ないよ」
悠月はゆっくり首を振り、自嘲気味に微笑む。「でもね、あたしは本当に幻。だからどんな顔にだってなれるんだ」
悠月の目がかっと開いて吊り上がった。口が耳まで裂け、犬歯が鋭く伸びていく。
西脇が言っていた、般若の面のような顔だ。きっと七夕祭りの酔っ払いも、同じような顔を見たのだ。
目の奥から熱いものがこみ上げ、涙になって溢れた。リッポは絶望に震え、膝を突き、嗚咽を漏らし始めた。
「リッポ、わかった?」
投げやりに呟く悠月に、リッポはぐいと顔を持ち上げ、強い目で見上げた。「今の悠月ちゃんは、本当の悠月ちゃんじゃない」
「その通りよ」悠月が嘲るように笑った。「みんな幻なの」
「違うよ、僕には見えるんだ。悠月ちゃんの中には、もっともっときれいな悠月ちゃんがいるんだ」
悠月の顔が更に醜く歪んだ。
「でまかせを言わないで。男の人なんて、みんなきれいな顔が好きなのよ。だからリッポもそんなこと言うんでしょ」
リッポはゆっくり首を振った。「幻は自分の心からできているんだよ。だからきれいな悠月ちゃんは心の中にいるし、怖い悠月ちゃんだって心の中にいるんだ。ねえ悠月ちゃん、きれいな自分を見せておくれよ」
悠月は顔に戸惑いの色を浮かべた。「どうしてそんなことがわかるの?」
「だって、僕も幻なんだから」
リッポの体が透明になり、表情が消えた。
温度が吸い込まれるように消え、冷ややかな空気が支配する。
周囲から柔らかな明かりが包み込むように現れ、リッポと悠月を飲み込んでいく。
二人の体は、ふわりと浮かび上がった。
「リッポも……幻?」
「うん」リッポは澄んだ目で頷いた。
「あたしはリッポを見た時、すごく自然にドキドキできたの。お金持ちとかかっこいい人とか関係ない。あたしはリッポと会うために、この世界に生まれたんだと思ったの」
「それはね、悠月ちゃんと僕が幻だったから。幻だから、僕たちは愛していられたんだ」
悠月が、元の美しい顔へ戻っていく。
「それでいいんだよ」リッポはにっこり笑った。
二人は近づき、自然に抱き締め合った。悠月の柔らかな感触を意識しながら、本当に愛おしいと思った。目の奥が熱くなり、涙が溢れてきた。
顔を上げると悠月も泣いていた。二人は唇を重ねた。
幻の中で、ろうそくの炎のようにはかなくて、ちろちろと輝く魂が結びつき、絡み合っていく。
「ねえリッポ、あたしはもうすぐ消えちゃうの」
「そんなの嫌だよ……」
「でもねリッポ、仕方がないことなのよ。あなたも幻ならわかるでしょ。現実のあたしはもうすぐ死んじゃう。だからあたしも消えなくちゃならないの」
柔らかな感触が消え、魂の輝きも急速に弱まっていく。
「リッポ、ありがとう」
一際高い波が起こった。闇の中、黒々とした壁のような海水が迫り、波頭が崩れると同時に二人を飲み込んだ。
海中は暗くて冷たい音のない世界。それでも海は呼吸するように規則正しく揺らめいていた。海流は生物の中で躍動する血液のように、意志を持って流れている。その中にいる魚、エビ、貝、海藻、プランクトン。膨大で過剰なまでの生命が溢れ、一つの海を作り出している。
リッポは生命の流れに身をゆだね、翻弄されながら、悠月をぎゅっと抱きしめていた。絶対離さないと思う。
――リッポ、もう離して。あたしは行かなければならないの――
――嫌だよ。僕はずっとずっと悠月ちゃんと一緒にいるんだ――
憤りが海へ拡散されていく。しかし海はあまりに広く、深かった。海の尺度からすれば、リッポのちっぽけな存在など、生死を激しく繰り返すプランクトンと何ら変わりはない。
悠月がぼうっと発光し始めたかと思うと、金色の細かな粒となって海へ発散し始めた。
リッポの腕から、悠月がこぼれ始めていく。
――駄目だよっ――
悠月は限りなく暗く青い海の中、輝きながら、穏やかな顔で目を閉じていた。手も足も、光の中へ埋没し、帯となって身をくねらせ、するすると深い海の闇へ向かっていく。
リッポは悠月を追いかけようとしたが、強い奔流が突き上げ、海面へ押し上げられる。なす術もなく波打ち際に追いやられた。立ち上がった瞬間、波が襲いかかり、更に陸へ追いやられる。
立ち上がったリッポは、猛然と再び海へ向かっていった。しかし、海はリッポを再び押し返した。
「海は僕と一つなはずじゃないか。それなのに、どうして悠月ちゃんを奪っていったのさ」
憤りは暗い海へ吸い込まれ、返ってくることはなかった。
残ったのは、手に残る柔らかな感触の記憶だけ。
風は強く吹き付け、高い波が崩れ落ちてできる飛沫が全身に降りかかっていく。
リッポは呆然と、海の向こうに拡がる闇を見つめていた。
繰り返し鳴る玄関チャイムが聞こえ、暗闇の中、藤倉は目を覚ました。
「藤倉さん、早く起きてください」
ドアの向こうから堂原が切迫した声を上げていた。ただならぬものを感じ、照明を点け、朦朧とした頭でドアを開けた。
「えっ……」
廊下には堂原とリッポがいた。堂原が深刻そうな顔をしているのは声から予想ができたが、リッポのただならぬ様子に、藤倉は思わずたじろいだ。
いつもの朗らかなリッポはいなかった。ひどく暗く、目の奥に怒りを溜め込んでいた。彼は堂原に腕を掴まれ、走り出そうともがいていた。それを堂原が引き留めている。
「堂原さん、離してよ。僕は悠月ちゃんの所へ行かなきゃならないんだ」
「だめだって言ってるだろ。藤倉さん、申し訳ないけど、影澤さんの様子を見に行っていただけませんか」
「どういうことですか」
「悠月ちゃんが死んじゃうんだ。早く行かないと」
「最初は私をたたき起こして、影澤さんの所へ連れて行ってくれと言ったんですよ。だけどお前は富士川を渡れないから、私が行って見てきてやると言ったら、タクシーで行くって言い出しましてね」
リッポは富士川を越えると、なぜかひどく体調が悪くなる。だから富士市にある悠月の所へは行けないのだ。
「放っておくと、こいつは勝手に行こうとするから押さえていなくちゃならないんです。申し訳ありませんが、頼めるのは藤倉さんしかいないんです」
「電話は繋がらないんですか」
「さっきから掛けてますがだめです」
「わかりました。行きましょう」
「申し訳ないです」
眠気はすっかり覚めていた。藤倉はトコヨハイツへ行って西脇を起こし、悠月の家を聞き出した。携帯電話の地図に登録して軽のバンへ乗り込む。三保街道から港湾道路、国一バイパスを走り、富士川を渡った。風が強く、軽くて背の高いバンは簡単に風にあおられた。吉原駅を過ぎたところで住宅街に入り、時々携帯電話の地図を確認しながら進む。深夜の住宅街だから、悠月の家を探すのに苦労するかと思っていたが、あっさり見つかった。
家の前にパトカーが止まっていたからだ。門には黄色の規制線が張られている。内蔵がねじくれるような気持ちになりながら、パトカーの後ろへバンを停めて降りた。湿った強い風が吹き付ける中、規制線から声をかけた。中から体格のいい中年の男性が出てきた。
「夜分すいません、影澤悠月さんはご在宅でしょうか」
男性が規制線をくぐり抜け、不審げな顔で近づいてきた。「悠月さんに何かご用でも?」
ここへごまかしても仕方がないので、ストレートに言う。「実は、悠月さんが亡くなったんじゃないかと言っている人がいまして、伺いました」
「失礼ですが、悠月さんとはどのようなご関係で?」
藤倉は他人が理解できる範囲で正直に話した。自分がトコヨハイツに勤めていて、悠月が入居させて言って来たこと。リッポと彼女がつきあい始めたこと、そのリッポから悠月が死ぬかもしれないから見に行ってくれと頼まれたこと。
男は警察手帳を見せ、ちょっと話を伺いたいと言って、パトカーへ連れて行かれた。もう一人男が加わり、免許証を確認して、トコヨハイツとリッポに関して様々な質問をされた。警官たちは悠月の状態について、明確な話はしなかったが、言葉の端々から彼女が亡くなったこと、死因は自殺だったことがわかった。
玄関から年配の女性が出てきた。足早にパトカーの横を通り過ぎていったが、ひどくうろたえた目をしていた。悠月の母親なのだろうか。
三十分ほど質問を受けてようやく解放された。ご家族はかなり混乱しているので、呼び出すのは控えてくれないかと言われ、藤倉は清水へ戻ることにした。堂原に悠月は亡くなったと電話を入れ、バンのエンジンを掛けた。既に空は白み始めていた。
体がひどく重いのは、夜中にたたき起こされたせいだけではなかった。多少なりとも知っている人間が自殺するというのは気が滅入る話だった。ましてや彼女はリッポと付き合っていたのだ。悲嘆に暮れている彼を思うとたまらない気持ちになる。
相変わらず風は強かった。ハンドルを取られないよう気をつけながら走り、どうにかトコヨハイツへ戻った。疲れた体を引きずり事務所へ行くと、ソファに堂原とリッポが座っていた。
リッポはうつむき、体を縮み込ませていた。表情はわからなかったが、湿った息づかいから泣いているのがわかる。こんな時、下手な慰めの言葉など意味がない。車の鍵を戻し、黙って堂原の隣へ座った。
「ねえ……悠月ちゃんはどうして死ななきゃならなかったの?」
「ご家族には会えなかったし、警察も詳しいことは話してくれなかったんだよ」
リッポは大きく息を吐き、顔を上げた。赤く涙に濡れた目で、強い視線を向ける。
「ねえ、どうして人は死ななきゃいけないの? どうして神様はこんな風にしちゃったの」
言葉に詰まった藤倉をちらりと見て、堂原が話し出す。
「なあリッポ、藤倉さんを困らせるんじゃない。人間なんてのは生まれれば必ず死ぬもんなんだ。そんなことを言っても仕方がないだろ」
「でもおかしいよ。神様は死ぬのがわかってて悠月ちゃんを生み出したんでしょ。僕が泣くのをわかってて、悠月ちゃんと会わせたんでしょ」
再び何か言おうとした堂原を、藤倉が手で制した。
「確かにその通りだけど、僕たちは誰も答えを持っていないんだ。僕たちにできるのは、悠月さんが死んだ事実を受け入れることだけなんだよ」
娘の葬式を思い出す。未だに受け入れられていない自分を意識すると、嫌でも言葉が空回りするが、それでも言わなければと思う。
ぽつぽつと雨が降り出したかと思うと、たちまち本降りとなり、三保の町を濡らしていく。風が強く吹き付け、事務所の窓を揺らした。
悠月が死んだ理由はわからなかった。家族に聞けばよかったのだが、さすがに気が重い。それでもこのままではリッポも納得できないので、誰かが行くしかないだろう。当初、堂原が行くと言ったが、警察から藤倉が来たことを家族に連絡しているはずなので、藤倉の方が通りはいい。悠月が亡くなった翌週の日の午後、藤倉は悠月の家に向かった。
頭上から強い日差しが照りつける中、藤倉は軽のバンから降りて、悠月の家のインターホンを押した。しばらくして年配の女性が玄関を開けて出てきた。あの日、うろたえた目で、足早にパトカーの横を通り過ぎていった人だ。
「お忙しい所申し訳ありません。悠月さんが亡くなったとお聞きしまして、お線香を上げさせて頂きたく伺いました」
トコヨハイツの名刺を渡し、簡単に悠月との関係を説明した。
「ああ。この間、いらっしゃった方ですか。私、悠月の母でございます。どうぞお上がり下さい」
さすがに明るい表情ではなかったが、予想以上に落ち着いた物腰だった。藤倉は礼を言い、家に上がり、線香の匂いが漂う部屋に案内された。カーテンを引いた部屋は薄暗く、静かだった。奥に白布で覆われた祭壇が置いてあった。
「失礼します」祭壇の前に座ろうとして遺影に目を向けたとき、驚きで一瞬動きが止まった。それでも一連の動きをやめるのは失礼だと思い、正座をして線香に火を点け、手を合わせる。目を開け、改めて遺影をまじまじと見つめた。
写っている女性はひどく痩せており、角張った顎の骨が浮き出ていた。唇は薄く、目も一重で細い。
今まで会っていた悠月ではない。明らかに別人だった。
人違いなんだろうかと思ったが、今更口にするのも憚られ、母親に向き直る。
「あの……悠月がお宅様へ住まわせていただきたいと言ったのは、本当なんでしょうか。実はあの子、ずっと引きこもりで、その話を聞いたときは驚きました。私も働いておりまして、昼間は家を留守にしていたので、こっそり出かけて行ったのでしょうか」
すみません、別人でしたと謝ろうかと悩んでいたとき、目の隅へパネルが目に入った。葬式の時に、故人の思い出の場面を貼り付けて飾ったものだろう。その中にイラストがあった。藤倉はあっと叫びそうになるのを、辛うじて押さえた。
イラストは、花柄のワンピースを着た女性だった。手足がすらりと伸び、ほっそりとした顔立ちで、髪の毛を型まで伸ばしていた。瞳は大きく、きらきら輝いている。
「この絵は、悠月さんが描かれたんでしょうか」
「そうです。あの子は昔から絵を描くのが好きでして。その中でもこの子は悠月が一番のお気に入りでしたわ」
トコヨハイツを訪れた悠月は、イラストの中にいた。
「悠月さんはきっと外へ出たいと思っていたんでしょう。でも突然出かける姿を見せるのも気恥ずかしくて、家の人に隠れて出て行ったんだと思います」
「確かにこのところ表情も明るかったし、元気になるのかしらと思っていたんですが……。こんなことになるなんて」
母親はぽろぽろと涙を流し始めた。藤倉は慰める言葉も見つからず、その様子を見ているしかなかった。
「あの子、高校の時にいじめを受けましてねえ。同級生にブスだとか言われてひどく傷ついたみたいです。それが原因で引きこもりになりまして。もちろん美人とは言いませんけど、そんなにひどいわけじゃなかったんですよ」
「ええ、そうだと思います」
しゃくり上げるように泣いている母親を、落ち着くまで静かに待っていた。しばらくして彼女はティッシュペーパーで涙を拭った。
「取り乱したところをお見せして申し訳ありません」
「とんでもありません。どうか気を落とされないようになさってください」
藤倉はもう一度お辞儀をして、家を後にした。
夕方にトコヨハイツへ戻り、リッポに事情を話した。リッポは静かに聞いていたが、話が終わると大粒の涙を流し、激しく泣きじゃくり始めた。
「悠月ちゃんは幻かもしれないよ。でもね、一緒に映画も見たし、七夕だって行ったんだ。いっぱい話もしたし、一緒に笑ったんだ」
「そうかもしれないけど、世の中にはどうにもならないことがあるんだ。誰でもどこかで折り合いを付けていかなきゃならないんだよ」
堂原の言葉も、耳に入る様子はなかった。
「きっと神様はバカなんだ。バカだからこんなことをするんだよ」
「リッポ、そんなことを言うんじゃない」
堂原がたしなめるように言うが、リッポは「バカなんだ」と再び呟いた。
リッポを説得できる言葉なんか、この世にはないのだろう。今は、彼の横にいてやることしかできない。
藤倉は疲れて事務所の窓に目を向けた。強いと思っていた日差しは、夕方のせいかいつの間にか柔らかな丸みを帯び、秋の到来を予感させていた。