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笑ってる海、泣いてる海  作者: 青嶋幻
6/10

第五話 開かずの間

 かつて明子が住んでいた部屋には、新たに松野という男が入居していた。その松野から、隣の部屋からカチカチと音がするとの苦情が出ていた。隣の部屋は金井社長個人が借りている部屋で、「開かずの間」と呼ばれており、誰も住んでいないはずだった。管理を任されているリッポに理由を聞いたが、口止めされているらしく、教えてくれなかった。

 そんなある日、センムが事務所へやってきて、開かずの間の扉が開き、中から幽霊が出たと騒ぎ出す。

 騒然としている中、突然金井社長がトコヨハイツを訪れ、幽霊を探し始めた。


 空は晴れ渡り、今年初めての温かい風が吹いていた。海上では、港から来た二羽の海猫が、白い腹を見せ、ゆったりした動きで風に乗っていた。

 海は昨日降った雨で、波打ち際を中心に笹濁りをしていた。小さな波が繰り返し、波頭を崩す。海面は、さざ波が立つだけで穏やかだ。

 不意に盛り上がるように大きな波が立ち上がり、波打ち際で崩れていった。

 暗く、深い場所から浮かび上がってくる存在がある。

 それは意志を持ち、水面へ向かう。陸から自分を呼び寄せる者のために。


 海が笑ってる。


 先週末に降った大雨を境に、南からの風が吹き始め、一気に春めいた陽気になっていた。藤倉は松原を抜けて、砂利を踏みしめながら海へ向かった。

 海は先日の雨の影響で少し濁っていたが、波は静かで、海面が朝日にきらきらと反射していた。波打ち際に、ぽつりぽつりといる釣り人に混じって、小太りの男が海に向かって立っているのが見えた。

「おおい、リッポ」

 いつも通り、声を掛けても反応はなかった。仕方がないので背後まで近寄り、人差し指で脇腹を突いた。

「ぎゃっ」

 ぷるんとお尻を震わせながら、リッポがのけぞった。

「あ、藤倉さんだ」

「あ、じゃないよ。いつまでも拝んでいないで仕事しろ」

「はーい」

「ところで、今日の海は笑ってるのか? 泣いてるのか?」

 リッポはきらきら輝く海面を見て、笑いながら振り向いた。「今日は笑ってるよ」

「笑ってるっていうのはさ、どういう状態なんだ?」

「状態って、どういうこと?」

「例えばさ、笑ってるときは水が濁ってるとかさ、波が高いとかだよ」

「うーん。ベタ凪の時も波が高いときも、笑ってるときは笑ってるよ」

「じゃあ、どんなときに笑ってるんだよ」

「うーん」リッポは腕を組みながら、しばらく眉根を寄せて考え込んだ。

 不意に、ニカッと歯茎をむき出しにして笑いかける。「わかんない」

「なんか違いはないのかよ。笑ってるときと泣いてるときと、違いがあるんじゃないのか」

「泣いてるときは笑ってないし、笑ってるときは泣いてないよ」

「そりゃそうだ。空が晴れている時は曇りじゃないし、曇りの時は晴れていない。答えになってないよ」

「それじゃあ、晴れているっていうのはどういうこと?」

 リッポがむっとして、口をすぼめて反論した。

「そりゃあこういうことだよ」藤倉は太陽が差し込む空を指差した。「空が青いんだ」

「じゃあ青いってどういうこと?」

「青っていうのは……青なんだよ」

「笑ってるときは笑ってるんだよ。同じでしょ」

 反論しようとして口を開き掛けたが、答えが見つからなかった。

「まあ、そうだな」

「でしょ。笑ってるときは笑ってるし、泣いてるときは泣いてるんだ」

 勝ち誇ったようにニコニコ笑うリッポが少し憎たらしかったが、仕方がないので頷いた。

 青っていうのは青。青そのものを言葉で説明するのは難しい。それでも青と言えば誰もがわかるのは、全員が青というイメージを共有しているからだ。藤倉には、リッポが見る笑っている海、泣いている海というイメージが共有できていないのだろう。

「さあ行こう。さっき社長から電話があったんだ。戻ったら電話をしてくれ」

「はーい」

 トコヨハイツへ戻ると、事務所に堂原の姿はなく、相談室が使用中となっていた。

「あれ、誰か相談に来ているの?」

「松野さんですよ」留美がパソコン画面を見つめたまま呟く。

「へえ……。何かあったのかなあ」

 トコヨハイツでは面談予定を決めて、入居者に何か問題がないか聞き取りをしているが、松野の面会はまだ先のはずだ。

 五分ほどして松野と堂原が談話室から出てきた。松野が少し怯えた表情をしているのに気づき、他の入居者にいじめられているのかなと思い、不安になった。松野が出て行ったあと、何があったのか聞いてみた。

「松野さんの隣から、夜にカチカチ何かを叩く音がすると言うんですよ」

「佳枝さんの部屋ですか」

「それがですね、『開かずの間』からだそうなんですよ」

「『開かずの間』って、誰も住んでいないはずでしょう」

「ええ」

 松野が住んでいる部屋は、かつて明子が住んでいたところだ。右隣が福田佳枝の部屋で、左が一番端にある『開かずの間』と呼ばれる、誰も入居していない部屋だった。

 トコヨハイツは数ある無料低額宿泊所の中でも、比較的入居者の待遇がいいと評判になっている。そのせいで比較的空き部屋になる確率は低い。ただ、『開かずの間』は別で、藤倉がここへ来てから誰も入居したことがない。あそこをもっと活用できないかと堂原に聞いた事がある。

「『開かずの間』はうちの契約対象外なんですよ。この土地建物は金井不動産の持ち物なんですけど、あの部屋だけ、金井社長が個別に賃貸契約を結んじゃってるんです。前に社長に理由を聞いてみたんですけど、『お前とは関係ない』って言われまして」

 説明に釈然としないものを感じたが、さすがにあの社長に問いただす勇気はない。その部屋から音が聞こえてくるという。

「あの部屋は開けられないんですか?」

「私じゃ開けられないんです。ただ、社長から管理を依頼されている男はいるんですよ。おーい、リッポ」

「どうしたの?」

 リッポが事務所の入り口から顔を覗かせた。

「お前、社長から『開かずの間』の管理を任されているんだろ。松野さんからあの部屋から物音がするってクレームが入ったんだ。ちょっと見てきてくれないか」

「ああ、それなら今行ってきたよ。なんともなかった」

「しかしなんかあるはずだろう。もしかしたら、動物とか飼っているんじゃないのか」

「ううん。あそこは何にも飼ってないよ」

「でも松野さんはカチカチ音がするって言ってるぞ」

「うん、もう大丈夫だよ。きっと気のせいだから」

「『大丈夫だよ、気のせいだから』って、お前ちょっと文脈がおかしくないか?」

「そうなの? でも社長が大丈夫にしとけって言ってるから大丈夫なんだよ」

 リッポは居心地が悪そうに、モジモジしながら出て行った。金井社長から詳しいことは喋るなと言われているのだろう。それを承知で問い詰めるのも気が引けたので、藤倉は引き留めなかった。

 その後、堂原が何度か松野に聞いてみたが、物音はしてこなくなったという。ただし松野はそれでも不満らしく、周囲に文句を言っていた。

「ねえ藤倉さん、あそこって金井社長が借りちゃってるんでしょ。本来なら俺らみたいなのが住むべきじゃないんですか? これって権力者の横暴でしょう」

 昼食が終わったある日の午後、食器を片付けている藤倉に、松野が話しかけてきた。

「でも契約上そうなっているわけだし、僕らがどうのこうの言ったって変わりませんよ」

 それでも松野は不満らしく、口をへの字に曲げて聞いていた。

「松野の言うとおりだよ。俺も昔からそう思っていたんだ」

 横でお茶をすすっていたセンムが話しかけてきた。やっかいな人が入ってきたなと思いつつ、どうしたら納得してもらえるか思案した。

「俺も住む場所がなくて困ってた時に、ここへ入れてもらってありがたいと思ってるよ。だからずっと黙ってたんだけどさ、やっぱりおかしいよ。ここは税金とか優遇されているんだろ。その中にエライ人が私的に借り上げてる部屋があるって、どう見ても不自然じゃねえか」

「確かに僕もおかしいと思いますけどね、家主との契約なんですかしょうがないですよ」

「家主って言ったって、みんなカナイトランスポーターの関連会社なんだろ。これって金井社長の公私混同じゃないのか?」

「僕も詳しい話は知りませんから、何とも言えません」

「じゃあ、あの中に何があるのかも知らないんだな」

「ええ」

「なんだよ、使えねえな」

 思わずむっとしたが、感情的になればこじれるだけなので、黙って受け入れた。

「前に住んでいた人は気味悪がっていませんでしたか」

「そういえば、何にも言ってなかったですね」

「明子だろ。あいつは金井とツーカーだったから、中がどうなってるか知ってたんじゃないのか」

「確かにありえますね。明子さんがあの部屋に住んでいたのは『開かずの間』を他の人に詮索されないようにするためだったのかもしれないです」

「それ以上はわかんないって訳か。松野、やっぱりこいつら当てになんねえや。行こうぜ」

「はい」

 センム、いつの間にか松野さんを呼び捨てにしちゃってるよ。食堂から出で行くセンムは背筋を伸ばして偉そうな足取りで、後を付いていく猫背の松野は部下といった感じだ。いつの間にか上下関係ができているらしい。センムも先輩風を吹かせすぎて、松野が反発しなければいいがと思う。事務所へ戻った藤倉は、今のやりとりを堂原に報告した。

「あの人も何かと上位に立ちたがりますから、煙たがられるんですけどね。当人はあまり気にしてないようですから、困ったものですよ。ちょっと様子を見ましょう」

 しばらくは落ち着いた日が続いた。松野もあの日以来、『開かずの間』について話すこともなく、藤倉も日々起こるトラブルに忙殺され、問題そのものを忘れていった。

 事件が起きたのは、寒の戻りが入った、少し冷たい風が吹く午後だった。

「おおい、助けてくれ」センムが目を大きく見開き、強ばった顔をして事務所に来た。

「どうしましたか」

 藤倉と堂原はただならぬ気配を感じて、思わず腰を浮かせた。

「『開かずの間』から、幽霊が逃げ出したんだ」

「幽霊? どういうことなんですか」

「それが……」センムは急に口ごもる。「ちょっときてくれないか」

 藤倉と堂原は顔を見合わせたが、センムがさっさと行ってしまったので、後に続いた。食堂へ出ると、センムと一緒に松野がいた。ひどく蒼白な顔で、怯えているように見えた。センムを先頭にして、三階へ上がって行く。

「あれ、どうして……」

 一番奥にある『開かずの間』はドアが開いていた。中を覗くと、狭い部屋に場違いな、背丈ほどもある巨大な仏壇が壁に置いてあった。開いた扉と内部には精緻な彫刻が施され、濃く深い漆黒の艶を放っていた。室内にあるのは仏壇のみで、わずかに香の匂いがした。

「どうしてここが開いているんですか」

 センムが気まずそうに目を逸らし、松野は哀れに思えるほど怯え始めていた。

「来たら……自然に開いていたんです」

「リッポが鍵をかけ忘れたのかな」

「そうかもしれません。いや、きっとそうですよ。うん」

 必要以上に頷いてみせる松野に違和感を覚えたが、とりあえず無視することにした。

「それで、ここで何が起きたのですか」

「ここを開けたら若い男がいたんだ。俺たちを見ると、笑いながら横を通り過ぎて、部屋から出て行ったんだ」

「その人は以前見たことがありますか?」

「ない。初めて見る顔だ」

「不法侵入者という可能性もあるでしょ。どうして幽霊だなんて言っているんですか」

「あ、あいつ……体が透けて見えたんですよ。それに、歩いて行くと言うより、すーっと平行移動するみたいに動くんです」

「そりゃあ松野さんの気のせいでしょう」堂原がこともなげに言う。「ねえ大島さん」

「うん……そうだな」

「でも――」

「男は盗み目的でここに入ったんでしょう。これから交番へ相談に行ってきますから、室内には入らないようにして下さい。指紋とか出ると、疑われますからね」

 松野は自分が幽霊になったかのように青白く、消え入りそうな顔になっていた。堂原はそんな松野を無視してすたすたと歩き去って行った。

「堂原さん」

「わかってますよ。センムたちが見た若い男は、誰かの幻でしょう」

「センムは自分の人形の件もありますし、薄々わかっていると思うんですけど、松野さんはどうなんですか。かなり怯えてたみたいですし、あのままにしておくのはちょっとかわいそうな気がしますけど」

「いいんですよ。あの人が怯えているのは幽霊のせいだけじゃない」

「え?」

 堂原は足早に階段を降り、食堂に入って不意に足を止めて振り返った。周囲に誰もいないのを確認して、藤倉に近づき、耳元でささやいた。

「松野さんて、窃盗の前科があるんですよ」

「すると、『開かずの間』のドアを開けたのは松野さんですか」

「恐らくそうでしょう。二人の様子から見て、センムにけしかけられたんじゃないですかねえ。松野さんも意志の弱そうな感じの人ですし」

「だから交番へ相談するなんて言ったんですか」

「ええ。実際に行く気はないですけどね、あの人たちには反省してもらわないといけませんから。興味本位で『開かずの間』を開けただけならまだしも、他の人の部屋に入って物取りなんかされたらやっかいですし」

 堂原は携帯電話を取りだして電話をかけた。

「堂原です、お疲れ様です。実は三階にある社長の部屋が開いてまして、その件で社長に報告させていただきたいと思いまして。え? こっちへ向かっているんですか……。はいはい、お待ちしております」

 電話を切って藤倉を見る。「とりあえず金井社長に報告をあげなければと思いまして、白井さんに電話したんです。そうしたら、あの人たちはすでにこっちへ走り出しているそうです」

「すると、センムたちが見た若い男というのは、金井社長が関わっているんでしょうか」

「そうだと思います。なにか予感でもあったんでしょうね」

「だとすると、事態が解決するとまでは行かなくても、何が起きているのか把握したいですね。リッポなら、何か知っている可能性があるんじゃないですか」

「そう言えば、あいつはどこへ行ったんだろう。留美さん、リッポがどこへ行ったか知っていますか?」

「皆さんが出て行った後、入れ違いに浜へ浩一さんを探しに行ってくるって、言って出て行きましたけど」

「浩一さんって誰ですか?」

「皆さんが知らなくて、私にわかるはずがないでしょう」

 留美は冷たい目で堂原を一瞥すると、再びパソコン画面に戻っていった。堂原は苦笑いを浮かべながら、藤倉を見た。

「僕らも探しにいってみましょうか」

「そうですね」

 藤倉たちはリッポを探しに海岸へ行ったが、結局見つからなかった。

 四時過ぎになって、早希から三保街道に入ったとの電話があったので、藤倉と堂原は外に出た。日が傾き、冬のように冷たい風が吹き始めた中、金井が来るのを待った。

 黒光りした巨大なキャデラック・エスカレードが、狭い市道からトコヨハイツの敷地へ入ってきた。流れるような動きでぴたりとバックで車を停めて、運転席からサングラスを掛けた早希が出てきた。後部座席のドアを開け、早希より頭一つ分低い金井が出てきて二人をじろりと見た。

「このたびは私どもの管理が不行き届きで、ご迷惑をお掛けしまして申し訳ありません」

「で、出てった奴は見つかったのか?」

 やっぱり金井社長は事態を把握しているようだった。

「今のところわかりません。目撃者の話によると、部屋から出てきた人は若い男で、幽霊みたいに透けて見えたとか言ってましたが」

「リッポはどこだ」

「どうやら海岸へ、浩一さんという人を探しに出て行ったそうで」

「そうか、だったら俺も探しに行こう」

 金井が海岸へ向かって歩き出したので、藤倉と堂原が慌てて追いかけようとした。

「社長、コートを着てって下さい」

 早希が丸めたコートを投げて寄こし、藤倉が受け止めた。

「白井さんはついてこないんですか」

「あたしはここで待ってる」

「いいんだ。あいつは幽霊とか嫌いだからな」金井がニタリと笑った。

「へえ、そうなんですか。意外ですね」

「うるさい、早く探しに行けって」

 強い言葉で返しながらも、早希の右頬がピクピク痙攣していた。

 コートを着た金井は足早に海岸へ向かって歩きだし、その後を藤倉と堂原が続いた。松林を抜け、潮の匂いが含んだ風がきつく吹き付ける浜に出る。波はやや大きく、波口では繰り返し波が砕けて飛沫を上げていた。松林へ沈もうとしている太陽の夕日が、海をオレンジ色に染めていた。

「どこにいやがる」

 吹きすさぶ風の中、コートのポケットに手を突っ込んだ金井は、裾をはためかせ、周囲を見回していた。

 不意に金井が半島の先へ向かって歩き出した。波と葉擦れの音が響く中、わずかに沈み込む砂利を踏みしめ、珍しく背を丸めて歩いて行く。その姿に声を掛けるのも憚られ、二人は黙って後ろを歩いた。

 金井が立ち止まった。周囲を睨めつけるような目でぐるりと見渡したあと、不意に波打ち際へ向かった。波頭が砕け、飛び散った飛沫が降りかかる。

「兄ちゃん、どこにいるんだ。この辺にいるんだろ」金井が海岸線に向かって叫んだ。

 波の音に混じって、カチリカチリ、と硬い物同士がぶつかる音が聞こえてきた。松野が『開かずの間』から、カチカチ音がしていたと言っていたのを思い出す。

「社長、波に近づくと危険ですよ」

 堂原の注意を無視して、金井が波打ち際に近づいていく。目の前で波頭が砕け、革靴とズボンの裾を波が洗った。金井は構わずバシャバシャ音をたてながら、波と平行に歩いた。

 不意に立ち止まる。引き波が、砂利の音を響かせていた。

「そんなところに隠れてないでさ、早く出てこいよ」

 濡れた砂利の上に、何かが立ち現れようとしていた。最初は煙のように白く、もやもやしていたが、人の形になっていく。

 再び波が押し寄せ、白い煙を押し流そうするように見えた。その瞬間、煙と波が化学反応を起こしたように、煙へ色がつき始めた。

 波が引いたとき、煙のあった場所に二人の男が座っていた。一人はリッポ。もう一人は見たこともない若い男だった。髪の毛はきっちりと七三に分け、ベージュの作業服を着ていた。切れ長の目で端正な顔つきは、どことなく昔の青春映画に出てきそうだった。手に剣玉を持っており、リズミカルにカチリカチリと玉を皿に載せている。

 新しい波が襲い、リッポと若い男は腰まで波に浸かった。一瞬、波と同調するように体が揺れたが、水が引いても流されることなく座り続けていた。

「やあ、たっちゃん」若い男は穏やかな笑顔で金井を見上げた。

「兄ちゃん、探したんだぜ。心配かけせさせんなよ」

「ごめんよ。久々に海を見たら、きれいだったもんでさ」

「社長、僕がいたから大丈夫だったのに」隣にいたリッポがにっこり笑いかけた。

「そうかもしれねえけどよ、兄ちゃんに何かあると胸騒ぎがしてしょんねえんだ」

「社長、この方が浩一さんでしょうか」

「そうだ。俺の兄貴だよ」

 浩一が立ち上がった。きっと、若くして亡くなったのだろう。今の金井より年下に見えるのは当然としても、背丈は浩一の方が高いし、顔のパーツがいちいち大きい金井に対して、浩一はあっさりしている。妙な顔をしている藤倉に気づいたのか、金井が歯を剥き出して笑った。

「似てねえ兄弟だろ。種違いなんだ」金井が波打ち際から離れた。「見ろ、こんなに濡れちまったじゃねえか。リッポ、ショロショロしてねえで兄ちゃんを連れてこい」

 金井のダミ声に、リッポが「はーい」と答え、浩一の背中を押しながら歩き出した。金井を先頭にして、五人の男たちは松原を抜けてトコヨハイツへ戻った。

「早希、悪いけどよ、俺の着替えを買ってきてくんねえか」

「どうしたんですか?」

 金井が子供みたいに足踏みしてクチャクチャと音をたてると、早希の顔がさっと強ばった。

「社長、その靴からコートまで、全部フルオーダーなんですからね。いくらかかってるかわかりますか」

「グタグタ言ってんじゃねえ。こんなもん、また買やあええんだよ」

「その言葉、職人さんが聞いたら泣きますよ」

「金の話をしたのはお前だろうが」

「それくらい価値があるってことですよ」

「うるせえ、ショロショロしてねえで買ってこいって」

 早希が反論しようと口を開き掛けたとき、

「ごめんなさい、僕が部屋を抜け出しちゃったんで、皆さんに迷惑を掛けまして」

 浩一が割って入ってきた。

「この人……誰?」

 おぼろげに背後の建物が透けて見えるその姿に、ただならぬ気配を感じたのか、早希の頬がピクピク痙攣した。

「俺の死んだ兄貴だよ」金井がニタリと笑う。

「ひぃっ」

 早希が顔を引きつらせ、転がり込むようにキャデラックに乗り込んだ。エンジン音を響かせながら動き出す。動揺したのか門に右のドアを擦り、ゴゴッと音を立てながら道路へ出た。

「へへへ。ざまあみやがれ。みんな、兄ちゃんの部屋へ行くぞ」

 金井はトコヨハイツの階段を上っていった。五人の男が入るには『開かずの間』は少々狭かったが、金井が言うのだから仕方がない。藤倉たちは後に続いた。

「おう、悪りぃな」

 スーツと靴下を脱いだ金井は、堂原が持ってきたバスタオルを受け取り、あぐらをかいて足を拭き始めた。浩一が金井の横に正座し、藤倉たちは二人を囲むようにして座った。

「今回はご苦労さんだった。これで解散ってわけにもいかねえか」金井が寂しそうに笑った。「なんで兄ちゃんがここにいるのか話さなきゃなんねえな」

 金井は小さく息を吐き、話し出した。

「俺の母ちゃんにはよ、連れ子だった兄ちゃんがいたんだ。前の男は病気で死んだらしい。俺の親爺と再婚して、俺が生まれたってわけだ。

 俺の親爺はさ、飲んだくれの大工で、酒を飲むとしょっちゅう喧嘩ばっかするような男だった。居酒屋で働いていた母ちゃんを、無理矢理口説いて嫁にしたらしいけど、長くは続かなかった。最後は愛想を尽かしてさ、別の男と逃げ出しやがった。

 俺と兄ちゃんは母ちゃんに捨てられたのさ。親爺は常々ガキなんて大嫌いだなんていってる奴だから、親なんて務まるわけがねえ。稼いだ金は全部酒と博打につぎ込んじまって、家に金なんか入れなかった。まだ中学生だった兄ちゃんが中卒だって嘘ついて、朝晩新聞配達して稼いでくれたんだ。

 俺の親爺ってのは最低な奴でよ、たまに家へ来ると、何かと文句を言って兄ちゃんを殴るんだ。なんの血も繋がってない兄ちゃんが、自分の息子だなんていうのが許せなかったんだな。しかもよ、金がないときは兄ちゃんの金をふんだくりやがるんだぜ。

 それでも兄ちゃんは文句を言わなかった。家から逃げ出してもよかったのに、俺が飢えちまうと大変だからって残ってくれたんだ。俺なんかと違って学校の成績も優秀でよ、先生からは進学しないかって言われたくらいさ。でも働かないと食ってけないからって、高校進学は諦めたんだ。

 兄ちゃんはよ、二十三歳になったばかりの朝、交差点で車に突っ込まれて死んだんだ。夜明けまで酒を飲んでたバカが運転しててさ、即死だった。ふざけた話だぜ。

 親爺は相変わらず飲んだくれの馬鹿野郎だった。俺は俺で、親爺の血を継いで、喧嘩三昧のチンピラさ。それなのに、一番まじめで頭もいい兄ちゃんが先に死んじまいやがったんだ。

 神様は何てことしやがったって思ったよ。会社を始めたのはそれからさ。このままヤクザな生活してたら、死んだ兄ちゃんに申し訳が立たないと思ったんだ」

 金井は少し潤んだ目で、愛おしげに浩一を見た。浩一は相変わらず曇りのない、穏やかな笑顔を浮かべていた。

「死んだ兄ちゃんが現れるようになったのは、リッポと知り合ってからさ。トコヨハイツを立ち上げた理由の半分は、リッポに働いてもらいながら、兄ちゃんを見てもらうためだったんだ。

 みんな俺を、でかい投資案件を成功させたカリスマ経営者なんて持ち上げるけどよ、全然違うんだ。でかい案件と取り組んでるときはよ、内心ビクビクで、夜も眠れないほど怖いのさ。浦安の物流センターとかさ、キングロジスティクスの買収なんかもよ、失敗すれば会社が潰れて従業員を路頭に迷わせちまう。決断するまで悩んで悩み抜くんだ。

 そんなとき、どうしたらいいか兄ちゃんに相談するのさ。兄ちゃんは俺なんかと違って冷静で頭がいいからよ、話しているとすっきりして、自然と進むべき道が見えてくるのさ。カナイトランスポーターがここまででかくなったのは、兄ちゃんのおかげだよ」

 藤倉の携帯電話が鳴った。早希からだった。「社長の着替えを買ってきたわ。三保街道にいるから取りに来て」

「社長、白井さんが着替えを買ってきたそうですので行ってきます」

「ああ。そういやあ、もう入居者に飯を食わせなきゃいないんじゃねえのか。早く行ってやれよ。俺は着替えが来るまで、ここでゆっくりしてら」

 藤倉たちは寂しそうに微笑む金井を残して部屋を出た。

 三保街道へいくと、キャデラック・エスカレードの巨体がハザードランプを点けて停車していた。

「はいこれ」

 運転席の窓が開き、むすっとした顔の早希が、スーパーのポリ袋を差し出す。

 藤倉は中身を見て唖然とした。

「白井さん、他になかったんですか」

「あの人にはお似合いよ。あたし、もうあそこへ行くつもりはないからね。ここまで歩いて来てって言っといて」

 運転席の窓が閉まっていく。

「ちょっと待って下さいよ」

 叫びながらドアノブを引いたが、鍵がかかって開かない。

「全く……。これ、どうすんだよ」

 もう一度ポリ袋を見て、ため息をつく。

 中には真っ赤なビーチサンダルと、可愛らしいウサギのキャラクターがちりばめられたスウェット。

 こいつを社長に渡す身になってみろよと思いながら、トコヨハイツへ歩き出した。


 翌日の朝、松野が食事に姿を見せなかった。どうしたんだろうと思って部屋へ行くと、中は無人で荷物もなかった。食堂に戻り、センムに聞いてみる。

「大島さん、松野さんはどこへ行ったか知っていますか」

「そんなこと、俺に聞いたってわかるわけないだろ」

 センムはちらりと藤倉を見ると、まるで他人事のようにぞんざいに言い放ち、ゆで卵をむしゃむしゃ頬張った。

「昨日まで松野さんへ先輩風を吹かしていたのに、そんな言いぐさはないでしょう」

 センムはフンと鼻を鳴らしただけで、藤倉を無視して朝食を食べ続けた。むっとして口を開きかけたとき、トンと軽く背中を叩かれた。堂原だった。そのまま背中を押されて事務所へ連れて行かれた。

「この件に関しては私のミスです。交番へ相談するなんて言って、必要以上に松野さんを怯えさせてしまいました」

「でも、松野さんをけしかけて『開かずの間』を開けさせたのはセンムじゃないんですか? それが発覚しそうになったから、松野さんは逃げ出したんですよ」

「それが間違いないとしても、証拠はないんです。松野さんはいないし、あの調子だと、センムが素直に話すはずがない」

「じゃあ。センムをほっとけというんですか」

「結論から言うとそうですね」

「でも……」

「藤倉さん、我々が強い立場であるのを忘れちゃいけない。センムの性格なら、動かぬ証拠を突きつけられたとしても謝らないでしょう。そうなればセンムもここに居づらくなって、出て行かざるを得ないんです。藤倉さんが怒るのはわかりますけど、時には曖昧なままにしておくことも必要なんです」

 納得はいかなかったものの、堂原の言うことが正しいのはわかったし、藤倉も感情だけで動くような歳ではなかった。藤倉は「はい」答えた。

 生活保護費の受取日が来たが、松野が戻ってくることはなかった。翌月も連絡はなかったため、堂原は松野を退居扱いとし、新たに入居者を募ることにした。

 藤倉はリッポと松野がいた部屋の掃除を始めた。入居していた期間が短いため、特に傷んだ箇所も見当たらず、一時間もせず終了した。開け放たれた窓からは心地よい春の風が吹き込んでくる。藤倉は一息つき、ペットボトルのキャップを開け、喉を鳴らしてお茶を飲んだ。

 壁の向こうから、かすかにカチカチと音が聞こえてくる。

「リッポ。浩一さん、また剣玉をやってるな」

「そうだね。やめるように話しとくよ」

「幻にあれこれ言っても多分無理だろ。それより、浩一さんの壁に防音パネルでも貼った方がいいんじゃないのか。エンチョーに行けば売ってるだろうし」

「わかったよ。じゃあ午後に見に行こう」

「ああ」

「ついでにミスドのドーナッツおごって」

「だめ」

「ケチぃ」

「なんで俺がお前におごんなきゃなんないんだよ」

「だってお金がないんだもん」

「そういうときはな、目を閉じて息を止めて、好きな食べ物を心の中で念じるんだ。そうすると、食べ物の味が口の中に広がってくるぞ」

「そうなの」

 リッポは眼を閉じて眉間に皺を寄せながら、ウンッと息を止めた。しばらくして目を開け、ゼイゼイ荒い息をしながら不審げな顔で藤倉を見た。

「ねえ、味がしないよ」

「集中力が足りないんだ。俺なんか寿司だろうが焼き肉だろうがいつだって味わうことができるんだぜ」

「嘘だあ、僕のことからかってんでしょ」

「ホントだってば」

 そう言いながら、堪えられなくなってケラケラ笑ってしまう。

「ほらあ、やっぱ嘘じゃん」

 リッポが口をすぼめて抗議した。

 壁の向こうから、カチカチという音が微かに響き続けている。


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