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笑ってる海、泣いてる海  作者: 青嶋幻
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第四話 母と子

 冬のある日、トコヨハイツの周辺で、不審な若い男が目撃される。その日から堂原の様子がおかしくなっていった。その男と堂原は何か関係があるのではと思った藤倉は、堂原の過去を調べ始める。

 今回笑いはありません。連作中で、最もダークなお話です。


 三保の海に、冷たくて乾いた西風が吹いていた。風は松林に遮られ、波打ち際で渦巻くように吹いている。そのせいか波は穏やかだが、風は容赦なく海の表面をかすめ、ぴりぴりした緊張を保っていた。

 砂浜から風にあおられて立ち上がる細かなゴミが海面に落ち、たちまち飲み込んでいく。

 海の色は透き通るような青。

 つむじ風が水面を嬲り、水が撚れていく時、深く暗い場所から何かがせり上がってくる。

 それは、海の外で、自分を待ち望んでいる者を意識する。

 海面がわずかに盛り上がった。

 海が泣いてる。


 トコヨハイツには強い西風が吹き付けていた。窓から発作のように風切り音が断続的に聞こえてくる。十二月に入ってから気温はぐっと下がり、朝は畑に置いてあるバケツの水が凍っている時もあった。

「この辺りは北からの雪雲が、南アルプスに遮られて入ってこないんですよ。たまに来たとしても、黒潮の影響で海岸近くは雨になるんです。その代わり海風だけは強くてね、閉口しますよ」

「そうなんですか」堂原の説明に藤倉は頷き、インスタントコーヒーを一口すする。一時的に風が治まり、室内にエアコンの送風音と留美がキーボードを叩く音が聞こえてくる。

「そういえば、リッポはどこへ行ったんですか?」

「あいつなら、きっと海へ行っているんじゃないですか? 仕事中はだめだって言ってあるんですけど、暇があると海へ行きたがるんですよ。悪気はないんですけどね、あいつ、つい忘れちゃうらしいんです」

 堂原が苦笑いを浮かべる。

「そう言えばリッポって、海が笑ってるとか泣いてるとか言ってますよね。あれってなんですかねえ」

「私もよくわかりません。リッポにとって海は神様ですから、彼だけに見えるものがあるんでしょうね」

 事務所のドアがトントンと響き、ドアが開いた。冷気と共に紺のコートを着込んだ警官が現れた。三保交番の大石という三十過ぎの巡査だ。トコヨハイツでは部屋で死ぬ人がしばしばいるので、彼とは顔見知りだった。

「おや? 今日はどうされたのですか。今のところ危なそうな入居者はいませんけど」

「今日はそっちの方じゃないんです。ちょっとお願いがありまして。実は先週から三保の松原に不審者がいるという通報が複数来ていまして、私も探しているんです。何度か見かけたんですが、すばしっこいのかすぐにいなくなってしまうんですよ。若い男らしいんですけど」

「そうなんですか。私たちも見つけたら大石さんへ連絡しますよ」

「お願いします。入居者の方にも注意するよう言っていただけますか」

「わかりました」

 大石が帰っていった。藤倉はコーヒーをもう一口すすり、再び風切り音が響き始めた窓を見た。

「こんな寒い時期にどうしたんでしょうかねえ。松原なんて何にもないでしょうし」

 堂原が時計を見た。「そういえばリッポの奴、どうしたんだろうな。不審者がいるなんて言われると心配ですよ。ちょっと見に行ってきます」

 堂原が紺のドカジャンを着込んで事務所を出て行った。

 しばらくすると、勢いよくドアが開き、リッポが入ってきた」

「堂原さん、センムの具合が悪いみたいなんだ。病院に連れてってくれる?」

「堂原さんなら、お前を探しに浜へ行ったぞ」

「そうなの? 僕、今まで西脇さんの部屋でオセロをしてたんだよ。そうしたらセンムが、熱があるみたいだって来たんだよ」

「じゃあ堂原さんは行って損しちゃったな。とりあえず僕が行くよ。大島さんを一階に連れてきてくれ」

 藤倉はドカジャンを着ると、留美に大島さんを病院へ連れて行くと言付けして、バンの鍵を取り、外へ出た。エンジンを掛けて入り口に横付けすると、リッポに連れられて赤い顔をした大島が出てきた。彼を乗せて市立病院へ向かった。

 大島は風邪で、こじらせて肺炎になるとやっかいだから、安静にするよう医師に言われてトコヨハイツへ戻った。時刻は四時近くになっていた。

「あれ? 留美さん、堂原さんはまだ帰ってきていませんか」

「姿は見かけませんけど」

「電話もありませんか」

「はい」

 指を止めた留美が、再びキーボードを叩き始めた。堂原が出かけてから、もう二時間以上経過していた。リッポはいるというのに、何をやっているのだろうか。

 結局、堂原が帰ってきたのはすっかり日が暮れた五時過ぎだった。ひどく疲れた顔をして、ドカジャンを着たまま椅子に座り、パソコンの画面を見ていた。少し気になったが、そろそろ入居者の食事を出す時間だった。藤倉はリッポを促して食堂へ行った。

 全員の食事が終わって事務所に戻ってくると、留美は退社した後で、堂原だけが机に座って、まだパソコンの画面を見ていた。どうやらネットで何か見ているようだった。

 睨み付けるような暗い目をしていた。今まで見たこともない顔なので、思わず堂原を凝視してしまったが、その様子に気づくこともない。

「堂原さん、私はこれで失礼させてもらいます」

 声を掛けられて、驚いたように顔を上げた。憑き物が取れたように、一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、曖昧に微笑み「お疲れ様です」と言った。再びパソコンへ向かう。

 一体何を見ているんだろうかと思ったが、あえて覗き込むのはためらわれた。藤倉はコートを着て建物を出た。昼間より風が弱かったが、温度は更に下がっているので、刺すような冷気が頬を嬲った。

 門を出たところにLEDの街灯があり、道路を照らしていた。その下を通り過ぎようとしたとき、明かりの向こうで影が動いた。誰かいるのかと思い、足を止めた。

 影は明かりに差し掛かる手前で停まった。明らかに藤倉を見ている。

「何かご用ですか」

 藤倉はいつでも逃げ出せるよう、少し身構えた。

「ここには……堂原さんがいるんですか」

 影が少しだけ近づき、わずかに表情が窺えるようになった。歳はまだ二十代だろうか。わずかに幼さの残った顔立ちだ。ぼんやりした目の男で、表情から感情は読み取れない。

「あなたは誰なんですか」

 逆に問いかけた。男はわずかに笑みを浮かべたように見えた瞬間、闇に消えた。不審だったが、下手に追いかけるのは危険だと思い、街灯の下に踏みとどまった。堂原に報告しようと思い、事務所へ戻った。

 堂原はまだ熱心にパソコンを見つめていた。ドアを開ける音に気づいて顔を上げる。

「忘れ物でもしましたか」

「門を出ようとしたところで、ここに堂原さんはいるかと男に声を掛けられまして」

「ほう……」さび付いた機械がきしむような、かすれた声だった。

「何か心当たりはありませんか」

「いいえ、知りません」

 堂原はきっぱりと、表情を変えずに答えた。

 嘘をついていると思う。自分の所在を確かめるため、夜中に男がトコヨハイツの前にいたのだから、もっと不審げな顔をしてもいいはずだ。

 昼間に来た警官が話していた不審者と、長時間外へ出かけたまま帰らなかった堂原。そして今、堂原の所在を聞いてきた男。何か繋がりがあるのだろうか。


 小田俊太はバスに乗って清水駅へ戻った。商店街で下着とひげそりを買った後、雑居ビルの二階にあるネットカフェに入った。コインシャワーを使って久方ぶりに体を洗った。寒さで強ばったからだがほぐれていくのを感じる。下着を取り替えて、古い物は捨てた。服を着てひげを剃り、自分のブースに戻り、ソファーの背もたれを倒して目をつぶった。誰かが食事をしているのだろう、カレーの匂いが漂ってくるが、食欲は湧いてこない。ひどく疲れていたが、眠りも訪れない。

 過去の思い出が、点けっぱなしのテレビのように、だらだらと浮かび上がってくる。


 七年前の夏の日だった。俊太は地元のT高校に通っていた。出席日数を満たし、警察のやっかいにならなければ誰でも卒業できる高校だった。三年生なので、そろそろ就職先を見つけなければいけない時期に来ていた。

 二年までは進学という希望も漠然と持っていた。しかし離婚後は昼間はスーパーのレジ打ち、夜はビル掃除でようやく生計を立てている母親に、俊太の大学生活を賄える金などあるはずがない。父親の男は養育費を払うどころか、何年も前から所在不明だ。いつの間にか卒業後の進路は、就職が既定路線となっていた。

 何気なく求人票を見ていると、既に就職を選択している同級生が話しかけてきた。

「ロクな仕事がありゃしねえ」

 吐き捨てるように呟いた。俊太が怪訝そうな顔をしていると「見てみろよ」と壁に貼り付けてある求人票を指差していく。

「運転手、介護、現場作業、飲食店、営業。こんなんばっかじゃねえか」

「それがどうかしたか?」

「まだわかんねえのか? みんな仕事がきついか給料が安い仕事ばっかりさ。佐古田に聞いてみろよ。こんな所に就職したって、お前ら半年も持たねえぞって言ってるぞ」

 佐古田というのは俊太の通うT高校の就職担当教師だった。定年間近の痩せた男で、生徒の前でもやる気のなさを隠すことはなかった。T高校から就職するには、まずこの男の無気力に伝染しないことが必要だが、そんな意志を持っている奴自体があまりいない。結果、就職率は更に落ちていく。

「今時就職を探したって遅せーぞ。まともな仕事は橋本とかさ、俺らより勉強ができる奴らがかっさらっちまった後さ。しかもよ、お前運転免許取る予定あんのかよ」

「ないよ」

 運転免許については以前、先生に言われて母親に話をしたが、取得にかかる金額を言うと、ひどく困った顔をして黙り込んでしまった。それ以来、口に出せないでいる。

「だったら運転手なんて全然だめじゃん。営業も運転免許を持ってないと話になんねえし」

 同級生の愚痴を聞いていると、どんどん暗い気分になっていく。十八歳の手前で、すでに夢も希望もなかった。

 学校からの帰り道、日差しの強い午後だった。太陽の光は首筋を焦がし、蒸し暑い空気がひたすら足下から立ちのぼってきていた。熱くて目眩がしてくるが、アイスを買う小銭さえも持っていない。

「おう俊太、久しぶりだな」

 コンビニの駐車場に停めてある車から声を掛けられた。古い型のステップワゴンで、黒のボディーに、ヘッドライトと窓へスモークが貼ってあった。運転席から男が身を乗り出している。錐で彫ったように細い目と、ニキビ跡が目立つ頬。浅倉龍平だった。

「あ……。こんにちは」自分でも情けなく思えるほど弱々しい声で返事をすると、視線を逸らし、歩き去ろうとした。

「ちょっと待てよ」龍平がステップワゴンから降りて、足早に近づいてきた。走り去る勇気もなく、腕を掴まれた。仕方なく頭一つ分高い顔を見上げた。

 意味不明のロゴが入っている緑のTシャツに、色あせたダメージジーンズ、首には金メッキのネックレスで、赤いベースボールキャップを被っている。センスのなさは昔と変わらない。

「お前、相変わらずあのバカ高校に通ってるのか」

「はい……」

 そのバカ学校を二年前に中退したのは目の前の男なのだが、言わずにおいた。切れると何をするかわからない癖は、きっと治っていないだろう。

 龍平は俊太より一歳年上で、二年前まで俊太が住んでいるアパートの二階に住んでいた。俊太と同じくカーストの底辺にいるいじめられっ子だったが、中学校に入って体格も大きくなり、喧嘩も多少強くなったせいか、子分を引き連れて歩くようになった。もっとも、底辺にいるのは相変わらずで、つるんでいる奴は、自分より更に弱い奴らばかりだった。

 俊太にも、俺とつるめよと何度か誘われたこともあったが、すべて断っていた。それでもリンチに遭わなかったのは、同じアパートに住んでいたからだ。酒を飲んで切れると、手が付けられないほど凶暴になる父親に、告げ口されるのを恐れていた。

「龍平さん、東京へ行ったんじゃなかったんですか」

「帰ってきたんだ」アバタ面をニタリと歪めて笑う。「よろしく頼むぜ」

「はあ……」

「LINE交換しようぜ」

「あの……。僕、携帯を持ってないんです」

「そうか。残念だな」

 俊太の腕を放した。これで解放されるのかとほっとした瞬間、龍平の目の奥が光った。

 いきなりワイシャツの襟首を掴み、つり上げるようにして引き寄せられた。空いた手でズボンのポケットをまさぐられた。

 突き飛ばすように引き離された。ニタニタ二粘着質な笑いを浮かべながら、右手に持っているのは携帯電話だった。

「こいつはなんだよ」

「それは……」

 口元は笑いを浮かべていたが、俊太を見る目の奥は暗く、冷ややかに輝いていた。

 中学生の頃、アパートの前で会った龍平を思い出す。

――今からよ、竹谷の奴をボコってくるんだ。お前も付き合うか――

 翌日から竹谷は一ヶ月学校を休み、出てきたときはひどく暗い顔をして、少し足を引きずっていた。

 あのときと同じ顔だ。

 恐怖が、爪の先まで浸透していく。

「おう、何とか言えよ」

 髪の毛を鷲掴みにされ、携帯電話の画面でぺたぺたと軽く頬を叩き始めた。

「それは……。僕のです」

「俺に嘘ついてたんだよな」

「あ……はい」

 頭が痺れたようになり、視界がチカチカしてきた。

「久々に俺と会ったんで、ビビってたんだろ」

 手が髪の毛から離れた。少しよろけながら、機械のようなぎこちなさで、何度も頷いた。

「嘘をついたのは腹が立つけどよ、幼なじみだから今回は許してやらあ」

「はい、すいませんでした」

「さてと、LINEの交換だ」

 学校も家も知られているのだから逃げようがない。素直に交換するしかなかった。

「連絡するからよ、どっか遊びに行こうぜ」

 ステップワゴンに乗り込み、上機嫌で走り去る龍平を見送った。龍平の父親は一年前から姿を見かけなくなっていたから、奴を止められる者はいない。喘ぎながら泥の中を歩いているときに、いきなり押し倒され、顔をグリグリと押しつけられた気分だった。


「な、簡単だろ」

 金具をイグニッションの鍵穴に突っ込み、いじっていると、一分もしないうちに原付きのエンジンがうなりだした。ワイヤーロックは既にカッターで切断してある。龍平は屈んでいた体を起こした。わずかな街灯の光に照らされた顔が、自慢げでねちっこい笑いを浮かべている。

「拓真、オメーが乗ってけ」

「はい」

 一昨日十六になったばかりの拓真が、躊躇せず他人のスクーターに跨がり、ライトを点ける。まぶしさに目を細めながら、俊太は道を空けた。チープなエンジン音を立てながら、スクーターが走り去っていく。

「俺たちもとっととずらかるぜ」

 三人の少年たちは鉄道の高架下から歩き去り、路上に停めてあったステップワゴンへ乗り込んだ。龍平は後部座席、俊太はさっき拓真が乗っていた助手席へ乗った。運転するのは大樹という俊太と同学年の男だ。T高校へ通っていたが、あまり話したことはない。最近見かけないと思っていたら、いつの間にか中退していた。運転免許はバイトで貯めた金を使って、四月の誕生日に合わせて取得したという。

 ステップワゴンが走り出す。龍平は足を組み、右腕を背もたれに掛けながら、ニタニタ笑っていた。

「いいか、俺はこの町でのし上がっていくんだ。手下だってもっと増やしていく。オメーらはしっかり俺についてくるんだせ。そうすりゃ何年かしたら幹部になれるんだからな」

 夢みたいな話をしていると思っていたが、怖いので押し黙っていた。T高校では歴代の番長が校内を仕切っている。OBを通じて地元のヤクザと繋がっているので、あからさまな違法行為でない限り、教師も怖くて手を出さない。そんな流れからもはじき出された奴が、この町でのし上がっていくなんて、笑い話にもなりやしない。

 ステップワゴンは山道沿いにある潰れた工場の前に着いた。チェーンは既に取り払われていたので、そのまま敷地へ入っていく。

「龍平さーん、エンジン止めてくださいよお」

 暗闇の中、バイクのエンジン音と拓真の妙に間延びした声が聞こえてくる。

「待ってろ。俊太、懐中電灯で照らせ」

 言われたとおり、バイクのイグニッションを照らす。大げさに眉根を寄せて鍵穴をいじる龍平と、横で惚けたような顔で見ている拓真が見えた。拓真はバカだと自覚している俊太から見ても、更にグズでバカだった。罪を犯しているという自覚がないのかもしれない。

「これでよし、行くぞ」

 四人はステップワゴンに乗り込み、工場を後にした。龍平の命令で、国道沿いにある二十四時間営業のハンバーガーチェーン店へ行った。

「俺のおごりだからよ、何でも食えよ」

「ありがとうございまーす」

 そう言いながらも、ダブルバーガーを買うとあからさまに不機嫌になるので、チーズバーガーを注文した。

 にこやかに笑いかける女性店員へ、横柄に千円札を投げ出すように差し出した。当人はどうやらこれがかっこいいと思っているらしい。二階にあるイートインスペースへ異動する。平日の午後十時過ぎとあって、俊太たち以外は誰もいなかった。龍平が窓際の席に座り、他の三人は取り囲むように座った。チーズバーガーと脂の匂いがきついフライドポテトを食べていると、龍平が三人を睨めつけるように見回しながら口を開いた。

「オメーらよ、俺がなんでスクーターをパクったのかわかってんのか?」

 俊太と大樹は不安げに目を合わせた。拓真は口を半開きにして、ぼんやり龍平を見ているだけだった。

「俺たちもよ、店でCDとかマンガなんかパクってるだけじゃしょうがねえと思うんだ。もう一つステップアップしようと思ってよ」

 ニタリと芝居じみた笑みを浮かべ、身を乗り出す。

「明日からひったくりを始めようかと思うんだ」

「俺……。ひったくりなんかやったことないンすけど」大樹が不安げに呟く。

「心配ねえって、俺が東京仕込みの腕を見せてやっからよお」

 きっと大物ぶっているつもりなのだろう、龍平はのけぞりそうなくらいに椅子へ寄りかかり、ヘラヘラ薄っぺらい笑いを浮かべた。


 やはり堂原は様子がおかしかった。住民やリッポとも軽口を叩くわけでもなく、淡々と業務をこなしていた。先日の件が関連しているかと思ったが、堂原が昨日の男など知らないという以上、動きようがない。

 夕方のことだった。パトカーのサイレンが三保街道から聞こえてきた。立て続けに響いてくるので、一台ではないのだろう。

「何かあったんでしょうかねえ」

「さあ……。なんでしょうか」

 いかにも関心がなさそうな言葉に反して、堂原は落ち着かなげに貧乏揺すりを始めた。

 サイレンの音が近くで停まった。

「僕、ちょっと見てきますよ」言葉を発しかけた堂原を制する形で藤倉は発言し、立ち上がった。堂原は戸惑ったように開けた口を一旦閉じ「お願いします」と言った。恐らく堂原は、パトカーの到着が、先日の男と関連があるのではないかと思っている。藤倉もそう思うからこそ、先手をとって確かめたかった。

 ドカジャンを着込み、外へ出た。相変わらず空は晴れ、強くて冷たい風が吹いていた。藤倉はサイレンが鳴っていた方向へ歩き出した。松原が見えてきたところで、パトカーの赤い点滅灯が瞬いているが見えてきた。パトカーの近くから松原の中を覗きこむと、数人の警官たちが立っているのが見えた。

「どうかしたんですか?」

 隣で様子を見ている老人の一人に聞いてみた。

「ホテルの人がね、松原の中にいた男に話を聞こうとして取り囲んだそうなんだ。そうしたら、男が振り払って逃げたらしいよ」

 よく見ると、警官に混じってホテルの法被を着た男が険しい顔をして何か話している。男は先日大石が話していた不審者なんだろうか。

「藤倉さん」いきなり背中を突かれて振り向くと、背後に西脇がにやけた顔を浮かべて立っていた。紫のフリースにブラックジーンズを着ている。自由にできる金はたいしてないはずなのに、人並み以上の衣装持ちだった。当人の話によると、古着屋へ行って格安で買い込んでくるらしい。

「見物かい?」

「このところ物騒なんで、どうしたのかと思いまして」

「逃げた男なんだけど」西脇がそっと耳元でささやくいた。「どうも殺人犯らしいんだってさ」

「へえ……。そうなんですか」

「ムショからはもう出ているらしいんだけどさ、過去にやらかした奴でもあるし、警察も警戒しているらしいよ」

 嘘つき西脇とあだ名されている男だ。嘘をついている可能性が極めて高い。ただ顔が広い男なので、色々な情報を持っているのも確かだ。

 もし西脇の言っていることが本当なら、男はなぜここに現れたのだろうか。堂原とは関係があるのだろうか。


「上出来じゃねえか」

 暗闇の中、龍平は満足げにニタニタ笑いながら、財布から札と小銭を抜き取った。他の三人には、駄賃だと言って千円札を一枚ずつ渡した。こんなもん昼飯を食ったら終わりだよな、と思いながらも、「ありがとうございます」と礼を言った。

「俊太、懐中電灯」

 バックに懐中電灯の光を当てた。龍平は他にめぼしい物がないか物色し始める。

「おい、あのババア、こんなもん持ってたぜ」

 脂ぎった頬を歪め、嫌らしい笑いを浮かべながら、アルミパックに入ったコンドームを取り出した。「あんなぶよぶよのババアとやりたがる男がいるんだろうな」

「俺だったら、ぜってー立たねえよ」

 四人はゲラゲラ下品な笑い声を上げた。

「他は大したもんねえな。拓真、こいつを川に捨ててこい」

「はーい」

 相変わらずの惚けた顔で龍平からバッグを受け取り、廃墟の工場から出て行った。外からスクーターのエンジンのうなり声が響き、やがて音は遠ざかっていく。

 暗闇でライターの火が点いて、タバコを咥えた龍平のにやけた顔が浮かび上がって消える。再び暗闇が支配する中、息を吐く音と共に、タバコの臭いを感じた。

「あー。ひと仕事した後の一服はうめーな。お前らも、俺の技術を盗んで、いっちょ前に仕事が出来るようになんねえとだめだぞ」

 俊太と大樹は「はい」と答える。

「でもさ、あのババア、龍平さんがバックをひったくったときに転んじゃったでしょ、怪我しなかったのかな」

 続いて大樹が弾んだ調子で呟いた言葉に、龍平は応えなかった。

 和やかな空気が、突然冷たくなった気がした。

 タバコの赤く光る炎が床に落ち、龍平が立ち上がったのがわかる。

 一歩前に進み、窓から漏れるわずかな光に顔が照らし出された。

 さっきとは一転して、怒りを湛えた目が、暗く光っていた。

「テメエ……。今なんて言った」

「え? 怪我……しなかったかなって」

 影が動いた直後、ドスッという鈍い音と、大樹の悲鳴が響いた。

「ざけんじゃねえ、あんなババア、死んだってかまやしねえんだよ」

「すいませんすいません」

 悲鳴混じりに叫ぶ大樹へ、龍平の影が覆い被さる。

 ドスッ、ドスッ、

「ヒィッ……。ヒイッ……」

 龍平の唐突な切れ具合に、俊太は全身が痺れたように震え、動けなかった。

 悲鳴が弱々しくなり、大樹もヤバいんじゃないかと思い始めたが、とばっちりが自分に来るのが怖くて、何も言い出せなかった。そんな自分がもどかしく、情けない。

 やがて荒い息が聞こえ始め、影が離れていくのがわかった。ライターの火がついて、再びタバコを咥えた龍平の顔が浮かび上がる。虚ろで、濁った目をしていた。

 龍平の様子を窺いながら、大樹の元へ這っていく。胎児の姿勢で横たわる大樹から、ゼイゼイと掠れた呼吸音が聞こえてくるのがわかる。一応生きているようで安心した。

「行ってきましたー」ドアが開き、拓真の脳天気な声が聞こえてきた。

「おう拓真、帰るぞ」

「はーい」

「俊太、大樹を見ておけ」

 そう言い捨てて、龍平と拓真が去っていった。

「大樹、大丈夫か」

「いてーよ……」

「どこがだ」

「頭……背中……足……全部だよ。あいつ、俺をガンガン踏みつけやがった」

「立てるか」

「ああ」大樹はゆっくりと、確かめるようにして立ち上がった。

「病院へ行こうか」

「大丈夫……。どうやら骨は折れてないみたいだし」

 大樹の頬は涙で濡れ、窓からの光でわずかに光っていた。潤んだ目は怒りを溜め込んで光っている。

「あいつ、ヤベえよ。何とかしなくちゃ俺たち殺られちまうぞ」

「でも、どうすりゃいいんだよ」

 大樹は押し黙った。辺りに張り詰めたような静寂が訪れる。

「俺に考えがある」

 ようやく口を開いたとき、大樹がぞっとするような冷たい笑みを浮かべた。

「何を……するんだ」

「へへへへ」

 廃墟の工場内に、少しかすれて力のない笑い声が響いた。


 翌日、大樹と連絡が取れなくなった。何度電話しても、携帯の電源を切ってあるらしく、繋がらなかった。

「あいつ、バックレやがったな。ただじゃおかねえ」

 龍平は怒鳴り散らしながら、車のダッシュボードを拳で叩いた。翔太は横で怯えながらその様子を見ているしかなかった。

 ステップワゴンは工場と住宅が建ち並ぶ狭い通りを、スピードを上げて走っていた。見える建物はどれも建築年数が古く、くすんだ色をしていた。時折四つ角から出てこようとする車や自転車を、クラクションを鳴らしながら牽制する。

 大樹の住むアパートの前に着いた。他の家と同様に、壁はくすみ、手すりのペンキが剥げて所々錆が浮き出ていた。軋む音をたてる階段を力任せにのぼり、部屋の前に立った。何度も玄関チャイムを押したが、誰も出てくる様子はない。

「くっそおう……。俊太はここで見張っとけ。拓真、行くぞ」

 龍平は階段を降り、ステップワゴンへ再び乗り込んで走り去って行った。残された俊太は、怒り狂った龍平から解放され、ほっとして手すりの外を見た。

 目の前には灰色の壁をした工場があり、機械が低い音で唸っていた。このままだと、よくてこんなしけた工場で働くだけだった。最悪、龍平の子分になっちまうよ。

 ぼんやり考えをめぐらせていると、この町や周囲の奴らに押し潰されそうになっている自分を意識した。

 逃げ出したいと思った。高校を出たら、こんな町とはおさらばして、東京とか名古屋とか、もっと派手な町に行ってみようと思う。母ちゃんは嫌がるかもしれないけど、ここにいたら終わりだ。

「おう、オメー俊太っていうのか」

 不意に声を掛けられ、通路を見た。いつの間にか二人の男が、俊太に近づいてきていた。一人はカーキ色をしたツナギの作業服、もう一人はジーンズに半袖シャツで、筋肉が盛り上がった二の腕から手首まで、びっしりとタトゥーが入っていた。どちらも俊太より一回り大きく、やさぐれた目をしていた。

「はい……」

 戸惑っているうちに、一人が回り込んで挟まれる形になった。

「ちょっとツラ貸せや」

 タトゥーの男がニタニタ笑いながら、首に腕を回してきた。本能的に離れようとしたが、腕でがっちりと締められた。吐きそうな気分になったのは、香水と汗が入り交じった臭いのためだけではなかった。

 恐怖が、突き上がってくる。

 引きずられるようにして階段を降り、路上に停めてある、スモークを貼った大型のミニバンへ連れ込まれた。

「ギャッ」

 ドアが閉まると同時にタトゥーの男に髪の毛を掴まれ、拳で顔面を三回殴られた。

 鼻がかっと熱くなったかと思うと、強烈な痛みに変わっていく。

 頭の中がパニックになり、何も考えられなくなっていった。

「残念だな。お前、終わっちまったぞ」

 タトゥーの男が嘲りの笑いを浮かべていた。

「シートに鼻血垂らすんじゃねーぞ。ぶち殺すからな」

 運転席に座ったツナギの男が、つまらなそうにバックミラーでこちらを見ながら、嗄れた声を出した。

 ミニバンが走り出す。


 喉の奥から、ゼイゼイとざらついた呼吸音が聞こえてくる。乾燥した空気の中を走っていたので、息切れを起こしていた。後ろを振り返り、誰も追いかけてこないのを確認すると、俊太は足を緩めて歩き出した。風は海岸にいたときよりも弱いが、相変わらず刺すように冷たかった。太陽は西の空に沈み、急速に夜が深まっていた。辺りは住宅街で、家々には明かりが灯っている。その中でくつろいでいる人々を思うと。自身の罪と孤独を意識し、心まで冷たくなっていく。

 警察へ捕まるのに恐怖はなかった。正直、どうでもいいと思っていた。それでも逃げ出したのは、やらなければならない事があったからだ。噴き出した汗が更に熱を奪い、体を冷やしていく。

 あてどなく歩いていると、ドラッグストアの明かりが見えてきた。食欲はなかったが、足に力が入らなくなっていた。多少なりとも食べておかなければならないと思い、店に入り、パンを買った。レジの女性に、近くのネットカフェを教えてもらう。道に出て、甘ったるいマーガリンが入ったパンを無理矢理口に詰め込みながら歩いた。やがてネットカフェが見えた。受付を済ませ、部屋に入る。

 リュックサックから充電器を出し、携帯電話と電源を繋げた。久しく着信は途絶えていたが、今は特別だ。リクライニングシートを倒して眼を閉じ、決して深くなることのない眠りについた。


 体のあちこちが、灼けるように痛かった。大樹を見つけたと嘘の電話をさせられた後、徹底的にリンチを受けた。殴られ続けて左目は見えなくなり、あばら骨が折れたのだろうか、息をするたび右の脇腹へ激痛が走った。

 俊太がいるのはかび臭い小さな倉庫だった。天井にはぽつんと蛍光灯が一つ灯り、明かり取りの小さな窓から、弱い光が差していた。ゴトゴトと鈍い音がして、鉄の大きな引き戸が少しだけ開き、数人の男が入って来た。

「隣へ座れ」ふらついた足取りで、二人の男が俊太の横に座った。龍平と拓真だ。二人とも殴られて、顔がひどく腫れ上がっている。

「馬鹿野郎、正座だ」

 体躯座りをしようとした拓真に、取り囲んだ男たちの一人が背中を蹴った。拓真は悲鳴を上げながら、つんのめるようにして倒れた。別の男たちが、隅から二人掛けのソファを持ってきて、三人の前に置いた。

 しばらくすると、再び鈍い音がして鉄のドアが開き、男が一人入ってきた。瞬間、倉庫内にいた男たちの空気に緊張が走った。正座をしていた三人以外全員が立ち上がり、直立不動の姿勢になった。

「お疲れ様です」男たちの野太い声が響き、一斉に頭を下げる。

 男は黒いスーツにノーネクタイ、オールバックでサングラスを掛けていた。倉庫内を一瞥し、何も言わずソファに座った。足を組み、ポケットからタバコを取り出す。横にいた男がすかさずライターに火を点けて差し出した。

 うまそうに紫煙を吐き出した後、サングラスを外して横の男に渡す。

「平山さん……。お久しぶりです」

 龍平が体を小刻みに震わせ、口ごもりながら言った。

 平山はかつてT高校で番長をやっていた男で、今は地元のチンピラグループのまとめ役をしているらしい。会うのは初めてだったが、不良連中の口からはことあるごとに名前が出ていたので、俊太も名前だけは知っていた。

「龍平よ、お前いつからこっちへ戻ってきたんだ」

「あ、あの……」

 龍平は目を泳がせながら、口をパクパクと上下させているだけだ。

「早く答えろっ」

 男の一人が龍平の胸を思い切り蹴り上げた。龍平は悲鳴を上げながら仰向けに倒れた。

「すんません……。半年前です」

「半年前」平山は薄笑いを浮かべながらオウム返しに呟く。「挨拶しに来るにはちょっと遅せえんじゃねえのか」

「はい……。すんません」

「それともよ、もともと挨拶するつもりがなかったのか?」

「そ、そんなことなんかありません」

「そうかい」平山は足を拡げて両腕をだらりと下げ、龍平を覗き込むように見つめた。「百歩譲ってテメエの言葉を信じたとしよう。だったらよ、大樹をボコったのはどういうわけだ」

「大樹……が……どうしたんですか?」

「ざけんじゃねえよ」

 右隅にいた男が鬼のような形相で飛びかかり、倒れたところを馬乗りになって殴り始めた。龍平の悲鳴と、鈍く重い音が倉庫に響いた。

「お願いです……やめてください……やめてください」

「慎一、その辺でやめとけ」

「はい」

 慎一と呼ばれた男は龍平の顔に唾を吐きかけ、荒い息で立ち上がった。龍平の顔は醜く腫れ上がり、口と鼻から血を流していた。

「大樹はよ、こいつのいとこなんだ。オメーも大変なことをしてくれちまったもんだな。どう落とし前を付けんだ」

「申し訳ありません」

 龍平は床に額をこすりつけて土下座した。

「お前も昔から半端なマネばっかしやがる。東京じゃあ仲間の女を酒で潰してやっちまったんだってな。それでこっちへ逃げてきたんだろ。全部調べは付いてんだ」

 平山は身を乗り出し、龍平の頭髪を掴んで顔を上げさせた。目に笑いを浮かべながら龍平に煙を吹きかける。

「慎一、例の物を持って来いや」

「はい」

 慎一が奥からまな板と出刃包丁を持ってきて、ニタニタ笑いながら龍平の前に置いた。

「これは……」龍平が、震える声で平山を見上げた。

「落とし前だ」笑みを消し去った平山は、死んだ魚のような冷たい目をしていた。「三人とも指詰めろや。龍平は兄貴分だから二本、他は一本だ」

「そんな……」

 再び額を床に押しつけた龍平の背中が、がたがた震えている。

「勘弁してください」

「おら、平山さんの命令だ。早くしねえか」

 男の一人が龍平の脇腹を蹴り、俊太にぶつかった。よろけた俊太は自分の身に何が起きているのか実感が持てなかった。指を詰める。要するに指を切っちゃうんだなと頭で理解しているだけだった。拓真は更に理解していないのだろう、口を半開きにして怯える龍平を、ぼんやり見つめている。

「男だったら根性見せろや」

 別の男たちも加わり、蹴りを入れる。龍平は悲鳴を上げながら「許してください」と、うわごとのように呟いていた。

「しょうがねえ、お前ら指詰めんの手伝ってやれや」

 龍平はうつぶせに倒され、軽く百キロは超えるであろうデブの男が背中に乗った。別の男が右腕を掴み、手をまな板の上に載せた。

「詰めるのは俺にやらせろ」慎一が顔に粘着質な笑みを貼り付かせ、出刃包丁を持ちながら、しゃがんで龍平を覗き込んだ。「さあどの指がいい? 選ばせてやるよ」

「中指はやめとけよ。こいつ、四本一緒に切っちまうからな」

 どっと笑いが起こる。

「お願いです……。許してくださあい」

 涙声になった龍平は懇願したが、平山はその様子をおもしろそうに見つめているだけだ。

「決められないならよ、両方の小指にしようか。箸とかスプーンなんかは持つのに問題ないだろうし、いいだろ」

 龍平が子供のように声を上げて泣き出し、倉庫の天井に反響した。俊太の耳へ、突き刺さるように響いてくる。

 慎一が小指の上に刃を乗せる。

「ちょっと待て」

 平山の言葉に、慎一の動きが止まった。

「なあ龍平、俺も鬼じゃねえ。指をなくして生活するのも不憫だと思うぜ。そこでだ、指一本につき五十万、合計二百万払ったら許してやってもいい」

「二百万……ですか」

「おう、ただし三日以内に耳を揃えて持って来い」

「お前、運がいいな」

 慎一が残念そうな顔で投げやりに呟いた。男たちが龍平から離れていく。

「どうだ、指を詰めるよりはいいだろ」

「はい……。ありがとうございます」

 再び正座をした龍平は、ぽろぽろ涙を流しながら、惚けたように平山を見ていた。

「一応言っとくがよ、逃げようなんて思うな。俺らのケツ持ちがどこか知ってるだろ。消えたら地の果てまで探し出してやる。それともサツヘ駆け込むか? 何年かは安泰だがな、忘れた頃に、借りはきっちり返してもらうぜ。いいな」

「はい、わかってます」

 三人は解放され、転がるようにして倉庫から出た。倉庫の前では、数人の男たちがニタニタ笑って俊太たちを見ていた。

「早くしろよ。平山さんは気が短けえからな」

 龍平は怯えた顔でお辞儀をして、逃げるように足を引きずってよたよた走り出した。

 俊太はほっとしたが、明後日までに二百万を平山に渡さなければならないと思うと、押しつぶされそうな重圧がのしかかった。俊太にとっては一万円札を見るのもあまりないというのに、それを二百枚集めるなんて、あり得ない話だった。

「龍平さん、どうすればいいんですか」

「うっせえっ、今考えてるところじゃねえか」

 腫れ上がった瞼の奥から、血走った目で睨み付ける。俊太は黙るしかなかった。

「じゃあ俺、帰ります」今起きている事態を飲み込めていないのか、拓真はぼんやりした顔で、龍平から離れようとした。

「馬鹿野郎、待てったら」

 龍平が拓真のシャツの襟首を掴んで引っ張っていき、コンビニの駐車場に止めてあったステップワゴンへ押し込んだ。俊太にも乗れと命令した。

「いいか、二百万円なけりゃ、俺らの人生が終わっちまうんだ。誰か親で金持ってる奴はいねえのか」

 俊太は首を振った。運転免許の取得にかかる金額を言った時、困った顔で黙り込んだ母親を思い出す。

「拓真はどうだ」

「俺ん家なんかさ、よく叔父さんが金返せって怒鳴り込んでくるくらいだから、あるわけないよ」

「そうか……。俺もだめだな」

 コンビニの店長が長時間駐車をとがめに来たが、腫れ上がって血走った目をした龍平の顔を見ると、すぐに逃げていった。警察に通報されるのもまずいので、コンビニから出て、アジトにしている潰れた工場へ行った。

 夜になっても解放されることなく、三人はステップワゴンの中で夜を過ごした。全身が痛く、息をするのも辛くて、当然眠れるはずもなかった。母親からは何度も電話があったが、龍平の命令で携帯電話の電源を切った。運転席にいる龍平は時折、時折大きくため息をついたり、うめき声を上げたりした。

 夜明け前の薄明かりが、窓から差し込んできた頃だ。ふと横を見ると、龍平が起き上がり、ハンドルにもたれかかりながら前を見ていた。

 うつろな目の奥が底光りして、わずかに笑っているように見える。

 今まで見たことのない表情に、とうとうおかしくなったのかと思い、背筋が寒くなった。

 ゆっくりと首を動かし、顔をやや右に傾がせながら俊太を見た。

「いい方法を思いついた。二百万ぐらいチョロいぜ」

 ニタリと笑ったが、どことなく夢を見ているような危うさがあった。

「どうするんですか」

「俺に任せとけって」

 龍平はそれ以上喋らず、薄っぺらい笑いを浮かべているだけだった。

 日が昇り、時計は十二時を過ぎた頃だった。突然龍平がステップワゴンのエンジンを掛けた。エンジンの振動が体に伝わっていくと共に、俊太の緊張が高まっていく。

「行くぜ」

 ステップワゴンが動き出した。工場と住宅が混在する古びた町並みを抜け、コンビニに寄ってマスクと軍手を購入した。繁華街を通り過ぎて電車の高架をくぐり、駅北と呼ばれているエリアに入っていった。この辺りは俊太が幼い頃、大根や白菜の畑ばかりだったが、五年ほど前から再開発が行われていた。スーパーや公園ができ、呼応するように、新しく家々が建てられていった。

 この地域に知り合いはいないし、用もないので、何年も足を踏み入れたことはない。モデルハウスのような新しい家が建っているのを初めて目にして、なんだか違う町に来てしまったような違和感を覚えていた。龍平はゆっくりしたスピードで住宅街を移動しながら、きょろきょろ左右を見回していた。

「ここにしよう」

 龍平はステップワゴンを停めた。目の前の家は住宅街の外れに位置し、隣はまだ畑だった。他の家と同様に真新しく、白い壁がまぶしかった。

「何……するんですか」

「金を借りようと思ってな」

 龍平が、うつろな目でニタリと笑う。

「貸してなんかくれるンすか」

「貸してくれなきゃ無理矢理借りるだけさ」

「大丈夫なんですか。警察に通報されたらどうするんですか」

「なあに、問題ないって。この時間帯なら女子供しかいやしねえ。ちょっとシメれば貯金通帳を差し出すぜ。この辺りの奴らなら、二百万ぐらい持ってるはずだ」

「それって……ヤバくないですか」

「俺に任せとけって」

 ダッシュボードを開けて黒い塊を取り出した。ボタンを押すとカチャリと音がしてナイフの刃が飛び出した。充血した目を異様に輝かせながら、ニタニタ笑っていた。

「軍手とマスクを付けろ。行くぞ」

 龍平がステップワゴンを降りていく。俊太は不安で吐きそうになりながら、拓真を見た。ぼんやりした目で軍手を嵌め、耳にマスクのゴムを掛けようとして何度も失敗していた。

「おら、早くしねえか」ドアを開け、押し殺した声で龍平が怒鳴る。拓真は焦り、更に失敗する。

 軍手を外してマスクを掛ければいいのにと上の空で思いながら、ロボットのようにマスクをして軍手を嵌めた。

 外に出ると、思いの外冷たく乾いた風が吹き、肌寒さを感じた。空は曇っていたが、寝ていないせいか、やけにまぶしかった。頭がくらくらして、玄関ポーチのステップを踏んでいても、地に足が着いている感覚がなかった。

 龍平がインターホンに向かい、さわやかな声を作って「お届け物です」といっているのをぼんやり眺めていた。


 外は相変わらず、強く冷たい風が吹いていた。窓から風切り音が聞こえてくる中、藤倉は一人パソコンに向かって入力をしていた。目が疲れたので、流しでインスタントコーヒーを淹れて、一口飲んだ。口の中に苦い味が広がって、少し気分が晴れていく。

 暗い目でパソコンを凝視している堂原の姿を思い出していた。このところ、堂原の様子がずっと気になっていたが、何も言い出せなかった。徘徊していた男とは何か関係があるのだろうか。

 あのとき、堂原はネットで何を見ていたんだろうか。

 堂原と留美はバンに乗って役所へ行っていたので、当分帰ってこない。リッポは風呂場で掃除をしているはずだ。

 コーヒーを机の上に置き、堂原の席へ行く。マウスを動かすと、スリープしていた画面にデスクトップの子犬の画像が映し出される。ブラウザのショートカットをクリックし、ネットを立ち上げる。設定から履歴を表示させた。

――F市母子強盗殺人事件、加害者のその後――クリックする。

――主犯格であった当時十八歳九ヶ月のYは現在少年鑑別所へ収容されている。接見した母親によると――

 藤倉はコーヒーを飲んだばかりにもかかわらず、喉がひどく渇いていくのを感じた。ブラウザを閉じて、自分のパソコンからネットを立ち上げ、F市母子強盗殺人事件を検索した。ずらずらと項目が表示されていく。

 八年前、当時四十三歳だった主婦と十四歳の息子が、強盗目的で家に押し入ってきた少年三人に殺害された事件だった。少年たちは被害者の主婦を脅してキャッシュカードを奪い、暗証番号を聞き出した。Aがコンビニに行って金を下ろしている間、学校から息子が帰宅し、主犯のBともみ合いになり、持っていたナイフで息子を殺害した。発覚を恐れたBは母親も殺害し逃走した。その後、コンビニの防犯カメラからAが捜査線上に浮かび上がり、全員が逮捕される。

 彼らの供述から浮かび上がったのはあまりにずさんな犯行計画だった。母子と犯人は全く面識がなく、母子の家を選んだのは単に町の外れで、金を持っていそうだったからだという。しかも犯人たちはATMの引き出し限度額があるのを知らず、二百万円を引き出す予定が、五十万しか引き出せなかった。

 被害者の名前は堂原真理子と尚人。主犯のBは死刑を求刑されたが控訴し、現在最高裁で争っていた。共犯のAとCは五年から十年の不定期刑が確定していた。

 藤倉は受話器を取ってカナイトランスポーターの総務に電話をかけた。対応した女性に、知り合いの水島という課長の名前を告げた。

「藤倉です。ご無沙汰しています」

「こちらこそ……。今日はどうされましたか」

 藤倉の立場が立場だけに、突然の電話で水島は少々警戒気味だった。

「実は堂原さんの件で、ちょっとお聞きしたいことがありまして」

「ああ堂原さんですね。なんでしょうか」急に口調が軽くなった水島に、軽くむかっ腹を感じながらも、落ち着けと思い話し始める。

「堂原さんのご家族ですが、今はどうされているんでしょうか」

「ああ……。ちょっと待ってください。こちらから掛け直しますから」

 半ば一方的に切られてしまったので、仕方なく待っていた。すぐに電話がかかってきた。ディスプレイに携帯電話の番号が表示されていた。

「堂原さんのご家族ですね」水島は廊下で話しているのだろう。さっきまで聞こえていた背後の話し声は聞こえてこなかった。

「藤倉さんがこの会社へ来る少し前のことですから、ご存知ないかと思いますが、堂原さんの家に強盗が入りまして、奥さんと子供さんが殺されているんですよ」

「F市の話ですか?」

「その通りです。堂原さんもひどくショックを受けましてね、体調を壊して一年ほど休職したんですよ。みんなもう復帰できないかと思ってたんですけど、社長に請われてトコヨハイツの施設長で復職したんです」

 藤倉は礼を言って電話を切った。やはり堂原は八年前の強盗殺人事件の被害者遺族だった。だとすると、最近現れた男は事件の共犯者だった可能性が高い。五年から十年の不定期刑なら、出所していてもいいはずだ。

 彼がF市母子強盗殺人事件の共犯者であるなら、どうしてこんな所へ現れたのだろうか。

 嫌な予感が更に強まっていく。

 藤倉は立ち上がり、事務所を出て風呂場へ行った。中ではリッポがお尻を突き上げながら、一生懸命風呂釜を磨いていた。

「リッポ、教えてくれないか」

「どうしたの?」

 リッポが顔を上げ、きょとんとした表情で藤倉を見た。

「お前、最近なんか予感はしないか」

「誰かが逝っちゃうってこと?」

「まあそうだな」

 ストレートな物言いに苦笑しながら頷く。

「うーん、そんな気がするって言えばするし、しないって言えばしなしい」

「いいか、今度何か起きるときは堂原さんが関係しているかもしれないんだ。何か予感がしたら、すぐ俺に連絡しろよ」

 藤倉はリッポに念押しして事務所へ戻った。

 堂原と留美が戻ってきた。堂原は淡々と仕事をしていたが、普段のようなてきぱきとした動きはなく、どこか考え事をしているように見えた。六時になって留美が帰った。

「堂原さん、ご飯食べに行こうよ」

「リッポ、悪いけど今日は一人で食べてくれないか。調子が悪くて食べたくないんだ」

「ふーん、わかったよ。堂原さん、早く元気になってね」

「ああ。すまないな」リッポに掛ける声も、どことなく弱々しかった。

 藤倉は自分の仕事を終えたが、堂原が気になって事務所に残っていた。七時を過ぎると堂原がパソコンをシャットダウンして帰る準備をし始めた。

「堂原さん、差し出がましいようですが、このところ様子がおかしい気がするんですけど」

「ちょっと風邪気味なんですよ」

 やや顔を背けながらそそくさと帰ろうとする堂原に「待ってください」声を掛けた。

「このところ松原に現れている男ですけど、F市強盗殺人事件の共犯者じゃないですか?」

「知りませんねえ」言葉とは裏腹に、明らかに顔が強ばっていた。

「そうですか。妙なことを聞いてしまって申し訳ありません」

「大丈夫です。昔の話ですから」

 堂原をじっと見つめながら話す藤倉と、うつむいて目を逸らして話す堂原。どちらが謝っているのかわからなかった。

「本当に何もないんですね」

「ええ」

 堂原が背中を丸めながら出て行った。男のことは何も知らないという以上、藤倉も引き留める言葉が見つからない。

 男がここへ来たのは、何らかの死に関わる出来事が起こる予兆ではないかと思っていた。だとすれば、何か起こればリッポが知らせてくれるはずだった。

 さっき淹れたコーヒーはすっかり冷たくなっていた。飲み干す気も起こらないので、流しに捨て、戸締まりをしてトコヨハイツを後にした。冷たい風は相変わらず強く吹き続けていた。藤倉は体を縮み込ませ、アパートへ向かった。


 携帯電話が鳴っていた。俊太は澱んだ意識の底から浮かび上がり、目を開く。壁から延びるアームライトの光がまぶしかった。目を瞬かせながら、携帯電話を掴んだ。

「はい、小田です」

「堂原だ。一時間後に来られるか」

「はい。大丈夫です」

「この間会った松原で待っている」

 電話が切れた。俊太は携帯電話をポケットに入れ、伝票を持ってカウンターへ行った。精算した後、店員にタクシーを呼んでもらった。十分ほどして運転手が来たので車に乗り込み、三保の松原へ行ってくれと告げた。タクシーは走り出した。

 シートに体を預けながら、もうすぐ終わるんだと思う。高揚感と安らぎが一体となり、自身の中に横たわっていた、冷ややかで重苦しい感情が、くらくらするような熱で溶け去っていく。


 何度も玄関チャイムの音が聞こえてくる中、藤倉は朦朧とした頭で目を開けた。何か起きることを警戒していたので、天井の蛍光灯は点けたまま寝ていた。まぶしくて目を瞬かせながら時計を見ると、時刻は午前一時を過ぎていた。

 起き上がって玄関のドアを開けると、深刻に顔を強ばらせたリッポが立っていた。

「何かあったのか」

「堂原さんがいないんだよ。きっと松原に行っちゃってるんだ」

「予感はするのか」

「うん。びんびんしてくるよ」

「ちょっと待ってろ、服を着てくるから」

 既に眠気は吹き飛んでいた。藤倉はスウェットの上にジャンパーとコートを着込み、スニーカーを履いて外へ出た。冷たくて乾いた風が服の隙間から侵入して、体温を奪っていく。二人は松原へ向かって暗い夜道を走り始めた。

「死ぬのは堂原さんか、それとも別の人か?」

「わかんないよ。でも誰かがもうすぐ逝っちゃうんだ」

 畑に出ると遮る物も無く、思わずよろけそうになるほど風が強かった。二人は松原の中へ入る。

「どっちだ」

「うーん、右に行って」

 半島の根元に向かって歩き出した。道路の街灯から漏れてくる明かりだけが頼りだ。頭上では風にあおられて、葉擦れの音が唸るように聞こえ、遠くから波の音が地鳴りのように響いた。乾いた風の中に、潮の匂いが混じっていた。

「藤倉さん、待って。あそこにいるよ」

 リッポが指を差す。暗くてわからなかったが、近づくにつれて、藤倉の目にも二人の男の姿が見えてきた。一人は堂原、もう一人は堂原の所在を聞いてきた若い男だ。

 堂原の目はわずかに差し込む街灯の光に反射し、異様に輝いていた。表情は怒っているようにも笑っているようにも見えた。若い男は全身から生気が消え、虚ろなまなざしを堂原に向けていた。

「堂原さん、こんな時間に何をしているんですか」

 初めて藤倉とリッポの存在に気づいたのか、堂原は少し驚いた顔をした。

「私は彼と話をしているだけさ。何でもないから帰ってくれないか」

「話だけならこんな寒い場所でする必要はないでしょう。事務所へ行きませんか」

「リッポ……。そういう訳にいかないことを藤倉さんに話してくれないか」

「申し訳ありません、帰って下さい」

 悲しげに訴える若い男は存在感が薄れ、どこか浮き上がっているようにも見えた。藤倉は確信した。

「この人がこれから死ぬからなんでしょう。そんなことぐらい私にもわかりますよ。問題は堂原さんがなぜここにいるのかです」

 堂原の目は、輝きながらも底の見えない暗さを帯び、喜びの色を放ちはじめていた。コートの内側に手を遣る。

「堂原さん……やめてください」

 取り出した手に、包丁を持っていた。

「僕がお願いしたんです」若い男が言った。「堂原さんに僕を殺して欲しいんです」

「バカなことを言うんじゃない。お前が堂原さんの奥さんと子供を殺したんだろ。更に罪を負わせようとするのか」

「藤倉さん。これはね、私にとってもありがたい話なんですよ」

 堂原は場違いに思えるほど、穏やかな笑みを浮かべた。

「私は事件が起きた日から、何度も死のうと思ったことがあるんです。でも一歩を踏み越えられないまま、ずるずると今まで生きてきた。この男を殺せば、きっと私も一歩を踏み出せるはずです」

「そんなことしちゃだめだよ。堂原さんがいなくなったら僕は寂しいよ」

「リッポ、ごめんな。でももう決めたことなんだ。俺はこの男を殺して自分も死ぬ」

 堂原の全身から、暗い力が立ちのぼっているような気がした。目の奥で、怒りと歓喜が入り交じった輝きをチロチロと放ちながら、男を見据える。

「覚悟はいいか」

「堂原さん、あなたが殺さなくてもきっとこの人は死ぬ。物騒な物は仕舞って下さい」

「邪魔しないでください。怪我をしますよ」

 一歩踏み出そうとしたとき、堂原は刃を藤倉に向けた。その表情に、躊躇は感じられなかった。藤倉は吹きすさぶ風よりも冷たいものを意識し、立ち止まるしかなかった。

「お前はどうして今になってこんな所へ現れたんだ。もう八年前の話じゃないか」

 殺されようとしている男は、穏やかな笑みを浮かべた。

「去年、鑑別所から出てきてから、ずっと死ぬことばかりを考えていたんです。そんなとき、ここへ来なさいと導かれたんです」

「導かれた……。何に?」

 すっとろうそくが燃え尽きるように、隣にいたリッポの気配が消えていく。リッポの顔から表情が消え、体が透けて見えていた。

 体の芯から、体温が吸い込まれていく感覚。

 波の音が響く海に何かを感じ、松原の向こう側の濃い闇を見た。

 誰もいないはずのその場所に、わずかな明かりが灯った。

 明かりは時折暗く消え入りそうになりながらも、静かに近づき、やがて漠とした輪郭が見えて来た。

 くすんだピンクのスウェットに、グレーのスカートを穿いたやや小太りの中年女性で、その周りには光の輪ができていた。水に垂らしたインクのように、淡くはかなげな姿だった。悲しげな目を細め、堂原と男を見ていた。

「母さん……」男はたじろぎ、うろたえたように声を震わせた。

 女は何も言わず、堂原に向かって深々とお辞儀をした。

「お前の母親は死んだのか」堂原の目に戸惑いの色が浮かぶ。

「僕のせいなんだ」男は絞り出すように呟いた。「僕があんな事をしちゃったから、母さんはおかしくなって手首を切っちゃったんだ。だから罰して欲しい」

――俊太、それは違うの――

 どこからか、女性の声が聞こえてきた。

――お母さんも俊太も、ひっそり消えていかなければならない。これ以上堂原さんに迷惑をかけないで――

――俊太君は僕だけに会うはずだったんだ――

 リッポの声がした。

――でも、ネットでトコヨハイツの代表が堂原さんなのを見つけちゃったんだ。だから堂原さんに殺してもらおうと思ったんだね――

――あなたは殺されて満足かもしれない。でもね、殺した堂原さんはあなたと同じ罪を負っていかなければならないの。よく考えもせず行動するのは、あなたの悪い癖――

 堂原は男の母親を凝視していた。相変わらず暗い目をしていたが、怒りは失われていた。

「堂原さん、あなたも自分と同じような思いを彼のお母さんにさせるんですか」

 藤倉を見る。手にはまだ包丁を持っているが、茫洋とした視線を向けるだけだった。近づいて包丁を取り上げる藤倉へ、素直に従った。

 堂原の目が潤んだかと思うと、大量の涙が溢れ、頬を伝った。空気の抜けた風船のように力なくしぼみ、膝を突く。

「行けよ、もう二度と姿を見せるんじゃない」

 堂原は投げやりに呟き、嗚咽を漏らし始めた。

 母親が男の手を取った。――行きましょう――

 母親の光が拡がっていくと、男の輪郭もぼやけ、透き通っていくように見えた。

 母と子が堂原に深々とにお辞儀をして、海に向かって歩いて行く。ぼんやりとした明かりが少しずつ小さくなり、やがて闇の中に消えていった。

 堂原は松の枯れ葉と砂が入り交じった地面に手のひらを付け、嗚咽し続けていた。悲鳴のようであり、獣の鳴き声のようでもあった。

「リッポ……お願いだ。真理子と尚人に会わせてくれないか」

 リッポは悲しげな目で堂原を見ていた。目が合うと、逸らすように海を見た。

 母と子が消えていった場所に再び明かりが灯り、少しずつ明るさが増しいく。

 光は渦巻きながら、ぼんやりと二人の輪郭を形作っていった。一人は女性、もう一人は若い男の子だった。堂原の涙で濡れた目に、歓喜の色が浮かぶ。

 堂原と自分の姿が、重なって見える。

 リッポの部屋で、穏やかな寝顔を浮かべている紗良。そして彼女を抱いているキラキラした笑顔の祐理。たまらなくいとおしく、狂おしい姿。

 嫌だ。あんな風に溺れたくない。

 戦き、後ずさりをしながら木の根に躓いた。

 尻餅をついて起き上がり、その場から逃げだした。暗闇の中、何度も木の根に躓き、転がるようにして松原を抜けた。

 堂原の姿を振り払うように走るが、脳裏に焼き付いて離れない。堂原の歓喜を帯びた目が、体の内側へタールのようにべっとりこびりついていた。転んだときに打ち付けた右肘が、灼けるように痛み、冷たい風が、容赦なく体を嬲っていた。

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