表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
笑ってる海、泣いてる海  作者: 青嶋幻
4/10

第三話 かけがえのない人

 藤倉は明子が隣の部屋に住む佳枝と喧嘩をしていると連絡を受け、彼女たちの住む階へ行った。佳枝によると、深夜に明子が音楽を鳴らしてうるさいと言う。しかし明子は音楽なんてかけていないと主張した。埒があかないので、佳枝に今度音楽が聞こえてきたら、自分に連絡するよう伝えて喧嘩を治めた。

 その日の深夜、佳枝から電話があり、音楽が鳴っているから来て欲しいと言われる。藤倉はアパートへ行き、確かに明子の部屋から音楽が鳴っているのを確認して、明子の部屋へ入った。

 しかしそこには明子の部屋はなく、なぜか酒場と繋がっていて、若い頃の明子と、金井社長がいた。彼らは藤倉に、マコという女の子を探して欲しいと依頼してくる。藤倉は適当にあしらって、帰ろうと思ったが、既に廊下はトコヨハイツでなく、雑居ビルの廊下になっていた。


 昨日の台風の影響が残り、海は大きくうねっていた。晴れていたものの、海は強い風にあおられ、至る所で白波が立ち、背丈を超える大波が砂浜に襲いかかっていた。

 西から東にかけて、次々に波頭が砕け、ドドドドッと波と砂利のぶつかる鈍い音が響き渡った。強い風は、波の飛沫を瞬間で吹き飛ばしていく。

 うねりがわずかに歪み、白波が変化した。青黒かった海の色が、更に濃くなっていく。

 海中から、巨大なものがゆっくりとせり上がってくる。

 それはあまりに巨大であるが故に、天候で生じた海色の変化にしか思われず、存在に気づく者はいない。

 海面にひっそりと、巨大なものが姿を見せた。

 それは青い空を見て、薄く笑った。


 九月の後半に差し掛かってもまだ暑い日は続いていたが、さすがに熱帯夜はなく、エアコンがなくともゆっくり寝ていられる日々が始まっていた。藤倉は仕事にも慣れ、自分の親よりも年上な住人たちとも軽口をたたけるような関係になっていた。

 もちろん時折起こる不思議な出来事に戸惑ったり、リッポのアホさ加減にうんざりしたりすることもある。しかしそれを含めてすべてを受け入れている自分がいた。いつの間にか、ここにいるのが心地よく思えていた。

 ある日の午後、トコヨハイツで入り口の蛍光灯を取り替えていた。そこへ高齢者マークがついている軽トラックが一台敷地に入ってきて、バンの横へ止まった。中からは見知らぬおばあさんが出てきた。腰を曲げ、つばの広い帽子に薄い紫のスモックを着ていた。

「こんにちはー」

 小さな体から思いもよらない大きな声で呼びかけてくる。近づくと藤倉をまじまじと見つめ直した。

「あんた、どこの人だ?」

「四月からトコヨハイツに異動になった藤倉と言います」

「ああ、新人さんかあ。あたしゃ春に風邪をこじらしちゃってよお、ここんとずっとご符沙汰だったんで、全然知らねえっけ」

「望月さんじゃないですか。お久しぶりですね」

 食堂の奥から堂原が笑みを浮かべながら出てきた。

「堂原さん、いつもリッポがお世話になっています」

 老婆が曲がった腰を更に曲げ、堂原に挨拶した。

「体の方は大丈夫ですか」

「おかげさまで、なんとか車も運転できるようになったんだ。今日は野菜をたんと持ってきたからさあ、みんなで食べてくんな」

「いつもすいません。無理しなくても、電話をしてくれれば私どもがいただきに伺いますよ」

「いいっていいって。リッポの様子も見に行きたかったしよ」

「藤倉さん、こちらはリッポのおばあちゃんの望月信子さんです」

「リッポがいつもお世話になっております」

「いえいえ、こちらこそ」

 老婆が頭を下げてきたので、藤倉も慌てて頭を下げ返す。

「おおい、リッポおばあちゃんが来てくれたぞ」

 堂原が大声で叫ぶと、階段からからリッポが降りてきた。

「ああっ、おばあちゃん久しぶり」

 リッポは駆け寄って、信子を抱き締めた。大型犬が子供にじゃれるみたいで、信子は思わずよろけた。

「おいおい、おばあちゃんは病み上がりなんだぞ、気をつけろよ」

「大丈夫だよ。あたしゃリッポの顔を見たら、すっかり元気になっちまっただ」

 信子はニコニコ笑いながら答えた。

 軽トラの荷台には、段ボール箱に大根やキャベツ、ネギといった野菜が詰まっていた。

「おばあちゃんの野菜って、バカうまいんだよ」

 リッポはニカッと自慢げに歯茎をむき出しにして笑った。荷台から段ボールを降ろし始める。

「さあさあ、食堂でお茶でも飲んでいって下さい」

「じゃあ遠慮なく頂くよ」

 信子と堂原は食堂へ入っていった。リッポも段ボールを持って奥へ行く。藤倉は蛍光灯の付け替えを再開した。

 藤倉が古い蛍光灯を後でゴミに出すため、一旦事務所へ持っていこうとしたときだ。信子とリッポの会話が耳に入ってきた。

「それでね、センムのぬいぐるみがやっと帰ってきたんだよ」

 無邪気に喋るリッポにニコニコ笑って耳を傾けていた信子は、藤倉が入ってきた途端、さっと鋭い視線を投げかけた。

「あ、藤倉さんは大丈夫。全部知ってるから」

「そうかい」

 こともなげに言うリッポに、信子の顔が和らいだ。藤倉は曖昧に微笑みを浮かべ、事務所へ入っていった。紙に使用済みと赤いサインペンで書き、古い蛍光灯に貼って裏口の近くにある棚と棚の間に立てかけた。事務所内では堂原が一人パソコンへ向かっていた。ホワイトボードに書いてある留美の欄には、スーパーの名前が書いてあった。

「堂原さん、リッポと話しているお婆さんは実家の人なんですか」

「そうですよ。両河内といいましてね、興津川の上流ある山奥に住んでいるんです」

「リッポもそこの生まれなんですか」

「それがちょっと複雑でしてね、どうもリッポの生まれは東京らしいんですね」

「でもリッポは、静岡市から出ると体調がおかしくなるじゃなかったですか?」

「その辺の事情はぼくもわからないんですよ。信子さんも詳しく話さないし、僕も身内じゃないんで詳しく聞けませんから」

 堂原は歯切れの悪い口調になった。

「リッポの家庭環境はああ見えて結構複雑なんですよ。彼のお母さんは早くに亡くなっているですけど、どうやらシングルマザーだったらしいんですね。加えて母親の両親も亡くなっていているんです。信子さんは正確に言うとリッポの大叔母で、今は養子縁組みの関係なんです」

「信子さんはリッポの周囲で起こることをよく知っているんですか」

「もちろんです。信子さんの実家は常永家というんですね。ここの当主は代々常世神を祭る神社の神主を務めていたそうです。この神社というのは特殊でして、間もなく死ぬような人を預かり、安らかに死んで行けるよう取りはからう儀式を取りはからっていたというのですよ」

「それって、リッポがここでやっていることと同じようなことなんですか?」

 堂原が頷く。「信子さんの話だと富永家の血筋では、死にかけた人に、夢を見させる力を持って生まれる人が出てくるそうなんです。その人が代々富永家の当主になっていたというんですね。

 信子さんは力が現れなかったので、嫁に出されたんだと言ってましたよ。リッポは常永家の直系で、本来なら当主になるはずだったんです。しかしいろんな理由があって、常永家というのは絶えてしまったそうなんです」

 留美が戻ってきたので、二人は会話をやめた。


 信子が帰った夕方に事件が起きた。藤倉はリッポと一緒に信子がくれた野菜で、味噌汁を作るために台所にいた。

「おう、藤倉さん。ちょっと来てくれよ。明子と佳枝か喧嘩し始めちゃってよう」

 入り口で顔をしかめ、ジーンズのポケットに両手を突っ込んだ西脇が呼びかけてきた。

 嘘つき西脇とあだ名されている男だ。本当かどうかわかったものじゃないが、ともかく対処しなければならない。

「リッポ、ちょっと行ってくるから頼んだぞ」

「うん、まかしといて」

 にっこり笑って元気に答えるリッポを見て、それが一番不安なんだよなと思いながら、タオルで濡れた手を拭いて、西脇の後についていった。

 二階に上がったところで、上の階から叫び声が聞こえてきた。どうやら本当に喧嘩をしているらしい。

「あんた殴ったわね、絶対訴えてやるから覚えてらっしゃい」

「おう、訴えるなら訴えてみろよ。受けて立つからな」

 声は明子とその隣の部屋に住む福田佳枝の声だった。佳枝は美子が亡くなった後、空いた部屋へ入居したばかりだった。社交的なお婆さんだが、攻撃的な性格ではないはずだった。明子さんがまたやらかしたのかと思い、小さくため息をつく。

 三階に上がると、二人の老婆がそれぞれ別の入居者から羽交い締めにされていた。

「離せったら、このクソババアをぶっさらってやるんだ」

 大声でわめく明子に思わず怯むが、今は堂原が入居者を車に乗せて病院へ行っているので助けを求めるわけにはいかない。どんなトラブルでも穏やかな顔をして周囲を落ち着かせる堂原を思い出し、自らも穏やかな笑みを浮かべ、二人へ近づいていく。

「二人ともそんなに興奮しないで。どうしたんですか」

「このババアがよ、あたしの部屋からレコードが聞こえてきてうるさいって言うんだ。あたしの部屋には小っさいテレビがあるだけだし、音だって耳がいいんだから小っさくしてあるんだよ」

「嘘おっしゃい、夜中に目を覚ますと隣から音楽が聞こえてくるんだから。ちゃんとテレビを点けて、音楽がやってないのも確認したんだからね」

「だったら別の部屋から聞こえてきたんだろ」

「違う。絶対あんたの所だよ」

 明子と佳枝は、お互い歯を剥き出しにして睨み合っている。

「二人とも、僕の目の前で相手に手をかけたら、即刻ここから退居してもらいますよ。それでいいならどうぞ存分に喧嘩して下さい」

 ぴしゃりと言って二人を見た。佳枝が怯んだ顔をする。明子はまだ怒り顔を保っていたが、目がわずかに揺らいでいた。

「やっきりするよ。あんたなんか、金井に言って外してもらうからね」

「どうぞ言って下さい。ここから異動になったら、明子さんといがみ合わなくて清清しますよ」

 明子は睨みながら何か言おうとして口を開きかけたが、結局ため息を吐いた。

「わかったよ、もう暴れねえから離せ」

「そうそう。二人とも冷静になってくださいよ。まず佳枝さんですが、何時頃、どんな音楽が聞こえてきたんですか?」

「時間はまちまちなんですけどね、だいたい午後十一時から午前三時くらいなんですよ。曲はほら、オールディーズっていうんですか。英語の古いポップスみたいな曲なんですよ。あたしゃ演歌しか聴かないんで、よくわかんないんですけどね」

「明子さんはそういった曲に心当たりはあるんですか?」

「知らないねえ。オールディーズなんて長いこと聴いてないし、さっき言ったとおり、レコードだろうがCDだろうがあたしゃ持っていないんでね。なんなら家捜ししてもらっても構わないよ」

 明子は背後にいた老人を押しのけ、自分の部屋のドアを開けた。「さあ、見てくれよ」

 殺風景だが、きちんと整理されている部屋だった。ラジカセとかCDプレーヤーといったたぐいのものはない。

「どうだい、何にもありゃしないだろ」

「そうですねえ。佳枝さん、どうですか」

「押し入れの中に仕舞っているかもしれませんよ」

 明子が佳枝をジロリと睨み、プラスチックのサンダルを脱いで部屋の中に上がった。力任せに押し入れの戸を引く。どんと音を立てて押し入れが開いた。

「これでどうだ」

「もしかしたら、どこかへ持ち出したかもしれないしねえ」

「ふざけんじゃねえ、あたしにいつ持ち出せる暇があったってんだよ」

「明子さん、冷静になって下さいよ」

 飛びかかるような勢いでずかずか近づいてくる明子を、藤倉が手を広げて止める。次に振り向いて佳枝を見た。

「明子さんの言うとおり、音楽を鳴らせるような物は部屋にないし、すぐに持ち出せるわけでもないんです。佳枝さん、納得してくれますよね」

「おかしいわねえ。絶対この部屋から聞こえてきたんですもの」

 首をかしげる佳枝に、嘘をついている様子はなかった。とりあえず佳枝には、また音が聞こえるようだったら夜中でもいいから電話するように伝え、この場を収めた。

 台所へ戻ると、リッポが得意げな顔をして包丁を洗っていた。

「藤倉さん。僕、大根を全部切っちゃったよ」

「そうか。よくやったな」

 ふとボウルに山盛りになった大根を手に取った。「お前……。これ皮を剥いたのか?」

「ううん、剥いてないよ」

「そのまま切ったのか」

「うん」

 リッポがにっこり頷いた。

「馬鹿野郎、大根てのはなあ、皮を剥かなきゃいけないんだよ」

「ええっ、そうなの? だってカボチャは皮を剥かなくてもいいんでしょ」

「カボチャと大根は全然違うだろうが。あーあ、銀杏切りしちゃって。一個一個皮を剥かないと食べられないぞ」

「そりゃ大変だよ」

「お前がやったんだろうが、俺も手伝うからとっとと切れ」

「はーい」

「はーいじゃねえよ。ったく頼むよお」

 藤倉のぼやきに、リッポはまた元気に「はーい」と答え、大根の皮を剥き始めた。


「不思議な話ですね」

 入居者の食事が終わって留美も帰った後、藤倉は堂原に、明子と佳枝のトラブルを話した。

「明子さんなんですけど、何か隠しているような気がするんですよ。もともと怒りっぽい人なんですけど、さっきの怒り方はちょっと違うように思えたんです。動揺を隠すときに大げさに怒る時ってあるじゃないですか。そんな感じだったんです」

「もしかしたら、それは何かの兆候かもしれませんね」

「明子さんにも、美子さんみたいなことが起きるんでしょうか」

「そうかもしれません」

 堂原は小さく息を吐いた。


 携帯電話から着信音が鳴っていた。藤倉は暗闇の中、誰なんだと思いながら手を伸ばして携帯電話を掴み、画面を見た。午前一時三十五分、福田佳枝と出ている。

 一瞬どうして彼女から電話が来たのか理解できなかったが、すぐに昼間のトラブルを思い出し、着信ボタンをタップした。

「藤倉さん、あの音楽が聞こえてくるんですよお。音は小さいんですけどね、気になっちゃって眠れやしない」

「音はやっぱり明子さんの部屋から聞こえてくるんですか?」

「そうなんですよ。藤倉さん、抗議に行ってもらえませんかねえ。あたしゃ昼間みたいに明子さんから怒鳴られると思うと怖くて怖くて」

「わかりました。明日の朝、明子さんの所に行ってきますよ」

「今から来てくれなきゃだめですよ。あいつがレコードを掛けている現場を押さえてもらわなくちゃ。明日の朝だったら、またしらばっくれるだけでしょ」

「そうかもしれませんけどねえ、僕も眠いんですから明日にしてくれませんか」

「そんなこと言うんなら、あの女を訴えてやるからね。ビンタを張られたんだから、あいつを刑務所へ送り込んでやるから」

「わかりましたよ。今からそこへ行きますから待っていて下さい」

 半ば投げやりに呟いて着信を切り、タオルケットを取って起き上がった。興奮した佳枝をなだめるためとはいえ、電話をしろだなんて言わなけりゃよかったと後悔しながら電気を点けた。目を瞬かせながら着替え、アパートを出る。

 外は暗く、虫の鳴き声が盛大に響いていた。昼間よりかなり気温は低い。しばらく歩いていると、街灯の明かりへ照らされて、トコヨハイツのおぼろげな姿が現れた。建物に入り、三階にある佳枝の部屋をノックした。すぐにドアが開き、やや怒り気味の目をした佳枝が出てきた。

「夜分すいませんねえ」言葉とは裏腹に、申し訳なさそうな顔は一切せず佳枝がささやく。「まだ音楽が鳴っているから、ちょっと聞いて下さいよ」

 お邪魔しますと言って部屋に上がり、明子の部屋がある壁に意識を集中させた。

 確かに音楽が聞こえてくる。小さくてよく聞き取りづらいが、プラターズの「煙が目に染みる」だろうか。

「現場を押さえて、あのババアにガツンと言ってちょうだいよ」

「わかりました。待ってて下さい」

 藤倉は外へ出て明子の部屋の前に立った。ドアへ顔を近づけると、わずかに音楽が聞こえてくる。そっとノックをしたが、反応はない。

「明子さん、起きてますか」

 やはり反応はない。

「あの女、きっとレコードを掛けているうちに眠っちまったんだよ。あたしがうるさいっていうのに無責任だよねえ。早く起きなさいよ」

 佳枝がドンドンと廊下に響くほどの強さでノックをした。しかし反応はない。

「どうせグースカ眠りこけているんだ。いい気なもんだよ」

 興奮し始めた佳枝は、更に強くたたき始めた。

「佳枝さん、よして下さい。そんなに叩くとうるさくて他の人が起きちゃいますよ」

「いいのよ、みんなこいつのせいなんだから。みんなで怒ってやればいいのよ」

 全然よくないでしょうと思いながら、一応ドアノブをひねってみた。予想外にくるりと回る。引っ張ると、あっさりドアが開いた。

「え?」

 ドアの向こうには、昼間に見た狭くて殺風景な部屋は存在しなかった。プラターズが響き渡る中、右手には白いメラミン風のカウンターが延び、赤いビニール張りでクロームメッキが輝くスツールが並んでいる。床は白黒のチェック柄。カウンターがある側の壁には酒瓶が並び、向かいの壁には、筆記体でMAMAZINと描かれたピンクのネオンサインが輝いている。

 スツールには数人の若い男女が座っていた。男たちはみなリーゼントで革ジャンやスタジャンを羽織っていた。女はポニーテールに、カラフルなストライプや水玉のワンピース姿だ。カウンターの中では、やや太り気味の中年女性が飲み物を作っていた。

「いらっしゃいませ」

 ドアを開けた藤倉に、カウンターの中年女が声を掛けてきた。

「ここは……どこなんですか」

「『ママズイン』ですよ。『赤い小鳥』なら向かいですからね」

「失礼しました」

 訳もわからず、後ずさりしながらドアを閉めようとしたときだ。カウンターに座っている若い女の顔が目に入り、手が止まった。

 すらりとした体型。黄色い水玉のリボンで髪を結び、同じ色のワンピースを合わせていた。少し気の強そうな顔立ちで、大きな瞳がきらきら輝いていた。

 似ていると思う。

「明子さん……ですか」

「そうよ。あんたは誰?」

「僕は……なんて言ったらいいんだろう」

 訝しげな顔で問いかける明子に口ごもってしまう。きっとこれは明子が見ている幻なんだろう。自分は現実の人間なんですよと答えても野暮にしかならない。面倒なのでドアを閉めてしまおうと思ったときだ。

 明子の隣に座っていた男が立ち上がったかと思うと駆け寄って、閉めようとした戸に手を掛けた。

「おうっ、ワレはマコの知り合いか?」

「マコって……誰ですか?」

 オールバックの頭にブルージーンズ。龍の刺繍を施したスタジャンを羽織っている。ぎょろりとした目で、やや下から睨めつけてくる視線に既視感があった。

 顔は若いし髪の毛もあるが、背丈だけは変わらない。間違いない、若い頃の金井だ。

「しらばっくれるんじゃねえ。俺たちの様子を見にマコから頼まれたんだろうが」

「言ってることがよくわからないんですけど」

「へっ、どうせマコにのぼせ上がってるんだろうがな、あいつは逆立ちしてもワレみ見てえなしょぼくれた男にゃなびかねえんだよ。ちょっと入れ」

 強く引っ張られ、思わずたたらを踏みながら店内に入った。ドアが閉まる。

「店ん中のトラブルはごめんだからね」

「わかってら、話し合うだけだ」

 じろりと睨んだ中年女に、金井が睨み返す。

「ここへ座れ、明子も来いよ」

 カウンターの向かいに置いてある、白いテーブルと椅子を顎で指す。言われたとおり椅子に座り、金井も向かいに座った。息が少し酒臭い。金井の怒りは酒を飲むと更に増幅するし、若い頃は様々な武勇伝もあったと聞く。目の前にいるのは幻とはいえ、殴られるのはごめんだった。

「煙が目に染みる」が終わり、スピーカーからバディ・ホリーの「ペギー・スー」が流れだしていた。

「俺っちはよう、ずっとマコを心配してんだ」金井は血走った目で藤倉を見据えていた。「帰ってくれと伝えろ」

「そう言われても、僕は本当にマコなんて人は知らないんです」

「じゃあなんで俺っちを知ってんだ」

「それは……」

 もっと歳を食ったあんたたちを知っているからと答えても、信じてもらえないだろうと思い、口ごもってしまう。

「ねえお願い。一昨日からあの子、家出しちゃって連絡がつかないのよ」明子は深刻な顔で藤倉を見ていた。「方々探してんだけど、全然見つかんないの。それで今日はここでずっと待ってんのよ」

「マコさんという人に、何かあったんですか」

 明子がすがるような目をして金井を見る。金井は苦虫をかみつぶしたような顔をして目を逸らせた。

「ちょっとしたトラブルだ」

 吐き捨てるように呟く。

「本当にマコのことを知らないの?」

「ええ」

「そうか」

 金井の強さを放っていた目が、わずかに弱くなった。明子は泣き出しそうな目をしている。マコは明子の友達なんだろう。もしかしたら金井社長、二人に手を出しちゃったのかなと思う。前に明子が投げつけた甘夏を、うまそうに頬張る金井の姿を思い出した。

「じゃあ僕は失礼します」立ち上がろうとしたとき、

「待てよ」金井に強い目が戻り、藤倉を睨み付ける。「まだ俺っちを知ってる理由を聞いていねえぜ」

 浮かせた腰を戻しながら、どう説明しようか考える。

「えーと……実は僕、信用調査員をしていまして、会社と金井社長の調査を、銀行から頼まれて調べさせてもらっているんですよ」

 確かカナイトランスポーターの創業は、金井社長が二十歳の頃だった。酒を飲んでいるのだから、この頃はもう二十歳を過ぎているはずだ。信用調査というのはとっさに出たでまかせだが、悪くない筋立てだと思う。

「へえ、銀行もめんどくせえことをするもんだな」

 金井の納得した顔を見て、ほっとしなから立ち上がる。

「それじゃあ本当に僕は帰らせてもらいます」

 立ち上がったところで、金井が「ちょっと待てよ」と言いながら藤倉を手で制した。

「何か?」

「お前、色々調査してるら。だったらマコを探してくんねえか」

「それは……。会社を通してもらわないと」

「モグリでやったっていいじゃねえか。会社になんかわかりゃしねえよ」

「いやいや、それは困ります」

 僕はこの世界の住人じゃないわけだし、本当に困る。

「もちろん金は払うさ。いい小遣い稼ぎになるら」

 金井はポケットから、聖徳太子が描かれている一万円札を三枚出してきた。

「明子、お前写真を持ってるら。貸してやれや」

 明子は頷き、ハンドバッグから手帳を取り出し、挟んであった写真をテーブルに置いた。

 二人の女性が腕を組んで、弾けるような笑顔を見せていた。一人は明子で、もう一人がマコなんだろう。明子がどちらかというと目鼻立ちがはっきりしてシャープな印象なのに対して、マコは細い目をしており、ややふくよかな、かわいらしい顔立ちだった。モデル系の美人ではないが、男受けする顔立ちだ。

「あの子が行きそうなところを書くからね」

 明子が手帳をビリビリと破り、ボールペンで店の名前と住所を書き始めた。今逃げ出せば、金井に殴られるかもしれない。それならいっそのこと全部聞き入れた上で出て行けばいい。どうせここから出れば、現実へ戻るんだし。

「そんなに言うんでしたら、調べて見ましょう」

「お願いよ」

「頼んだぜ」

 藤倉は資料と金を受け取り、立ち上がってドアへ向かう。振り向き、祈るような顔で見ている明子に自信に満ちた顔で笑顔を見せ、外へ出た。

 ほっと息を吐きながら、やれやれと呟く。早く帰って寝ようと思ったところで、目の前に電飾の看板が置いてあるのに気づいた。

 赤字に白で「赤い小鳥」と書いてある。

 出てきたドアには「MAMAZIN営業中」という札が掛けてあった。床は白いリノリウムで、突き当たりにはエレベーターがあるし、佳枝もいない。明らかにトコヨハイツではなかった。

 ここは一体どこ?


 始業時間になっても藤倉が現れなかった。電話をしても出ないし、アパートの部屋も鍵がかかったままだ。無断欠勤するような男ではないので、何かあったのではと思い、堂原は不安になってきた。ただ入居者が食事のために、続々と食堂に集まっている状況なので、とりあえず対応しなければならない。リッポの炊いた、水か足りなくてぱさぱさするご飯を盛りながら、今日はいつもより静かなのに気づいた。点呼を取って理由がわかった。明子がいないのだ。昨日、藤倉が明子のトラブルを報告したのを思い出し、給仕をリッポにまかせて三階へ行った。

「明子さん、起きてますか?」

 ノックをしながら声を掛けたが何の反応はない。ドアは鍵がかかったままだ。あらかじめ持ってきた合い鍵で解錠した。

「明子さん、入りますよ」

 声を掛けながら、ゆっくりドアを開けた。カーテンが閉まっているので暗かったが、ドア口から漏れる光で、うっすらと中の様子が窺えた。中央に布団が敷いてあって、明子が仰向けで眠っている。

「明子さん、朝ですよ。起きて下さい」

 反応がない。

「上がらせてもらいますよ」

 靴を脱ぎ、部屋の奥へ行ってカーテンを開けた。朝日にさらされたが、明子は微動だにしない。顔の色は死人のように白く、ややしかめ面になっている。そっと近づき、鼻の前に手をかざした。わずかに温かい息を感じたので、まだ生きているようだ。

「明子さん、起きて下さい」

 耳元で呼びかけるが反応はない。手の甲をつねると、一瞬薄目を開けて、再び眼を閉じた。

「こいつはまずいな」堂原は携帯を取り出し、救急車を要請した。

 救急車が到着して、隊員に明子の症状を診てもらう。脳梗塞の疑いが強いとの結論で、病院へ搬送することになった。堂原も救急車へ同乗し、明子を受け入れしてくれることになった市立病院へ向かった。

 明子が検査を受けている間、身元引受人になっている金井社長へ状況を説明し、入院の手続きをした。医師の話によると、今のところ小康状態を保っているというが、いつ急変するかわからないとのことだった。とりあえずバスでトコヨハイツに戻った。

「リッポ、特に問題はないか」

「うん、大丈夫だよ」

「藤倉さんからはまだ連絡がないのか?」

「うん、ないけど。そういえば佳枝さんが、藤倉さんの事でなんか話があるみたいだよ」

 ひどく嫌な予感がした。「佳枝さんは、今どこにいるんだ」

「部屋にいると思うよ」

 三階へ上がり、明子の部屋の隣にある佳枝の部屋のドアをノックした。

「はーい」奥から弱々しい声が聞こえてきた。ゆっくりドアが開き、ひどく怯えた顔の佳枝が顔を見せた。

「どうかしましたか」

「昨日、隣で変な物を見ちゃったんですよ。あたしゃ怖くて怖くて」

 佳枝は昨日の夜、藤倉が明子の部屋へ入っていった様子を話した。

「それで藤倉さんは、明子さんの部屋から出てきていないんですか」

「しばらく待っていたんだけど、出てこなかったわ。一応ドアを開けようとしたんだけど、鍵がかかっちゃってたの」

 堂原は佳枝に、今の件は誰にも話さないよう言い聞かせると、事務所に戻って住所録を開き、信子に電話を掛けた。

「昨日は野菜をありがとうございました。みんなでおいしく頂きましたよ」

「そりゃあよかった。また持ってくるからよ」

「よろしくお願いします。ところでちょっと教えていただきたいんですよ。人が死ぬときに見る幻なんですが、現実の人が閉じ込められるってことはあるんですか?」

「たまにあるだよ。見ている人の思いが強いとねえ、幻が現実みたいになっちまって、出らんねえ時があるんだってさ。あたしのお父さんもねえ、たまに幻から出らんねえで、肝を冷やすときがあったって言ってたよ」

「もしも人が幻の中に入り込んでしまったとして、幻を見ている人が亡くなったら、どうなるんでしょうか」

「そりゃあんた、幻と一緒に消えちまうだ」

 堂原は慄然とした。「実は、幻に紛れ込んだ人がいるかもしれないんです」


 藤倉は雑居ビルから出て、夜の町を歩いていた。明子さんと金井社長はともに清水の生まれだったので、ここも清水の町なんだろう。それにしても歩いている人たちが多かった。清水駅前でもこんなに人がいるのは見たことがない。飲み屋も今と比べて多く、活気に溢れていた。

 さて、ここから抜け出すにはどうしたらいいんだろうか。明子さんに聞いてみるしかないかと思い、雑居ビルの中へ入り、彼女たちがいる店に戻ってみた。

「あれ?」

「MAMAZIN準備中」と言う札が掛けてあった。鍵を掛けてあるのか、ドアを押しても引いても一切動かない。

 さっきまであんなに人がいたというのに変な話だったが、これは明子の幻なんだと思い出す。要するに彼女は自分と会いたくないのだろう。だったら俺はどうしたらいいんだ。改めて彼女たちから渡されたメモや写真、金を見た。幻なんだから、明子がマコと会いたければいくらでも会える設定はできるはずだ。その中で自分にマコの捜索を依頼してきたのだから、そこに何か意味があるんだろう。その問題をクリアすれば、自分がここにいる意味はなくなり、解放されるんじゃないのか。

 それにしてもメモに書いてある万世町だとか横砂だとか、どこにあるのか見当もつかない。住宅地図を購入するにしても、飲み屋が賑やかな時間帯に書店は営業していない。

 時刻も遅いし、泊まる場所はないかと思いながら飲み屋街を歩いて行くと、外れに旅館があったので入った。

 お婆さんに案内されたのは、畳敷きの暗い印象の和室で、既に布団が敷いてあった。狭い風呂に入った後、浴衣に着替え、つり下げ型の蛍光灯を消して布団に入る。

 しばらくすると、隣の部屋から男女のうめくような声が聞こえてきた。ようやくここが連れ込み宿なんだと、初めて気づいた。出て行こうかと思ったが、他の宿を探す気力もなかったので、結局まんじりとしないまま、朝を迎えた。

 旅館を出るとき、店番のお婆さんから、近くにある書店の場所を聞いた。紙に地図を書いてもらい、礼を言って外へ出た。路面は舗装されていたものの、どことなくほこりっぽい風が吹いていた。地図を見ながら表通りに出ると、クリーム色の路面電車が走っていた。

 しばらく歩いていると、新清水駅が見えてきたので、ここがさつき通りだとわかった。

 陸橋を左に逸れて、踏切を渡った左手に本屋があった。そこで住宅地図を購入したが、スマホの地図に慣れている身にとって、住宅地図の大きさは手に余った。

 喫茶店で地図を拡げ、メモに書いてある住所を調べる。万世町が比較的ここから近いので、最初に行ってみることにした。住宅地図の入った紙袋を提げ、通り過ぎる路面電車を横目で見ながらさつき通りを歩いて行く。

「この辺だよな」辺りを見回す。メモには「春風楼」と書いてある。名前の印象だと料亭かと思ったが、それらしい建物はない。

「あった」

 通りを一つ変えるとすぐに見つかった。木造の粗末な建物に、赤地に金字で「春風楼」と書いてある看板が掛かっていた。店構えから見ると中華料理屋だった。

 のれんはまだかかっていないので、営業前らしい。ただ、木の引き戸は半分開いている。

「こんにちはー」恐る恐る中を覗きながら声を掛けてみる。

 奥から「はーい」と女性の声が聞こえてきて、花柄のエプロンを掛けた中年太りの女が出てきた。相撲取りのような丸くてふっくらした細目の顔で、チリチリで爆発したようなパーマを掛けていた。藤倉を見ると不審げな顔をし、「まだ開いてませんけど」と言った。

「あの……こちらに太田マコさんはいらっしゃいますか」

 女の不審げな顔に、眉間の皺が加わる。「あんた、あの子の知り合い?」

「太田さんを探してくれと、人から頼まれてまして」

「こっちが聞きたいくらいさ。あの子、三日前から何にも連絡せずに休んでんだよ。おかげでこっちはてんてこまいだ」

「誰か太田さんの行き先を知ってそうな人はいませんか?」

「あの子が付き合ってた、ちんちくりんで目つきが悪い男なら知ってるら」

 金井社長のことだ。

「僕、その人から頼まれたんですよ」

「だったらあたしもわかんねえだ。昨日は友達の明子が探しに来たくらいだからね。みんな知らねえら」

「他に太田さんの居場所を知ってそうな人はいませんか?」

「あの子の身元引受人になってた早坂さんていう人が横砂にいるだけん、あの人も知らなかったみたいだよ。ま、あの子が行きそうな場所を知ってっかもしんねえし、会ってみたらいいら」

「横砂というと、この『さんさんの家』というところですか」

 差し出したメモを見て、女は頷いた。

「ここは孤児院でよ、あの子は十八になるまでずっとそこにいたんだ。ああ見えて、あの子もいろいろ苦労してんだ。あの子も学校を出てからここで働き始めて、もう五年になるんだけん、勝手に休むなんて一度もなかったさ。熱が出てるときも、迷惑かけるからってフラフラになって出てきただで、逆にあたしたちが帰したときもあったさ。だからおととい店をひっぽかしたときはよ、怒るよりか、びっくりしたくらいだ。うちのお父さんなんか心配してさ、あたしにアパートまで見に行けって言ったくらいだよ。

 どうしてあの子は消えちまったのさ。あのちんちくりんが、明子って子と浮気しちゃったら」

「ぼくもよくわからないんですよ」

 戸惑いが顔に出たのだろう。女は顔をしかめながら、納得したように頷いた。

「やっぱあのちんちくりんが悪いだよ、見るからに悪そうな顔してるら。あいつがここへ来たとき、一目見てわかったさ。おぜえ奴だぜ」

 女は吐き捨てるように呟いた。藤倉は曖昧に頷くしかなかった。

「ありがとうございます。それじゃあ横砂の早坂さんに聞いてみます」

 お辞儀をして立ち去ろうとしたとき、女に呼び止められた。

「あんた、マコに会ったらウチに連絡しろって言ってくれよ。あたしらは怒ってないからねってさ。あの子、いい子なんだよ」

 心配そうな顔で話す女に、「わかりました」と返して店を後にした。


 金井社長が市立病院へ来たのは、午後五時過ぎだった。病室に入ってきた金井を見て堂原が立ち上がり、お辞儀をして迎えた。

「忙しいところ、お手数をお掛けして申し訳ありません」

 金井は声を掛ける堂原に軽く頷きながら、ベッドへつかつかと歩み寄り、明子の顔を覗き込んだ。振り向き、じろりと鋭い視線を堂原に投げかける。

「明子の具合はどうだ」

「予断を許さない状況です。今のところ、心拍数も落ちているようで、医者の話によると今夜が山場だろうと」

 明子は眼を閉じ、人工呼吸器が口に固定されていた。パジャマの下から様々なコードが延び、計器に繋がっている。

「藤倉がこいつの中に入り込んでいるってのは本当か」

「目撃者がいますので間違いありません。明子さんの部屋を開けたら、中がバーになっていたそうです。オールディーズが流れていて、リーゼントの男やポニーテールの女性がいたと言っていました」

「ママズインか」金井が目を細め、スッと鼻で笑った。「なつかしいな」

「藤倉さんも、タイミングの悪いところで明子さんの幻に入り込んじゃいましたよ」

「違う」

「え? 何がですか」

「タイミングとかじゃねえ。明子はわざと藤倉を自分の中に連れ込んだんだ」

 金井はベッドの傍らにある椅子に座り、明子を見つめた。

「こいつ、最後まで俺を困らせようとしてるんだ。手を焼かせるぜ」

 皺になり、血管が浮き出た明子の手を、金井は同じく皺だらけの両手で挟み込むように握った。

 明子の顔にかがみ込み、閉じた目を見つめ、静かに語り始める。

「なあ明子、藤倉は俺の大事な娘の大事な婿なんだ。頼むからよ、帰してくんねえか」

 堂原には、そんな金井の後ろ姿が、珍しく疲れているように見えた。


 さつき通りへ出て、紙袋から大型の住宅地図を取り出した。苦労して横砂のページを開いていると、ドドドドドと野太いエンジン音が聞こえてきた。顔を上げると、黒くて巨大な外車が横に停まった。

 レザートップの角張ったクーペで、死ぬほど長いノーズに、恐竜を思わせるワイルドな顔つきのフロントマスク。ボンネットマスコットには見覚えのあるエンブレムが輝いている。キャデラックだ。

 左のサイドウインドウが開き、ちんちくりんが顔を覗かせた。

「おい、マコは見つかったか」

「いいえ。今、『春風楼』へ行ってきたところです」

「『さんさんの家』は?」

「これから行くところです」

「まだ行ってねえのか。ショロショロしてんじゃねえよ」

「すみません、これから電車に乗っていきますから」

「なんだ、ワレは車も持ってねえのか。だったら乗ってきな」

「はあ……」

「ショロショロしてんじゃねえって言ってるだろうが、早く乗れ」

 一瞬躊躇したところを、すかさず怒鳴ってきた。若い頃から短気なのは変わらない。車道に回り込んで、助手席のドアを開けて車内に入る。金井は無造作にウインカーを出しながらハンドルを切った。キャデラックの半分ぐらいの大きさをした国産車が、クラクションを鳴らしながらブレーキを掛け、道を譲った。

 金井が「うるせえ」と怒鳴りながらアクセルを踏んだ。キャデラックはエンジンを唸らせながら、巨大な車体を加速させていく。高架を越え、清水駅の前を通り過ぎていくと、やがて路面電車が道路から外れていった。道も狭くなり、急に町から田舎の町並みに変わっていった。

「金井さんはマコさんと付き合っていたんですか?」

「ああ……。そうだよ」

「今回、どうしてマコさんが失跡したんですか?」

「わかってるら、明子とできちまったからだよ。俺に言わせんな」

「どうしてなんですか。こうなるのはわかってたじゃないですか」

 半ば挑発するつもりで言ってみた。怒鳴り出すだろうと身構えたが、予想外に黙り込んだ。信号で停車したとき、静かに喋り始めた。

「マコと明子は親友以上の仲さ。俺だってそんなことは重々承知だけんな、人を好きになっちまうとな、なんにも見えなくなっちまうときがあるもんさ」

 鋭かった視線が弱くなっていた。瞳の奥から柔らかいものが見えた気がした。

「俺っちもしょんねえことしちまった。マコには悪かったと思ってんだ」

 金井は右へハンドルを切り、狭い道へ巨大な車体を滑り込ませた。踏切を二つ越えたところで、木造の幼稚園くらいの建物と広場が見えてきた。門に『さんさんの家』と書いてある。

「俺はあの婆さんに嫌われてるからさ、ここで待ってるぞ。明子に頼まれてマコを探している探偵とか言えば、あの婆さんは人がいいから何でも話してくれるら」

 藤倉は礼を言ってキャデラックから降り、『さんさんの家』の開け放たれた門を抜ける。目の前に、大きくて古い木造の家があった。建て付けの悪い引き戸を開け、「ごめん下さい」と呼びかけた。「はあい」と奥から声がして、小学生くらいの男の子が出てきた。少し黄ばんだ白いシャツと、青い半ズボン姿だった。

「ここに早坂さんはいるかな」

「いるよ」男の子は頷き、「先生、お客さんだよ」と叫びながら、右手の戸を開けた。

「はいはい」と奥から声がして、女性が戸口から顔を覗かせた。白髪頭でやせており、顔の皺のからみて、六十過ぎだろうか。藤倉を見て、訝しげな顔をしながら框まで来た。背筋がピンと伸び、上品で凜とした印象だ。

「突然申し訳ありません、私、城田明子さんに頼まれて、太田マコさんを探しているんです。ちょっとお話を聞かせていただけないでしょうか」

「ああ……」早坂は腑に落ちたように頷いた。

「マコさんはまだ見つからないんですか。昨日も明子さんが真っ青な顔をして、マコさんから連絡がないかって聞きに来たんですけどねえ」

 早坂は顔を曇らせた。

「マコさんがいそうな場所で、どこか心当たりのある場所はありませんか?」

「あたしも昨日から考えているんだけど、なかなかないのよ」

「例えば……マコさんのご両親のところへ行ったとか」

 早坂は静かに首を振った。

「あの子の夫婦は、揃って交通事故で亡くなっているの。親戚にも引き取り手がいなくて、あたしたちの所へ預けられたんですよ」

「明子さんもここにいたんですか?」

「ええ。あの子は親御さんが離婚しちゃってねえ、お母さん一人であの子を養えなくて、ここに預けられたの。生活が安定したら引き取るって言う約束だったんですけど、結局連絡が付かなくて、中学を出るまでここにいたのよ」

 早坂は昔を懐かしむように、微かな笑みを浮かべた。

「マコさんと明子さんは同い年で、いつでも一緒にいたの。もちろん血は繋がっていないけど、姉妹みたいだったわ。中学生の時、マコさんが孤児院の子だなんて言われていじめられてたことがあったの。そうしたら明子さん、真っ先にマコさんのクラスに行って、男の子も含めて、いじめた人みんなを殴っちゃってねえ、大変だったわ」

 早坂は昔を懐かしむように、微笑みを浮かべた。

「マコさんはいつも明子さんに勉強を教えててねえ、明子さんは先生に教えてもらうよりわかるって、いつもマコさんに感謝してたわ。明子さんは昔から男勝りで暴れん坊だったけど、マコさんといると女の子らしく、二人でよく笑いあっていた。それがこんなことになるなんて、信じられないわ」

 早坂は悲しげにため息をついた。「あの子は本当にいい子なの。急に消えちゃうなんて、よっぽどのことがあったのよ」

 メモを見ると、『春風楼』と『さんさんの家』の住所しか書いていない。これからどうしたらいいんだと思いながら、礼を言って『さんさんの家』を後にした。

 外にキャデラックの姿はなかった。明子さんは俺に何をさせたいんだと半ば途方に暮れながらあてどなく歩き出した。空は曇り、ぼんやりした光に包まれていた。風はない。踏切にさし掛かったところで、左手に路面電車の駅が見えた。ホームに女性が一人立っている。少しふっくらした体つきで、白いワンピースに青いチューリップハットを被っていた。ふくよかで、細目のかわいらしい顔つきの子だった。藤倉ははっとして紙袋に入っている住宅地図の隙間に手を突っ込んだ。写真を取り出し、ホームの女性と見比べた。

 藤倉はホームへ向かって走り出した。低い段差を乗り越え、女性に近づく。

「あの……」恐る恐る声を掛けた。「マコさんですか?」


 午後十一時。明子の容体は小康状態を保ったままだった。堂原と早希はトコヨハイツの事務所で連絡を待っていた。

「あのクソジジイが。このまま付き添いを続けられたら、明日のスケジュールが全部吹っ飛んじゃうんですよ。堂原さん、何とかなりませんか」

 早希はしかめっ面で腕を組み、向かいに座っている堂原を見ていた。

「私も散々交代するからと言っているんですけどね。白井さんも、あの人が言い出したら聞かないのはわかっているでしょう」

「ったくよ、調整する身にもなってくれってんだ」

 早希は大きくため息をついた。

「白井さんも明日大変でしょうから、さっき部屋を取ったホテルで休んだらどうですか? 何かあったら私から連絡しますよ」

「大丈夫、ボスが起きてるのに部下が寝てられませんよ」

 堂原が軽く笑った。「白井さん、案外古いタイプなんですね」

「そうでないと、あの社長の下で仕事なんかできないわ」

 早希が投げやりに答えた。

「堂原さんは、本当に藤倉さんがあの婆さんの夢の中に入り込んじゃったとか思っているんですか?」

「ええ。そうとしか思えないんですよ」

「あたしはそういうの、一切信じませんからね。社長がここについて言っているのは聞いたことはありますけど、全部無視してますから。藤倉さんも家庭で色々ある人だし、嫌になってどっかにバックレたんじゃないですか?」

「それならいいんですけど」

 堂原が大きく息を吐いた時、事務所のドアが勢いよく開いた。

「ひいっ」

 早希が目を見開いて小さく悲鳴を上げた。入ってきたのはリッポだった。

「ノックぐらいしなさいよ。びっくりしたじゃない」 

「ご、ごめんなさい」

 早希に怒鳴りつけられて、今度はリッポが大きく目を開いてたじろいだ。

「こんな時間に何しに来たんだ。いつもなら寝ている時間だろう」

「頭の中がね、なんだかわさわさするんだ。もしかして、藤倉さんはまだ帰ってきていないの?」

「まだだよ」

「そっか。だからわさわさするんだ。明子さん、なんで帰してくれないんだろうね」

「さあな。早くしないと藤倉さん、閉じ込められたまま消えちゃうかもしれないのにな」「藤倉さん、帰り方がわかんないかもしれないから、僕が連れ戻しに行ってくるよ」

「だめだめ、お前まで明子さんと一緒に消えちゃうかもしれないんだぞ。戻れなくなったらどうするんだ」

「大丈夫。きっと神様は僕のことを見てくれてるさ」

「神様とか、そんな不確かな話をするんじゃない。明子さんはいつ死ぬかわからないんだからな」

 リッポはふくよかな笑みを浮かべた。

「神様が死ねって言ったら、僕なんかあっという間に死んでるんだよ。だから僕、きっと生きて戻ってこれるんだ」

「訳のわからないことを言いやがって。ともかく明子さんの所へは行くんじゃないぞ」

「でもね、もう半分明子さんの所へ行きかけているんだ。ふぁーあ」

 リッポが大きなあくびをしながら堂原の隣へ座り、眼を閉じた。途端にいびきをかき始める。

「なんだよこいつ、寝ちまったのか? おいリッポ」

 肩に手をやり揺すったが、起きる気配はなかった。

「リッポ? どうなってんだ」

 堂原は目を瞠った。眠っているリッポの下から、ソファのシートが透けて見えてきた。

 リッポの体が透明になっていく。肩に置いた手の感覚がなくなり、リッポの体の中に入り込んでいった。

「おい待てよ。明子さんの所へ行っちゃうのか」

 リッポは答えることなく存在が霞み始め、やがて消えていった。

「行っちゃったよ。どうしようもない奴だな。ねえ白井さん。おや、どうしました?」

 早希が目を見開き、リッポが消えたソファを凝視していた。わなわなと、半開きになった口が震えている。

「怖いぃ……」早希はか細い声で呟いた。「あたし、幽霊とか超常現象とかだめなのよぉ」


「はい、そうですけど……」

 マコは藤倉を見て、少し警戒気味の顔をした。

「私、明子さんからあなたを探すよう頼まれていたんです」

 明子と言った時、マコの顔が強ばり、目を背けた。

「あなたとは、もう会いませんと言って下さい」

 声は小さかったが、言葉には強い意志がこもっていた。

「明子さんと何があったのかよく知りませんけど、彼女は相当悩んでいるようですよ。一度でもいいから会ってくれませんか」

「失礼します」

 押し殺した声でうつむきながら藤倉の横をすり抜け、足早に歩き去ろうとした。

「マコさん、早坂さんの所へ行こうとしたんじゃないんですか」

 足が止まった。

「でも会う勇気がなくて、そのまま電車に乗って帰ろうとしたんでしょう。さっき『さんさんの家』に行ってきた所なんです。早坂さんも、ずいぶん心配していましたよ」

 マコが振り向いた。硬い表情は溶け去り、目に涙を溜めた、悲しげな顔が浮かび上がっていた。

「あたし、どうしたらいいのかわからないんです」目から涙が溢れてきた。「ずっとずっとあの子と一緒で、これからも一緒だと思ってた。二人でお店を出すのが夢で、少しずつだけど、開業資金も貯めていたの。

 どんなお店にするか、二人で夜通し喋りあった時もあったわ。洋食屋さんで、メニューはねハンバーグとかオムライス、エビフライ。どれも子供の頃にあたしたちが食べたかったメニューよ。テーブルクロスは赤いチェックの柄で、好きな音楽を流すの。ロイ・オービソン、デル・シャノン、もちろんプレスリーも。

 それなのに、あの子はあたしの彼氏を奪っていったのよ」

「悲しんでいるのはわかりますよ。でもね、男と女の間柄なんですから、ついそうなってしまうというのもあるんじゃないですか? 私も一緒に行きますから、『さんさんの家』へ行きましょう。早坂さんも事情をわかっていますから、相談してみたらどうですか。『春風楼』のお母さんも、一度連絡してくれと言っていましたし」

 マコは目を伏せて悩んでいるようだったが、やがて強い目で藤倉を見て、ゆっくりお辞儀をした。「すみません、お願いします」

 藤倉はマコと一緒に駅を出て、『さんさんの家』に戻るため、元来た道を引き返した。


「おーい、藤倉さーん」

 リッポは辺りをきょろきょろ見回したが、藤倉の姿は見えなかった。辺りはうっすらと霧が立ちこめ、空はぼんやりした光が広がっていた。港橋の方からクリーム色の路面電車が現れて横切り、霧の中に消えていった。多くの人が歩いていたが、全体の輪郭が水彩画のようにあやふやだった。顔も同じようにしか見えない。足下もふわふわした感覚で、絨毯の上を歩いているような気がする。

「どこへ行っちゃったのかなあ」

 このまま動くのもなんだか怖いし、かと言って、藤倉さんを連れて帰らなければいけないし。どうしようかと思っていると、霧の中から一台の黒くて大きな車が車が現れた。キャデラックだ。リッポの横で停まり、開いた窓から金井が顔を覗かせた。

「あっ、社長。こんなとこで何してんの」

「馬鹿野郎、お前を連れに来たんだろうが。ショロショロしてるとこの世界が消えちまうぞ。早く乗れ」

「うん」

 リッポがキャデラックに乗ると、金井はアクセルを踏み、霧の中へ入っていった。


 隣を歩くマコを見ながら、彼女も明子さんが生み出した幻なんだよなと藤倉は思う。どうしてこんなめんどくさいことをさせるんだ。

 霧が出てきたのだろうか、いつの間にか辺りがやや霞んでいた。うっすらと『さんさんの家』が見えてくる。

 門を開けて入っていくと、不意に引き戸が開き、黄色時に白の水玉模様のワンピースを着た女が出てきた。ポニーテールで大きな瞳。明子だった。

 明子とマコはお互いに大きく目を見開き、あっと驚いたような声を出した。

 マコが踵を返し、駆け出そうとした。

「ねえ、待って」

 明子が走り、マコの手を掴む。

「離してよ」

 マコが強い怒りの目を向けて、手をふりほどこうとした。明子はしっかりと掴み、体に引き寄せる。

「マコさん、たとえ明子さんと別れるにしても、長く一緒にいた間からなんですから、一回二人で話し合った方がいいんじゃないですか」

「そうよ、一回でいいからあたしの話を聞いてちょうだい」

「嫌よ。もうあなたなんか、顔も見たくないんだから」

 激しい言葉に明子は動揺し、思わず手を離した。荒い息をしながら二人は対峙した。明子の目から、大粒の涙が溢れていく。続けて、マコの目からも涙が溢れてきた。

「どうしてこんなことになっちゃったの? よりによって、どうしてあの人なの」

「あの人から誘いがあったのは半年ぐらい前。正直、マコがあの人を連れてきた時から気になっていたの……。だからつい、誘いに乗っちゃって」

 道を巨大なキャデラックが進んできて、門の前で止まった。中から金井とリッポが出てくる。

「藤倉さん、探したよ」

「おい、リッポここから出る方法はあるのか」

「うん。一緒に帰ろう」

「藤倉、ちょっと待ってろ。帰る前にこいつらと片を付けるのを見ていけや」

 金井はポケットに両手を突っ込み、ニタニタうすら笑いを浮かべながら、明子とマコに近づいていった。

「お前ら二人で喧嘩なんかしてんじゃね。幼なじみだろ、もっと仲良くしたらどうなんだ」

「何を言ってんのよ、あたしたちがいがみあったのは、そもそもあんたが原因じゃないの」

「そうだったな、悪いっけ。だけんさ、 二人ともよかったぜ。いい体してたしよ」

 金井が下品な笑い声を上げた。

「なによあんた、あたしたちの体が目的だったって言うの」

「そうさ、当たり前じゃねえか。俺はお前らをこましたかった、それだけだ」

「あたしたちがどうなってもかまわないっていうの?」

「そんなもん関係ねえよ」

「ひどい……。そんな人だとは思ってなかったわ」

 マコの声が怒りで震えていた。

「ホントのことなんだからしょうがねえだろ」

 ヘラヘラ薄っぺらい笑みを浮かべる金井に、明子がつかつかと歩み寄ったかと思うと、躊躇せずビンタを浴びせた。思わず金井がのけぞる。

「何しやがる、痛てえじゃねえか」

「あんたって……。最低な男ね」

 明子が吐き捨てるように呟く。

「そうさ。俺がろくでもない男だっていうのはよ、俺自身が一番よく知ってら。だけんな、俺みたいな男に引っかかるお前らもバカなんだよ」

「なんだと」

 金井が再び手を挙げようとした明子の肩を掴み、足で払った。

 明子はあっさり地面に倒れた。

 すかさず、蹴りを入れた。

「社長、やめてください」

 見かねた藤倉が背後から金井を抱えて引き離そうとした。

「離せよ、先に手を出したのはこいつなんだからな」

「怒らせた原因は社長でしょう」

「社長、暴れるのはよくないよ」

 藤倉を振り払おうとしている金井の横で、リッポがおろおろしていた。

 マコが駆け寄り、起き上がった明子を抱きかかえた。

「大丈夫? 明子」

「うん」

 マコはハンカチを取り出し、顔に付いた泥を優しい手つきで拭いていた。明子は涙を浮かべながら、マコを見つめていた。

 金井の体から力が抜けた。「もういい、離せ」と小さな声で呟いた。

「お前ら、こうなったらよお、二人揃って俺と付き合うってのはどうだよ」

「ふざけんじゃねえ、お前の顔なんて、二度と見たくなんかねえ」

「そうよ、帰って」

「おお、怖え怖え」

 睨み付ける明子とマコにヘラヘラ笑いかけ、金井はキャデラックに乗って走り去っていった。

「マコ、ごめんね」

「もういいの。あんな人に引っかかったあたしたちがバカだったのよ。お互い水に流しましょう」

「うん」

 二人は涙を流しながら見つめ合うと、お互いを強く抱き締めあった。

 これで明子さんの幻も完結したのかな。藤倉はほっとしてリッポに「帰ろうか」と声を掛けた。

「うん」

 リッポが頷き、歩き出そうとしたとき、

「ねえあんたたち」

 明子が悲しみを帯びた強い目で藤倉たちを見つめていた。「マコはいい子だったの。覚えておいて」

「はい……」

 藤倉は唐突な呼びかけに戸惑いながらも頷いた。「わかりました。覚えておきます」

「お願いね」

 藤倉はもう一度しっかり頷き、リッポと一緒に『さんさんの家』を後にした。

「リッポ、どうやって帰るんだ」

「えーとねえ、海へ行くんだ」

「海はどっちなんだ?」

「えーとねえ、わかんないよ」

「わかんないんじゃ困るよ。きっとこっちじゃないのか」

 歩き出そうとしたとき、「おおい、こっちだ」とダミ声が聞こえてきた。霧の中から金井が出てきた。

「海に行くら、俺が案内してやらあ」

「お願いします」

 金井は早足で歩き出した。

「今日は妙な目に遭わせちまってよ、悪かったな」

「いえいえ、僕らはここから出してもらえれば何の問題もないですから」

「マコも明子も悪い奴じゃないんだ。わかってくれただろ」

「ええ……」

 藤倉は曖昧に頷いた。金井はややうつむきかげんに前を向き、まるで独り言を呟いているように見えた。

 ここに出てくる人は、みんなマコがいい人ですとアピールするんだと思う。

 広い道路を渡ったところで船だまりが見えてきた。木造の小さな漁船が、いくつも係留してあった。霧は更に濃くなり、背後にあったはずの道も見えない。空も濃い灰色になり、薄闇が支配し始めていた。

「リッポ、海に来たぞ、どうするんだ」

「海ん中に飛び込むんだ」

「えっ、ちょっと待てよ……。海に入るの?」

「そうだよ」

「俺……。実はさ、泳げないんだよね」

「ええっ、でも海ん中に入んないと、ここから出られないんだよ」

「他に帰る手段はないの?」

「だめだよ。海に入るしかないんだ」

 恐る恐る堤防の下を覗き込んだ。青黒く底の見えない海が、ゆっくりと上下している。恐怖が爪の先まで染み渡り、体が動かない。

「藤倉さん、早くしないと明子さんが死んじゃって、この世界も消えちゃうんだよ」

「そんなこと言ったって……。怖いんだから」

 情けない声が出てくる。

「バカヤロウ、こんなもん幻なんだ、実際溺れるわけじゃねえ」

「え?」

 振り向くと背後に金井が立っていて、右足を持ち上げていた。

 靴底が目前に迫っていた。

「ショロショロしてんじゃねえ」

 思い切り胸を蹴られる。

 アッと、叫ぶ間もなくのけぞり、後頭部から海に落ちた。

 全身が海に浸かった。手足をかいて水面に上がろうとするが、もがいているだけで、浮き上がれない。まるで海が体を掴み、引きずり下ろそうとしているかのようだ。息苦しくなり、塩辛い海水が口の中に入ってくる。

 ああ……。死んじゃうよ。

 頭の中が真っ白になり、意識が遠のいていく。


 いつの間にか眠っていたらしい。午前五時を過ぎていた。金井は強ばった体をほぐしながら立ち上がり、カーテンを開けて外を見た。辺りは薄い闇が支配していた。七十近くで一晩中付き添いするのはさすがに疲れるなと思う。

 明子は相変わらず目を閉じたままで、呼吸も止まらない。しかし、彼女に残された時間がわずかなのはわかっている。再び椅子へ座り、明子を見つめた。

「俺っちも色々芝居をしてみせたけどよ、マコは俺たちが本気なのをわかってたんだ。だから許しちゃくれなかった。

 なあ明子、お前が怒ってるのは嫌っていうくらいわかるさ。だけんな、こいつはもうどうにもなんねえ話なんだ。俺っちが生きて行くにはな、全部心の奥に押し込んで押し込んで、足でガンガン踏み固めてよ、まるでなかったことにしちまうしかねえんだ。お前だってわかってるら」

――帰したよ――

 頭の中で、不意に声が響いた。

 はっとした瞬間、計器の数値が一気に下がり、警報が鳴り出した。最初に看護師が、遅れて当直の医師が入ってくる。

「城田さんはどうやらご危篤のようです。覚悟をしていて下さい」

 医師たちは明子を取り囲み、慌ただしく蘇生措置を施していた。後ろに下がった金井は、静かに様子を見ていた。

――確かめなくていいんか?――

――お前が帰したって言うんなら間違いねえ。きっと藤倉は戻ってるら――

 医師の肩越しに見える明子の顔は、少し笑っているように見えた。


 薄暗い中、色あせたクリーム色の天井が見えていた。硬いビニールござの感触。藤倉はいつの間にか目を開けていた。ゆっくりと体を起こし、辺りを見回す。見慣れた部屋だとは思ったが、どこにいるかしばらくわからなかった。壁に掛けてある紫のワンピースを見て、ここがトコヨハイツで、しかも明子の部屋だと気づいた。

 隣ではリッポが大きな体を横たえ、いびきをかいて眠っている。強ばった体をほぐしながら立ち上がり、カーテンを引いた。朝日の強い光が進入し、まぶしくて目を瞬かせた。

「うーん」

 背後でリッポが目を擦りながら起きてきた。

「リッポ、おかげで戻ってこられたよ。ありがとう」

「ねえ藤倉さん、僕のこと感謝してる?」

「ああ。感謝してるよ」

「ホント?」

「本当だよ」

「それじゃあね」リッポがにっこり笑った。「ファミマのタマゴサンドが食べたいんだ。僕、お腹ペコペコ」

「わかったよ、おごってあげるから」

「やったー」

 無邪気に喜ぶリッポを見て、現実に戻ってきたのを実感した。


「藤倉様、このたびは『やすらぎ』コースをお選びいただきまして、誠にありがとうございました」

 メモリアルホール羽衣へ行くと、竹下がどこからともなく歩み寄ってきた。ほんのわずかな笑みを浮かべ、最敬礼して脳天の禿げた部分を見せる。

「つきまして今後のことですが、引き続き『やすらぎ』コースということで進めさせていただけるのでしょうか」

 顔を上げた竹下の目が、セルフレームのメガネ越しにキラリと光る。

「今日の葬儀は社長がポケットマネーを出してますから特別です。次に出るときはいつもの火葬コースになるはずですよ」

「はあ、そうですか……」

 あっさり拒否した藤倉に、竹下の目がしぼんでいった。

 今回は葬儀場が設けられていたが、参列者はまばらだった。藤倉は一応受付に立ったが、香典を持ってくる者もいないので、手持ち無沙汰だった。会場を覗き、早希がいるのを確認して隣へ座った。

「社長はどうされているんですか?」

「外の車にいるわ。あたしが代理で行ってこいってさ。自分で金を出したくせに、何を考えてんだかわかりゃしないわ」

 ため息交じりに呟いた早希が、突然ヒャッと小さく悲鳴を上げた。横をリッポが通り過ぎていくのを、まじまじと見つめていた。

「どうかしましたか?」

「な、なんでもないわ」 

 頑なに首を振る早希を怪訝に思いながらも、金井が気になった。

「社長を連れてきますよ」

「行くだけ無駄だと思うけど」

「そうかもしれませんけど、話だけはしてきます」

 葬儀が始まるまで、まだ時間があるのを確認し、建物の外へ出た。数日前までは蒸し暑いと思っていたのに、いつの間にか乾いた風が吹いていた。

 がらんとした駐車場の真ん中に、黒塗りのキャデラック・エスカレードのリムジンが一台だけ停まっていた。藤倉は近づき、後部座席の前に立った。窓が開き、年老いた金井の顔が現れる。

「どうかしたか」

「葬儀には出席なさらないんですか?」

「俺が行ったらよ、明子が出て行けって棺桶から飛び出してくらあ」

 金井は寂しそうな微笑みを浮かべた。

「若けえ時の俺に会ったそうじゃねえか。かっこよかっただろ」

 一転してニタリと笑いかける金井に、曖昧な笑顔を浮かべて頷いた。

「一つ教えてください。夢のなかにマコさんという人が出てきたんですが、その方は今、何をされているんですか」

 金井の口元から笑みが消え、視線を逸らした。

「俺っちと別れて五年後さ。妻子持ちの男とできちまってよ、別れ話になった男を刺し殺し、自分は首をくくっちまった」

 ホームに立っていた、ふくよかで優しい顔をしたマコを思い出し、一瞬言葉に詰まった。

「妙なことを聞いて申し訳ありません。幻の中に出てきた人が、マコさんをみんないい人だって言ってましたので……」

「ああ。マコはいい子だった。本当は人を殺すような奴じゃなかったんだ。俺みたいな奴と付き合っちまったのが運の尽きよ」

「明子さんが覚えていてくれと言っていました」

「そうか……。悪いけどよ、たまには思い出してくれ。昔マコって子がいたのをさ」

「はい」

 金井の目が少し潤んでいるように見えた。

「もうすぐ葬式が始まっちまうぞ。ショロショロしてねえで、早く行ってやれや」

 スモークの窓が上がっていく。藤倉は一礼しながら、明子がどうして自分を幻の中に引き込んだのか、ようやくわかった気がした。

 葬儀場へ入る前に、振り返って駐車場を見た。青い空は澄み渡り、高い場所にウロコ雲が広がっている。その下でぽつんと一台停まっているキャデラックは、ひどく寂しげな佇まいをしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ