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笑ってる海、泣いてる海  作者: 青嶋幻
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第一話 トコヨハイツ

 トコヨハイツの入居者である美子は、同じ入居者が亡くなって火葬をしているとき、精神状態がおかしくなり、藤倉に絡み始めた。リッポはそんな美子をなだめ、散歩に連れて行った。その時のリッポの様子に、藤倉は違和感を覚えた。

 数日後、藤倉は仕事を終え、トコヨハイツを後にしようとしたとき、トコヨハイツへ小さな女の子が入っていくのを見た。追いかけたが見失い、諦めて帰ろうとしたとき、美子が外へ出ようとしていたの出くわす。私設賞の堂原に連絡すると、堂原は既に帰っていたリッポを呼び出した。リッポは美子を部屋へ連れて行った。美子と女の子、それにリッポ。何か関連がありそうだったが、堂原は口を濁すだけだった。

 藤倉賢吾は、ぼんやり窓の外を眺めていた。がたんと一際高い振動のあと、電車は減速し始め、足下に置いてあったキャリーバッグの取っ手を持ち直した。電車はホームへ滑り込む。「しみず」と書いてある駅名標が目に入ってきた。停車すると同時に立ち上がり、

年配の女性の後に続き、ホームへ降り立った。

 昨日は冷たい雨が降り、真冬に戻ったような寒さだったが、今日は一転して暖かく、湿った風が吹いていた。季節は寒暖を繰り返しながら、着実に春へと向かっていた。

 静岡市清水区。カナイトランスポーター創業の地であり、現在も支店を構えているので何度か訪れたことはあった。しかしその時は車なので、駅は初めてだ。

 エスカレーターに乗って上の階へ向かった。改札を抜けて携帯電話を取り出し、登録してあった番号を呼び出した。

「はい、トコヨハイツです」若い女性の声が聞こえた。

「私、藤倉と申しますが、堂原さんはいらっしゃいますか」

「すいません、ちょっと取り込み中なんです」

「いつぐらいに出られそうですか」

「わかりません」

 愛想のない子だなと思い、少しむっとする。堂原が落ち着いたら電話を入れるよう伝えて通話を切った。住所はわかっているので、バスかタクシーを使えば一人で行けた。ただ、迎えに来てもらうことになっていたので、行き違いになったら申し訳ない。しばらく待つことにした。

 改札を出た場所は、広々とした通路になっていて、ぽつりぽつりと人が歩いていた。平日の昼前のためか老人が目立つ。窓の外を見た。空は晴れ、右手には、まだ雪が残っている富士山が間近にあった。眼下に東海道線の赤茶けた線路が見えていた。その上をシルバーに輝く電車がこちらに向かって走ってきて、足下へ吸い込まれていく。

 漠とした不安を意識していると、唐突に祐理を思い出した。

 窓下に取り付けてある手すりを強く握りしめる。心臓が激しく鼓動していた。意識して大きく呼吸をしながら、動揺した心を落ち着けた。

 こんな場所で突っ立っているから悪いんだ。さっさと行ってしまおうと思って歩き出した時、上着からバイブレーションが響いた。携帯電話を取り出した。

「はい、藤倉です」

「堂原です。電話に出られなくて申し訳ありません。実は今、トラブルが起きてまして、迎えに行けない状態なんです。すいませんが、バスかタクシーでこっちへ来られますか?」

「ああ……。大丈夫ですよ」

「いや、本当に申し訳ないです」

 電話を切った。結局、待っている時間が無駄になったと思い、ため息をつく。

 重い荷物を抱えてバスに乗るのも疲れるので、エスカレーターを下りてタクシーに乗った。ドライバーに住所を告げ、車は走り出す。海は見えないが、海上コンテナを引っ張るトラクターヘッドが目立った。やがて大きく左にカーブし、一車線になった。三保半島へ入ってきたようだ。

 三保は海流によって砂嘴が堆積してできた半島で、古い歴史がある。外海には羽衣伝説で有名な三保の松原があり、世界遺産にも登録されている。内海は天然の良港として、古くから栄えていた清水港があった。

 三月末に突然下された内示をきっかけに、ネットで仕入れた情報だった。全国的に有名な景勝地であるため、道沿いに土産物屋が建ち並んでいるイメージを勝手に抱いていた。しかし今走っているところは、ドラッグストアがあったり、半ばつぶれかけたような店があったりと、生活感漂う町並みが広がっていた。

 タクシーは右折し、住宅街に入っていった。乗用車がようやくすれ違えるような狭い道を行くと、前方に松林が見えてきた。

「着きましたよ」

 左手に、コンクリートの建物があった。三階建てで、マンションというより団地といった方がぴったりする角張った建物だった。最近ペンキを塗ったのか、見た目はきれいだったが、デザインを見れば古いのは明らかだった。敷地を囲む白い柵は錆が浮き出ていた。元々は造船工場の社員寮だった聞いている。それを六年前、カナイトランスポーターが買い取っていた。

 タクシーから降り、黒ずんだ灰色のコンクリートの門を見た。白地のプラスチック板に「トコヨハイツ」と黒字で書いてある。社長の命名だそうだが、どうしてこんな名前にしたのか理解不能だった。どうせ社長の気まぐれなんだろうと思いながら門を入る。

 足が止まった。パラパラと雑草が生えている敷地に、パトカーが止まっていたからだ。

 何があったんだと身構えながら、入り口を見た。ひっそりして、人の声も聞こえてこない。妙な話に巻き込まれたくないなと思ったが、このまま突っ立ているわけにもいかない。恐る恐る中へ入ろうとした。

 奥にある階段から誰か降りてきた。入り口に近づいてくると、制服を着た警官二人と、青いチェックのシャツにチノパン姿の男が見えてきた。男は白髪で、艶のない額や頬には細かい皺が刻まれている。一見六十過ぎに見えるが、目元だけは生き生きとして、もう少し若いようにも思える。警察官がパトカーに乗って出て行き、男はお辞儀をして見送った。

「あなたは……」顔を上げた男と目が合った。「藤倉さんですか?」

「はい、そうです」

 男がぱっと笑顔を見せる。「堂原です。お迎えに上がれないで失礼しました。見ての通り、今まで警察が来ていまして」

「どうされたんですか」

「今朝、ここで人が亡くなりましてね。病院だとか、医者が立ち会っていれば大丈夫なんですけど、そうでないと警察が来て、問題がないか調べるんですよ。とりあえず事件性はないという見解をもらったところです」

 人が死んだというのに、堂原は妙に落ち着き払っていた。その姿に違和感を覚える。

「さて、これからが大変です。親族にご遺体や遺品を引き取りに来てもらわなければならないんです。ただ、こういう施設に入っている人の遺族が、すんなり受けてくれる確率は低いです。当然遺産なんて持っていませんし、そもそも親族と親しく付き合っていれば、この施設には入っていませんからね」

「受け取り拒否となると、ご遺体はどうするんですか」

「通常だと行政が引き取って火葬します。ただ、引き取り手がないなら、最後まで面倒を見ろというのが社長の方針なので、うちが納骨まで行っています」

「ねえ堂原さん、飯塚さんの荷物、整理していい?」

 子供のように甲高く、少しハスキーな声が聞こえきた。建物の奥に視線を移すと、人影が見えていた。小柄で丸っこい輪郭だ。明るい場所に出てくる。

 色白で、ふっくらしたパンのような丸い顔をした若い男だった。つぶらな瞳を子供のように輝かせながら、笑みを溢れさせている。身長百七十センチの藤倉よりも更に低いので、きっと百六十センチ程度か。その代わり、横幅はかなり広い。上下のダブダブしたグレーのスウェットに、薄汚れた白いスニーカーを履いていた。

 穏やかだった堂原の顔が、男に視線を移した途端、急に険しくなる。

「リッポ、何度言ったらわかるんだ」怒鳴り声が響く。「遺品の整理は原則親族がやるんだぞ。俺たちがやるのは親族が相続を放棄して、承諾書をもらってからだ」

 驚いたように、目を大きく見開いて口をぽっかり開け、男の動きが止まった。風船がしぼむように、顔全体から力が抜けていき、しょんぼりした表情に変わった。堂原が怒鳴った内容を理解していく様子が、手に取るようにわかる。

「ごめんなさい」男はぺこりとお辞儀をして、建物へ戻ろうとした。

「リッポ、ちょっと待て。お前にこの人を紹介するから」

 男が近づいてきた。一歩踏み出すごとに体が左右に揺れる。騒がしい歩き方だ。

「この人は藤倉さん。四月一日付けでトコヨハイツに配属されたんだ」

「よろしく」

「彼は望月君。入居者のサポートをしてもらっています」

「よろしくお願いします」

 男はニコニコという表現がぴったりする、屈託のない笑顔を見せ、ぺこりとお辞儀をした。

「あの、さっきはリッポとか言ってましたけど」

「それは下の名前で、フルネームは望月立歩なんです。これから紹介しますが、ここで経理を担当している女性も望月という名字でして、紛らわしいのでそう呼んでいるんです」

「へえ、望月さんが二人ですか。親戚なんですか」

「いいえ、全く関係ないです。リッポ、そうだろ」

「うん。全然関係ないよ」

 リッポは子供のように、こっくりと大きく頷いた。

「清水では望月という名前が多いんですよ。地元の人に聞くと、学校のクラスは必ず一人か二人、望月という名字の子がいるそうなんです。だから、清水ですとたいてい望月姓は名前で呼ばれるんです」

「そうなんですか」

「じゃあ、早速もう一人の望月さんを紹介しましょう」

 堂原の後について、建物の中へ入った。天井が低くて圧迫感を覚えた。蛍光灯が点いていたが、弱いせいか薄暗い。クリーム色の壁が所々ひび割れ、黒ずんだコンクリートがむき出しになっていた。少々かび臭いが漂っている。

「建物は古いですが、耐震法が改正された後の物件ですから、地震が起きても潰れることはないはずです」

 壁の割れ目へ触れた藤倉に、堂原が少し困ったような笑みを浮かべた。

「事務室は左手にある食堂の奥です」

 堂原が、白くくすんだアルミの引き戸を開け、中に入った。小学校の教室程度のスペースに、長机と折りたたみ椅子が並んでいる。

「食堂と言っても、小さなのコンロと流しがあるだけで、大量の食事を作る設備はありません。ご飯はここで炊いていますが、おかずは地元の弁当屋さんから配達してもらい、ここで食べています」

 堂原はがらんとした食堂の中を通り過ぎようとして足を止め、窓を見た。

「堀田さん」

 堂原が声をかけて、壁際に初めて人が座っているのに気づいた。小柄な老人で、テーブルへうつぶせになっている。モスグリーンの服が、くすんだクリーム色の壁と保護色のように溶け合って、存在感を消していた。ほぼ禿げた頭にパラパラと生えている白髪が、窓から差し込む春の日差しに照らされている。

「堀田さん」

 もう一度声を掛けたが無反応だった。リッポが小走りに近づいていく。途中、長テーブルの角に足をぶつけ、「イテッ」と叫んだ。歩き方といい、いちいち騒々しい男だと思う。

 リッポが屈み、堀田の顔を覗き込んだ。「堀田さん、寝ちゃってるよ」

「だったら寝かせとこう。挨拶する時はいくらでもある」

 堂原は奥にある短い通路へ入った。左手に狭い流しがあり、壁にはパステル調の淡い青色のタイルがはめ込まれている。他と同様古びた印象だ。

 突き当たりにドアがあり、その向こうに食堂の半分ほどのスペースがある事務室があった。建物よりかなり新しそうな白いスチール机が並んでいる。上には書類やファイルが雑多に置かれ、パソコンがその中に埋もれている。

 右奥の机に女性が一人座っていて、モニターを見ていた。他と違い、女性の机だけはきれいに整頓されている。

「留美さん、ちょっといいかな」

 堂原に声を掛けられた女性は、化粧気のないのっぺりした顔をしていた。長い髪を黒いバンドで後ろに束ねていたが、おしゃれというより実用の匂いが強い。ユニクロで売っているようなグレイのシャツと、色あせたジーンズを穿いている。まだ若そうなのに、洒落っ気のない子だと思う。

「こちらは今月トコヨハイツへ配属になった藤倉さんです。彼女は望月留美さん。経理を担当しています」

「よろしくおねがいします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 留美は立ち上がり、少し顔を強ばらせながらぺこりとお辞儀した。

「さっきは堂原さんに連絡していただきまして、ありがとうごさいます」

「はい」

 電話の時と同じように、愛想がなかった。

「メンバーはこの三人です」

 堂原がちらりと壁の時計を見た。「そろそろ時間だから弁当を配膳しよう。藤倉さんも手伝ってもらえますか」

「はい」

「僕は?」リッポが首をかしげる。

「やるに決まってるだろ、配膳するのは元々お前の役割だ」

「はーい」また怒鳴られて、しょんぼりと眉毛をハの字にした。

 食堂へ戻る。クリーム色の平たいプラスチックの箱が、隅の長テーブルに積み重ねてある。リッポが箱を一列に並べ、中に入っている黒いプラスチックの弁当箱を、一つずつ長テーブルへ並べていった。藤倉もリッポがやるように長テーブルへ弁当を並べた。窓際では相変わらず老人がうつぶせで眠っている。

「そういえば飯塚さんの弁当キャンセルしたかな。リッポ、お前は知ってるか?」

「知らないよ」

 リッポは大きく首を振る。

「留美さーん、飯塚さんのお弁当、頼んじゃいましたか」

「キャンセルは前日の四時までですから、もうだめでした」

 奥からそっけない声が聞こえてきた。

「そうか。じゃあしょうがないな」

「余ってんなら俺が食おうか?」

 眠りこけていたと思っていた老人が、いつの間にか顔を上げ、藤倉たちを見ていた。口をへの字に曲げ、目やにが付いた表情のない目の奥で、わずかに欲望の光が灯っていた。

「いいですよ。ただし、弁当代は頂きますがね」

「なんだ。だったらいらねえよ」

 投げやりにぼそりと呟き、目の光が消えた。大きなため息をつき、再び眠り始める。

「藤倉さん、昼ご飯はどうされますか」

「どこかで食べようかと思ってましたけど……」

「じゃあこのお弁当を食べませんか。一食三百五十円なんで、それなりの味ですが。飯塚さんの会計から引くわけにはいきませんし、このままだとトコヨハイツが負担しなくちゃならない」

「僕は全然構いませんけど」

「ありがとうございます。それじゃあ食事の時に藤倉さんを紹介しましょう。簡単な挨拶を考えといてください」

「わかりました。あの……。飯塚さんは今日亡くなったんですね」

「ええ、そうですよ」堂原は穏やかな微笑みを浮かべた。「死因は心筋梗塞です。就寝中だったらしく、布団の中で亡くなってましたよ。そんなに苦しまなかったんじゃないですかね、穏やかな死に顔でした」

「はあ、そうですか」

「どうかしましたか」藤倉の不審げな顔に、ようやく気がついたようだ。

「前に祖父の葬式を経験したときは、手配や親族への連絡でかなり大変だったものですから。人が亡くなったのに、なんだか静かすぎないかと思いまして」

 堂原が困ったような笑みを浮かべ、「ああ、そうですか」と言いながら頷いた。

「普通の人が人の死に立ち会うなんて、早々ありませんからね。でも、ここではよくある話なんです。今日みたいに、突然死で警察が来るのもよくありますし」

「そうなんですか」

 違和感は消えなかったが、よく考えれば病院だって似たようなものだろう。今まで自分の知らないところで、そうした作業が行われていたに過ぎない。

「あの、一応確認ですが、ここがどういう場所か、総務からレクチャーを受けていますね」

「はい。社会福祉法の『生計困難者のために、無料又は低額な料金で、簡易住宅を貸し付け、又は宿泊所その他の施設を利用させる事業』。いわゆる『無料低額宿泊所』ですね」

「その通りです。私どもでは収入や資産もなく、支えてくれる人もいない方を受け入れ、生活のサポートをしています。そういう方がすべて老人というわけではありませんが、結果的にここでは全員が老人です。ですから、どうしても亡くなっていく方が多いんです」

 十二時近くになると、食堂に住人たちが入ってきた。全員老人ばかりで、女性三割男性七割と言った印象だ。どちらかというと、くすんだ色の服を来ている人が多い。派手な紫のブラウスを着た女性もいるが、安っぽい印象は否めない。壁際の棚に置いてあるメラミンの湯飲みと割り箸を取り、急須のお茶をめいめいが注いでいく。

「あー、古野さん、またこぼしちゃったよ」

 窓近くの席で声がした。メンバーの中でも比較的体格が大きく、精力的な表情をした老人だ。向かいに座っている老婆がお茶をこぼしているのを非難がましく見ていた。

「すいませんねえ」老婆は恐縮した表情を浮かべながら、震える手で急須を置いた。筋力が弱くて、大きな急須を持つにも大変なんだろうと思う。それなのに、非難する老人にはあまりいい印象がなかった。

「古野さん、お茶碗を持ってくださいよ」堂原が来て、こぼれたお茶を拭き取る。

「大島さん、古野さんも歳なんですから、あんまり責めないでくださいよ」

 堂原は笑みを浮かべていたが、きっぱりとした口調で大島と呼んだ老人に話しかけた。大島はフンと鼻を鳴らし、視線を逸らした。堂原は何も言わず、席を離れた。

「みんな揃ったようですので、ちょっとこっちへ注目してください」堂原が、よく響く声で話し出す。「この方は今月トコヨハイツへ異動になりました藤倉さんです。これから皆さんのお世話をしていくことになります」

「ご紹介に与りました藤倉と申します。福祉関係の業務に配属されたのは初めてですので、まだわからないことばかりですが、皆さんに教わりながら早く慣れていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします」

 藤倉が会釈すると、パラパラとまばらな拍手が起きた。興味深そうに、じっと藤倉を見ている者もいれば、一切無視して弁当を食べている者もいる。その中で、手前に座っていた老婆が口を開いた。

「あんた、なんでこんなちんけな宿に配属されたんだよ」

 やや薄くなりかけた髪の毛は爆発したように広がっていた。やや大きめの瞳が昔は美人だったかもしれないと思わせたが、今は細かく刻まれた皺の中に埋没している。口元と目尻に現れた皮肉な笑みは、性格が悪そうな印象を与えた。

「失敗してこっちへ飛ばされてきたら。しけたツラしてるしよ」

「城田さん、考えすぎですよ。藤倉さんの異動に意図はありません」

「そうかな」城田は皮肉な笑みを崩さなかった。「ここも万年赤字ら? だのに人を増やすなんておかしいじゃねえか」

「確かにここの収支は良くないですけど、人が足りないのはわかっているでしょ。本社が配慮して藤倉さんをよこしてくれたんです」

「金井のクソじじいがさ、そんな殊更なマネをするなんてあり得ねえよ」

「城田さん……」しつこく食い下がる老婆に、堂原も苛立ちの顔を浮かべ始めた。

「それによ、目は口ほどに物を言うって言うら。藤倉さん、あんた動揺しているよ」

 あからさまに指摘されて、一瞬、言葉が出てこなかった。

「図星だな」城田が声を上げて笑う。

「さあさあ、新人をからかってないで、早く食べてください。藤倉さんも食べましょう」

 促されて折りたたみ椅子に座り、弁当箱を開くと、フライと妙に派手な緑色をした漬け物が目に入った。堂原がお茶の入ったメラミンの湯飲みを横に置く。礼を言った。

 まくし立てていた城田という老婆は、何事もなかったかのように、弁当を口にしていた。藤倉はフライを口にした。魚らしかったが、動揺したせいか、あまり味がしなかった。

 不意に過去の光景が蘇った。

 真新しい白壁に、木目が美しいフロアリング。淡い色の北欧風布張りのソファと、セットになっている木のテーブル。座れば、壁にとりつけた大きなテレビが目に入ってくる。

 しかしその横には、しゃれた部屋とは場違いな白布を被せた祭壇と、金色に輝く妙になまめかしさの漂う仏像があった。祭壇の前では妻の祐理が正座し、手を合わせて奇妙な呪文じみた言葉を一心不乱に呟いている。その背後で、怒鳴るのも疲れ果て、ソファに座ってうつろに彼女を眺めている自分がいた。

 はっとして現実に引き戻される。古ぼけた部屋で、淡々と食事を続ける老人たち。目の前には、死んだ人が食べるはずだった弁当。藤倉は大きく息を吐いた。いい状態ではない。

 向かいの椅子で同じ弁当を食べている堂原を意識した。彼にも自分のことは、多少なりとも耳に入っているに違いない。冷たい弁当を平らげ、ぬるくなったお茶を飲み干す。

「みなさーん、テーブルに食べこぼした物は拭いていってくださいよ」

 堂原の呼びかけに、のろのろとぞうきんを手に取って拭いていく者もいれば、鼻を鳴らしてそのまま部屋を出て行く者もいた。

 事務所へ戻り、応接セットへ座るよう促された。堂原からインスタントコーヒーを淹れたカップを差し出された。礼を言い、コーヒーをブラックで飲んだ。ざわついた心が和らぎ、かなり緊張していたんだと気づく。

「さっき私たちに絡んでいたおばあさんがいるでしょ。彼女は城田明子さん。社長のことをどうのこうの言ってましたけど、完全なハッタリじゃないんです。実際ここへ来たのは社長の紹介なんですよ。ただ、配慮するとかは全く必要ありませんから。何かあると社長に言いつけてやるとか脅してきますけど、上から注意とか問い合わせは一切ありません。

 あと、お茶をこぼした古野さんを怒っていた大島努さん。あの人は昔会社で役員をしていたんです。だからあだ名はセンムっていうんですよ」

「確かにしゃべり方が会社のエライさんといった感じでしたね」

「ただね、そこが倒産する前に粉飾に関わっていて、関連で財産を取られたそうなんです。年金も未納をしてたみたいで、ほとんどもらえてないんです」

「そうなんですか。いろいろありますね」

「あの二人がここのうるさがたツートップです。他にも癖のある人は何人かいるんですけどね、追い追い説明していきますよ」

 堂原の携帯電話が鳴り始めた。彼は話し始めると、事務所から出て行った。手持ち無沙汰になり、ぶらぶら食堂に戻ると、さっきお茶をこぼした老婆が、一人だけ弁当を食べ続けていた。その横でセンムと別の老人が将棋を指している。

 老婆が食べ終え、ゆっくりした動作で立ち上がる。弁当箱をプラスチックの箱へ持っていこうとしたときだ。箱の上に載せていた湯飲みがバランスを崩して落ち、カランカランと音を立てて床に落ちた。

「あ……」

 藤倉は反射的に動き、湯飲みを拾った。飲み残しのお茶がこぼれていたので、棚に置いてあったティッシュペーパーを取り出して床を拭いた。その間、老婆は呆然とした顔で佇み、藤倉の様子を見ていた。

「気をつけてくださいね」

 穏やかに声を掛けながら、老婆の弁当の上に湯飲みを置いた。

 ポカンと口を開けていた老婆が目を大きく見開き、顔中へ笑みを拡げていく。

「あ、あ、ありがとうございます」

 うわずった声だった。あこがれの芸能人に出会った少女のように目を輝かせている。ちょっと親切にしただけなのに、この人はどうしてしまったんだろうか。当惑しながら曖昧に笑みを浮かべるしかなかった。

「あんた、この婆さんには気をつけた方がいいぜ」

 将棋を指していたセンムが、いつの間にかこちらを見ていた。皮肉な目を浮かべながら、口元を歪めて笑っている。

「どういう意味ですか?」

「そのうちわかるさ。なあ」

 話を向けられ、将棋を指していたもう一人の老人が、半笑いでセンムを見ながら頷いた。「そうそう。すぐにわかる」

 二人は押し殺した笑い声を上げて将棋に戻った。もう話す気はないらしい。老婆は二人の様子など眼中にないかのように、じっと藤倉を見ている。気恥ずかしさと戸惑いで、軽く会釈しながらその場から離れた。

 堂原に聞いてみようと思ったが、まだ戻っていなかった。留美は真剣な表情でパソコンへ入力していたので、声を掛けるのも憚られた。仕方がないのでソファへ座り、堂原が戻るのを待った。

 時計は午後一時半を指している。室内には留美が叩くキーボードの音だけが響き、窓からは穏やかな春の日差しが降り注いでいた。建物のかび臭い匂いも、しばらくしたら、いつのまにか体になじんでいた。平日にこんなのんびりした午後を過ごしたのは何年ぶりだろうか。先週までの自分を思い出し、つい居心地の悪さを感じてしまう。

 ここに来る前は、品川駅のすぐ近くにある真新しいビルで働いていた。年間売り上げが一千億円を越えるカナイトランスポーターの本社だった。藤倉は始業一時間前には出社し、大抵午後十時過ぎまで仕事をしていた。会議や部下との打ち合わせ、客との折衝、やらなければならない仕事は山ほどあった。

 直属の上司からトコヨハイツへ出向の内示を受けた辞令を受けたのは、つい二週間前の話だ。前日に金井社長と会った時は、そんな話などおくびにも出さず、いつものように厳しい指示を出し続けていたはずなのに。

 トコヨハイツは、カナイトランスポーターが出資しているNPO法人が運営していた。会社のCSR活動として位置づけられているが、運輸業で成り立っているカナイトランスポーターにとって、傍流の職務であるのは否めない。

 ふと時計を見たが、時刻はまだ二時にもなっていない。あまりに時間の流れが遅いことに愕然とした。堂原が足早で戻ってきた。

「藤倉さん、待たせて申し訳ないです。今日亡くなった飯塚さんの親族と連絡が取れて、話し込んでいたものですから」

「どうでしたか?」

「向こうさんもほとんど故人と会ったことがないし、葬式を出す費用もないと言いましてね。受け取り拒否ですよ。説得しましたがどうにもならないですね」

 堂原がため息交じりに呟く。

「そうなると、ここで葬儀をするんですか」

「ええ。来て早々ですが、藤倉さんにも手伝っていただきます。その前に、トコヨハイツの施設を簡単に紹介しますから」

 堂原が出て行くので、後を付いていった。

「まずはお風呂場です。ご存知かと思いますが、ここは元社員寮ですから、大型のお風呂や食堂も最初からあったんですよ」

 通路を横切っていくと、男湯、女湯と書いてあるドアが見えてきた。堂原は男湯のドアを開けた。脱衣場があり、その奥の浴室からブラシを擦る音が聞こえてくる。開け放たれた引き戸の向こうでは、Tシャツに短パン、サンダル履きのリッポが風呂を洗っていた。デッキブラシで、年季の入った青いタイルを磨いている。二人が入ってきても、無視してひたすら磨き続けていた。

「リッポ」

 堂原が声を掛けると、ビクリと体を震わせ、大きく目を見開いて藤倉たちを見た。

「あれ、いたの?」

 無視していたのでなく、二人に気づいていなかったらしい。

「藤倉さんに建物を紹介しているんだ。藤倉さん、リッポが毎日洗ってくれていますから、水垢もなくてきれいでしょ」

「そうですねえ」

 リッポはエビス様のように目を細め、ニカッと歯茎をむき出しにして笑った。「僕、もっともっと頑張ってきれいにするよ」

「ああ。しっかりやってくれ。頼んだぞ」

「うん」

 リッポは大きく頷き、再びタイルを擦り始めた。藤倉たちは浴室を出て通路に戻り、階段を上り始めた。

「藤倉さんもわかったかと思いますが」堂原が階段を上りきったところで話し出した。「リッポはちょっと抜けたところがありますから、いろいろ失敗もやらかします。それでもあの通り、素直でひたむきに仕事をしているんです。いい子なんですよ」

 堂原は済まなそうな顔をして微笑んだ。

「次は部屋を見てもらいます。ちょうど飯塚さんが亡くなりましたから、その部屋を見てください」

 右側の通路を進んですぐにあったスチールドアに、鍵を差し込んで開けた。

「厳密なことを言えば、まだ勝手に入り込むのは良くないんでしょうけど、遺族の方も口頭で権利放棄すると言っていますしね」

 堂原が靴を脱いで中へ入っていくので、少し躊躇しながらも、藤倉は部屋へ上がった。

 六畳ほどのがらんとした部屋で、畳敷きだ。物はあまりなく、少し乱れた平べったい布団と、壁に掛けてある青いジャンパーが、わずかに生活の匂いを漂わせていた。

「建物は古いですが、下で見ていただいたとおり共同の風呂はありますし、トイレも各階にあります。もちろん法定要件以上のスペースも確保しています。もっとも、そのせいか赤字なんですけど」

 堂原は自嘲気味の笑顔を見せた。

「基本的には入居者の生活保護費から経費をまかなっているんですがね。なにかと物入りがありまして、グループからの支援がないと立ちゆかないんです。

 部屋を出て、再び鍵を閉めた。事務所へ戻ると留美の他に、痩せた男が一人応接セットに座っていた。グレーと言うよりねずみ色と言った方がしっくりする、妙に野暮ったいスーツを着ていた。髪の毛は薄く、度がきつそうな黒いセルフレームのメガネを掛けていた。堂原を見ると立ち上がり、軽く会釈をした。

「堂原さん、このたびはご愁傷様でございます」

「これは竹下さん、相変わらずお早いですね」

 竹下と呼ばれた男はわずかに口を緩めたが、目は逆に哀切な色を浮かべていた。

「私どもはご遺族様の不安を一刻でも早く解消するため、二十四時間いつでも駆けつけさせていただく体制を整えております」

「そいつは見上げた心がけですけどね、うちは正直葬式慣れしていますし、まだ遺族から同意書ももらっていないんです」

「とは言うもものの、日程をあらかじめ押さえておいた方が良いかと存じます」

「確かにそうですね」堂原は軽く息を吐いた。「藤倉さん、一緒に説明を聞きましょう」

「失礼ですが、どなた様でしょうか」

「新しくトコヨハイツへ出向になった、藤倉と申します」

 メガネの奥で、瞳がキラリと光った。竹下はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、恭しく差し出す。

「『メモリアルホール羽衣』を運営している竹下と申します。よろしくお願いいたします」

 お辞儀をして、地肌の透けた脳天を見せた。

「ここ三保地区で、四十五年お見送りのお手伝いをさせていただいております。トコヨハイツ様でも、多くのご遺体をお世話させていただきました」

「うちが一番のお得意様っていうわけですよ」

「堂原様には、いつもお世話になっております」唇の笑みが少しだけ広がっていく。

「立ち話も何ですから、座ってお話を聞きましょう」

 応接セットへ座ると、竹下はあらかじめ作成してきた見積書をテーブルに拡げた。堂原がちらりと見て、渋面を作る。

「うちはいつも火葬コースなんだから、こんなに大げさなものはいらないですよ」

「そうですか。ではいつものパターンでの見積書を提示させていただきます」

 竹下は少し悲しげな目をしながら見積書をカバンに戻し、新たな見積書を出した。

「これでいいです。進めてください」

「ありがとうございます」堂原は再び大きく頭を下げ、地肌の透けた脳天を見せた。

 仮の日程を決めた後、竹下はそそくさと立ち上がり、一礼してカバンを抱え、事務所を出て行った。

「あの男は放っておくと、勝手にオプションを付けようとしますから。注意してください」

「はあ……。そうなんですか」

 堂原は見積書を改めて見直して、留美に渡した。「この分が二三日中に必要になるから、あらかじめ現金を下ろしといてください」

 留美は「はい」と言って無表情で見積書を受け取り、再びモニターに視線を戻した。

 その後、遺体が収容されている市立病院へ行って手続きを済ませ、トコヨハイツへ戻った。時刻は午後四時になろうとしていた。

「もっと早く藤倉さんのアパートを案内する予定でしたが、申し訳ないです」

「いえいえ、荷物もそれほどありませんし、大丈夫です」

「アパートはここからすぐ近くのところにあって、私とリッポも住んでいるんですよ」

 堂原の言うとおり、アパートはトコヨハイツから歩いて三分もしない場所にあった。二階に上がり、堂原から鍵を受け取った。

「電気と水道の手続きは済ませてありますけど、先に来た荷物はそのままです」

「はい、ありがとうございます」

「それじゃあ今日はこれで。何か食べたければここから三保街道へ出た場所にコンビニがあります。スーパーもあるんですけど、入り組んだ場所にありますから、すいませんけどスマホの地図で調べてください」

「ええ。私のことは大丈夫ですので、仕事へ戻ってください」

 お辞儀をして堂原を見送った後、部屋に入る。単身者用のワンルームの部屋で、家具が置いていない分、ガランとした空間が広がっていた。さっき見た、亡くなった飯塚さんの部屋と重なる。あらかじめ送っておいた身の回り品の荷ほどきを始める。途中、喉が渇いてコップに水を汲んで飲んだ。しばらく使っていなかったせいか、少々金臭かった。

 布団を敷き、食器や歯ブラシなど、最低限必要な物だけ出しておいた。早々に整理を終えてしまい、手持ち無沙汰になった。キャリーバッグから、読みかけの文庫本を取り出して読み始めた。時々携帯の画面を確認したが、朝からの着信は堂原だけだった。

 午後八時。コンビニで買った弁当を食べ、文庫本も読み終え、シャワーも浴びた。ノートパソコンを開き、メールをチェックしたが、広告とクレジットカードの引き落とし通知だけだった。しばらくネットを眺めていたが、それも飽きてきたので、電気を消して布団へ潜り込んだ。

 眼を閉じても、眠気は訪れなかった。目に浮かぶのは、ハードだったが充実していた日々と、祐理の笑顔。

 どちらも失われてしまった。

 これから俺はどうすればいいんだろうか。祐理が去って行ってから、幾度となくしてきた自問を繰り返しながら、意識は嫌でも冴え渡っていく。


 飯塚の火葬は五日後に行われた。藤倉はトコヨハイツで所有する軽のバンを運転し、メモリアルホール羽衣へ向かった。助手席にはリッポがいた。

「藤倉さん、東京って、おっきいビルがいっぱいあるんですか?」

「あ、ああ……。いっぱいあるよ」

 あまりにアバウトな問いかけに戸惑う。

「スカイツリーとかやっぱり大きいんですよねえ」

「一回展望デッキへ上ったことがあるけど、見晴らしは良かったよ。リッポ君は行ったことがないのかい?」

「うん。僕、一回行ってみたいんだ」

「そうなんだ」

 東京イコールスカイツリーなんて、小学生の発想だよな。顔も童顔だし。ちらりと冷ややかな横目を向けたが、気づかないのか、リッポは無邪気な笑顔のままだった。

 リッポは運転免許を持っていないので、藤倉が運転をしなければならなかった。堂原の話によると、何度か自動車学校へ通わせたが、学科でも実技でも合格点は取れなかったという。自動車学校の教師からは、下手に免許を取らない方が安全でいいでしょうと言われたらしい。

 堂原はどうしてこんな男を雇ったのだろうかと思う。人手不足かもしれないが、それにしてもひどすぎる。いきなりだと角が立つので、ある程度仕事に慣れてきたら、堂原に人の入れ替えを申し出てみよう。

 三保街道を清水駅方面に向かってしばらく走った後、リッポの指示で右折する。

「そこを左……あっ違った。もう一つ先だっけ」

 何とかしろよ、こみ上げる怒りをぐっと抑えながらウインカーを戻し、アクセルをゆっくり踏んだ。

 どうにかメモリアルホール羽衣に到着した。今日は他に祭事が行われていないようで、駐車場は閑散としていた。鉄筋造りの建物はやや古さが目立った。入り口の前に車を止め、中へ入る。受付の女性に用件を伝えると、すぐに竹下が出てきた。

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 恭しいお辞儀に戸惑いながら、竹下の後に付いて奥にある部屋へ行った。中にはスーツ姿の若い男が二人待っていて、竹下が指示して壁の小さな扉を開け、白布に包まれた遺体を引き出した。リッポが眼を閉じて、遺体に向かって手を合わせる。藤倉も手を合わせた。

 トコヨハイツで金を出す場合、お通夜と葬式は省略している。少しでも節約するという意味もあるが、トコヨハイツの入居者の場合、何よりも参列者がいない。親族は遺体の受け取りを拒否するぐらいだから、彼らが参列するはずもない。友人知人がいたとしても、ほとんどがトコヨハイツ関係者に限られているという。

 遺体は台車に乗せられ、藤倉たちが入ったときとは別の扉へ移動した。扉が開き、外の光景と、霊柩車の後部が見えてきた。男たちはハッチを開け、遺体を積み込んだ。霊柩車が走り出すのを、再び手を合わせて見送る。

「さあ、火葬場へ行こうか」

「うん」リッポは目を潤ませて頷いた。車の中ではへらへら笑っていたというのに、変わり身の早いやつだと思う。

 足早に外へ出て、軽のバンに乗り込んだ。助手席に乗り込んだリッポが、ゆっくりした動作でシーベルトを付けると同時に走り出した。三保街道へ出る信号で、霊柩車が止まっているのを見て、ほっと息を吐く。これに付いていけば、火葬場へ連れて行ってくれる。リッポの案内があてにならないのは証明済みだ。

 霊柩車は市街地を通り過ぎ、山の斜面を登り始めた。いくつかカーブを越えたところで左折し、駐車場へ入った。どうやらここが地元の火葬場らしい。藤倉は駐車場へ車を止め、歩いて建物へ向かった。堂原と数人の老人が見えた。

 中へ入ると白い殺風景な部屋があり、お坊さんがいた。参列者は藤倉と堂原、リッポの他に、トコヨハイツの入居者三人のみ。遺体が運び込まれ、お坊さんが読経を始める。藤倉は目を閉じ、手を合わせた。

 お経が終わり、台車に乗った遺体を職員が火葬炉へ入れ、ボタンを押した。

「終わるのに一時間ほどかかりますから、待合室へ行きましょう」

 堂原の呼びかけに全員が動き出した。待合室は火葬場に隣接した建物の中にあった。二三百人以上収納できそうな広間に、年季の入った折りたたみの椅子と机が並んでいた。すでに二十名ほど、喪服を着た人たちが固まっている。藤倉たちは少し離れた場所に座った。

 スタッフの三人は喪服を着ていたが、住民は喪服を持っていないのか、ジャケットや柄物のワンピース姿だった。リッポがメラミンの湯飲みとやかん、堂原が菓子の入ったカゴを持ってきた。

 菓子が置かれると、老人が目を輝かせて、手を伸ばしてきた。彼ら目当ては死者を弔うと言うよりも、菓子が目当てらしい。しかしその中で、一人だけ涙ぐみ、ハンカチで目頭を押さえている女性がいた。先日、センムに怒られていた古野美子だった。

「あの、トイレはどこですか」

「この部屋の奥ですよ」

 堂原が指差した先にトイレのマークがあった。藤倉は礼を言って立ち上がり、広間を横切ってトイレに入った。

 用を済ませて戻ろうとすると、美子が前を塞ぐようにして立っていた。

「どうかしましたか」

 美子は悲しげに、思い詰めたような表情で藤倉を見つめていた。どうしたんだろうと戸惑いながら、彼女が話し出すのを待った。

「すいません……一万円を貸していただけませんか」

 唐突な依頼に「え?」と言ったまま、思わずポカンと開けてしまう。拒否されたと思ったのか、美子の目からみるみるうちに涙が溢れていく。

「大変なんです。お金がないと、死んじゃうんです」

「ちょっ、ちょっと待てくださいよ。死ぬって、誰がですか」

「死んじゃうんです。お願いします」

 涙をぽろぽろと流す姿を隠そうともせず、両手を合わせ、祈るようにまっすぐな目で見つめてくる。

「堂原さん」広間の向かいに座っている後ろ姿に呼びかけた。堂原が気づいて振り返り、藤倉の元へ早足で近づいてきた。

「美子さん、どうしましたか」

 堂原が優しく呼びかけながら、美子の背中にそっと手をやった。

「典子がお熱を出しちゃったんです。お医者さんに診てもらわなきゃならないんですけど、お金がないんです」

「大丈夫、典子ちゃんは元気ですよ。落ち着いてください」

「でも、でも。典子が大変なんです……」

 美子の声が上ずり、震え始めた。

「おーいリッポ、ちょっと来てくれ」

 堂原が振り向いて呼びかけた。リッポが小走りで体を左右に揺らし、ニコニコ笑いながら近づいてきた。

「はいはい、なんですか」

「美子さんをみてくれないか」

「わかったよ」リッポが美子の顔を覗き込み、納得したようにうんうんと頷く。「思い出しちゃったんだね」

 堂原が離れ、入れ替わるようにリッポが美子の背中をさすり始めた。

 リッポの顔から表情が消え、わずかに体を揺らし始める。

 二人の体が透けて見え、存在感が失われていくような気がした。

 同時に、すっと温度が吸い込まれる感覚に襲われ、体の芯が冷たくなっていった。

 鳥肌が立ち、思わずたじろぐ。

「外へ行ってみよう。きっと典子ちゃんがいるよ」

 美子がこっくりと頷き、二人は歩き出した。藤倉は唖然としながら、出口へ向かっていく二人の後ろ姿を見送っていた。彼らが見えなくなると、すぐに温かくなった。

 今のは何だったんだろうか。気のせいだと思ったが、釈然としないものが残っていた。

 とりあえず、堂原に「ありがとうございました」と言う。

「美子さんはね、普段はまともなんですが、時々発作みたいにあんな風なことを口走るんですよ。もちろんお金は貸さないでください」

「典子ちゃんというのは誰なんですか」

「美子さんの妹ですよ。事情は改めてお話しします」

 堂原に促され、老人たちのいる席へ戻った。カゴのお菓子はあらかた食べ尽くされている。ほとんどの老人たちは美子や飯塚にも関心がないという風に、口をポカンと開けて眠りこけていた。藤倉は湯飲みに残っていた、ぬるくて味のないお茶を一口すすった。

「あんた、美子に目を付けられちまったらしいな」一人だけ起きていた老人が、ニタニタ笑いながら藤倉を見ていた。「あいつに優しくしちまったんだろ」

「どういう意味ですか」

 初日に食堂で美子の湯飲みを拾った時を思い出す。

「あいつは頭がおかしいからな、ちょっとでもいい人ぶると、典子がどうのこうのとか言って金をせびりにくるんだ。だから下手に絡まない方がいいんだぜ」

「はあ」

 ちらりと堂原を見たが、彼は老人の話を聞き流すように、お茶をすするだけだった。

 しばらくしてリッポと美子が帰ってきた。美子はさっきの涙などなかったかのように、穏やかな笑顔を見せていた。リッポは相変わらずニコニコ笑っている。

「外を散歩させると治るんですか」

「そうですね」

「だったら今度発作が起きたら僕がやってみますよ」

「ああ」堂原の目が一瞬泳ぐ。「でもね、リッポがやらなきゃだめなんですよ。僕がやっても治らないんです」

「なにかコツでもあるんですか」

「さあ、私にもよくわからないんですよ。リッポは相性がいいんじゃないですかねえ」

 いつも質問には的確に答えてくれるのに、この件だけは奥歯にものが挟まったような物言いだ。

「ああっ、僕のカントリーマアムがないよお。後で食べようと思ってたのにい」

 リッポが目と鼻の穴を大きく拡げ、興奮気味にきょろきょろ辺りを見回している。

「ほら、他の人に食べられないよう取っておいたよ」

 堂原がポケットから菓子の包みを取り出し、机の上で滑らせた。リッポはボールを追う高校球児のように、必死な形相で手を伸ばす。

「堂原さん、ありがとう」

 お菓子を確保すると一転してニコニコ顔に戻り、幸せそうにビスケットをポリポリ食べ始めた。

 火葬が終了したと連絡が来たので、炉のある建物へ戻り、飯塚の骨を骨壺に収めた。

「こちらが埋葬許可書になります」

 いつの間にか竹下がいた。封筒を差し出し、堂原が持っていた封筒と交換する。

「はい、確かにお代を頂きました」

 封筒の金を確認すると、竹下は恭しくお辞儀をし、足早に去って行った。

「さあ、我々も帰りましょう。遺骨は明日、うちが所有している共同墓地へ納骨します。それまでは事務所の祭壇へ安置しておきますから」

 翌日の夜、アパート近くにある居酒屋で藤倉の歓迎会が行われた。出席したのは藤倉と堂原とリッポの三人だけだった。

「留美さんはこういった会は好きじゃないんで、基本的に出ないんです」

「僕はこういうの大好きだよ」

 リッポはいつものようにニコニコ笑っていた。ビールが来て、三人は乾杯した。

「こう見えてもリッポは二十一歳なんですから、お酒は飲めるんですよ。ま、頭は小学生なんですけどね」

「ひどーい。中学生ぐらいにして下さいよお」

 ケラケラ声を出して笑うリッポに、曖昧に笑い返すしかなかった。

「こんな感じだから、あんまり気は使わないで下さい」

「はい」

 料理が出てきた。刺身や揚げ物、煮物など様々だ。

「今回清水でよく食べられている物を中心に選びました。まずマグロの刺身。これは有名ですよね。揚げ物は黒はんぺんで、これがモツカレー。鰹ダシで、カレーの具にモツが入っているんです。まあ食べて下さい」

「では頂きます」言われたとおり料理をつまんで食べた。

「ああ、おいしいですねえ」

「そうでしょう」

 堂原とリッポも食べ始める。堂原は生ビールのジョッキを飲み干した後、焼酎の水割りをちびりちびり飲み始めたが、リッポは生ビールをたちまち三杯飲み干して、つまみも大量に食べていく。

「こいつと割り勘だと、思い切り不利なんですよ」

 堂原が苦笑しながらリッポを見た。

「僕、食べるの大好き」

 リッポは終始ニコニコ笑っていた。ちょっとおつむは弱いかもしれないが、素直な子なんだと思う。藤倉は気を許しそうになったが、簡単に信用するわけにはいかないと、心を引き締める。

 彼らと仕事をし始めて、半月もたっていないのだ。仕事はできないが、愛想だけでどうにか地位を保っている奴らはよくいる。彼もそのたぐいかもしれない。

 堂原はかつて埼玉にあるDCセンターの立ち上げから関わり、ここへ来る前は、センター長を務めていたらしい。順当に行けば、DC事業本部長を担っていもおかしくない立場だ。それなのにミスでもしたのか知らないが、こんなところでくすぶっている。当然元の出世コースへ戻りたいと思っているだろう。気を許した隙に、自分がそのダシに使われないとも限らない。

「そうそう、美子さんの話をしていませんでしたね。あの人にはいとこがいるんですが、年金生活で、とても扶養までは難しいと言われてましてね。

 その人の話だと、美子さんの父親はろくに仕事しない飲んだくれだったそうなんです。母親はそんな父親に愛想を尽かして、美子さんが幼い頃、別の男と家出してしまいました。美子さんには典子さんという妹がいたんですが、父親は二人をろくに世話もせず、放置していたというですね。そんな中、典子さんが高熱を出してしまったんです」

「典子ちゃんが熱を出したって言ってたのは、そういう意味なんですか?」

「ええ、そうなんです。医者に妹を診せてやらなければならないけれど、お金がない。近所の人も当てにならないし、日が暮れても父親は帰ってこない。美子さんは必死な思いで夜の街へ父親を探しに出かけていったそうです。その時、見知らぬ男に声を掛けられたんです。事情を話すと、金を貸すから付いてこいと言われました。わらをも掴む思いで男に付いていくと、車に押し込められて、一晩慰み者にされたそうなんです。朝になって男に一万円を掴まされて戻ってくると、妹は既に息をしていませんでした。

 それ以来、ちょっとおかしくなってしまったそうです。普段はまともなんですが、時々一万円を貸してくれなんて言い出すんです」

「ひどい話ですね」

「ここにはいろんな事情を抱えた人がいるんです。変わった人や、やっかいな人もいるんですけど、みんな何らかの事情を抱えています。不快な思いをすることもあると思いますが、少なくとも何らかの理由があってのことです。そこは汲んでいただけませんか」

「わかりました」藤倉は慎重に頷いた。

 宴会は九時頃に終わった。住んでいる場所は同じなので、三人一緒に帰り道を歩いた。昼間とは打って変わって、冬に戻ったように冷たかったが、火照った体にはちょうどいい。アパートの前で二人に礼を言い、自分の部屋に戻った。

 シャワーを浴びて布団へ潜り込んだが、アルコールで興奮しているせいか、なかなか寝付けなかった。

 祐理と過ごした日々が、勝手に頭の中へ浮かんでくる。


 翌日、入居者を軽のバンに乗せて、病院から帰ってくると、トコヨハイツの入り口で険しい顔をして何か言い合っている二人の老人が目に入った。堂原が間に入り、困った顔をしていた。

「ふざけんじゃねえ、なんで俺が謝らなけりゃなんねえんだ。お前が嘘をついてんだろ」

 一人は初日に来たとき、美子をとがめていたセンムというあだ名の老人だ。もう一人は痩せていて、髪の毛は薄かったが、目鼻立ちの整った男だった。ここの入居者には珍しく、赤っぽいペイズリー柄のシャツに、ブラックジーンズという小洒落た身なりをしていた。

「だったら俺が嘘をついてるって証拠を出してみろよ」

「馬鹿野郎、証拠を出すのはお前の方だろ。氷室浩二とマブダチだっていうなら、一緒に写ってる写真でもあるだろ」

「俺とあいつはサシで飲む間柄なんだぜ、女みたいに記念写真なんか撮らねえよ」

「へっ、いつもこうだ」センムが嘲りの色を浮かべながら半笑いになった。

「何だと」

「そう興奮しないで下さい。確かに西脇さんは本当のことを言っているかもしれない。でもね、これまであなたは何度か嘘をついてきた。だから大島さんもそんな疑問を持つんです。大島さんもいちいち反応しないで下さい」

 大島はフンと不機嫌な顔で横を向きながら「わかったよ」と投げやりにつぶやき、建物へ入っていった。

 ペイズリーシャツの男がその後ろ姿に何か言いかけようとしたとき、堂原が肩を掴んだ。

「西脇さん」諭すような強い目で見た。男は視線を逸らして舌打ちし、外へ出ていった。

「藤倉さん、ご苦労様でした。事務所へ行きましょう」

 堂原は何事もなかったような笑顔を見せ、歩き出した。事務所の中では留美がパソコンに向かってキーボードを叩き続けていた。堂原と一緒にソファへ座る。

「今のはどうしたんですか」

「派手な服を着ていたのが西脇昭彦さんです。虚言癖がありましてね、他の人たちからは『嘘つき西脇』とか言われているんです。

 さっき食堂で、西脇さんが女性相手に氷室浩二とよく酒を飲んでいたなんて自慢をしていたらしいんですね。それに大島さんが反応して、喧嘩になったというわけです」

 氷室浩二というのは、中高年の女性に人気のある大物演歌歌手だった。彼とサシで飲めるような間柄なら、こんな田舎で生活保護を受けなくても、都会で就職先を紹介してもらえるだろう。

「そのうち藤倉さんにも胡散臭い話をしてくると思いますが、適当に聞き流して下さい」

「はい」

「さあ、我々も役所へ出す書類を仕上げましょう」

 堂原が立ち上がり、自分の机に座った。藤倉も留美の隣にあてがわれた自分の机に座り、書類に向かおうとしたときだ。

「ねえねえ、美子さんがいなくなっちゃったんだって」

 リッポが事務所のドアを開けて入ってきた。

「やれやれ、暗くなる前に探さないといけないな。藤倉さん、すいませんけど、一緒に美子さんを探してくれませんか」

「はい、わかりました」

「遠くへは行かないと思うんですけど、交通事故を起こすと大変だ」

 藤倉たち三人は、美子を探すため、トコヨハイツから手分けして歩き出した。藤倉は三保半島の先端方面を任された。周辺の地理もわからず心許なかったが、とりあえず、周囲を見回しながら住宅地を歩いた。太陽は既にオレンジ色となり、まもなく日は沈んでしまうだろう。時間帯のせいか、狭い道なのに交通量も多い。

 とうとう辺りが暗くなり始めた。大丈夫かと思いながら周囲を見回していると、携帯電話が鳴った。堂原からだった。

「美子さんが見つかりました。三保街道沿いを歩いていたそうです」

「そうですか。よかった」ほっと息を吐く。トコヨハイツに戻ると、事務所に堂原とリッポ、それに美子がいた。

「藤倉さん、申し訳ありませんでした」

 美子はぺこりと頭を下げたが、恐縮した様子はなかった。逆にニコニコと幸福そうな笑みを浮かべている。一瞬怒りが湧いたが、病気なんだから仕方がないと気持ちを抑えた。

「典子ちゃんと遊んでいたら、暗くなっちゃったんだって。ね、美子さん」

 美子が穏やかな顔で頷く。

 専門の病院へ行った方がいいんじゃないのかと思うが、まだ意見を言うのは尚早だと考え、言葉を飲み込んだ。

 夕食の準備をする中、留美は終業時間の六時になると、忙しく立ち働く藤倉たちを無視し、食堂を横切って退社した。リッポは忙しそうにしていたが、明らかに動きに無駄が多く、見ていると思わず苛ついてくる。

 食事の時間が終わり、リッポも退社した。藤倉と堂原はやり残した仕事を片付けたるため、事務所に残った。終わって時計を見ると、午後七時になっていた。以前に比べれば格段に早い時間だが、勝手が違うので精神的に疲れた。何よりも変わった人間が多く、対応するのに気を遣う。堂原はもう少し仕事をしていくというので、一人で事務所を出た。

 低気圧が近づいているせいか、生暖かい風が吹いている。道路へ出ようとしたとき、目の隅に動きを感じた。軽のバンが置いてある場所で、猫にしては大きいように思えた。

 また美子さんがふらふらと歩いているのだろうか。無視しようかと思ったが、後で呼び出されるのも嫌だったので、一応調べてみる。

 バンに近づいて裏側を覗いた。誰もいないと思ったとき、不意に背後から気配を感じ、振り向いた。

 バンの角から目が見えて、さっと消えた。

 いたずらっぽく笑った子供の目。まだ小学生低学年ぐらいだろうか。

「おい」声を掛けながらバンを回り込む。道路から差し込む常夜灯の光に、後ろ姿が淡く浮かび上がった。おかっぱ頭で、よれよれでくすんだ水色のセーターに、赤いスカートを穿いている女の子だ。

 振り返り、いたずらっぽい笑顔を見せた。ふっくらした丸い顔をしていた。

 女の子は走り出し、トコヨハイツの中へ入っていった。誰かの知り合いなのかもしれないが、一人でプラプラしているのはよくない。ここの入居者の中に、よからぬ趣味を持つ者がいたら大変だ。

 藤倉は女の子を追いかけてトコヨハイツの中へ入り、階段を上った。二階の廊下を覗いたが、弱々しく光る蛍光灯の下には誰もいなかった。三階へ上ったが同じだった。きっと知り合いの部屋の中へ入ってしまったのだろう。色々あるとは言え、ここの住人は皆大人だ。その人の責任で保護してくれれば――

 階下に動きを感じた。下を見ると、いたずらっぽく笑う目と合い、影の中に消えた。

 小さく息を吐いた。疲れているというのに、子供の追いかけっこなど付き合っていられない。無視して帰ろう。

 建物から出たとき、今度は門の前に老女がいた。美子だ。

「典子……典子はどこへ行ったのよ」

 左右を見回し、悲しげな声を響かせながら、門の外へ行こうとした。藤倉は慌てて駆け寄って、美子の腕を掴んだ。

「美子さん、もう暗いですから外に出ると危ないですよ」

「典子を……知りませんか」

 一瞬、さっき見た女の子を思い出すが、堂原の話だと彼女の妹は死んでいるし、仮に生きていたとしても、今は彼女と同じおばあさんだろう。

「さあ、部屋に戻ってください」

「でも……典子がいないんですよ」

 典子は藤倉が持つ腕を引き戻した。力ずくで部屋に戻したとしても、自分が帰ったらまた出て行ってしまうに違いない。

 事務所の窓にはまだ明かりが灯っていた。ここは堂原の指示を仰ぐしかない。

「ここで待っていてください、典子ちゃんを呼んできますからね」

 そう言い聞かせ、藤倉は走って事務所へ戻った。

 パソコンのモニターに目を向けていた堂原は顔を上げ、訝しげに藤倉を見る。「どうかしましたか」

「美子さんが外へ出ようとしているんです」

「そいつはいけないですね」

 堂原が慌てて立ち上がり、藤倉と一緒に外へ出た。美子が心細げな顔で二人を見る。

「典子は……見つかりましたか」

「ちょっと待ってくださいよ」堂原はポケットから携帯電話を取りだした。

「ああ……リッポか。悪いけどトコヨハイツへ戻ってきてくれないか。美子さんが典子ちゃんを探しているんだ」

 五分も経たないうちに、リッポが体を左右に揺らせながら門を入ってきた。

「あー、美子さん。典子ちゃんがいなくなっちゃったんですか」

「そうなの。もう暗いし、心配でしょうがないの。あの子ったら、どこへ行ったのかしら」

 美子は少し怒ったように口を尖らせた。リッポは彼女の手を、大きくて柔らかいパンのようにふっくらした手で包み込み、目を閉じた。

「典子ちゃん、典子ちゃん……」

 リッポの顔から表情が消え、わずかに体を揺らしだすと、二人の体が透けてきたような気がした。温度が吸い込まれていく感覚に襲われ、寒さを感じる。火葬場のときと同じだ。

 妙な感覚はすぐに消えていった。二人はちゃんと存在しているし、暖かさも戻っていた。

 リッポが目を開き、弾けるような笑顔を見せた。「典子ちゃんが見つかったよ」

「どこにいるんですか」

「美子さんの部屋に戻っていますよ」

 すがるような目をした美子に、リッポは大きく頷いた。

「そうだったんですか」

 美子はリッポの手から離れ、慌てて建物の中へ入っていった。リッポがゆったりした動きで後を付いていく。藤倉は怪訝な思いを抱きながらも二人の後を追った。

 慌てているといっても、高齢なだけあって美子の足取りは遅く、容易に追いついた。荒い息で階段を上る美子の後ろ姿を冷静に見上げる。

 美子の部屋は三階にあった。ドアを開け、そそくさと入っていく美子に続いて、リッポも入っていった。藤倉も一緒に入ろうとすると、リッポが振り返った。

「ごめんね。だめなんだ」

 笑みを浮かべながらも、申し訳なさそうな目をして藤倉の前でドアを閉めた。

「おい……」

 反射的にドアノブに手を遣ろうとしたとき、別の手に掴まれた。

「このままにして下さい」

 堂原がドアの前へ割り込むようにして入ってきた。

「リッポはちょっとトロいところもあるんですけど、ここの住人には受けがいいんですよ。美子さんも、あいつと二人でいると落ち着くんです。私にはできない。恐らく藤倉さんにもできないと思います」

 ドアの奥から、わずかにケラケラと笑い声が聞こえてきた。

「さっき、ここに子供がいるのを見たんです」

「ほう……」

「女の子なんですけど、おかっぱで、着ている服も妙に古くさくかったんですよ」

「そんな子が出入りしているなんて知りませんでした」

「ちょうど典子ちゃんがいたら、きっとこんな子なんだろうなって」

 堂原は苦笑いを浮かべた。

「あり得ないですよ。典子ちゃんはもう死んでいるわけだし」

「そうなんですけど」

 藤倉は堂原の苦笑いしている目が、わずかに揺れているのを見逃さなかった。

 堂原の肩越しに再びドアを見る。よく聞き取れないが、笑いの中に、子供のような柔らかい声が混じっている気がした。


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