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笑ってる海、泣いてる海  作者: 青嶋幻
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エピローグ 笑ってる海

 午後一時、入居者の食事も終わり、いつもの通り少し遅い昼休みに入った。藤倉は松林を抜けて、波打ち際へ向かって歩いていた。一昨日は台風のような春の嵐が吹き荒れていたが、今日は一転して穏やかな日差しが降り注いでいた。午後になって少し風が強くなっていたが、それでも昨日に比べれば弱い。海はうねりもなく、表面に小波が立っているだけだった。笹濁りも消え、水は青かった。藤倉はいつものように海に向かって目を閉じ、手を合わせた。

 目を開いてしばらく海を見つめたあと、陸へ向かって帰っていく。松林に入ったところで、携帯電話を取りだしてトコヨハイツへかけた。電話に出た留美に、用があるのでトコヨハイツへ戻らず出かけると告げた。

 松の木に寄りかかり、周囲を見回しながら三十分が過ぎた頃だった。男が一人、松林へ入ってくるのが見えた。藤倉は木の陰に身を隠し、はやる気持ちを抑えながら、きっちり一分待って海へ向かって歩き出した。

 白髪の男が海を見ていた。藤倉は砂利の音をたてないよう注意しながら、ゆっくりと後ろ姿へ近づいていった。

「堂原さん」

 不意に呼びかけられて、驚いた顔で振り返った堂原は、すぐに仏頂面になって藤倉から離れようとした。

「待って下さいよ」

 堂原の腕を掴んだ。

「離せ。もうあんたとはなんの関係もないし、用もない。顔を見るのも嫌なんだよ」

 堂原があからさまに睨み付ける。

「私の方は用があるんです」藤倉は堂原の怒りなど、まるで気にしていないという風に微笑んでいた。「入居者の中に、この辺りで堂原さんを見たという人がいましてね、きっと海を見に来ているんじゃないかと思ったんですよ」

「それがどうかしたか。海を見るのは人の勝手だろうが。早く離せ」

 堂原が力を込めて振り放そうとする。藤倉は両手で押さえた。

「堂原さんはここで、リッポのことを思い出しているんじゃないですか? どんな思いでリッポが海を見ていたか、知りたいと思っているんじゃないですか」

「そうだとしても、お前とは関係のない話だ」

 藤倉は軽く頷いた。しかし、手を離そうとしない。

「堂原さんには見えませんか?」

「何がだ」

「笑ってる海、泣いてる海」

 堂原は虚を突かれたように目を瞠った。

 藤倉の微笑みが、大きく広がっていく。「僕には見えるんです」

「嘘をつけ、あれはリッポだから見えたんだろうが」

「いいえ、間違いなく見えたんですよ」

「そんなわけないだろ」

 嘲るように笑った堂原を、藤倉はまっすぐ、真剣なまなざしでつめた。

「堂原さんにも見えるはずです。僕に見えて、堂原さんに見えないはずがないでしょう」

 堂原はむっとした顔になる。動きを止め、じっと藤倉を睨み続けた。

 波の音が繰り返し響き続ける中、二人は固まったまま。

 藤倉は微笑みながらも、真剣な眼差しは逸らさない。

 堂原が視線を外す。腕から力が抜けた。

「わかったから離せよ」

 手を緩めると、堂原は海に向かってしゃがんだ。藤倉も横に座る。

 黙ったまま、じっと海を見つめている堂原を穏やかに見ていた。風に乗って運ばれてくる潮の匂いが心地よい。

「仕事は大丈夫なんですか」

 一時間ほどしたところで、堂原が藤倉を見た。目に怒りの色は見えない。

「最近、夏木君ていう若い男の子が入ってくれましてね、彼と留美さんがいれば、僕がいなくても日常の業務は回っていくんです」

「それはよかった」

「それに、リッポに堂原さんの面倒を見ると約束したんです。見えるまで付き合いますよ」

 リッポと言ったとき、一瞬堂原の表情が強ばり、再び海を見た。

 更に一時間ほど過ぎた頃、堂原が小さくため息をしたのに気づいた。

「藤倉さん、いろいろとご迷惑をかけました」

 堂原が頭を下げた。

「いえ、僕こそ勝手なことをして申し訳なかったです。でも、リッポのためにはああするしかなかったんです。それだけはわかって欲しいと思います」

 藤倉は立ち上がり、松原を出たところにある自動販売機に行って、ペットボトルのお茶を買って戻ってきた。一本を堂原に渡す。堂原は礼を言って受け取り、一口飲んだ。

「思いを込めて見るんです。そうすれば、堂原さんの中にいるリッポが、海を見てくれるはずです。

 金井社長が言っていました。人は誰でも、自分の中に大切な人が生きている。リッポが見せた幻は、見ている人の中から引き出したものなんだと言うんですね。リッポも、堂原さんのご家族も、きっと堂原さんの中で、生きているんです」


 太陽は西の空へ傾き、空がオレンジ色に染まり出した。風の首筋に当たる感触が冷たく、ざらついてきた。波も少しだけ高くなり始めていた。

 いつの間にか水平線に接する空が青みを増し、海と混じり合っていた。そっと、夜が忍び寄っている。

 波頭が砕けて飛沫がふわりと立ちのぼり、陽炎のように揺らめいた時。

 わずかに海の表面に変化が訪れ、海面が盛り上がる。

 奥底から、大きな何かが浮かび上がってくる。

 堂原が不意に立ち上がった。

 海を凝視している目から涙が溢れ、頬を伝う。

「見える……。見えるよ」

「そうでしょ。見えるんですよ」

 藤倉は微笑んだ。

 リッポは心の中にいた。自分の目を通して、海を見ている。

 ニコニコ笑顔を浮かべる藤倉と、ポロポロ涙を流す堂原。二人の男は暗くなるまで並んで海を見続けていた。


 海が笑ってる。


 今までいくつかの小説を書いてきましたが、その中でも最も思い入れの強い作品です。

 生きていくこと、死んでいくこと、人と人との関わり合いについて、ずっと考えてきたことをこの作品に込めました。

 最後まで読んでいただきまして、ありがとうございます。

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