プロローグ 泣いてる海
夜明け前、東の空はわずかに白みがかり、海からは地鳴りのような波の音が、繰り返し響いていた。
松原から男が出てきて、波打ち際の手前にある、少し小高くなった場所で一人佇んだ。東から吹く風は、飛ばされそうなくらい強く冷たかった。背後から松の枝が風を切り、擦れる音が襲いかかるように聞こえてくる。
男は小太りで、よれよれに着古した上下グレーのスウェットを着ていた。ふっくらとした頬が少し赤みを帯び、つぶらな目の奥で海を見つめる瞳は、澄み切っていた。
少しずつ明るくなっていく中、姿を現し始めた海原を見下ろしている。海は至る所で白波が立ち、うねりで呼吸をする生き物のように、ゆっくりと上下していた。
男は再び歩き出し、波打ち際へ近づいていく。波は男の背丈ぐらいまであった。暗い色の波頭が手前で砕け、むせかえるような潮の匂いを含んだ飛沫が男へ降りかかった。泡になった波が足下まで届き、砂利を運び去っていく。
短めに切った髪の毛が、飛沫にあおられて揺れている。瞼を閉じ、海に向かって両手を合わせた。わずかに幼さを残したその顔は、仏像のような静謐さを帯びていた。
辺りはいつの間にか明るくなっており、左右に広がる海岸が露わになっていた。波が高いせいか、周囲には男以外誰もいない。
すっと目を開け、海を見た。澄み切った瞳が全身へ染み渡っていくように、男の体も透き通り始め、向こうにある波が見え始めた。
前へ進んでいく。足が海水に沈み、波頭が目の前に迫っていたが、躊躇する様子はない。
波とぶつかった瞬間、体が波紋を作るように揺らいだ。やがて体は波と一つになり、海の中へ飲み込まれていった。
誰もいなくなった海岸には、波が砕ける音と、風の唸りだけが響いていた。
海が泣いている。