夢
「優、起きなさい!」
いつも通りの朝、重い瞼をこすりながらゆっくりと上体だけを起こす。
それを確認し、カーテンを開けた母は一階へと降りていく。
憂鬱な俺を無差別に焼き尽くす日の光が、こうも憎たらしい。
ああ、また願ってもいない日常が来る。
———人で混雑する駅のホーム。
電車が到着すれば、この人ごみの群れに身を任せ流れていくだけ。
それが、いつもの日常。
だけど、俺はなぜか今日に限ってその場から動けなかった。
他人からすればさぞ迷惑だっただろう。
現に、こいつらは舌打ちや文句を言いながら俺を避けて、電車に乗り込んでいる。
中には乱暴な奴もいるようで、俺はその列から弾き飛ばされた。
そして、電車が発車するまで、そこに立っていた。
そうだった、そうなんだ。最初から分かっていたんだ。
衝動的に走り出し、駅のホームの階段を駆け上がり出口を目指す。
人にぶつかりながら、かき分けながら、衝動のままに。
改札を抜け呼び止める声が聞こえるが、振り向くことはない。
そのまま、光へと、辿り着いた。
———ここは。
駅を出たと思えば、いつの間にか、俺は自宅の前に立っていた。
自然と足が進み、玄関を開ける。
そして、リビングへ足を踏み入れた。
「母さん、ただいま」
「おかえり、優」
日の光が差し込むだけの、薄暗い中、テーブルに母が座っている。
初めて学校をさぼった。それなのに、母は特に何を言うでもない。
だんだんと後ろめたくなった俺は、聞かれてもいないのに言い訳を述べる。
「その、急にいろいろと、嫌になってさ。あ、体調もあんまりよくなくて。だから、一日ぐらい休んでもいいよね?」
母は何も言わない。テーブルに着き、俺ではなく、どこか一点を眺めているだけ。
「俺、結構頑張ってきたよな。いや、そんなに立派ではなかったけどさ、こんな世界で何とか生きてきたんだ。
……だからもう、そっちに行って、いいよな」
何も、返事はない。
「何とか、言ってくれよ……」
俯き、涙をこぼす。
いつから俺は、こんなに泣き虫になってしまったのだろう。
そんな俺を、何か暖かいものが包む。
「優、よく頑張ったね。いつの間にか、こんなに大きくなっちゃって。でも、もういいの」
「……もう、そっちに行ってもいい?」
「ううん、そうじゃなくて。もう自分を責めなくても、いいの」
違う、母さん。俺は、この世界が……。
「いい?この世界にあなたがいるのではなくて、あなたの中に、世界はあるの。
確かに、それとは別の襲い掛かる理不尽は、ないと言えば嘘になるけど。
それでも、世間を恨んだり、押しつぶされて辛い思いをしてしまうのは、あなたが我慢しているから」
俺には、まだわからないよ。
「だからね、私は嬉しいの。いつもと方向を変えてくれた、それだけで優は、前進したの」
逃げただけなのに、そう悪態を吐いても、その言葉は胸を満たしていく。
でも。
「それでも、もうどうしていいかわからないんだ。生きる意味も、何をしたいかもわからないのに」
「うん。でもね、優が死んでしまったら、優の世界の私は何処にもいなくなっちゃう。
だから、生きていてほしい。これは私のわがままだけど、もう少しだけ、優のことを見ていたい。
たぶんとても辛くて傷ついていくと思う。けど、辛くなったら、いつでもここに帰ってきていいから」
きっとこれは、ただの幻想に過ぎない。
だけど、この胸は確かに熱を取り戻していった。
この世界は間違いなく絶望だ。
でも、それは俺の生き様とは全く関係がなかった。
自分が歩く理由は、自分の中にしかないのだから。
だから、今はただ、強く生きたい、それだけを願っている。
人間かどうかなんて関係なく、俺は俺だ。
ただ、人間らしく何かを恨んで、何かのせいにして自分の形を変えるのではなく。
母さんから俺が生まれて、生きて、殺されて、それでもここまで生きて、これからも生きていってやると。
そう、世界に叫びたい。これが絶望の中で輝く、ただ一つの証なのだと。
一時的な衝動かもしれない、すぐに変わってしまう想いかもしれない。
それでも、今だけは、新しい自分に身を委ねていたい。
母さんの腕の中から解放され、視線を合わせる。
「もう、大丈夫」
「そう。 気をつけていってらっしゃい。元気でね」
「いってきます」
リビングを抜け玄関を開けると、ふっと、カーネーションの香りが漂い、すとんと胸に落ちた。