チュートリアル
目が覚めた場所は、実際に見たことはないが、よくある風景。
果てしなく広い、草原だった。
涼しい風に運ばれる緑の香りを胸いっぱいに吸い込み、吐き出す。
こんなに清々しい気分は久しぶりだ。
……これだけでも、ここへ来た価値はあったかもしれない。
いつも何かに追われていた日々に比べて、圧倒的な解放感がある。
いっそ、死ぬまでここで横にでもなっていようか。
なんてことを考えながら、実際に草原へと仰向けで横たわる。
ああ、気持ちがいい。
———どれほどの時間が経ったのだろうか。
上瞼と下瞼が仲良しになりかけた頃、事件が起こる。
暖かく瞼の裏を照らしていた日差しが、急に消えたような感覚に襲われる。
太陽が雲に隠れただけかとも思ったが、頭上がもぞもぞするような気配。
眠りを妨げられた苛立ちを表しながら、ゆっくりと目を開ける。
視界に入ったものを認識した瞬間、俺の身体は跳ねあがった。
「ぬわぁ!!」
そう、すぐ傍にいたのは、熊のような風体をした化け物だった。
体格は俺の二倍を優に超え、手足から生える異常に発達した爪。
血にぬれたような赤い瞳が、俺の心臓を射抜く。
急いで後ずさり、その化け物と距離を取る。
そして、下手に身動きも取れず、対峙して永遠とも思える時間が流れる。
襲ってこない?
あんな見た目をしていても、実は温厚な生物なのか。
冷静になって考えればそんなわけはないだろうに、一刻も早く現実逃避をしてしまう。
その気の緩みから、全身の筋肉の硬直がほぐれ、ふぅ、と息を吐いてしまう。
その瞬間、目の前の茶色い塊が急に大きさを増す。
そして、何か行動を起こす暇もなく、俺の体は右方向へと吹き飛んだ。
全身を打ちつけながら、ようやく勢いが止まる。
「痛っ」
なんとか体勢を立て直し、慌てて自分の体を確認し、特に激痛が走っている左の上腕へ、視線を向ける。
それを認識した途端、ひどいめまいと吐き気に襲われた。
赤黒い爪痕、そこから白いものが顔を覗かせていた。
今までどこか、夢物語を客観的に見ていたような、そんな感覚から一気に目が醒める。
全く、別物だ。
考える暇もなく、突発的に死んでしまうことと、死ぬことを嫌でも考えさせられてしまうこの状況は。
こんなにも、怖いものだとは知らなかった。
深くえぐられた左腕の痛みが、生と死の両方をもたらす。
「ああああああああああ!!」
俺はあろうことか、化け物に背を向けて走り出す。
———死にたくない。
ただ、その一心だった。そして、ここまで追い詰められてようやく、前世の記憶が頭を駆け回った。
何もなかった。何もない人生だった。
それでも、何故か、家族の、友人の顔が思い浮かんだ。
もう、帰れない。その事実が足枷となり、溺れるように走った。
「世界の当たり前に押しつぶされた負け犬」
その言葉が、脳裏にフラッシュバックする。
今になって、後悔の波が押し寄せる。
俺は、ただ世間に対して斜に構えて、ひねくれて、何もしようとしないガキだった。
実際に死を目の当たりにして初めて、何も感じなかった家族の暖かさ、生の喜びを実感した。
俺は、泣いていた。
俺は、なんてバカだったんだ。
こんなところで、死にたくない。
もう、あの時間は戻らない。やり直すことだってできない。
でも、死にたくない。
情けなくて、どうしようもなくて。
重みに耐えきれなくなり、立ち止まってしまった。
あと数秒もすれば、俺は死ぬのだろう。
後ろから、地面を揺るがす音が聞こえる。
諦めが、全ての力を奪う。
「言葉は力」
ふと、どこからか声が聞こえたような気がした。
すると、何かが胸の奥底から、湧き上がり始める。
たった一つの閃き、それがかろうじて、俺の右腕を動かした。
銃の形を象り、こめかみに銃口を当てる。
俺はまだ。
「生きたい」
引き金を引き、頭に衝撃が走る。
そしてその衝撃は電流となって、俺の体を動かした。
自分の体が信じられないほどの速さで動き、化け物の攻撃をかわし、一跳びで化け物との距離ができる。
ほとんど無意識下で動く体は次いで、右腕の照準を化け物に合わせる。
生きるためには、あいつを殺さなければならない。
悪い、もう少しだけ、時間をくれ。
ほとんど反動もなく放たれた白い稲妻は、迫り来る化け物の上半身を消し飛ばした。
———少しの間、力を使い果たし、意識を失った俺は倒れていた。
目が醒めると、空はいつの間にかオレンジに染まっている。
このままではまずいと、軋む体が壊れないように、慎重に立ち上がる。
先ほどの生きたいという願いのせいか、左腕の傷は塞がっている。
「この能力には無限の可能性がある、か」
ここに立っていても仕方がないので、辺りを見渡し、行き先を探す。
すると、今までは気づきもしなかった、どこまでも続く舗装もされていない細道が見つかった。
とりあえず、進むしかないか。
今後の行く末に不安を抱きながらも、歩み始める。
なんともまぁ、ひどい旅の始まりだ。
「あ、あいつが言っていたチュートリアルって……」
いや、まさかな。