一話
図書館に幾つもある本棚。その本棚の中でも一番上の段に置いてある本を取ろうと、踏み台を使って手を伸ばす。身長が百四十八センチしかない梨衣は、目的の本の背表紙を微かに触ることしかできなかった。
背伸びをして、少しでも本との距離を縮めようと努力をする。
「あと、ちょっと……、あっ」
本を掴める、そう思ったとき、後ろから伸びてきた手が、取ろうとしていた本をかっさらっていった。本をずっと見上げていた梨衣は、その本の行く先を視線で追っていく。けれどそれが悪かったのだろう。背伸びをしていた梨衣は、バランスを崩し、踏み台から足を出してしまった。
(落ちる!)
痛みを堪えようと、瞼をぎゅっと閉じる。
しかし想像していた痛みはやってくることなく、代わりに誰かに抱きしめられた。
「大丈夫?」
頭上から、男子の声がした。閉じていた瞼を開き、声がする方を見上げる。するとそこには校則違反の茶色の髪に、まるで女子のようにきめ細かな肌を持つ顔立ちの整った男子生徒の顔が、梨衣との距離数センチというところにあった。
生まれてこの方、男子とあまり話す機会のなかった梨衣は驚いて、顔を真っ赤にしてしまう。そんな梨衣をどう思ったのか、男子生徒は口角を上げて笑った。
「君、学年と名前は?」
「二年の楠梨衣、です」
「そう。俺は一年の茅野千佳。よろしくね、梨衣先輩」
人懐っこそうな笑みを浮かべると、梨衣が取りたかった本をポンと頭の上に乗せられた。
これが、一学年下の茅野千佳との初めての出会いだった。
「もう、なんで毎日目の前に座るの? 他にもたくさん席あるのに」
「一番落ち着くからに決まってんじゃん。それにちっこい梨衣先輩もいるし」
「ちっこいは余計なお世話ですー。千佳くんの身長がおっきいだけでしょ?」
あれから何を思ったのか、千佳はこうして授業が終わるたびに図書館へやってきていた。最初こそ、慣れない異性が話しかけてくるのに、挙動不審だったものの、一週間もすれば慣れてきた。図書館ということもあってか、話しかけてくる声も小さくしているし、梨衣が本に集中しているときは話しかけてこない。
梨衣が読んでいる本に興味があるのか、たまに内容を聞かれて、梨衣が読み終わったあとに読んでいることもあった。見た目と相反して、きちんと場の空気を読めるのが大きかったのかもしれない。
「俺、中学ん時バスケやってたから、それで伸びたのかも。確か百八十三、とかだったかな?」
「え、なにそれ、人間?」
「梨衣先輩。それはひどい」
まるで何年も一緒にいるような友人との会話。人見知りをする梨衣にとって、一週間前に会ったばかりの千佳とこんな風に会話できるのはとても珍しかった。
会話は一言、二言をして終わり、互いに本を読みだす。登下校の時間まで、どちらかが話しかけるということもなかった。ゆっくりとした時間に身を任せ、本の中の世界に入り浸る。誰かと一緒にいるのに、こんなに本に集中できるのは千佳が初めてだった。
そんな毎日を過ごしているある日。
「貴女が、楠梨衣さん?」
本棚に視線を向け、目当ての本を探していると、後ろから声をかけられた。
なぜ梨衣の名前を知っているのだろうと、内心首を傾げながら後ろを振り向く。するとそこには千佳とよく似た男子生徒が立っていた。
「茅野先輩?」
顔は何度か見かけたことがあった。けれどこうして話すのは今回が初めてだったりする。
茅野千隼。千佳と瓜二つな顔をしているが双子ではない。千佳より微妙に千隼の方が背が高く、黒い髪をしていた。
「そうだよ」
「どういったご用でしょうか?」
「ん? そうだねぇ、君に生徒会入ってもらいたいなって思って。千佳が気に入る人間は珍しいから」
千隼は容姿端麗なうえに成績もよく、先生たちの推薦もあって、生徒会長をしていた。梨衣が何度か顔を見たことがあったのも、そのせいだ。
千佳に気に入られている、という意味は仲がいいという意味なのだろうか。確かに梨衣は千佳と一緒に放課後を過ごすほど仲はいいが、それだけの関係。千佳の友達も、一年の何組なのかもなにも知らない。放課後を一緒に図書館で過ごす。ただそれだけの関係だった。そう思うと、千佳のことはなにも知らないということに気づく。なんだか胸の辺りがズキ、と痛んだ。
しかしそれを千隼に知られる必要はない。
「申し訳ありませんが、生徒会に入るつもりはありません」
千隼に軽く頭を下げる。
「大学の進学とかに有利になるよ。他にもいろいろと特典とかあるし」
「それでも、私はこうして本を読んでいることが好きなので」
どれほど頼まれても、千隼のいる生徒会に入るつもりはなかった。
生徒会に入れば、先生の印象もよくなるし、大学の進学も有利はなるだろう。それでも梨衣からしてみれば、こうして放課後にゆっくりと本を読むことの方が大切だった。
(それに、生徒会に入れば千佳くんとも会えなくなるし)
今では図書館へ足を向ける目的の一つに、千佳と話すというのがある。一人で読む読書もいいけれど、同じ空間で同じ趣味の人と本を読むのも中々楽しいものがあるからだ。とくに本を読んだあと、感想を言い合えるが楽しかったりする。
そんな楽しい時間を割いてまで、生徒会に入る必要性は感じなかった。
「そっか。残念」
ここまで誘いに来たのだから、もっとしつこく誘われるのだと思っていた梨衣は、あっさりと引き下がった千隼に内心驚きながらも、再度謝りを入れた。