背中を押される嬉しさ
「沙織ちゃんの誕生日は四月だよね」
私の顔色を窺っていた美紀ちゃんが、突然話題を変えて質問して来たので、何も考えずに「うん」と答えて首をかしげる。
「あと一年で一八歳だよね。選挙権が発生するよね。車の運転免許も取れるよね。法律はよく解んないけど、それって『成人』って事じゃないの?」
ずっと二十歳になるまで我慢なんだと思っていた私には、目から鱗の発想の転換。
「あと一年だけ我慢すれば、結ばれても良いの?」
「結ばれて良いかは判んないけど、『成人しました』って言えばいいだけじゃない?」
「でも、どうして」
さっきは「乗り換えてしまえ」と言っていたはずなのに、苦笑いしつつも今は諦める必要はないと言っていて、どういう心境の変化なのだろうと気になった。
「だって、『諦めろ』って言ったら『この世の終わり』みたいな顔になるんだもん。それだけ思っているならば、前を向ける提案をするのが親友でしょ」
照れたように頬を掻きながらそう言ってくれた美紀ちゃんに、抱きついたら二人してひっくり返ってしまった。それでも共に気にした風も無く笑い合って決心がついた。
「私、諦めない。圭祐さんに迷惑かけないように接して、それでも愛し続ける。先生を好きになったんじゃなくて、好きな人が先生になっただけだもん、何の問題も無いわ」
目の腫れがまだ引かないので、美紀ちゃんがハンドタオルを濡らしてきてくれて、それで目を冷やす。その間にメールで真理佳ちゃんへ先生の呼び出し依頼を済ませてくれたので、呼び出し先である保健室へ向かう。
保健室には保健医の先生が居て、私の顔を見るなり心配そうに声をかけてくれたけれど、「大丈夫ですから」と答えて待たせてもらう。
ほどなくして井口先生がやってきて、美紀ちゃんが食って掛かる。
「先生! 年頃の女の子に背が伸びないだの体重が増えるだの、配慮が足らなすぎませんか! いくら強くしたいからって、言い方ってものがあるでしょう」
「まぁ、そんな事を言ったのですか? これだからスポーツ一筋の方は困るんです。こんな事なら、言われるままに席を外さなければよかったわ!」
二人から責め立てられた井口先生は、ただただ恐縮していて可愛そうなくらいだったけれど、私に向かって頭を下げる。
「橘、すまなかった。今後は気を付けるから、今回ばかりは許してほしい」
「はい。私も言葉が過ぎましたので、気にしないでください。あと、筋トレの件は承知しましたので、指導をよろしくお願いします」
お互いそれで納得したのだけれど、納得しきれない様子の美紀ちゃんが、口を挟んで井口先生を責めたてる。
「女の子をこんなに泣かせた理由は、ちゃんとわかっているんですよね? 二度と悲しませることが無いように、ちゃんと彼女の気持ちを汲んで、誠意を示していただかないと困りますから!」
ビックリした先生の顔を見ていられずに目が泳いでしまうと、美紀ちゃんに全てを話したことを察したようで、改めて謝罪に聞こえる言葉を口にする。
「俺の方から言い出した事なのに、つい道場に通っていた頃の立場で接してしまった。年頃の女性として約束は違わず真摯に接するので、できれば心変わりなどせずにいてくれないだろうか」
「はい。あの頃と立ちたい場所は変わりませんから、心配しないで今まで通りに接してください」
「武士たるもの、二言は無いですよね?」
私が証人だぞとでも言うように、美紀ちゃんが念押しして話を終える。
保健医に捕まって説教されている井口先生を置き去りにして、二人して保健室を出て美紀ちゃんにお礼を言って、別れて部室に向かって歩き出す。
そう、美紀ちゃんのおかげで「約束は違わず真摯に接する」と言質は取った!
まだ皆が残っていて、たぶん戻れば質問攻めにあうのだろうけど、「先生の配慮に欠けた質問に泣けてしまって」と言ってしまおう。先輩たちは「これだから若い先生は」と小言を言うかもしれないし、同級生たちは引いてしまうかもしれないけれど、罰として甘んじてもらおう。
私以外が先生に近づかない様に、先生が私以外を見ない様に、ちょうど良い機会なのだから。
◇ ◇ ◇ ◇
何処で何を間違えたのだろう?
背が低いというコンプレックスを自分が抱いているから、沙織も同じだと決めつけてしまっていた。だから持久力の無さに目を瞑ってでも、無理な筋力アップなどは行うべきでないと思い込んでいて、昨年の成績に影響を与えて低迷させてしまった。
だから、強くなってほしかった。
背なんて関係ないんだと、自信を持ってほしかった。
出来るならばずっと、俺の隣で笑っていて欲しかった。
こんな心の弱い俺でも、ずっと愛していて欲しかった。
それで筋トレを提案したのだが、未だに背丈だけの釣り合いを気にしていたなんて、思ってもみなかった。身体つきだって随分と大人っぽくなってきているのに、それでもまだ子供っぽいと思っているのだろうか。
こちらが恥ずかしくなるくらいの実力だって付いてきているのに、未だに未熟で弱いと思っているのだろうか。
いや、そこじゃない。
沙織は、俺との約束を守り通してくれていた。甘えたかっただろうし、優しくしてほしかっただろうに、それを健気に我慢していたはずだ。
それを俺は自分を抑えきれずに、愛おしくて抱きしめてしまった。
浅ましい奴だと嫌われてしまっただろうか。
直ぐ後に飛び込んできた木下の様子から、沙織が泣いていたであろう事は分ったが、駆け付けてやる意気地が俺には無かった。沙織は大事だが、それ以上に彼女を取り上げられてしまう事が怖い。そこまで我が身が可愛いものかと愕然とした。
だから任せてしまった。本当に浅ましくて不甲斐ない……。
それでも沙織はこんな自分を許してくれた。どちらかと言えば、人の器として俺が沙織に釣り合っていない事を、沙織は判っているのだろうか。
謝罪後に木下から言われた言葉から察するに、俺たちの関係を知ったのだろう。
言質を取られても良いと思ってあの様に言ったが、出て行く木下の表情から読み取れたのは『してやったり』で、その理由が解らない。『成人するまでは』に変わりは無いのだが、認識のズレが有るのだろうか。
そんな些末な事より、沙織の隣りに立てるように己の器を高めなければならない。
常に支えてやれるよう、精進する決意を改めて肝に銘じた。
◇ ◇ ◇ ◇
すでに部活は終了していたけれど、部室には一年生を除く全員が、帰り支度を済ませて待っていてくれていた。
私の腫れた目を見た結城先輩が、心配そうに理由を尋ねるのを着替えながら答える。
「筋トレを進められたんですが、背の事とか言われてしまって」
「はぁぁぁ! あのチビ、自分の背を棚に上げて!」
「いえ。私も気にし過ぎていた様ですから、あまり責めないで上げてください」
怒りの矛先を井口先生へと向ける先輩たちをなだめ、庇うように発言すると、冨田部長の口から私の知らなかった事実が飛び出す。
「先生、あれで彼女持ちなのよ。前に車に乗せてもらった時があったんだけど、助手席にぬいぐるみが置いてあってさ。聞いてみたら『助手席は彼女専用だから』なんて言いだして。この車もその彼女が選んでくれたんだって、惚気られて引いたよ」
其処彼処から「信じらんない」とか「引くわぁ」とか聞こえてきたが、私でさえ先生の車にはあのドライブ以来乗っていないので、ぬいぐるみの件は知りもしなかった。そして、そこまでして私の場所を開けてくれている先生に、顔を赤らめながら感謝した。
「あら橘さん、顔赤いわよ」
同級生の東條さんにそう言われて、思わず誤魔化す。
「通っていた塾に、先生の元カノさんが講師でいてね、モデルみたいに背が高くて綺麗な人だったなぁ、なんて思い出しちゃった」
「まぁ、あの背じゃぁね。自分より低い彼女なんて、探し出すのも大変だろうけど」
「どうせ、言い寄ってフラれたんでしょ。甲斐性が無い証拠よ」
そんな感じでワイワイ騒ぎながら部室を出ると、なぜか井口先生が立っていた。渋い顔をしているから、たぶん話を聞かれていたのだろうが、それでも会話には触れずに頭を下げる。
「いろいろと配慮に欠けて、橘だけでなく皆にも迷惑をかけてしまって、本当に申し訳なかった。以後は気を付けるので、これからも指導について来てほしい」
それぞれが思う所も有ったとは思うけど、みんなして「これからもご指導お願いします」と返事して、この件はその後触れられることは無かった。
今年の新入部員は五名で、三年生マネージャーの一名を含めると、部員の総勢は二十二名となった。新入部員に関しては、まったくの素人は居ないもののレベルの高い者も見当たらない。それでも井口先生は「光りそうなのが二人ほどいるな」と言っていたので、練習について来られれば団体戦の戦力になるかもしれない。
けれど、浮気は無しですよ!
筋トレの方は月水金に別メニューで行われ、主に低負荷で極限まで回数をこなすトレーニングとなる。なので、筋トレの日は竹刀を握らずにひたすらトレーニングを行う。その辛さと言ったら暫らく動けなくなるほどで、夏休みくらいまでは一人で帰れないくらいだった。
そんな状況だから、途中まで翔真君に荷物を持ってもらって、真理佳ちゃんに支えられる様に帰っていて、「二人は付き合っている」との噂が流れる羽目に陥ってしまう。
もっとも翔真君は「ありえない」と一蹴し、真理佳ちゃんは気にした素振りを見せないので、私も「彼は見向きもしてくれない」と笑って誤魔化している。噂自体は直ぐに聞かれなくなったけれど、最初から最後まで結城先輩が「邪魔しちゃ可哀そうだぞ」と相羽兄妹を思いやっていて、少しばかり鬱陶しかった。
それでも、当事者達には「バレてるよ」なんて言える訳も無いので、聞き役に徹するしかなかったのが辛かった。
トレーニングの効果の程は、夏休みから取り入れたバランス栄養食の効果もあって、二学期に入ると電光石火の瞬発力を維持しながら、何試合も戦い抜ける持久力が付いてきた。
なぜか背が少し伸びてきたのは、オマケ効果なのだろうか。
部内での順位も二番手となり、部活動はとても充実しているのだけど、それ以外が思うようにならない。
クラスに須藤という子が居るのだけれど、どうも翔真君のファンらしくて、翔真君に近寄る子を端からいじめている。例にもれず春先の噂話で私も標的にされていて、今年も美紀ちゃん達とは同じクラスになれなかったのもあって、クラス内で話が出来る子がまったく居ない。
これまで海外だった修学旅行先が、世界情勢が不安定だからと早々と沖縄に変更され、水着姿をクラスメイトに晒さなければならないのも嫌だ。別に自意識過剰な訳ではないけれど、大きいだ小さいだといやらしい目で見られるのが我慢ならない。
これが井口先生と二人きりだったら大胆な水着でもと思うけど、こんな小さな女では似合わないだろうし望まれないだろう。
部屋割りだって同室になりたがる子がいないし、班行動だってそうだった。それでもむりやり決められてしまったので、余計に行く事に躊躇いがある。
まあ行けば行ったで、自由行動を利用して美紀ちゃん達と回るって事も出来そうだけれど、四日間の内で数時間しかないのだからテンションが上がるわけもない。
実は、修学旅行の日程と大会の日程が重なっているので、個人的には大会の方に出たいと思っていて、両親には「クラスで浮いてしまっているので、修学旅行には乗り気でない」と言い続けている。
両親は私のもろもろに諦め感が漂い始めているので、サボってしまっても小言で済みそうではあるけど、事前に送る事になるスーツケースをどうするかが問題になってしまう。
最終手段としては一番小さいのを空っぽで送っておいて、美紀ちゃんにでも回収してもらい、お土産入れにでも使ってもらおうかな?