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初めてのキス

 切った電話を見つめ続ける。

耳の奥には「おやすみなさい」と嬉しそうに言った声が残っていて、羞恥心から心が痛む。俺は師と言う立場を利用して、あの子の気持ちを利用して、いい大人が子供を振り回してどうするつもりなのだと。


 初めて出会ったあの時、真っ直ぐで澄んだ瞳に惹かれた。

その綺麗な瞳はこちらを見透かすようでもあり、刺すような眼差しは見定めるようでもあった。それはさながら、真剣を抜いた時に感じる力量を探られる感覚であったり、名刀を前にして感じる妖しい美しさに通じるものだった。だからだと思うが、始めの頃は意識していないと中学生だと言う事を忘れてしまったりした。


 そして指導を始めると、その思いは更に強くなる。

 初弟子の二人に言える事だが、始めたのが遅いせいも有ってか、変な癖が付いていない状態から一つ一つ覚えているので、成長速度に目覚ましいものが有った。

 翔真の成長は天性の感の良さに起因すると思っている。決して努力を怠っている訳ではないだろうが、意識して動いていうわけではなさそうだ。

 しかし、沙織は天性の感を持ち合わせてはいない。それでも事細かな動きを意識し、理詰めで動きを予測し、瞬時に最善を選択して動こうとする。さらには、その動きを可能にするだけの努力と鍛錬を惜しまない。


 自分に沙織と同じ真似が出来たのは、高校を卒業する手前ではなかっただろうか。背が伸びなくなって、勝てなくなって、そうして初めて指導者の言葉を理解しようとしたのではなかったか。

 誰に教わる訳でもなく初めからそれが出来る彼女を、だからこそ子供としてみる事が出来ないでいるのだ。


 この思いは、一人の女性への恋心なのか、一人の剣士に対する敬愛なのか。


 それでも、彼女はこれから広い世界に出て行く存在で、そこに誘うのが自分の指導者としての存在意義のはずだ。

 それでもこの気持ちを手放すことは出来ないでいる。

 だからこそ、教師と生徒と言う立場を枷として区切りを付け、この先も関わっていきたいと考えて提案してしまった。そう誘ってしまって、名前で呼び合うことを受け入れてしまって、やはり自分は卑怯な人間なんだと実感してしまった。

 痛む心を抱え、それでも彼女のそばに居たいと思う自分は、許されるのだろうか?


   ◇ ◇ ◇ ◇


 寒稽古の最終日。真理佳ちゃんとの初詣の約束が有ったので、稽古が終わると同時に家に戻ってシャワーを済ませて出かける。少し遅れて待ち合わせ場所に着くと、真理佳ちゃんと翔真君に美紀ちゃんが既に揃っていた。

「ごめんね、待たせちゃって」

 そう声をかけて合流すると、早々に初詣を済ませる。


近くのファーストフード店で、遅めの朝食を取りながら翔真君に進路の事を尋ねてみると、やはり圭祐さんから誘われていた。

 真理佳ちゃんと美紀ちゃんは私と同じくらいの成績なので、進路をどうするのか聞いてみる。

「私はお兄ちゃんと同じ高校に行けるよう、お兄ちゃんに勉強を教えてもらうの」

「私は塾に通う予定だったんだけど、さっき翔真君がまとめて面倒をみるって言ってくれたから、帰ってから親と相談かなぁ」

「で、沙織ちゃんも一緒に教えようか? どうせなら高校総体で個人男女優勝ってものを狙いたいんだけど」

 誘い方が翔真君らしくない。彼は真理佳ちゃんがいじめられない環境が欲しいだけで、勝敗に固執はしないのだから、圭祐さんから頼まれたのだろう。

「家庭教師でも頼もうかと思っていたけれど、翔真君が教えてくれるならば安く済みそうね」

「そうだね。幼馴染価格だからジュース代でいいかな」

 それでは美紀ちゃんの授業料は、と伺い見ると「茶菓子代」と即答される。場所は公民館の学習スペースなので、飲食は問題ないらしい。


 帰り道、美紀ちゃん達が家庭科部の買い物話をしている隙に、翔真君に聞いてみた。

「井口師範から、勉強を教えてくれって頼まれたの?」

「昨日電話が有ったよ。僕はもう少し上も狙えるけど、真理佳に合わせるつもりでいたから承諾した。そしたら『アベック優勝が』とか言い出して、「橘も」なんて言いだすから、渡りに船でそっちも受ける事にしたんだ」

「私と同じ高校に行きたいの?」

「友達が一緒に頑張れば、張り合いも出るだろ。真理佳は諦めが早いからさ、周りがやる気を出してくれれば、置いて行かれない様に頑張ってくれるだろうとね」

 翔真君は真理佳ちゃんの事を、どう思っているのだろう。やっぱり妹としてしか見ていないのだろうか。それだと、真理佳ちゃんの気持ちは何処に向かうのだろう。

 そして私の圭祐さんを思うこの気持ちも、届いてはいけないものなのだろうか……。


 三学期が始まると、土日の午前と水曜日に勉強会が開かれるようになった。

本来ならば毎日でもと思ったけど、道場を休みたくは無いし、圭祐さんを独占したいのでこうなってしまった。

 まずは進級する前に、一年からの二年分を復習する事になった。今習っている所も聞けば教えてもらえるけど、やっぱり積み重ねが大事だと基礎から聞く事になる。

 そんなこんなで、学年末テスト前には二年分の復習が終わり、テスト対策もしっかりやってもらったので、三人そろって成績がぐんと伸びた。五段階評価で二が付かなかったのは、入学してから初めての事だった。

 当然ながら教科毎の偏りはあるので、四月からはその辺の対策もお願いしようと思っている。


 終業式を終えて道場に顔を出すと、圭祐さんが小学生の稽古をつけていた。あと二〇分くらいで終わるので、見学していると何故か違和感がある。

『なんだろう……。全体を見ているからなのか、私への稽古と随分と違う』

 稽古が終わった子供たちが、外に駆け出していくのを黙って見送っていると、圭祐さんが私に気付いて寄ってくる。

「今日は稽古の日じゃないだろ。どうした?」

 目を合わせたまま動かない私に、ゆっくりと近づきながら問うてくるが、違和感の正体がわからずにいる私は、答えを返すことが出来ない。

「そんな怖い顔をしてくれるな。可愛い顔が台無しだぞ」

「誰彼かまわず、そんな事を言っているのですか?」

 考えを遮られそうで、つい漏れてしまった言葉なのに、素直に「すまない」と言って頭を下げてくる。その下げた頭に向けて導いた答えを漏らす。

「あの子達と私では、何故か教え方が違うように感じるのです。細かな部分の指摘をしていないとかですが、それは何故なのでしょうか」

 下げた頭がビクッと動き、恐る恐るあげた顔の目が泳ぐ。


 数瞬の思考の後に奥の部屋へと誘われ、勧められるがままに椅子に座ると、正面に座った圭祐さんが口を開く。

「沙織には剣道の才が無い。無いが、それを忘れさせる程の良い目を持っていて、向上心をものすごく感じる。だからこそ高みを目指してほしいと思っているし、俺の知る全てを教えたいと思っている。あの子達がどうのとは言わないが、沙織に対しては必然的に教える密度が変わってしまう。思い入れの違いは否定できない」

 困った。

 そんな事を言われたら、特別だと言われているようで恥ずかしい。

 たとえそこに恋愛的な感情が無くても、嬉しくなってしまう。私みたいな中学生が圭祐さんの恋愛対象になる訳がないのは解っているけど、それでも今はその言葉がけで十分だと思えた。

「分りました。圭祐さんの期待に応えられるよう、引き続き教えてもらえるよう頑張ります」

 それを聞いた圭祐さんの表情が苦しいものに見えたのは、はたして気のせいだったのだろうか。


 結局、三年生になって塾に通うようになってしまった。

 引き続き翔真君にも教えてもらってはいるけど、不得意な科目だけでも受けられる個人レッスン型の塾が近くに出来たので、そこに行くことになった。

 ついてくれた安西(あんざい)先生は教育学部に通う女子大生で、教師よりもモデルの方が似合いそうな綺麗な人だった。それでも、教師を目指すだけあって教え方はうまく、苦手だった英語が上手に訳せるようになってきた。それに発音も綺麗なので、綴りのイメージがわくようになってきてイージーミスが減ってきた。


 二学期に入ると、最後の試合に向けて部活の練習が長引くようになってきていて、荷物を家に置いてから行けていた塾に、今日は直接行くことになった。

仕方なく竹刀を担いだ制服姿で塾に行くと、安西先生が意外な顔をする。こんな時期まで部活にいそしんでいるのが意外だったのか、こんな小さい自分が剣道をやっている事が不思議だったのか。

 そして授業が終わると、こんな事を言い出した。

「橘さんも剣道をやっているのね」

「も、と言う事は先生も剣道を?」

「いいえ、元カレが剣道バカでね。半年くらい付き合ったんだけど、手を繋ぐ以上の関係にならなくて。問い詰めたらロリコンだったのよ」

 ビックリして言葉を無くしていると、よっぽど腹立たしかったのか、愚痴まで飛び出してくる。

「剣術道場の教え子に義理立てしているなんて言われたら、それ以外考えられないじゃない。それで高校の教師を目指しているなんて、犯罪者にならなきゃいいけどね。あなたも、相手は慎重に選んだ方が良いわよ」

 嫌な予感がして、恐る恐る聞いてみる。

「同じ大学の方なのですか?」

「そうよ。アイツは一つ上だから今年卒業で、仙見台学園からコネで内定を貰っているらしいわ」

 同時に新任教師を複数取ることは無いだろうから、圭祐さんの事に違いない。

「——そうですか」

「ごめんね、つまんない愚痴を聞かせちゃって」

「いえ、今日もありがとうございました」

 荷物をまとめて、家に急ぐ。

 胸の奥が痛くて涙が出そうになる。頭の中がぐるぐるしていて気持ちが悪い。せっかく持って帰った竹刀も、今日は振らずにベッドに入った。


 翌日になっても気持ちが悪いのは収まらず、眠れなかった事も有って集中力が無かったけど、学校には行って最後まで授業を受けた。真理佳ちゃんは心配してくれたけど、英語が難しくてと誤魔化して別れる。


 いったん帰宅して道着に着替えたけど、道場に行くのが、あの人に会うのが怖い。それでも休めばいいと言うものでもないし、辞めるにしても話はしなければ成らないだろうと道場に向かう。

 道場についても圭祐さんの顔が見れなくて、そんな状態で練習を始めて、直ぐに怒鳴りつけられる。

「気もそぞろで怪我でもしたらどうする気だ。ちょっと奥に来い!」

 黙って後を付いて行き部屋に入ると、勧められるままに椅子に座る。

「体調が悪いなら休まないとダメだぞ」

 うって変わって優しい声でそう言われ、涙があふれる。

「ごめんなさい」

「いや謝る事ではないが、家まで送って行こうか?」

 そう勧められたけれど、首を横に振り「ごめんなさい」と繰り返す。

 困り果てた様子で黙り込まれた沈黙に耐えられなくなって、名前を呟く。

安西美代(あんざいみよ)さん」

「会ったのか! 彼女に何を言われた」

 急に怒りをはらんだ口調で言われ、ビクッと顔をあげると両肩を掴まれる。

「アイツはロリコンなんだと……。ごめんなさい。私が変に馴れ馴れしくしたせいで、け、井口さんの幸せを壊してしまった……」

 そこまで言うと、あふれた涙で何もかもが見えなくなって、それでも涙が止まらなくて、声を抑える事で精一杯になってしまった。謝って済むものではないけど、どうしたら良いのか解らなくて、バカな自分に愛想が尽きて、いっそ消えてしまえばと考える。

「すまなかった」

 そう言って離れた手を、残念に思う間もなく優しく抱きしめられて、すがりつく様に腕をまわしてその胸で泣いた。これを最後に、これまで優しくしてもらった思い出を胸に、これ以上は迷惑を掛けない様にするんだと心に決めて。


 何処にそんなに溜まっていたのだろうかと思うほど泣いた後、圭祐さんは優しく髪を撫でながら、言葉を選ぶように話し始めた。

「初めて会った時から、沙織の事が中学生に見えなかった。その澄んだ目に見惚れた。いい大人が何をと自分でも解っていたが、そんな気持ちを誤魔化すのも在って、言われるままに彼女と付き合い始めた。それでも気持ちは誤魔化せず別れる事になった。ただただお前が愛おしくて、そばに居たくて仕方がない」

 そこまで言うと、体を離して優しい笑みを浮かべる。

「だから、沙織が気にする事じゃない。俺はこんな汚い人間だから、軽蔑してもらって構わない。高校も好きな所を受けなさい。道場も他の人に変わってもらうように頼んでおくから」

 ゆっくりと言い聞かせるような声で、そこまで言って顔を背けるように立ち上がりかけた彼を、突き飛ばす様に尻餅をつかせて馬乗りになる。驚いて私の顔を凝視するのも構わず、襟をぐっと引き寄せ唇を重ねる。

「貴方が良いです。圭祐さんじゃないと嫌です。貴方が誰を好きになろうと、圭祐さんを好きでいる気持ちは私のもので、誰にも文句は言わせません。だから……」

 だからなんだと言うのだろう。勢いで行動して言い放って、確実に真っ赤になっている顔と沸騰した頭で、それ以上の言葉が出てこない。


「本当にお前は、素直でいい女だなぁ」

 柔らかい表情でそう言うと、脇に手を差し入れて軽々と持ち上げて私を退かし、表情を引き締めて正座をする。私も倣って正座をすると意外な言葉が飛び出す。

「俺は沙織が成人するまでは彼女は作らない。だからお前も彼女には成れないと覚悟してくれ。それでも沙織は、これからいろいろな人に出会って沢山の感情を抱くだろう。その中には恋愛感情も有るはずだから、その時はこんなオッサンの事など構わず素直に生きてくれ」

 そう言い切られてしまっては、ダダをこねる訳にもいかず黙って頷くしかない。それでも何か悔しくて俯いたまま考えて、ささやかなご褒美をお願いする事にした。

「高校に合格したら。一度だけで良いですから、圭祐さんから抱きしめてキスをしてください」

 苦笑いして「その一度が危ないんだよな」などと言いながらも承諾してくれて、私は頭を下げてお礼を述べる。これ以上は心が持ちそうも無いので、今日はこれで帰る事になって挨拶して道場を後にする。


 家についても心臓はバクバクしたままで、母から「走ってきたの」と言われるくらい顔も赤いままだった。お風呂に入ってやっと落ち着いてきて、ふと安西先生にどう接するか気になったけれど、向こうは私が圭祐さんの思い人だとは思っていないのだから、今まで通りでいいかと開き直る。だってあの人は手を繋ぐまでで、私はその先もしているのだから。

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