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大人になって

「失礼します」

 無人の事務所に声をかけると、神棚の前に佇んでいた館長が反応する。

「おう、翔真か。今日はどうした」

「井口師範に頼まれていたアプリを持ってきたんですが……」

「今日はもう上がりだから、奥でシャワーを浴びてるよ。もうすぐ来ると思うから、そこで待っててくれ」

 作ったアプリのお礼を兼ね、食事をご馳走してくれると言われていたから、帰り支度の一環なのだろうと待たせてもらう。

「最近は目の調子とかどうだ」

 僕の左目は半分近くの視野を失っていて、その影響も有って習っていた剣道を辞めている。その経緯を知っている習い先だった剣術道場の館長なので、顔を出すたびに目の事を心配してくれる。

「現状維持ですね。まあ生活に支障は有りませんし、最近は中学の剣道部に指南補助として出ていますから、時間が許せばまた指導を受けたいとは思っているのですが」

「いいぞ。井口師範にみっちりと教わって行け」

 それが嫌で足が遠のいているのだが、それが解っていてそんな事を言ってきている節がある。


「ところで。ここの指導者は皆『師範』と呼ばれていますが、何故なんですか?」

 そう、段位が上の方だとか大会の入賞者とかではなくとも、ここでは指導する者すべてを『師範』と呼ばせていて、習い始めのころから不思議に思っていた。

「武術は心技体を鍛え、高めるものだ。教える側は心技体の全てにおいて、教え子の模範と成らなければならない。その信念を忘れないための戒めとして『師範』と呼ばせている。まあ、模範にならなかった者も居るがな」

 そう下手なウインクをしてくる館長に、苦笑いで答えたところで、奥から目的の人が髪を拭きながら現れた。

「人に余計な仕事を振った挙句、こうして呼びつけておいて自分だけシャワーですか。随分と出世したものですね、井口師範」

「やっと出来たのね。館長、これで月謝の管理含めて事務が捗りますよ。明日の午前中から始めますから、事務所の鍵は預かって行きますね」

「よろしく。それにしても、沙織が来てくれてから指導に専念できて助かるよ」

 得意満面の井口沙織は、幼馴染の立場を利用して良く仕事を依頼してくる。その対価が食事だったりするので、こうして呼び出されることが多くなる。まあ美味い物を出してくれるし、真理佳への刺激にもなるので悪い事ではない。

「真理佳ちゃんは未だ家に居るの?」

「外の車で待ってるよ。だから早くしてくれ」

 急かして車に戻れば、真理佳が「おっひさ〜」等と挨拶をしていて、そんままハンドルを握って車を走らせ始める。


   ◇ ◇ ◇ ◇


 自宅に着くと圭祐さんは既に帰宅していて、下処理しておいた食材を取り出し始めていた。

「ただいま〜。さ、二人とも遠慮なく入って」

「お帰り。と、いらっしゃい。また一段と大きくなったな」

 そう真理佳ちゃんは妊娠中で、二ヶ月先が予定日になっているのだけれど、その予定日が二人の誕生日なのは少し笑える。

「圭祐さんも翔真君もビール? この前お父さんが持ってきた焼酎も残ってるから、好なのだして」

 そう言いつつ、真理佳ちゃん用にカフェインレスのコーヒーを淹れ、調理に掛かる。つまみになりそうな物を幾つかテーブルに並べると、「とりあえずは」なんてビールを飲み始め、真理佳ちゃんは台所に入ってきて手伝ってくれる。

 そもそも料理好きの真理佳ちゃんは、手の込んだ料理を得意としていて、抜群においしい物を作ってくれる。私はと言えば、いかに有る物で品数を増やすかが得意で、味付けのバリエーションが豊富だと自負している。


「半年も経ってはいないけど、仕事は慣れたのかな?」

「そうね。学校で教わってきたことも活かせているし、子供たちに教えるのは楽しいわよ。慣れていないのは送迎用の車かな?」

 小中学生は自転車で来られる様な近所の子ばかりだけれど、高校生などはそうはいかない。

 駅から程々の距離が有る上に終わる時間も遅いので、駅までの送迎用に十人乗りの車が一台あって、その運転をするのも仕事の内となっている。

 私は体育会系の短大をこの春にストレートで卒業して、取得した資格と習得した知識を活かすため、通っていた道場に雇ってもらっている。主な仕事は子供たちへの指導と、個々の身体能力に合わせた指導方法の作成、館長の奥さんがやっていた出納帳管理に送迎となるのだけれど、電子化のために翔真君に色々と手助けしてもらっているのだ。

「さぁ、これで全部だね」

 すべての料理がテーブルに並んだので、私たちも席に着いて箸をつける。妊婦さんにお酒は勧められないので、今日は飲まないでおこうと思ったけれど、大好きなワインの口が空いているのであれば飲まないわけにはいかない。

 そこそこ飲んで食べてゆったりして、二人は帰って行った。


「子供かぁ」

 酔いも有ってか食器の片づけをしながら思わず漏れた言葉に、圭祐さんは黙って髪を撫でてくれる。

 学生の頃は圭祐さんの都合に合わせる事が容易にできたので、けっこう遊びに行ったり出来たけれど、卒業に支障が出ない様にと子供が出来ないように気を付けていた。卒業後はそれぞれの仕事が忙しくって、なかなか時間が取れなかったりすれ違ったりで、子供を授かるには至っていない。

「沙織よりも上とは言え、俺だってまだ三十前なんだから急ぐ必要も無いだろ。俺たちは俺たちのペースでやって行こうよ」

「そうね。早く片づけを終わりにして、一緒にお風呂に入りましょう。明日は喫茶店でモーニングセットにするから早起きする必要もないしね。だから、いっぱい愛してね。あ・な・た」

 二人とも飲んでいるから、もしかすると最中に寝てしまうかもしれないけれど、それでも二人の時間に溺れたいと思うし、圭祐さんもそうだと態度で示してくれるので、嬉しい気分でいっぱいになる。


 たくさんの人に支えられて此処までこれた。その人たちに感謝をしつつ、私たちは夜が更けるまでたくさん愛し合って、お互いを感じながら幸せに浸って眠りについた。

間に2本短編を挟みましたが、初作品のスピンオフになります。

もっともアチラは1年に満たない期間ですが、本作品は6年間とその2年後となります。


本作品の主人公はモブでした。


アチラでは最初、名も無き担任と名も無き幼馴染だった訳です。が、文化祭の打ち上げエピソードを盛り上げる役割を与えてしまったところ、どんどん二人が走り始めてしまって……。

このまま閉じてしまうのが可哀想になってしまったことから、本作が誕生した次第です。


結果として、アチラが中途半端に仕上がってしまい、大幅に加筆する事になったのは作者の不徳の致すところですが、どちらも現状としてはよく纏まったのではないかと思っています。

何しろ、Web小説など読んだことがなかった人間が、短期間で読み漁った結果を反映しただけなのですから。

そんなだから、評価が低いのも致し方ないのだとも思っています。


アチラの作品が2人の視点で作られているのに対し、1人の視点で収めようとしましたが失敗しました。

無理やり収める事も出来たでしょうが、やはり双方の感情が入らないと伝わらないので、こうなってしまったのはしょうがないですね。


さらに、最期は短大の届け出で終わる予定が、元カノの出場で後味が悪くなってしまって、追加エピソードになったのも、行き当たりばったりのキャラ任せが原因でしょう。

それでも、私のスタイルがそれなのでご容赦いただければと思います。


ここまで読んでいただいた読者の方にとって、この作品が記憶に残る作品であれば、作者冥利に尽きると言うものです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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