怪事件
翌日、代償が抜けてすっかり軽くなった体で、フォルテナはイグマイのトギノス事務所へと向かった。
センナの悲劇後、フォルテナはアマランス領のイグマイに配属された。イグマイの大通りは、センナとは比べ物にならないくらいに発展していた。道の両側に隙間もないほどきっちりと並べて建てられた建物は、そのほとんどが三階建て以上で、一階部分が様々な品物を扱う店舗になっている。馬車が二台づつ並んでもすれ違えるような太い通りの両側には、石畳の美しい歩道が設置されている。
イグマイはアマランスの鉄鋼品、サンセベリアの農産物、ヒアシンスの海の幸が取引されるアマランス領最大の都市なのだ。
イグマイのトギノス事務所は、フォルテナの住む宿舎から歩いて十分ほどのところにあった。二年前に建て直されたばかりで、真新しいレンガには多くの窓が設置され、ガラスが朝の光を反射している。フォルテナは通りから手すりの付いた階段を三段ほど上がり、丸いガラスを嵌めこんだ分厚い木のドアを開けた。
すぐに来客用のソファにだらしなく座って新聞を読んでいるジギーが目に入った。フォルテナが入ってきたことに気づいたようで少し顔を上げたが、またすぐに新聞に目を戻してしまう。フォルテナが移動して横に立っても、立ち上がる気配もない。
「ジギー、今日の仕事は?」
沈黙に耐え切れずにフォルテナは上から声を掛けた。汚いトップハットは上から見ても汚い。匂いまでしてきそうでフォルテナは少し距離を取る。
「おはよう、フルス」
ジギーはのんびりと答える。
「ジギー、今日の仕事の確認はしたんですか?」
「お、は、よ、う、フルス」
ジギーは新聞から目を離さない。イライラする……だが、こうなれば、挨拶を返すまでこの男はどうにもならない。そもそも、挨拶しない方が間違っているという自覚もあるから、フォルテナは何とか舌打ちを堪えた。
「……おはようございます」
渋々言うと、ジギーは前のソファに座れ、というように顎をしゃくった。
「いいえ、結構です」
「座れって。これを読んでみろ」
ジギーは机の上に新聞を広げて、一つの記事を指さした。トギノス機関の仕事は死霊・悪霊のせん滅である。もちろん、新聞などを読んで世間の情勢を知っておくことは大切なことだと思うが、今は仕事の時間だ。とはいえ、読まない限りは話が進みそうにない。さっさと終わらせようと、フォルテナは乱暴に新聞を掴んで読み始めた。
ジギーが指さした新聞の記事の見出しには
『異常な銃弾、ダウロン・バセッサ氏の心臓を貫く』
とあった。
殺されたベセッサ氏は、財界に疎いフォルテナですら名前を聞いたことのあるイグマイ一の実力者である。勢いのある人物というのは得てして人の恨みも買っているものだ。死んだベセッサ氏が死霊になったならともかく、人間同士の諍いは警察の管轄であり、精霊憑きには関係ない。
何故、ジギーは自分にこれを読ませるのか。怪訝に思いつつ小さな文字を追いかけるうちに、フォルテナは自然と前のめりになって行った。新聞に顔を突っ込むようにして読み終え顔を上げる。
「音もなくバセッサ氏の心臓を撃ち抜いた弾頭に十字の切れ込みの入った銃弾は、体の中で避けて広がり取り出すことが不可能だった」
ジギーがゆっくりと新聞の文字をそらんじる。
「そんな弾丸はどこも作っていないし、あらゆる金属工に見せても作るのは不可能という返事が返ってきた、とブンヤは言ってるな。金属を司る神霊ユシャワティンの加護を受けた精霊憑きでもない限り」
「は? ユシャワティンのって……まさかこの事件に精霊憑きが関係しているとでも? バカバカしい」
呆れた気持ちが思った以上に口調に出てしまって、フォルテナは咳払いをした。ジギーは気にした様子もなく片手を上げて、三本の指を立てた。
「現在、ユシャワティンの精霊憑きは三人」
マスカダインには九柱の神霊がいる。だが、一柱に対する精霊憑きの数には、著しく偏りがあった。神殿への行きやすさなどにもよるのだろうが、精霊憑きが発生にしにくい神霊もいるような気がする。
そして、どの神霊の試練を受けて精霊憑きになったかで使える能力は違ってくる。
フォルテナは炎の神霊イオヴェズの欠片を受けて精霊憑きになった。だからフォルテナの使える力は炎を基本としているものだ。イオヴェズのワノトギはかなり数が多い。
だが、金属を司る神霊ユシャワティン、心を司る神霊ネママイア、命を司る神霊ミュナ、雷を司る神霊チム=レサの精霊憑きは本当に数が少ない。
「ユシャワティンの精霊憑きの一人はロウレンティア領に、もう一人はサンセベリア領に居ることを確認した。二人ともイグマイに来たという記録は残ってない。そして、残る一人は……現在行方不明のナギニーユ・ノバーレン」
値踏みをするようにジギーがフォルテナの目を覗き込む。久しぶりに音で聞いたその名前に、一気に心拍数が上がる。チカ、とフォルテナの右手の甲が赤く光った。フォルテナは左手で右手の甲を包み込み、余計なことをするな、と強く握る。
「ナギニーユはセンナで死にました」
乱暴に新聞を畳んで、フォルテナは立ち上がった。確かにナギニーユの遺体は発見されなかった。だが、あの時戦っていた多くの精霊憑きの遺体は見つからなかったのだ。或いは、腕や足の一部しか。
それに、万が一、ナギニーユが生きていたとして、どうして人を殺すのだ。なによりも生きていれば必ず……自分に会いに来てくれるはずだ。フォルテナは自分に言い聞かせるようにして冷静さを取り戻し、ジギーを睨む。
「この事件は警察の領分です。銃だって、ユシャワティンの精霊憑きの仕業だなんてあり得ない。そんなものを作ったら精霊堕ちするかもしれないじゃないですか」
それはそうだが、と言ってジギーは胸ポケットから取り出した葉巻を咥える。
「作るだけで堕ちるもんかね。……ひとつ、警察が犯人に繋がる証拠だから伏せてある情報がある。犯人は鳥をかたどった白いマスクを付けているそうだ」
「鳥?」
黒い影が目の前を横切った気がして、フォルテナは薄く目を閉じる。自分に向かって堕ちてくる鳥。歪んだうつろな眼窩はどこを見ていたのだろう。それは二度と絶対に見たくない絶望の景色だった。
「怪事件はもっとある。一年前にミヴェでスブハ ・ シュッフェが今回と同じ弾丸で死んでいて、半年前にはヴェイアのゾナイヤ・ザッカルが謎の水死。二人とも財界の有力者だ」
ジギーは、フォルテナが畳んだ新聞を広げ直し、小さな記事を指さす。白昼夢から引き戻されたフォルテナは、新聞を持ち上げて小さな記事を読んだ。確かにジギーの言った通りのことが書いてあった。
有力者が一年のうちに三人も謎の不審死を遂げている。確かに偶然だと言い捨てることは出来ないが、やはり精霊憑きには関係ないだろうとしか思えない。
「さて、この話は一旦置いといて。俺たちの今日の仕事なんだが」
ジギーがすっと立ち上がるのを見て、フォルテナは再び畳んだ新聞をラックにもどした。
「はい」
フォルテナは頷いて立ち上がった。仕事……と聞いた途端に周囲の雑音が戻ってきて、光源が増したように目の前がクリアになる。自分の仕事、役目をこなす、それだけを考えていればいいのだ。
「この奇妙な名士連続殺害事件の裏側で、小さな殺しがあった」
ソファの前を素通りして、歩きながら話すジギーをフォルテナは慌てて追いかける。
「でも、それも警察の管轄でしょう」
「ああ。でもこっちは被害者が精霊憑きだ」
扉を開けながらジギーは囁く。明るい街の喧騒が流れ込み、今聞いた言葉が余計に禍々しく胸に届いた。ジギーはトップハットを深くかぶり直して、外階段を下ってゆく。
「え……」
思わず立ち止まったフォルテナの前で事務所の扉が閉まった。慌てて開けて外に飛び出し、遠ざかる汚れた黒い帽子を追いかける。
精霊憑きは畏怖され敬遠されてもいるが、それだけ神の欠片を宿した神聖な存在だと一般の人たちは思っているのだ。その精霊憑きを殺すことなどあるだろうか。
それに、精霊憑きの戦闘能力には個人差があるとはいえ、どんなに力の弱い精霊憑きでも、普通の人間に殺されることはまずないだろうと思われた。
何故なら、精霊憑きになった瞬間に、人より高い運動能力と高い回復力、そして長い寿命を手に入れるからだ。遠くから銃で狙われでもしたのだとしても、宿主に向けられた殺意に精霊がきづかないとは考えづらい。
フォルテナは駆け足でジギーに追いついたが、背の高さの違いで小走りしないとついていけなかった。普段は歩調を合わせてくれているということに今更気が付いた。どうしてこんなに急いでいるのだろうか。
「殺されたのは、誰です?」
息を整えながらジギーに問いかける。まさか顔見知りの誰かが、と思うと血の気が引く思いがした。失う恐怖から、以前の仲間たちほどイグマイの事務所の者たちとは親しくしていない。だが、殺されたとなれば別である。
「殺されたのはエレミタ・ベッカー。五年前に引退したじい様だ」
エレミタ……フォルテナは知らない名前だった。なんとくなく、ほっとしてしまったことを心の中でエレミタ・ベッカーに詫びる。
「シャンケルの欠片を受けてる。霊力は並み」
「並……なら、それなりの力を使えますよね? そんな人をどうやって」
シャンケルは植物と動物を司る神霊である。シャンケルの欠片持ちは戦いに向かないものが多いし。とはいえ、それに老人だったことを足してもやはり、精霊憑きがそう簡単に殺されるとは思えない。考え事をしているせいで、石畳の段差に躓いた。前のめりに転びそうになるが、くるりと体制を整える。ジギーは一瞬だけ立ち止まってフォルテナを振り返った。そのまま立っているところを見ると、どうやら待ってくれているらしい。
「焼死体で発見された」
フォルテナが追い付くと、それだけ言ってすぐに歩き始める。
「は? では、不注意からの事故じゃ?」
自分で言ったものの、火事で精霊憑きが死ぬとは余計に思いにくい。自然死した後の火災ではないだろうか……ジギーはちらりとフォルテナを見る。
「その火は、家具を燃やしていない。カーペットを焦がしてすらも。ご老人は部屋の真ん中でたった一人で、焼け死んでいるんだ。顔だけを残して」
ジギーは足早に歩きながら話す。石畳が四角く整えられたものから、徐々に雑に削られた石に変わった。街はずれまで来たのだ。ジギーはそこで足を止める。
「そんなことができるのは、精霊の力の炎だけだ」
「あり得ない」
フォルテナはキッパリと言いながら、走ってくる子供を避ける。立ち止まった自分の足音が、固い石畳に反響していやに大きく聞こえた。精霊の力で精霊憑きを殺す。そんなことをしたら、また起きてしまうではないか、あれが――。
「精霊の力を悪用すれば、精霊堕ちする。おかしな銃弾を作るのとはわけが違う。人殺しなんて……間違いなく堕ちる!」
自分の声が大きくなっていることに気が付いて、フォルテナは慌てて口を押えた。忌まわしい思い出が蘇る。壊れた街、降り注ぐ雨、そして狂ったように苦しみもがいて、すべてを壊す黒い鳥の影。フォルテナはポケットに手を入れて、銀の馬を握りしめた。
「だから、俺たちが調べに行くんだよ」
駅前の大通りより幾分か細い道を大きな馬車が走ってきた。ジギーは片手をあげてその馬車を止める。庶民の足である乗合馬車で、南へと向かうようだ。
目的地は聞かずとも着けばわかる。エレミタ・ベッカーの終の場所……フォルテナは黙って乗り込むジギーの後に続き、隣に座った。
ガタガタと揺れる安物の馬車の、小さい窓から外を流れる景色眺める。考えまいとしながら、ナギニーユが生きている可能性を考えてしまっている自分に舌打ちをする。
今から向かう殺害現場の事に集中しなくてはと思うのに、淡い期待を止めることが出来ず、フォルテナは息苦しさに目を細めた。