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月夜烏は焔に還る  作者: タカノケイ
イグマイの怪事件
6/17

五年

 暗い部屋の中で、フォルテナは目を覚ました。顔を洗って、髪を一つに結い上げる。テーブルの上に乗った籠の上に掛けられた布の隙間から手を入れてパンを一つ取り出した。

 ピッチャーからグラスに水を注ぎ、肌着のまま粗末な朝食を食べ終えた。

 トギノス機関の制服に腕を通す。悪霊を避けるために銀の装飾がたくさんついたコートは重い。もう慣れた重さのはずなのに、今日だけはいやに重く感じた。

 サイドテーブルに飾ってある純銀で出来た小さな馬を、無造作に掴んでポケットに入れる。五年前に、ナギニーユに貰ったものだ。

 

「行ってきます」


 誰もいない部屋に告げて、扉を開ける。まだ寝ている隣部屋の住人を起こさないよう、音を立てずに廊下を歩き、外に出た。春のひと月クヴォ・ルアの明るい光が街には満ちている。石畳までが昨日の雨で充分に水気を含んでキラキラと輝き、活気づいた人々が挨拶をかわす声が響き、子供たちは学校に向かって走る。

 フォルテナは通りを俯き加減に歩いた。数人の男たちが、自分を振り返るのがわかったが、声を掛けるような隙は与えない。やがて大きな時計台のある公園に付き、空いているベンチを見つけて腰を掛けた。時計は六時を指している。集会は七時からだからまだ一時間もある。

 フォルテナはただぼんやりと時計の針を見つめていた。徐々に同じ服を着た者が公園に増えてゆき、彼らはちらちらと目の端でフォルテナを見たが、声を掛けてくる者はいなかった。

 七時が近づくと、黒い服を着た一般の人々も少なくない人数が集まってきた。公園の中央に設置された演説用の台の周りでは長いローブを身にまとった人々が忙しそうに動いている。あれは神殿の神官たちだ。

 時計塔は七時五分前を指している。体格が良く顔立ちの整った男が現れて、公園内はどよめいた。男は設えられた台の上に立って手を振る。皆の注目が集まり、公園は静まり返った。


「皆様、本日はお集まりいただきありがとうございます。ロウレンティア神殿長のウォルセフ・ウィーグです。今日は、特別な日です」


 ここで、胸が詰まったというように、ごほん、とウォルセフは咳払いをした。

 ウォルセフは精霊憑きワノトギでありながら、ロウレンティア神殿の神官になったという変わった経歴の持ち主だ。センナからの避難者が多い大都市、アマランス領イグマイで行われるこの慰霊祭で毎年挨拶をしているので、フォルテナも自然と名前と顔を覚えた。


精霊トギ堕ちという恐ろしい出来事、センナの悲劇から、五年という時間が過ぎました」


 ウォルセフが告げると、観衆がざわざわと祈りの言葉を口にした。ウォルセフは静かに目を閉じて、人々の祈りに耳を傾けるようにした。そのざわめきが収まってから、再び口を開く。


「こうして集まっていただくことが、あの悲劇を繰り返さないために必要なことだと思っております。災害に巻き込まれて亡くなられた方々、また、勇敢に戦って亡くなった精霊憑きワノトギの方々が、大いなるマスカダインの流れに還ったことを祝い、神霊に祈りをささげたいと思います」


 挨拶が終わると、人々は目を閉じ、胸の前で手を組んで、再び祈りの言葉を口にする。フォルテはポケットに手を突っ込み、目を見開いたままその様子を見守った。

 ゴオンゴオンと鐘がなって、鳥が一斉に羽ばたいた。五年前のあの時間が来たのだ。フォルテナはポケットの中の銀の馬を握りしめる。


「今年の祈りの集いをこれで終了します。皆さん、どうか気を付けてお帰りください」


 家族を失ったのか、涙を流しているもの。神妙な顔で首を振るもの。あの悲劇を、悲劇で失ったものを思い出し、弔うために集まった人々がポツリポツリと公園を去っていく。フォルテナは身動きもせずそこに座っていた。


「よお、おはようさん」


 トギノス機関のコートを着たひょろりと背の高い中年男が、フォルテナの隣に腰掛けた。短いトップハットから白髪交じりの黒髪がぼさぼさと突き出していて、トギノス機関支給のコートは、これでもかというくらいに汚れ、痛んでいる。

 フォルテナが何も答えずにいると、男は咥えている葉巻をぶらぶらと揺らした。火はついていない。


「一年も組んでる相棒に向かって、つれないねえ」

「ジギー。私は今日は休みのはずですが。何の用ですか」

「なんだよ、用がなかったら声をかけ……待て待て」


 立ち上がったフォルテナを、ジギー・ザックは慌てて呼び止めた。


「用はある。休みなのに悪いが、悪霊が出たらしい。この近くだから、夕方六時にここで待ち合わせよう」

「わかりました」


 素っ気ないフォルテナの返事を聞いて、どう思ったのかジギーは肩をすくめて立ち上がって歩き去った。フォルテナはその姿を少しだけ見送ってから立ち上がった。


 センナの悲劇、と呼ばれる精霊トギ堕ち事件から、五年の月日が流れ、フォルテナは二十三歳になっていた。背も平均よりも伸びて「お嬢ちゃん」と呼ばれることはなくなった。それを、寂しいと思う日が来るなど思ってもみなかった、とフォルテナは苦笑いする。

 「何故」や「どうして」を反復して生きてきた。それでも、アルトルク火山に身を投げて死ぬ。そのことしか考えられなかった日から、もう五年が経ってしまったのだ。ましてや今日、悪夢ではない甘く懐かしい昔の夢を見て目覚めるとは。それは、悪夢で目覚めた朝よりも、ずっと諦観に近かった。


――寂しい


 フォルテナは手の中の馬を指でつまんで空に向ける。ナギニーユが助けた人に渡していた馬。受け取らなければよかった。そうすれば死んだのは自分だったのかもしれない。もう、人懐こい笑顔も少しハスキーな明るい声もおぼろになってきてしまった。

 時間は記憶を薄れさせても、思いを削ることはしなかった。むしろ、日を追うごとに苦しくなってゆく。きっと、自分はこの思いをきっと死ぬまで温め続けるのだろう、フォルテナはぼんやりと滲んだ青空に浮かぶ馬を見つめる。鳥が視界を横切って飛び去った。


「ねえ、お前のご主人様の所に連れて行って」


 もちろん、誰からも返事はなかった。


 

***



 フォルテナの前で、悪霊はうねうねとうねっていた。暗い路地裏は生ごみの匂いがする。


「ヒュ……ル……たす……け……」


 風の音のような声が響いて、フォルテナは咄嗟に耳を塞いだ。悪霊は相当に巨大化しないと声を発しない。発したとしても、それは意味をなさないものである。だから、これは幻聴なのだ、とフォルテナは自分に言い聞かせた。

 そうわかっているのに、悪霊と向かい合ったこの瞬間、必ずと言っていいほど五年前に聞いた精霊トギ堕ちの声が何故か本当に聞こえるように蘇るのだ。

 多くの友と愛する人を失ったあの日から、どんなに体を鍛えても、能力を磨いても、この声は止まない。フォルテナはポケットをまさぐって、銀の馬を握りしめた。


――大丈夫、大丈夫、大丈夫


 呪文のように唱えて、背けそうになる目をカッと見開く。悪霊の声など聴くな。私は出来る。フォルテナは意識を自分の手の甲に集中した。


「フルース! なんで一人で行動するんだ!」


 悪霊の後ろから怒鳴り声が聞こえて、幻聴が消えた。黒い靄の後ろにジギーのトップハットが見える。ジギーめ、完全に置き去ったと思ったのに無駄に足が早い……フォルテナは舌打ちをしてから、こんなことが前にもあったな、と思った。あの時現れたのはジギーではなかった。


「おい、舌打ちが聞こえたが」

「だから? ……精霊トギ、浄霊」

「お、おい待て! 捕獲でいい、捕獲だ!」


 ジギーは慌てたように叫んだ。

 五年前からトギノス機関はだいぶ変わった。その一つが、浄霊方法をロウレンティア神殿流に行うことを全神殿の精霊憑きワノトギが義務付けられた事である。

 ロウレンティア流では、悪霊を見つけ次第浄霊したりはしない。悪霊を見つけたら、まずは結界に閉じ込めて捕獲し、日が昇ってから事務所に移動する。そして浄霊専門の精霊憑きワノトギが安全な場所で浄霊する、というシステムなのだ。

 ヒヤシンス神殿付きの精霊憑きワノトギは、手に負えないと判断した場合を除いては全てその場で処理していた。ここ、アマランスでもそうだ。ロウレンティア流のやり方をフォルテナは少し……いや、かなりまどろっこしく感じてしまう。朝まで見張っている方が余程、苦痛と言うものだし、他の誰かに浄霊の代償を代わってもらうようなことはしたくない、とフォルテナは思う。


「捕獲銀を忘れました。やむを得ません」

「俺が持ってる」


 ジギーの声を無視して、フォルテナは目を閉じた。

 ジギーはイグマイに来る前はロウレンティア神殿管轄の精霊憑きワノトギだったから、捕獲の方が馴染んでいるらしく、毎回当然のように捕獲しようとするのだ。

 フォルテナの右手の甲がひと際赤く光った。それは徐々に拡がってフォルテナを包み込み、体全体が赤く輝く。


「なあ、フルスの精霊トギ、聞こえてるだろ? やめろ」


 遠くからジギーの声が響く。無駄だ、とフォルテナはぼんやりと思った。フォルテナ・フルスの精霊トギヒュンメル・フルスはフォルテナに絶対に逆らわない。案の定、ゆっくりと黒い靄状の悪霊を吸い込み始めた。

 その途端、五感を鈍らせていて尚、全身を裂かれるような痛みが広がった。苦痛に細める目の前を白と黒と赤が目まぐるしく回転する。それは徐々に黒を失い、白の無が訪れた。

 神霊の欠片により、悪霊が浄化されたのだ。痛みももうない。この瞬間だけは嫌いではない、とフォルテナは思った。


「終わりました」


 言うと同時にフォルテナは石畳に膝をついた。体の主導権が戻った瞬間、体は鉛のように重くなり、強烈な吐き気と頭痛に襲われる。


「なんで無理するんだよ」


 ジギーがあきれ顔で近づいてきて跪いた。懐から取り出した小瓶をフォルテナの口元に近づけて中身を飲ませる。強いアルコールで徐々に感覚が曖昧になる。子供のように抱きかかえられるのがわかったが、抵抗のしようもない。


「自殺行為、なんだろうなあ」


 呟きが昏い路地に流れ、フォルテナは意識が現実から遠ざかるのを感じた。

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