悪い報せ
トギノス機関の仕事は主に三つだ。
一、 死霊や悪霊を浄霊すること。
二、 死霊に憑かれてしまった人を神殿まで連れていくこと。
三、 それらの為に、切符や宿の手配をする事務仕事。
* これは主に霊力の低い精霊憑きが担当する。
ベセナートが事務局を訪れた翌日、フォルテナとナギニーユは死霊に憑かれた子供がいると言う情報から、二つ目の仕事をするために辺鄙な田舎町へと向かった。
だが、センナ事務局の守備範囲の端っこに位置するその町まで、蒸気機関と馬車を乗り継ぎ、一日がかりでやっと辿り着いたというのに、そこに子供はいなかった。聞けば、無知な母親が子供を奪われると思い込み、子供を連れて山に逃げ込んだというのだ。
「もう、じっとしてたほうがいいのに」
「仕方ないよ、探そう」
教会の教えが行き届いている都会ではあまりないことなのだが、田舎町では時々、こんなことがある。二人は一日目、二日目と山の中を捜索して、三日目も夕方になった頃にようやく親子を見つけ出した。
深い森の中の少し木々が開けた場所に、若い母親はぐったりとした少年を抱きかかえて座り込んでいる。少年の体には遠目に見てもわかる程、びっしりと赤い蚯蚓腫れが浮かんでいた。
「あれは、かなり悪いわね」
意識して冷めた顔を作って、フォルテナは隣に立つナギニーユに向かって言った。ナギニーユはつらそうな顔を隠しもせずに頷く。あの蚯蚓腫れの感じからして、少年の命は風前の灯だ。間違いなく神殿までは持たない。恐らく逃げ込んでから今まで、夜露も避けられず、飲まず食わずだったのだろう。
「来ないで」
若い母親は殊更に子供を抱き寄せて呟く。はあ、とため息をついてフォルテナは進み出た。
「トギノス機関の者です。お子さんに憑いている死霊は悪霊化する恐れがあります。そうなればあなたも危険です。どうかお子さんをこちらに」
フォルテナは片手を母親に向かって伸ばした。自分でも冷たい言葉だと思う。だが、きれいごとを言っても結果は変わらない。こんなことは精霊憑きの仕事には良くある悲劇で、いちいち気にしていたら身が持たない。母親はびくりと身を震わせてから批難するような目でフォルテナを見た。
「放っておいてください」
母親はそれだけ言うと、目を閉じて俯いた。放っておかれればどんなことになるか、この母親だって全くわからないわけではあるまい。ここで息子と心中する気かしら……フォルテナはため息をつく。
何と言われても子供は渡してもらわなくてはならない。死霊は、死んでから長い時間が経過したり、憑りついた宿主が死んだりすると悪霊へと変質するからだ。
「悪霊になっては困りますから、放ってはおけません。早くお子さんを渡してください」
「フォルテナ」
咎めるような声で名前を呼ばれ、フォルテナは険しい表情で振り返った。
「ナギニーユ・ノバーレン。あの子が死んだら憑いてる死霊が悪霊になって、母親に憑いてしまう。むざむざと彼女を死なせるつもりなの?」
母親に聞こえないよう小声で伝える。悪霊は憑りついた人間を死霊とは比べ物にならない速さで弱らせる。憑かれたらまず助からない。そして、人を殺すほどに悪霊は力を付け、浄霊が難しくなってしまうのだ。
「わかってるけど、もう少し、さ」
懇願するように言うナギニーユを見て、何もわかっていない、とフォルテナは思った。フォルテナだってどうにか出来ればしたい。でも出来ないのだから今できる最善の事をすべきだし、嘘を言っても始まらないのだ。
ナギニーユは精霊憑きになってから十年近い。フォルテナと組んでからでも三年になる。それなのに、毎回、何も知らない新人のような甘いことを言ってフォルテナを苛立たせる。
「あのね、子供と母親まで死霊になったらどうするの? 二人で悪霊一体と死霊二体を浄霊したら、代償で身動きできなくなるわよ? こんな森の中で。もう少し優しく説得する、なんて時間はないの」
フォルテナが睨み付けても、ナギニーユは困ったように微笑むだけだった。フォルテナはぷい、と横を向いた。
「じゃ、あとはナギが説得しなさいよ」
「え。無理だよ俺」
ナギニーユは慌てて手を振る。頼りないことこの上ない。フォルテナは「もう、自分は何も言わない」という意志表示に、口を固く結んだ。
ナギニーユは髪の毛を撫でつけるようにしながら若い母親の前に進み出る。少しでも信用できる風に見せようというのだろうか。だが、硬質でピンピンと立ち上がってしまっている髪はそんなことくらいでは整わなかった。
「あのう、お子さんはですね」
ナギニーユはそれだけ言って黙り込む。お子さんは悪霊になるわけではないだとか、魂は大気に肉体は大地へと還るのだから、などと言っても何の慰めにもならない。子を失う母にかける慰めの言葉なんて最初からないのだ。
「俺には助けられそうにありません。すみません」
正直に言って頭を深く下げるナギニーユを、母親はキッと睨み付けた。
すべては子供を連れ出した母親の無知のせいだというのに。フォルテナは苛立ちを募らせる。山などに入って無駄な体力を使わず適切な対応をしていれば、神殿で試練を受けることが出来ただろう。ここまで状況を悪くしてしまったのは母親自身なのだ。
「限界」
フォルテナはつかつかと母親に歩み寄る。子供を包む霊気はもうほとんど黒である。母親は座ったままでじりじりと後ずさった。ナギニーユが再びフォルテナの手首をつかむ。
『フォルテナ、待って』
「ナギ、いい加減に……トラカトル?」
フォルテナを制止したのはナギニーユの声ではなかった。ナギニーユに憑いた精霊、トラカトルの声だ。通常、精霊の声は宿主にしか聞こえない。だが、非常に稀に自分の宿主意外の誰かと会話ができる精霊がいる。
霊力の波長の相性だと言われていて、フォルテナとナギニーユに憑いた精霊トラカトルはその「稀」な間柄なのだった。フォルテナの精霊である姉はナギニーユと話せないのだから不思議なことである。
「で、何よ。トラカトル」
『マレフィタが来てるよ』
フォルテナとナギニーユは大きく目を見開いた。
「マジかよ、トラ。やった!」
ナギニーユは目を輝かせて喜んだ。
「本当?」
フォルテナは疑い深く聞き直したが、トラカトルは返事をしなかった。霊力の低いナギニーユは、トラカトルが話すだけで霊力を消耗してしまうから、引っ込んだのだろう。
しかし、いくらも経たないうちに藪がガサガサと動き、きれいな薄紫色のストレートヘアに小枝を沢山絡めたマレフィタが姿を現した。
「ナギニーユ、フォルテナ。ああ、やっと見つかった」
口元に笑みを作ったマレフィタが、いつも通りの気の抜けた声で言う。しかし、気のせいか表情が険しい。「癒し」という稀少な能力をもつマレフィタは、その力を温存するために浄霊にはほとんど携わらない。こんなところまでやって来る理由がわからず、フォルテナは困惑した。
「どうして、マレが」
「その前に」
質問するフォルテナをナギニーユが遮った。
「マレフィタ、あの子を助けて欲しいんだけど」
小声で言って、ナギニーユは親子の方を振り返った。
「うわあ、痛そうだね。わかった、やってみる」
マレフィタはすたすたと親子に近づいた。母親は拍子抜けするほどあっさりと、マレフィタに子供を渡す。普通ではありえない薄紫色の髪は神々しく、顔立ちも柔らかなマレフィタに安心したのかもしれない。
マレフィタは細く白い指をそっと子供の額に押し当てた。スミレ色の燐光がその指先にきらめく。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
みるみるうちに蚯蚓腫れが引いていき、母親は顔の前で両手を合わせて拝むようにマレフィタを見た。
「お子さんの状態を良くしただけで、死霊を浄化したわけではありません。神殿に行って神霊様の欠片を受ける試練を……」
事情は麓で聞いて来たのだろう。マレフィタは母親にゆっくりと丁寧に説明を始めた。
「これをお子さんの全身に塗ってください。街まで着いたら別の精霊憑きが神殿までご案内します」
マレフィタは手を握って離さない母親を引き剥がすようにして、二人の元へと戻った。フォルテナは疑問に首を捻る。自分たちがいるのに「別の精霊憑き」とはどういうことだろう。そもそも、マレフィタがここに来ることがおかしいのだ。
「ありがとう、マレフィタ!」
心から嬉しそうに笑って言って、ナギニーユは母親と子供のもとに向かった。どうやら、マレフィタの顔色にも、マレフィタが来るのが異常事態だということにも気づいていないようだ。いくらか元気になった子供を背負って「金属を操る」能力で鉄の馬を作ってやっている。ナギニーユはいつも、試練を受ける者に鉄の馬をお守りとして渡すのだ。
霊力も低いし、鉄だって機関からの支給品なのに、と思うがフォルテナは肩をすくめるだけにしてマレフィタに向き直った。
「ねえ、何があったの」
問いかけるフォルテナを見るマレフィタの目が怯えていた。悪い知らせだろう。しかも恐らく自分に関係していると直感的に思った。きっと、悪い知らせを告げた後のフォルテナの反応に怯えているのだ。
「……トギ堕ちが、出たの」
マレフィタは真っ青な顔で呟いた。異常を感じたらしいナギニーユが子供を母親に返して、フォルテナの隣の戻る。
「トギ堕ちって、そんな、まさか」
冗談で言っていいことではない。だがにわかには信じられなかった。
精霊憑きが神霊から借りている力を私欲の為に使うと、神霊の欠片が穢されて悪霊と化すと言われている。だから、決して力を悪いことに使ってはいけないのだと、トギノス機関の研修中にしつこいほどに聞かされた。だが、心のどこかで馬鹿にして、実際に起きるとは思ってもみなかったのだ。
「禁忌を犯したのか? 一体誰が」
ナギニーユが、マレフィタの肩を握る。マレフィタは言葉に詰まったように俯いた。長い薄紫色のまつ毛が数回上下する。乾いた唇が開いて、信じられない名前を告げた。