訪問者
はああ、とフォルテナはわざとらしく深いため息をついた。
「お姉ちゃんにはわかんないよ。美人なんだから」
言ってしまってからすぐに、フォルテナははしまった、と思った。フォルテナに憑いている精霊はフォルテナの実の姉だ。精霊などと呼ばれているが、それは死してもマスカダインの大気に還れずに、人に取憑いた死霊のなれの果てなのである。今もこうして話すことが出来ているから、ついつい忘れてしまうが姉はもう死んでいる。美しい肉体はとっくに失われてしまっているのだ。
フォルテナは黙ったまま真鍮のケトルを持ち上げる。少し回りを確認してから、自身の手をケトルの底に近づけた。
『フォリー、レンジを使って』
「お願い」
『もう』
甘えた口調で言うと、フォルテナの手のひらが火に変わった。炎の神霊イオウェズの欠片を受けた精霊憑きの中でも自らを火に変えることが出来る者は少ない。フォルテナはその数少ない一人だった。
『トギ堕ちしても知らないわよ』
「しないもん」
フォルテナは唇を尖らせた。神霊の力を自分の為に使うことは禁止されている。
浄霊ほどではないが、力を使い過ぎれば代償を伴うし、悪い――盗みや人を傷つける――ことに力を使うと「精霊堕ち」すると言われているからだ。
もちろん、フォルテナはこの能力を悪いことに使おうと思ったことはない。でも、お湯を沸かすくらいならばかまわないじゃないか、と思う。石炭レンジで沸かすよりもずっと早いし、霊力の高いフォルテナはこのくらいでは疲れもしない。
『本当に、仕方のない子ね』
生前から変わらずに姉は自分に甘い。フォルテナはふふふ、と笑った。カップ一杯分の水はあっと言う間に沸騰を始めた。
「ありがと、お姉ちゃん」
『フォリー! お姉ちゃんって呼ばないで、ね?』
叫んでから、だれにも聞こえないというのに声を潜める姉に、フォルテナは苦笑した。姉は自分がフォルテナの精霊であることを頑なに隠そうとする。父や母や元婚約者にさえも。
「誰も聞いていないってば」
『絶対に、知られたくないのよ』
姉は申し訳なさそうに呟いた。フォルテナは、またこの話か、とため息をつきながら、ティーポットにお湯を注ぐ。
「何度でも言わせてもらうけど。憑かれたのは私が一人でお姉ちゃんを探しに行ったせい。お姉ちゃんは何も悪くない」
『でも、背が伸びないのも嫌なんでしょう。トギノス機関での仕事は危険なことばかりだし。私が精霊になんかなったから』
姉は申し訳なさそうに呟く。フォルテナは十二歳の時に死んだ姉の霊に憑かれた。試練――神霊の欠片を頂いて死霊を引きはがし、浄化する――を受けて大気
に還るはずだった姉は、精霊となってフォルテナに憑いた。
そうして、精霊憑きとなったフォルテナは、トギノス機関に登録されそこで働くことになったのだ。十五になってからでも……という両親を押し切って十二歳の時から働いている。
「私、この仕事が嫌いじゃないの。それに、トギノス以外で生きることも本当は可能なんだ。私を助けてくれたあの人みたいに。皆、その可能性を考えないだけ。私はトギノスが嫌になったらあの人の所に行くよ」
『森の中で私に憑かれたときに助けてくれた人ね。ギョクロ……さん、だった?』
「ギョクロ・テンノウズ」
フォルテナはティーポットを揺らしながら、命の恩人の名前をゆっくりと口に出した。深い森の中、誰にも見つからずに死を見つめていたフォルテナの前に現れたトギノス機関に属さない自由な精霊憑き。
彼の事を死霊であった姉は覚えていないし、誰に言っても「そんな人間はいない」と笑われるから、もう誰にもこの話はしていない。でも、あれは決して夢ではなかったし、与えられた恩を忘れる気などなかった。
――精霊憑きというのはただの状態です。男である、女である、ということと何も変わらない。恐れる必要も、気負う必要もありません
どこか達観した笑顔を浮かべた、ギョクロの言葉が、精霊憑きになってからのフォルテナを支え続けている。
『それでも、本当にごめんね』
何度もこの会話を繰り返しても、姉は妹を精霊憑きとして生きるしかない体にしてしまったことをひどく悔やんでいるのだ。それほどまでに生きることに執着した自分を恥じている。父にも母にも、誰にも決して自分だとは言わないでくれ、と事あるごとに懇願するのはそのためだろう。
「あのね。もう一度言うよ? 私が精霊憑きになったのは私のせい。それに、お姉……あなたが一緒に居てくれて嬉しい。精霊憑きになったこと、悪くないって思ってる。もうこの話はおしまい。さて、楽しいデスクワークに戻らなきゃ」
『ありがとう、フォリー』
「そう、それでいいの。ありがとう、私の精霊」
笑顔を浮かべて給湯室を出たフォルテナは受付前の光景を見て固まった。老婦人は既に帰った後らしい。受付机を挟んで、マレフィタとナギニーユが楽しそうに談笑していたのだ。
ナギニーユは十五歳で精霊憑きになり、今年二十三歳だ。マレフィタよりは少し幼く見えるとしても子供ではない。細く引き締まった体をしていて、日に焼けた精悍な顔はそれなりに整っていて、笑うと途端に可愛らしくなる。
健康的な男と、美しい女は一枚の絵のようだった。自分があそこに入るとすれば、どちらかの妹、といったところだろう。フォルテナのカップを持つ手に力が入る。
「お、フォルテナ。俺にもお茶ちょうだい」
フォルテナに気づいたナギニーユがちょい、と手を上げて言った。ショックを受けた、などと絶対に知られたくない、フォルテナは気持ちを隠すために不機嫌を顔に貼りつけた。
「は? 何で私が? マレに淹れてもらいなさいよ。もう大丈夫なの?」
フォルテナはナギニーユを睨み付けるようにして言う。ナギニーユは全く気にしていないようにへらへらと笑った。
「もうすっかり。あれ、心配しちゃった?」
「全然、してないけどね。全く、その体力は少し霊力に回せないもの?」
毎回の事だが、ナギニーユは代償に散々苦しんだ後は、ひと眠りで回復してしまうのだ。マレフィタが二人を見てクスクス笑いながら、よっこいしょ、と言って立ち上がった。
「ナギニーユ、ダージリンでいいかのなあ?」
気の置けない友人と三人になると、マレフィタは突然気の抜けたような幼い話し方になった。幼い見た目を気にしているフォルテナに気を使っているのか、と最初は思ったが、どうやらこれがマレフィタの本質らしい。
半年前、精霊憑きになったばかりのマレフィタは家を恋しがって泣いてばかりいた。それをフォルテナが毎晩のように慰め続けたのが昨日のことのようだ。
あ、いいよいいよ、と言いながらナギニーユはマレフィタの腕を掴んで引き戻した。
「マレフィタは忙しいだろ。フォルテナ、カワイイからお願い。いつもので」
ナギニーユはフォルテナにへたくそなウィンクを投げてよこした。それを見たマレフィタは書類で顔を隠してくすくすと笑い、はあ、と息をついてフォルテナに意味ありげな笑顔を向ける。
「うん。実は今日中に出さなきゃいけない書類があってね。フォルテナに頼んでいいかな?」
「……私だって忙しいんだけど」
憎まれ口を聞きながら、ふたりにくるりと背を向けて、フォルテナは給湯室に戻った。鍋にミルクをあけて、アッサムの缶を手に取る。ナギニーユは、男のくせに甘いミルクティが好きなのだ。
「全く、子供みたいなんだから」
思わず口走ると、姉が声を抑えてくすくす笑うのが聞こえた。
「何よ」
『カワイイだってよ』
「うるっさい。あんなの妹扱いしてるだけ」
火照る顔の言い訳にしたくて、フォルテナは強火でなべ底を温め始めた。茶葉を直接鍋に入れてかき混ぜ、砂糖を入れる。網で濾してカップに注ぐと甘い香りが漂った。
「よし」
出来上がったミルクティの入ったカップを手に給湯室を出ると、今度はマレフィタがいなくなっていて、代わりにナギニーユが受付に座り、猫背の男性と話をしていた。
「ベセナート!」
丸い背中の持ち主に思い当り、フォルテナは弾んだ声をあげた。ベセナート・ベルデンは、センナの南、ミヴェの事務局にいる精霊憑きだ。三年前までは、ここセンナに所属していてフォルテナと組んでいた。元相棒であり、六年前に亡くなったフォルテナの姉の婚約者でもあった。
「やあ、フォリー。久しぶりだね。大きく……なったね」
「今の間は何? ひどい」
フォルテナはナギニーユにカップをわたし、どん、とベセナートに体当たりをして笑った。ナギニーユがその様子を見て、目を細めて笑う。
「でかいですよー、態度はね」
「ナギ!」
ナギニーユを睨み付けようとするものの、兄と慕うベセナートの来訪が嬉しくて、どうしても頬が緩んでしまう。ベセナートは、はははと声を上げて笑った。細い目がさらに細くなり、なんとなく困り顔にも見える笑顔は、見た人に安心を与える。
「お茶を煎れてくるから待ってて、ベセナート」
「あ、いいよ。急いでるんだ。はい、これ」
ベセナートは可愛らしい包みを懐から取り出す。見覚えのある包み紙だった。いつ遊びに来てもベセナートはこの店のクッキーを買ってくる。姉の大好物だったのだ。
「いつも同じので悪いんだけど、これしか思いつかなくて」
ベセナートは恥ずかしそうに頭を掻いた。
姉が婚約者としてベセナートを家に連れてきた時、このおじさんのどこを好きになったんだろう、とフォルテナは思った。
姉は美人な上に気立てがよくて、結婚の申し込みは引きも切らなかったのだ。優しそうではあるが精霊憑きなどという、一般にはあまり歓迎されない仕事をしている、冴えない中年男。どうしてわざわざこれを選んだのだろうと不思議だったのだ。
しかし、今ではその理由が良く分かっていた。ベセナートを取り巻く空気は、とにかく温かくて優しい。そして、亡くなってから六年経っても、こうして妹に会いに来るくらい、姉の事をまっすぐに愛していた。姉は彼の他に換えがたい美点をきちんと見つけられる人だったのだ。
「ううん、私もこれ大好きだから」
フォルテナは紙包みを胸に抱く。右手の甲がほんのり温かい気がした。姉の願いで、ベセナートはフォルテナの精霊が姉であることを知らない。でも、なんとなく気が付いているのではないか、と思う。
「じゃあ、これで」
ベセナートは微かに微笑む。その笑顔がいつもより薄く、なんだか血色が悪い気がした。
「え、もう? ベセナート、なんだか随分疲れてない?」
フォルテナはじっとベセナートを観察する。
「うん、ちょっと浄霊が続いちゃってね。実は休暇を貰って実家に帰ってきたところだったんだ」
「そっか。じゃあゆっくり休んだら、帰りにまた寄って。パイを焼いておくから」
ベセナートが好きだった、姉特製のパイを焼こう。姉と一緒に。フォルテナは努めて明るく言った。
「ああ、嬉しいな。本当に……同じ味だから」
ベセナートは言葉に詰まったようにして目を光らせ、無言で二人に背中を向けて歩き出した。
「忘れないで取りに来てね!」
背中に叫ぶフォルテナに片手をあげて応じて、ベセナートの背中はドアの向こうの雑踏に消えた。消えてしまってから、実家に帰るだけなのにどうして急いでいたんだろう、とフォルテナは首を捻った。