再会
能力が切れると、すぐに落下が始まった。フォルテナは地面までの距離に絶望しつつ、ここで終わりだと冷静に思った。
――さようなら
誰に対してかもわからない別れを心の中で告げた瞬間、何か冷たいものが腰に巻き付くのを感じた。それが何かを確認する間もなく、強く後へと引っぱられる。
フォルテナは何者かにしっかりと受け止められた。恐らくジギーであろう、と思った。振り返って確認する間もなく、たん、と音がして屋根の上にエティアが降り立つのが見えた。ぐらりとよろめいて片膝をつく所を見ると、恐らくは霊力切れだろう。どうやら能力との同化時間はフォルテナよりも短いらしい。エティアはもう力は使えないだろうに、無表情でこちらに手を向けた。
これ以上、力を使うのはまずい。
「……やめて! 精霊堕ちしてしまう!」
フォルテナは叫んだ。エティアは驚いたような顔をしてから、軽やかに笑った。その笑顔には皮肉も何も含まれていない。今までの無表情とは打って変わった無邪気過ぎる表情を見て、フォルテナの二の腕に粟が立った。どこかでこの感覚を感じたことがある、と思う。
「優しいんですね。でも、精霊堕ちはしないんですよ」
顔に似合わない落ち着いた声だった。怒鳴っているわけでもないのに、かなり離れているここまではっきりと聞こえる。
春の強風にエティアのまだ細い髪が空に舞った。それはどういうことか、と聞き返す前に、フォルテナは後からマントで覆われた。そう言えばジギーに抱えられていたのだった、と思い出す。
「待って! 私はあの子に話が」
フォルテナが叫んでも、ジギーは返事もしなかった。諦めて体の力を抜くと、移動が始まった。ブランコに乗っているような浮遊感が続く。
「ちょっと!」
叫んでももがいても、抱きかかえられる腕の強さはぴくりとも揺るがない。仕方ない、と体の力を抜いた。
――ジギーじゃ……ない!
落ち着いてみて気が付いた。後ろにいる人物は、ジギーよりずっと背が低いし、煙草の匂いがしない。
「誰だ……? 離せ!」
一体、誰だ? 味方なのだとすれば、何故、名乗らない? フォルテナはなんとか逃げようともがくが、代償で思うように体が動かないし、この状態で男性の力に敵うわけがない。
もがいているうちに移動している感覚が止まり、足が木の床に着いたのがわかった。男はあっさりとフォルテナを離し、目の前を覆っていたマントが取り除かれた。
フォルテナはふらつく足に精一杯の力を入れて立ち、状況を確認する。そこは、よくある安宿の部屋の中だった。
「えっと」
後に居るのは男で、自分は裸である。だが、他にどうしようもない。フォルテナは思い切って振り返った。誰だ? と尋ねようとしていた口が半開きのまま止まった。
「ナギ」
声に出したつもりはなかった。
ただ、胸の中心から迸るように声が出た。まるで、自分の心が話したようだとフォルテナは自分の声をぼんやりと聞いた。
目の前の男は黒づくめの服に黒いマントを羽織り、おかしな白い鳥の仮面を付けている。それでも、髪の色、頭の形、耳の形、肩の線、そして腕。
見間違うはずがなかった。
「ナギ」
再び、心が名前を呼んだ。自分の目に涙が溜まって流れたのがわかった。目の前のナギニーユが、ちがう、と言うように首を振ってあとずさり、窓に向かう。行ってしまう、と思った。止めなくては、と思った。だが、何を言えばいいのかわからない。
「ごめん」
フォルテナは擦れる声で謝った。
奇妙な弾丸による殺人事件の話を聞いてからずっと、期待をしないようにしていた。ナギニーユが生きているかもしれないと考えることをしないように努め、もしもナギニーユに再び会うことが出来たなら何を言おう、などと想像しないようにしていた。
しかし、どんなにそう思おうとしても「もしかして生きているのかもしれない」という期待は消えなかった。同時に何で、何が、どうして、心に渦巻きだした思いはこんこんと胸に溜まり、溢れ出す寸前だった。そんな、たくさんの言葉を押しのけて、口を突いたのは謝罪の言葉だった。窓に手を掛けたナギニーユの動きが停まる。
「ごめん、ナギ。許して、ごめん。あたしが」
その声を聞いたナギニーユが、ゼンマイ仕掛けのような動きで振り返った。
「フォル……テナ?」
不思議そうに名前を呼ぶ懐かしい声は、フォルテナに安堵をもたらした。気が抜けて倒れるフォルテナを、ナギニーユが慌てて戻ってきて支えた。そのまま抱きかかえられて、そっとベッドに寝かされる。
「お願い。置いて……行かないで……」
フォルテナは最後の力を振り絞って、ナギニーユの服の裾を掴んだ。何故か、ナギニーユはまた居なくなってしまうのだ、と思った。
「なんで……俺」
ナギニーユはそう言って、苦しそうに頭を振る。
どうしたの、なんで苦しそうなの? そう聞きたかったのに唇が動かなかった。代償で起き上がることもできないフォルテナは、そのまま意識を失った。
*****
半ば覚醒し、宿屋の天井が目に入った瞬間、フォルテナは気を失う前の事を思い出して飛び起きた。そこは気を失った時と同じ部屋で、目の前の椅子にはジギーが座っている。
「ジギー! ナギは? ナギニーユはどこに!?」
ベッドに膝立ちになって、フォルテナはジギーに掴みかかった。
「落ち着け。それに、今は俺が怒るターンだから」
「何を言って! 居たんですよ! ここにナギニーユが! ……探しに行きます」
フォルテナは、ジギーを離してベッドを降りようと向きを変える。立ち上がろうとした瞬間、パン、とフォルテナの頬が鳴った。音のあとからじんじんと痛みが来た。
「……どれだけ、心配したと思ってるんだ」
抑えた声で言われて、フォルテナは身動きが出来なくなった。叩かれて横を向いてしまった顔を戻したら……あり得ないことだと思いつつ、ジギーの泣き顔が見えるような気がして怖くて動けなかったのだ。
ジギーの精霊はジギーの娘だと、この町に来る汽車の中で知った。ジギーは過去に娘を亡くしているのだ。憑りつかれたということは、その死を一番最初に、一番近くで見たということだ。
自分を探す間に、ジギーが味わった気持ちは想像に易い。
「勝手に動いて……すみません……でした」
やっとで声を出して、フォルテナは恐る恐るジギーを見る。ジギーは泣いてはいなかったし、既にいつも通りの顔をしていた。それに安心したフォルテナはしゃんと背筋を伸ばす。
「軽率だったと思うし、それは謝ります。でも、私はナギニーユを探したい」
「今から探しても無駄だ。動ける体調でもないだろう? 仕切り直せ。それより、何があった?」
ジギーはそう言って、両手で顔を覆ってから擦った。
そう言われてしまえば、確かにどこをどうやって探せばいいのかわからない。歩く体力すら残っているか怪しいのも間違いない。気持ちだけでは何もできないことが、自分の非力さが痛いほどにわかった。
「わかりました」
フォルテナはシーツを握りしめて答える。ジギーは、ちらりとフォルテナの頬を見て、申し訳なさそうに少し眉を下げた。
「……悪かったな。あとで氷を持ってこさせるから」
大丈夫です、と首を振りながら、フォルテナは昨夜からの事を全て報告した。痛んでいないから気にしなくていい、というアピールでもあるし、必要な報告だからだ。
「本当に、ふたつの能力を使ったのか? もう一人いたのではなく?」
「はい」
「弾丸、ゾーミエの死因は水。エレミタが火、それにお前が昨夜聞いた苔。そして俺が聞いた噂では、崖崩れでも死んだらしい」
うーん、と一言唸って、ジギーは無精ひげを撫でる。
それもそうである。それらすべてがジギーの思うように精霊憑きの仕業であるなら、金属を司るユシャワティン、水を司るフラサオ、炎を司るイオヴェズ、植物を司さどるシャンケル、そして土を司るクヴォニス、と五人の精霊憑きが関わっていることになる。
だが、一人で二つも三つもの欠片を持った精霊憑きがいるのだとしたら? ありえない、と思うが、フォルテナは確実に見たのだ。あの少女は自分の体を蔦に、そして空気に変えた。フォルテナが自分以外の誰かを炎に変えられないように、他人の姿を自分の能力に変えることが出来るものがいるとは思えない。
……いや、あり得なさではどちらもあまり変わらないのかもしれない。
「とりあえず、お前が回復次第、イグマイに戻ろう。その前に少しやることがあるから、お前は大人しく回復に専念すること、いいな?」
ジギーは「こうしていても仕方ない」というように立ち上がった。フォルテナもそうするべきだと思った。これは早めに事務局長なり、神殿なりに報告すべき事案である。
「はい」
素直に頷くと、ジギーは少し屈んで、よしよし、とフォルテナの頭を撫でた。いつもなら全力で逃げるのだが、今日はされるままにした。させてやっている、という思いの裏側で、少し心地よいと思っている自分に驚く。
ジギーの大きな手が離れて、元々は黒かったのに、今ではほとんど灰色になっている機関服が遠くなる。ナギニーユを探してほしい。叫びたいほどの思いを心の中でだけつぶやいて、ある事を思い出した。
「ジギー! もう一つ!」
歩き出したジギーの腕をつかみ損ねて、フォルテナは転ぶようにベッドを降りた。ジギーが何事か、というように振り返る。
「私の機関服が、孤児院脇の林の中に置いたままなんです!」
「機関服? また支給してもらえばいいだろう? 今は取ってくる時間が惜しい」
いつもより強い口調で言われて、フォルテナは俯いた。
ジギーの髪はいつも通りにボサボサだが、昨夜後ろで結んだあとがまだ残っている。恐らくは入浴も出来ないくらいに忙しかったのだろう。
諦めなくてはいけない。あの服のポケットには、ナギニーユに貰った銀の馬が入っているけれど、ナギニーユが生きていたのだから。それにジギーだって危険かもしれない。
「はい」
フォルテナは諦めて顔を上げて返事をした。ジギーはため息をついて、フォルテナを見た。必死で取り繕ってはいるが、自分はさぞかし情けない顔をしているだろう。
「わかった。必ず持ってきてやるから、外に出るなよ?」
口の端を上げて笑うジギーに、涙が出そうになるくらい安心して、フォルテナはありがとうございます、と頷いた。そして、露になった自分の太ももに気が付く。
「ジギー……私の服はジギーが?」
「服? なんのことだ?」
不思議そうな顔でジギーは言って、フォルテナを上から下まで見た。裸だったはずのフォルテナは、いつの間にか男物のシャツを身に着けていた。シャツ一枚で、その下には肌着さえも付けていない。
「な、なんでもありません!」
フォルテナは、慌ててベッドに戻り、毛布の中に潜り込んだ。
――裸を見られた
ということは、この服を着せたのはナギニーユなのだろうか。これはナギニーユの服なのだろうか。今更、恥ずかしさに襲われ、抱き上げられた時に見たナギニーユの耳が真っ赤だったことを思い出した。
「何だかわからんが、とにかく大人しくしてろ。部屋から出るなよ?」
フォルテナは毛布を頭まで被ったまま、くぐもった返事をする。ジギーは時間がないと言ったくせに、しつこいくらいに「外に出るな」と念を押してから、部屋を出て行った。
静かになった部屋の中で、フォルテナはシャツの袖口で顔を覆って、深く息を吸い込む。シャツからは懐かしいナギニーユの匂いがした。
日向の砂のような、猫のような匂い。じわりと涙が浮かぶ。
――背が追いついてた。それでも、ナギニーユの方が少し高かったかな
フォルテナは、もぞもぞと顔を出して、ナギニーユが立っていた空間を見つめた。
ナギニーユの背の高さを思い出そうとする。
――フォルテナ
ナギニーユが大人になった私に気づいた。そして名前を呼んでくれた。痛いくらいに頬が熱い。顔が見たかった……そう思って気が付く。ナギニーユは、何故、鳥の仮面を被っていたのか。
――犯人は鳥をかたどった白いマスクを付けているそうだ
ダウロン・バセッサを「あり得ない形の弾丸」で撃ち抜いて殺した犯人は、鳥のマスクを付けていたという。
「わからない。なんで」
フォルテナは目を見開いて呟いた。生きていた喜びと、なぜ会いに来なかったという不満が、ナギニーユは一体何をしているのだ、という不安に塗りつぶされていった。