鉄の馬
フォルテナとジギーは、イグマイからヴィーチム河を超えてサンセベリア領ユーテルプに向かう汽車に乗り込んだ。
イグマイとユーテルプのちょうど中間あたりに位置する駅で降り、そこから馬車で半日ほど、イグマイからヴェイアまではほとんど一日がかりの移動になる。
フォルテナはぼんやりと窓の外に目を移した。どうやらあまり良い掃除夫を雇っていないらしい。汚れを角を残して丸く拭かれている。汽車は青嵐のように野を駆けてゆき、円の中を飛び去ってゆく緑が目に眩かった。
「ジギーの精霊って誰なんですか」
質問したことに自分で驚いて、フォルテナは目を見開いた。ぼんやりと流れる景色を見るうち、気が付いたら口をついていたのだ。フォルテナから、仕事以外のことで話しかけることが珍しいことだし、質問の内容があまりにも突然だ。ジギーもそう感じたらしく、不思議そうな目をしてフォルテナを眺めた。
「なんだよ、急に」
「いや、特に意味はないです」
余計なことを言ってしまった。恐らくはニヤニヤと笑ってバカにするだろう。そう思ったのに、ジギーは意外にも真剣な顔で身を乗り出した。
「人に興味が湧いたならいい傾向だけどな」
「別に興味があるわけじゃありません。もういいです」
馬鹿にはされなかったが、自分の事をわかったように言われるのも癪にさわる。腹が立つということは当たっているからなのだが、何もかも見透かされていると認めるのは面白くない。
「娘だよ。まだ十五だった」
何事もないようにジギーは一口に言った。フォルテナははっとしてジギーを見つめる。ジギーの声には痛みも苦痛も含まれてはいなかった。顔にも目にも、何の感情も現れていない。
フォルテナは先日送られたクマのぬいぐるみ、クマゴロウの元の持ち主に思い当った気がした。そんな大切なものを、と思うが、今更返すというのも失礼な事なのだろうか。自分はこんな時に何もわからず、何も言えない子供なのだと思い知らされる。
「すみません」
思いつかないまま謝罪の言葉を口にした。その声が掠れてしまったこともまた情けない。
「気にするな。最低の親だ。悲しむ資格もない」
ジギーは、背もたれに寄りかかって目を閉じる。眉間に刻まれた深い縦の皺を、フォルテナは初めて見たような気がした。ジギーはこんな顔をしていたか? 思えば、フォルテナはジギーがいくつなのか、どこの出身なのかすら知らない。
資料をパラパラと見るだけでいいにも関わらず、だ。ジギーはフォルテナの資料の家族欄にたった一行しか存在していない姉のことを把握していたというのに……フォルテナは改めて、人と関わらぬようにしてきた五年間を振り返る。
姉を信じられず、すべてが信じられなくなっていた。失う恐怖もまた、人に踏み込むことを躊躇わせた。なんと愚かで弱いのだろう。恥じ入るような気持ちで窓の外を流れていく景色を見つめた。
通り過ぎてゆく景色の中にすら、人が居て生活があって、かけがえのない人生があることを、決して忘れまいとフォルテナは思った。
****
汽車を降り馬車に揺られて、日もだいぶ傾いた頃にフォルテナとジギーはヴェイアの街に辿り着いた。
ちょうど夕飯の時間らしく、大通りに並ぶ食堂からは美味しそうな香りが漂い、陽気な話し声が響いている。鉄鋼業で栄えた街らしく、力強さと共に一種の猥雑さも感じさせる街並みだった。
陽気な声の中には、怒鳴り声が混ざる。街角にはこの埃っぽい街のどこから湧いて出たのか、と思うくらい小奇麗に着飾った女たちが立ち、鍛えられた体つきの男たちが品定めするような視線を送る。
そんな通りを抜け、街の中心に近づくと街並みは清潔さを増した。着飾った女たちの顔は安全な生活を約束されているもののそれに代わり、男たちは真新しいコートに、日に当たっていない白い顔を乗せている。それまで黙って歩いていたジギーがフォルテナに振り返った。
「ヴェイアの事務局に顔を出してくるから、宿を手配しといてくれ」
「わかりました」
一緒に行かなくてもいいのだろうか、という疑問が浮かんだが、提案を受け入れてフォルテナは立ち去るジギーを見送った。
フォルテナはセンナの悲劇以降、精霊憑きたちの間では名前が知られてしまっている。名前を言った途端に、憐憫の表情を浮かべられたり、何も知りませんという顔で目を逸らされるのにはうんざりだった。顔を出さなくていいならありがたい。
ジギーとしては宿の手配と、事務局への挨拶、どちらが面倒かを天秤にかけて、面倒の少ないほうを取ったまでのことだろうから、感謝する必要もないかもしれないが。フォルテナはジギーと別れて、宿の看板を探しながら大通りを歩いた。
「あれ」
ふと、目に留まったものに吸い寄せられるようにフォルテナは道を横切った。身なりのいい二人の子供が、小さなおもちゃを取り合っているのだ。親たちは小さな兄妹が起こしている騒ぎが気にならないのか、もはや諦めたのか、あらぬ方向を向いている。使用人らしき男が小声で宥めているが、子供たちは収まらない。
恐らくは家族で出掛けた帰りで、迎えの馬車を待っているといったところだろう。
「ねえ、ちょっと見せてくれない?」
フォルテナが声を掛けると、子供たちは驚いたように顔を上げて静かになった。親はちらりとフォルテナを見たが、トギノス機関の制服の効果で「ジグ、ナル、お姉さんに見せておあげなさい」と子供たちを促した。
よく、この騒ぎを納めてくれたと感謝しているのが顔に表れている。フォルテナが微笑むと、子供は自慢するようにおもちゃを差し出した
――間違いない。ナギの馬だ
それは、ナギニーユが、死霊に憑かれた人を助けるたびに「お守り」だと言って手渡していた鉄の馬だった。正確にはトラカトルが作ったもので、とても愛嬌のある顔が特徴的で見間違うはずがない。
「ありがとう。すごく可愛い馬ね。大事なの?」
「うん! あのね……」
フォルテナが馬を返すと、二人は笑って頷いた。子供が何か言いかけたところに、一台の豪華な馬車が通りかかる。
「ああ、ここだよ! 止まって! 全くこれだから新人は!」
使用人の男が叫びながら追いかけて、馬車はだいぶ通り過ぎてしまってから止まった。男はぶつぶつと文句を言いながら、主人が買ったのであろう荷物を移動して積み込む。
やがて、そんなアクシデントさえも楽しそうな家族を乗せて馬車は走り去った。あの家族の誰かを過去にナギニーユは救ったのだ。今あの家族が笑顔でいるのは、ナギニーユが確かにそこに居たからなのだ。
――意味はあるんだ
静かな感動がフォルテナの胸に広がり、涙が零れそうになる。ナギニーユに伝えたいと思った。知ったら、どんな顔をして笑うだろう。あたりまえのことをしただけだよ、というだろうか。
幸せな気持ちに蓋をして、フォルテナは目的に戻った。このまま、ナギニーユの事を考えていたら、会いたい気持ちと寂しい気持ちで身動きが取れなくなることを知っている。
とりあえず、目玉が飛び出るほど高いであろうホテルを横目に、きらびやかな大通りを少し外れた。そこで一番最初に目に入った宿に入り、二部屋の予約を入れる。
「こんな時間からじゃ飯は用意できねえから、外で食ってきてくれ」
宿の主人は横着に言って追い払うように手を振った。つん、とアルコールの匂いがして、フォルテナは眉を寄せる。別の宿にすればよかったかとも思うが寝るだけなら大差あるまい、と宿を出て数歩も歩かぬうちに、背の高いジギーのトップハットが目についた。
「ジギー、宿はそこ。夕飯はでないそうです」
「ああ、調べながら食おう。その前に着替えないと」
珍しいこともあったものだ、と思いながらフォルテナはジギーに頷く。組んで一年、食事を一緒に取るのは初めてだった。
しかも着替える、というのはトギノス機関の人間であると知られずに調べたいということだろうか。ジギーは髪の色が全く変わっていないし、フォルテナの髪はあの日から何故か段々に赤みが消えて、今ではカッパ―ブラウンと言える色合いだから、トギノス機関の制服を着ていなければ精霊憑きには見えないだろう。
しかし、そうする必要性がわからない。そこで、フォルテナははっと気が付いた。
「私服を持ってきていません」
部屋着は持ってきている。だが、日中はトギノス機関の制服で過ごす予定だったから、食事に行けるような服は持ってきていなかった。
「そんなことはわかってるよ。ついて来い」
さっさと歩き出すジギーの後を追うと、一軒の高級な仕立て屋に臆面もなく入っていった。明るいショウウインドウに布がふんだんに使われたドレスが飾られている高級ドレスの店だった。
よく、あの汚い帽子とコートを着て、こんなに綺麗な店に入れるものだと感心しつつ、慌てて追いかけて店内に入った。
「ジギー、出よう。ここは違う」
小声でささやいて、ジギーのコートの裾を引く。どう見ても、フォルテナ好みのシンプルな服を売っているような店ではない。それどころか、自分とジギーが店の雰囲気にそぐわないことが恥ずかしくて、居ても立っても居られない。
「この娘の夜会用のドレスを。今すぐ使うから適当に合わせてくれ。髪と化粧も頼む。……ああ、靴もだ」
何を言い出す、とフォルテナは唖然とした顔でジギーを見たが、店員はもっと胡散臭そうに二人を見ていた。精霊憑きで親子? と思っている以上に、支払いを気にしているだろう。
「あの、お支払いはトギノス機関で?」
案の定、店員は遠慮がちに問いかける。
「いや、俺個人が払う。……これで、間に合うか?」
ジギーは懐から金貨を数枚出して、カウンターに置いた。途端に、店員の目の色が変わる。フォルテナも目を見開いた。フォルテナの給料の数か月分……いや、一年以上と変わらぬ額だと思われる。
「ザッカル家のパーティにご出席ですか?」
「そうだ。仕事が長引いて慌てて出てきたんだが、うっかりドレスの入ったケースを忘れてきてね。何とかなるか?」
ジギーは滑るように嘘をつく。店員は金貨に目がくらんだのか、その信じられないような話を信用することにしたらしい。お困りでしょう、ええ、と何度も大きく頷いた。
「お嬢様は少し背がお高いですね。いや、でも痩せているから何とかなります。お任せください。少しお待ちくださいね!」
店員は揉み手をしながら店の奥へと小走りで消えた。大きなシャンデリアが、店中に配置してあるだいしょう様々な鏡に反射している。知らない世界に迷い込んだようで、フォルテナは心細くて仕方がない。
「ジギー、一体何を考えているんだ。パーティーとは何だ」
周りに聞こえぬよう、小声でジギーを詰問する。
「潜入調査だ。それに、年頃の娘なんだから、たまには綺麗にするのも悪くないだろう。俺も準備があるからここで待ってろ」
戸惑うフォルテナを残して、ジギーは店を出て行ってしまった。一体、どこに潜入するのか。まさか本当にザッカル家のパーティに向かうわけでもあるまい。
為す術もなく視線を彷徨わせると、店員が極上の笑顔でフォルテナを見つめていた。
「さあ、こちらへどうぞ、お嬢様!」
フォルテナのほかに客はいなかった。それに、金を余るほど渡されて「好きなように」などと依頼されるのは珍しいのだろう。ほとんど店の人員総出となって、ああでもない、こうでもないとフォルテナを飾り付ける。
大きな髪飾りや派手な耳飾りを必死で拒んでも、一時間後には馬車の窓にしか見たことのないような「お金持ちのご令嬢」が出来上がってしまった。
「ああ、きれいですよお嬢様」
「肌がお綺麗ですのね、さすが精霊憑きさま」
「姿勢もよろしいですから」
口々に褒めたたえられて、フォルテナは居心地の悪さに縮こまった。普段、褒められ慣れていないせいで、どうしたら対応したら良いのかわからない。まるで、小さな子供に戻ったようで恥ずかしかった。
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ」
店の入り口から客を迎える声が響いて、店員たちが全員で復唱する。そこには黒いイブニングコートを着た男が立っていた。白髪の混じった長い髪を後ろで一つにまとめている。背が高く、姿勢が良くて、なかなかに綺麗な顔立ちをしていた。
「よお、見違えるじゃねえか」
「……ジギー!?」
にやりと笑った口元は確かにジギーのものだ。ボサボサ伸び放題の前髪と帽子に隠されていた目は大きく切れ長でセクシーと言っていいだろう。女性の店員が見惚れているのがわかる。
「いくぞ」
ジギーが手を腰に当てて言った。腕を組めというのだろう。
「ふざけないで」
フォルテナはそれを押しやる。店員がそんな二人を微笑ましい、という顔で見ていて、フォルテナのうんざりに拍車がかかる。
「まあまあ、さっきまではとても緊張していたのに、やっぱりお父様がいらっしゃるとお顔が違いますね」
「は!?」
「なんだ、不安だったのか」
ニヤニヤと笑うジギーに背を向けて、フォルテナは早足で店を後にした。