友だち
近所のコーヒーハウスで豆のスープとバケットを買って、フォルテナは宿舎に戻った。早めの軽い夕飯をゆっくり取って、紅茶を啜りだす頃には頭も随分とすっきりしてきた。手早く食器を片付けて、ふう、とベッドに腰掛ける。
「ねえ、お姉ちゃん」
姉を呼んでみるが反応はない。人差し指を立てて「精霊」というと指先にポッと火がともった。ジギーの置いていったクマのぬいぐるみを抱えて、向かい合うように自分の膝の上に置く。今日一日、ずっと考えていたことを頭の中でまとめる。
「クマゴロウ、これは独り言なんだけど」
フォルテナは目の前のぬいぐるみに語り掛けた。
「ずっと、ベセナートは何をして精霊堕ちしたのか、って考えてたんだ。ううん、考えるふりだけしてた。ベセナートが盗みなんてするはずがない。もちろん、誰かを傷つけることもあり得ない。でも今日は、ベセナートがどうしても欲しいもの、とか、どうしても許せないことってところから考えてみたの」
フォルテナは右手の甲を見つめる。義理の兄になるはずだったベセナート。自分はまだ幼かったし、良く知っているとは言えないのかもしれない。でも、どんなに自暴自棄になったとしても彼が悪いことをするところは想像が出来なかった。でも、もし……フォルテナは左手でぎゅっと右手を握る。
「そしたらね。お姉ちゃんの死と関わってるんじゃないかって思ったんだ。お姉ちゃんが森で迷って死ぬなんて絶対におかしい。ねえ、お姉ちゃんはどうして死んだの? 誰かに何かされたの? なんであの時、ベセナートを浄霊してくれなかったの?」
フォルテナはクマゴロウをぎゅっと抱きしめ、右手の甲を耳に当てる。
「本当の事を知りたい。こんな風にベセナートとお姉ちゃんを恨んでるふりをするのはつらい。苦しいよ」
五年間、姉などいないように振る舞ってきた。裏切られたと思い続けていた。でも、そんなはずはないと心のどこかで、わかっていたような気がする。
どうか、姉自身の口から違うと言ってほしい。あのことには意味があったのだと、言ってほしかった。
「お願い」
フォルテナは縋るように呟いた。夜が訪れて、カーテンにはまだ賑わいの去らない街の灯りが仄かにうつり込んでいた。
やがて喧騒は過ぎ去り、ガス灯の灯りだけが、外から丸くカーテンを照らす。いくら待っても、姉からの返事はなかった。
――恐れる必要も、気負う必要もありません
恩人の言葉を思い出しながら、フォルテナはしっかりと確認する。私は信じる。姉は絶対に意味もなく私を裏切ったりしない。ベセナートを苦しみから解放するために、喜んで浄霊するはずだった、と。何かが姉を止めたのだ。
「お姉ちゃんが何も教えてくれなくても、助けてくれなくても、私はきっと真実に辿り着くから」
真っ暗な中、ベッドに横たわろうとするとランプの火が静かに灯った。ベッドにもぐりこむと、遠い日に姉が吹き消してくれたのとまるで同じようにランプが消えた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
フォルテナは眠れそうにない夜に、そっと目を閉じた。
***
もう何度目かの寝返りを打って、フォルテナは起き上がった。やはりどうにも眠れそうにない。明日は遠出だからしっかり眠りたいのに、と思いながら寝巻の上にガウンを羽織って部屋を出た。
ギシギシ行ってしまう階段をなるべく音をたてないようにして降りる。宿舎は古いホテルを改造したもので、玄関を入ってすぐの空間は、四人掛けのテーブルが三つほど並んだ小さなサロンになっている。
奥にある受付に座っていた宿直の管理人がフォルテナを確認して、本に目を戻した。
「フォリー!」
突然、高い女性の声が反響した。何事か、と顔を向けた瞬間にフォルテナは紫色の波に浚われた。廊下に仰向けに倒れそうになって、慌てて壁に手をつく。
「マレ!?」
紫色の波の正体、マレフィタ・モスティフは、フォルテナに抱きついたまま、顔を上げてにっこりと笑った。
「フォリー、本当に大きくなったんだね。こないだは並んでたのに、もう私より大きい」
笑顔で細められた目から、涙がひとすじ零れ落ちた。マレフィタは五年前の事件後、ロウレンティア神殿付きになった。癒しという貴重な能力が買われたのだ。手紙では頻繁にやり取りしていたものの、実際に会うのは実に三年ぶりだった。
「どうして、ここに?」
「フォルテナに会いに」
決まってるじゃない、といわんばかりの笑顔でマレフィタは笑う。フォルテナはそういうことじゃないんだが、と苦笑して傾いた体を起こした。マレフィタはまだフォルテナにしがみ付いたままだ。
「あー、そうじゃなくてどうしてイグマイに?」
「それは内緒。お仕事だからね。今日はここに泊めてもらうことにしたの」
マレフィタはお道化て人差し指を口の前に立てた。何の仕事だろう? という疑問は残るが、豪華なホテルも用意してもらえるだろうに、自分に会うために宿舎に宿泊してくれたことが嬉しい。
「マレ、彼女が困ってるよ」
マレフィタの後ろから、ハスキーな声がした。同時に、マレフィタの体がフォルテナから離れる。声の主がマレフィタの肩を掴んで引き離したのだ。
「ごめんね。私はマレの相棒のゼキア。ゼキア・フェスランテ」
ゼキアは気取った様子で髪を掻き上げる真似をする。だが、ゼキアの髪は刈り込んだ、と言っていいくらいに短い。ふんわりと柔らかそうに頭を包んでいるクセのある髪は真っ赤で、フォルテナと同じ、炎を司る神霊イオウェズの欠片を受けているのだろう。必要のない動作を優雅にやってみせてから、ゼキアはくくく、と笑った。
「マレには慣れてますから。フォルテナ・フルスです」
フォルテナはゼキアに片手を差し出す。ゼキアは姿勢を正してその手を握り返した。背筋を伸ばしたゼキアは、平均よりも背の高いフォルテナよりも更に大きかった。中世的な顔立ちで、一瞬、男性かと思ったが、胸のふくらみがそれを否定していた。
「よろしくフォルテナ。それから、もう敬語はやめない?」
ゼキアは掴んだフォルテナの手をぶんぶんと振ってから、引き寄せて抱きしめた。
「仲良くしよう」
「は?」
そっと耳打ちされて、二の腕に粟が立った。ふりほどこうかと腕に力を入れたところで、マレフィタが体を滑り込ませて二人を引き離す。
「やめてよ、怖がってるでしょ。大丈夫だからね、フォリー。ゼキアは誰にでもこうなの」
「はあ……」
マレフィタは唇を尖らせてゼキアを睨む。ゼキアは嬉しそうに微笑んだ。
「マレフィタ、それは焼きもち?」
はあ、と大袈裟に肩を落としてから、マレフィタはフォルテナに向かって笑う。
「私もね、最初はすごくからかわれたの。ゼキアってこういう風だけど、本当は真面目で良い娘だから」
「こういう風って何? 私はいつだって真面目だよ。ね、フォルテナ」
綺麗な顔にウィンクをされて、フォルテナがどう返していいのかわからずにいると、ゼキアはフォルテナの顎に手をかけた。
「ああ、困った顔も可愛いけれど、笑って頷いてくれたらもっといいのに」
「ええと。……マレ?」
フォルテナはあごを持たれたまま、目だけでマレフィタを見る。
「なあに?」
「こいつは怒らないと際限なく調子に乗るタイプなのかな?」
「え……あ、うん。多分そう」
マレフィタの返事と同時に、フォルテナは顎に掛けられた手に自分の手を添えて微笑む。
「あ熱っつ!」
「フォリー!」
ゼキアは慌てて手を引っ込めて、冷えた床に押し付けた。手加減をしたし、彼女も仮にもイオヴェズの欠片を受けた者なら火傷などしないだろう。
マレフィタは青い顔でフォルテナを見ている。恐らく精霊堕ちを心配しているのだろうが、このくらいで精霊堕ちしない事はナギニーユやジギーで証明済みだ。
「いいねえ、フォルテナ。マレフィタは反応が今ひとつ面白くないんだ。それも可愛いんだけど」
案の定、ただのパフォーマンスだったらしく、ゼキアは赤くすらなっていない手をひらひらと振って立ち上がった。それを無視して、フォルテナはマレフィタに向き直る。
「いつまでここに?」
「明日。朝には発たないと」
マレフィタは申し訳なさそうに目を伏せた。仕事で来ているのだから、それは仕方がない。がっかりしたことを顔に出さないようにしてフォルテナは微笑んだ。
「私の部屋は二階なんだ。マレ、少しは話せる?」
こくんと頷くマレフィタに背を向けて、フォルテナは部屋に向かう。鍵を回して扉を開け、マレフィタを誘うために振り返った。
「お邪魔します」
「は?」
フォルテナが入るよりも早く、ゼキアがフォルテナの横をするりとすり抜けてフォルテナの部屋に入り、ひょい、と指を動かしてランプに火を灯した。遠隔が使えるということは、彼女もかなりの使い手である。もちろん、マレフィタの相棒ということは神殿付きなのだから、それなりの使い手には決まっているのだが。
しっかり観察してからフォルテナは我に返った。感心している場合ではない。何故、こいつも入ってくるのだ。フォルテナは顔をしかめた。
「もう~。力を安易に使い過ぎだよ、お邪魔しま-す」
力を使ったことに文句を言いながらも、当然のようにマレフィタが部屋に入る。ゼキアは椅子を集めてテーブルの周りに席を作りはじめた。
「なあ、何をしてるんだ?」
「何って。歓迎会だよ。主に私の」
ゼキアは、何をわかり切ったことを、という顔で答える。マレフィタは、とろけるような笑顔で、テーブルの上にお菓子を並べはじめた。
「フォリー、わたし、ロウレンティアの美味しいお菓子、いっぱい持ってきたの」
「そう……なのか」
フォルテナは頭を抱えてベッドに座る。良いタイミングで来てくれた。聞いてほしい話がある、と思ったのに、どうもそんな雰囲気ではない。
「えー。私がベッドに座ろうと思ったのに。まあ、しょうがないか。とりあえず着替えようよ。マレ」
「そうだね。わあ! このくまちゃんかわいいね!」
「ちょっと、待って」
服を脱ぎ始めるゼキアと、クマのぬいぐるみを抱きしめるマレフィタをフォルテナは制する。だが、何を? というようにこちらを見ている二人に毒気を抜かれ、フォルテナはため息をついた。今日の所は諦めよう。次のチャンスがいつかはわからないが、今回知ったことを伝えれば、自分の抱える重いものをマレフィタに持たせることにもなる。言わないのが正解なのかもしれない。
「ハンガーはあそこ」
ため息とともに、フォルテナは備え付けの物入れを指さした。
「わ、ありがとうフォリー。借りるね」
それから、二人はずっと楽しそうだった。飲んで食べてしゃべって、時計の針が真夜中を回ってからやっと宿泊用に部屋に帰って行った。フォルテナはゴロリとベッドに横になる。
「う」
フォルテナは、マレフィタの「ごめんね、これ嫌いだった?」というがっかりした顔に負け、ついつい食べ過ぎてしまったお腹を抱える。
「気持ちわる」
それでも久しぶりに幸福な気分で眠りについた。
***
翌朝、いつもより早めの時間に部屋をでたフォルテナは、サロンの椅子に座る赤い短髪を見つけた。こちらに背を向けて、新聞を読んでいるらしいゼキアに気づかれないように、足音を立てずに歩く。
「おはよう。今日も可愛いね」
「見ないでわかるのか?」
ゼキアは背もたれ越しに振り返って微笑む。健康的な白い歯がこぼれた。対照的に、光を浴びた赤い髪が燃えるように輝いている。朝の光の中で見ると、ゼキアはひと際美しいとフォルテナは思った。
「フォルテナが可愛くないわけがないからね。今から事務所なら、一緒に行ってもいいかな」
ゼキアは新聞を置いて、ぐぐっと背伸びをする。
「暇なのか?」
「バカだな。フォルテナと一緒に居たいからだよ」
ゼキアはこちらが少し警戒するくらいにフォルテナに身を寄せる。フォルテナはうんざりして眉を寄せた。ゼキアはいい子だと思うし嫌いではないが、いちいちこの芝居がかったやりとりを経由しなくてはいけないのには辟易しそうだ。
「行きたいなら一人で行け」
肩に乗せられた手を振り払い、扉を開けて外に出る。ごめんってば、と言いながらゼキアが追いかけてくる気配がしたが、無視して小走りで外階段を降りた。今日はどんよりと曇っていて、朝の霧が街を包んでいた。空気が冷たくて少し肌寒い。
「よお」
「ジギー?」
突然声を掛けられて、フォルテナは少し驚いてジギーを見る。ジギーは精霊憑き用の宿舎ではなく個人で部屋を借りて住んでいる。どこに住んでいるのか知らないが、出勤時に出くわしたのは初めてだった。
フォルテナに声を掛けながらもジギーの目はフォルテナを追ってきたゼキアを見ていた。フォルテナは仕方なくゼキアを手で示す。
「ジギー、これはゼキア・フェスランテ。ゼキア、こちらは私の相棒のジギー・ザック」
フォルテナは簡単に紹介しながらも、足を止めずに事務所へと向かった。それをジギーとゼキアが並んで追う格好となる。
「初めまして。素敵なおじさま」
「あ?」
「うっわ。声もセクシーですね」
後から聞こえてくる会話に、フォルテナは思わず振り返りそうになった。ゼキアは本当に誰にでもこうなのか、さすがに男相手にはまずいのではないだろうか。
心底呆れ果てたものの、困って無言になるジギーが面白くて思わず頬が緩む。フォルテナは慌てて口元を引き締めた。
「フルス、まっすぐ行くぞ」
事務所に向かおうするフォルテナを、ジギーが呼び止めた。ジギーは大通りを横断しようとしている。道路向こうはイグマイの駅だ。恐らく事務所によらずにまっすぐヴェイアに向かおうということなのだろう、
しかし、許可は取ってあるのか? とフォルテナはジギーの顔を窺った。ゼキアが軽い身のこなしでジギーの行く手をさえぎった
「事務局にもよらずに随分早い出発ですね。許可は取ったんですか?」
「もちろんだ」
ジギーは面倒そうに片手でゼキアを押しやる。昨日の今日である。恐らく「予定」を提出しただけで許可はまだ下りていないだろうと思う。だがフォルテナも面倒なことは嫌いな性質だからジギーに話を合わせることにした。
「昨日のうちにね」
通りすがりに肩を叩いてゼキアに言う。納得いかない顔をしているゼキアを置いて、小走りでジギーの後を追った。
次話、登場人物紹介です。