決意
何度も何度も夢に見た景色がフォルテナの目の前に広がった。黒い鳥が堕ちてくる。すべてを飲み込んで吐き出し、悲鳴を上げながら回転して……恐怖で泣き出しそうな気持ちを抑え込んでフォルテナは、彼に向かって両腕を広げるのだ。
「力を使いながら堕ちていくらしいから、それはないだろう」
ジギーはエレミタ・ベッカーの死因に精霊憑きが関わってる可能性が大きい、ということを確認すると、遺体には興味を失ったようだ。ライティングデスクの引き出しの中から取り出した資料をパラパラとめくっている。
現実に引き戻され、フォルテナはジギーが今言った言葉の意味を咀嚼する。
「何故そんなことを知って……」
「知ろうとしたからだよ。お前は知ろうとしなかったんだろう。ヒュンメル・フルスの心を」
ジギーは切り捨てるように言った。フォルテナの喉からかすれた音が漏れる。ヒュンメルが精霊であることを知っているのは、自分とギョクロと神霊だけだ。誰の死霊に憑かれたのか? と聞かれても、姉の思いを尊重して「わからない」と答え続けていたのだから。
「何故、姉を」
「だから、知ろうとしたからだよ。お前と違って。堕ちた男のこともな」
面倒くさそうな顔で、ジギーはパタン、と資料を閉じた。知っているわけがない。だから、フォルテナの資料から、姉がいたこと、その姉の婚約者のことを知って、あてずっぽうで言っているのだ。
フォルテナの脳裏に鮮明にあの日が再現される。青ざめたマレフィタが恐る恐る告げた名前、義兄になるはずだった優しく穏やかな男の名前を。
――ベセナートなの。堕ちたのはベセナートなの
あの瞬間から、姉は一言も話さない。そして討伐作戦が決行されたあの日、覚悟を決めて両手を広げたフォルテナを、姉は――。
フォルテナはぐっと拳を握りしめた。
「知りようがない。何も話してくれないのだから」
「お前は甘えているのかもしれないぞ。フォルテナ・フルス」
ジギーは立ち上がって目を細める。何も知らない子供に向かって言うように上から言われるのが不快だった。勿体ぶっていないで、言いたいことをはっきり言えばいい。だが、喉が絞められたように声が出なかった。
「お前を傷つけたくない、という姉の思いに。悲劇から目を背けて、失敗を姉のせいにして」
「違う! 姉は……ベセナートを選んで、私を裏切った。そのせいでナギニーユが……」
ジギーは冷静な目でフォルテナを見つめている。その目に恐怖におびえる自分が映っていた。
フォルテナは気づく。あれから、悲劇に関する報告書は全て読んだ。だが、そこにはヒュンメルの気持ちも、ベセナートの気持ちも何一つ書かれてはいない。それなのにトギノス機関にある資料だけを読んで、精一杯調べて、理解した気になっていたのだ。自分はイグマイから一歩も出ずに、仕事に追われるふりをして。
「知る覚悟はあるか?」
ジギーは、葉巻を咥えた。知る――恐怖がフォルテナを貫いた。罪悪感に身を焼いて、死ぬことだけを考えていた苦しい日々に、また戻らなくてはいけないのかもしれない。もしかしたら、さらなる痛みに苛まれるのかもしれない。恐怖がフォルテナの身を竦ませる。
だが、どこかで冷静な自分が、そんな自分を見ている。傷が癒えたことに罪悪感を感じつつ、その傷を更に抉ることには躊躇するのか? ここで首を横に振り、真実を知らぬまま、ナギニーユの死を嘆く自分に酔い続けるのか? 姉を恨むことで自分の責任を軽くして、心に蓋をしたまま生きていくのか? と。
――そんなのは、いやだ
フォルテナは振り切るように頷いた。
「ある」
『やめて!』
フォルテナの肯定と同時に、張り裂けるような声が響いた。五年ぶりに聞く、姉ヒュンメルの声だった。お姉ちゃん、と叫びそうになったが、フォルテナの喉から声は出なかった。長く、人前で姉と呼ばないようにしていたクセだった。固まったまま動けないフォルテナの頭を、ジギーがぽん、と叩く。その顔は既にいつもの、ジギーに戻っていた。
「ま、ゆっくり行こうや。まだ仕事も残ってるしな。ほら、エレミタの資料だ」
手に持っていた資料をフォルテナに手渡したジギーは、無造作にエレミタを跨いで部屋を出ていく。混乱した頭を数回振って、フォルテナはそのあとに続いた。
***
フォルテナとジギーは、その後たっぷりと一日かけて、ダチアの街を調べた。
靴底がすり減るくらい歩いて、もうダチアの街中に踏んでいない道は残ってないという頃になっても、芳しい情報は何一つ得られなかった。
帰りの馬車に乗り込み、知っていることをすべて教えてほしい、とジギーに懇願したのだが、追々教えてやると言ってはぐらかされた。
「手がかり、何もありませんでしたね」
馬車に揺られながら、フォルテナは一ページ目をめくっただけの薄い報告書をパタパタと振る。ライティングディスクの引き出しに収められていた個人資料は、トギノス機関に収められているもので、事務所に戻れば手に入るものだ。
これによると、殺されたワノトギ「エレミタ・ベッカー」は百二十五歳だった。三十歳の時に精霊憑きになって、九十年という期間をトギノス機関で勤めあげ、あの悲劇の年に隠居の身となった。
そして、引退してから五年はダチアのあの家で暮らしていたらしい。近隣のものとの交流はなく、親しい友人も見つからなかった。食料店の店主がようやく覚えていただけで、あとは誰も彼の事を知らなかったのである。
「あとは、前の仕事仲間」
ジギーは面倒そうに言った。エレミタの最後の任務先は……とフォルテナはエレミタ・ベッカーの資料をめくる。
「最後はヴェイアだ。三十年以上勤めてる」
見つける前にジギーに補足まで付けられて、フォルテナはどうにも心ここにあらずな自分を再確認して、小さく嘆息した。
「来週にでもヴェイアに行ってみますか?」
「明日だ」
「は?」
「明日出発する。行かないなら俺一人で行くから、お前は受付やって待ってていいぞ」
ジギーはにやりと口の端を上げる。
「行きますよ」
ムッとしてフォルテナはジギーの足を蹴る。ジギーはひょい、と避けてくっくっくと笑った。もう少し、エレミタについて知らなくては……気を取り直して資料に落としたフォルテナの目が、ある一点で止まる。
「ジギー・ザック」
エレミタ・ベッカーの最後の相棒の名前を読み上げて、それが書かれた場所を指でなぞる。フォルテナに名を呼ばれて顔を向けたジギーが、フォルテナの指先が指す場所を見て、フンと鼻を鳴らした。
エレミタ・ベッカーの最後の相棒はジギーだったのだ。ジギーの名前の横に、美しい文字でメモ書きがしてある。
――人生、最高で最良の相棒
「もうろくじじいの戯言だ」
ジギーは、トップハットを目深にかぶって座席に沈み込む。ジギーがどんな思いでエレミタの死を見つめていたのか。フォルテナはまた知ろうともしなかったのだ。
沈黙の中、馬車はやがてイグマイに到着した。
「報告は俺がしておくから、まっすぐ帰れ」
馬車を降りてすぐに、ジギーはフォルテナに背を向けて言った。恐らく、ジギーは報告には行くまい。ただ、早く一人になりたいのだろう。フォルテナは報告書を押し付けるようにして渡した。
「では、明日駅で」
くるりと踵を返して、フォルテナは歩き出す。息の詰まる馬車に揺られたあとの、春の夕べのキリリとした空気が心地よかった。早足で歩くうちに、自分の中で選択が意志に変わっていくのを感じた。