悪霊の夜 *地図イラストあり
月のない静かな夜に、呼気だけが白く長い生き物のように漂った。
民家の窓から零れる灯りと、ぽつねんと佇んでいる魚尾灯の炎だけが暗夜を彩っている。魚尾灯に照らされた石畳の円は、来ない主役を待つスポットライトのようにうつろだった。
いかにも悪霊がざわめきそうな夜だと、フォルテナ・フルスは警戒を強めた。
陽の中で影に身を潜めていた悪霊たちは、夕暮れと共に薄闇へとするりと這い出す。死して時が経ち、満たされぬ何かを求めるように彷徨う姿は、不憫だと言えなくもない。だが、それを問答無用で滅するのがフォルテナの仕事なのだ。
フォルテナの暮らすマスカダイン島の子供たちは言葉を覚えるか覚えないかのうちから、神霊様が日々の糧を与えてくださる、恐ろしい死霊や悪霊からも救ってくださるのだ、と教えられて育つ。
でも……
――本当に悪霊から人々を救ってるのは私たちよね
フォルテナは、湿った石畳を歩きながら、左右へと視線を送った。
先ほどから、自然精霊の気配が極端に薄くなっている……自然精霊は悪霊を嫌って避ける。だから間違いなくこのあたりに悪霊がいる。魚尾灯の下で足を止め、更に注意深く暗い路地の奥にまで目を走らせた。
「フォルテナ、勝手に動くなよ」
先輩で相棒のナギニーユ・ノバーレンが背中を丸め、フォルテナの耳元で囁いた。くすぐったさに竦めそうになる首を、フォルテナは殊更にしゃんと伸ばす。春のひと月とはいえ、まだ夜は冷え込むから、頬を染めたら変だと思われてしまう。
「わかってる」
フォルテナはわざとぶっきらぼうに聞こえるように答えた。光の円の中で顔を寄せて立つさまは、遠目に恋人同士に見えるかもしれないな、と思い、悪霊が出たと噂になっている街の暗がりで逢瀬をする馬鹿はいないと思い直した。悪霊が近くにいるというのに、くだらないことを考えてる場合ではない。
ふ、と月が雲から顔を出した。フォルテナは一つの路地裏の闇に目を細める。積まれた酒樽の陰で蠢く、辺りよりひときわ黒い影を確かに捉えた。間違いない、悪霊だ。
「見つけた」
フォルテナは呟くよりも早く、まっすぐに路地に向かって走りだした。
「ああ! なにが わかってる だよ、このバカ娘! 待てって!」
ナギニーユが慌てて追いかけてくるのがわかったが、待てと言われて待っていたら悪霊に逃げられてしまう。
「一人で大丈夫。いつまでも子ども扱いしないで!」
背後に言い捨てると、フォルテナは深い前傾姿勢を取って足に霊力を集中させた。右手の甲がチリッと赤く光る。
「トギ、お願い」
言葉と同時に、溜まった霊力が炎となって爆ぜた。バシュ、という音とともにフォルテナの細い体は空に舞い上がる。炎の赤があたりの闇を払った。慌てて昏い路地裏に逃げ込もうとする悪霊の前を狙って着地して、フォルテナはゆっくりと振り返った。
足元で燃え盛っていた炎は静かに消えた。だが、フォルテナの黒いブーツには焦げ跡一つついていない。フォルテナに取憑いた精霊の力で発生する炎は、フォルテナが燃やそうと思ったものしか燃やさないからだ。
悪霊は逃げもせずに、その場に漂っていた。形を持たないただの黒い靄である悪霊は、もの言いたげにうねうねと伸びあがり前後に震える。それはフォルテナに向かおうか、引き返そうか迷っているようにも見えた。
――この程度なら削る必要はなさそう
足を踏み出そうとしたとき、ガタン、と路地に面した家の窓が鳴った。目をやると、家人らしい男がこちらを見下ろしている。
「お、お嬢ちゃん、何してるんだい? 早くおうちにお帰り」
「お嬢……私は十八歳です!」
思わず叫んでしまってからコホン、と咳ばらいをする。
「嘘はいけないよ。どう見ても十三か四だろう?」
叱るように男に言われて、う、とフォルテナは言葉に詰まる。頭に来るが、確かに見た目はそうなのだから仕方ない。夜中に少女が一人でふらふらと出歩いているのだと思って心配してくれた善良な人なのだ。それに、普通の人には、目の前にいる悪霊の靄が見えないのだから。
フォルテナは窓から洩れる灯りの下に移動して、銀の装飾がふんだんにあしらわれた特徴的な黒いコートと、その襟元で光るバッジを見せた。
「トギノス機関の者です。灯りを強くして、部屋の真ん中に居てください」
声を低めて、精一杯の威厳を込めて言うと、男は驚いたように飛び上がり、小刻みに何度も頷いて窓のそばから消えた。
「悪霊だ。灯りを強くして。トギノス機関の人が来てくれてるから大丈夫、じっとしていなさい」
家の中から男の声が漏れ聞こえ、窓から洩れる灯りが強くなった。
目の前の悪霊は、その灯りに苦しそうにうねりつつ、フォルテナが欲しくて堪らないというように震える。フォルテナはふう、とため息をついてから数歩、悪霊との距離を縮めた。
「精霊、浄霊するよ」
フォルテナの右手の甲が先ほどよりも、強く赤く光る。それは徐々に拡がってフォルテナの体を包み込み、体全体が燃えているかのように赤く輝いた。
それと同時に徐々にフォルテナの五感は鈍くなっていった。何もかもが一枚の幕の外で行われているように感じる。悪霊を浄化するために、自身に取憑く精霊に体の主導権を明け渡したのだ。
自分の体が大きく息を吐いたのがわかった。悪霊を体内に取り込み、体に宿した神霊の欠片で浄化する準備をしているのだ。浄化には激しい痛みが伴う。フォルテナは朦朧とする意識の中で、やがてやってくる痛みに備えた。
『フォリー、戻すわ』
ところが、痛みは訪れず、自分の喉から零れる精霊の声で、一気に知覚が戻った。目の前には、ナギニーユが先ほどの自分と同じような姿勢で立っている。
そのナギニーユの周りを黒い靄が渦巻いている。それは更に大きな紫色の光で包み込まれている。黒い靄は段々に薄くなっていった。悪霊がナギニーユの体内に取り込まれているのだ。
「一人で出来るって言ったでしょ。やめてよトラカトル」
叫んでみても遅く、黒い靄は全てナギニーユの体に吸い込まれた。ナギニーユを包んだ紫色の光も薄くなり消える。
「今回は、俺の番……でしょ」
切れ切れにそう言って、ナギニーユはがっくりと膝をついた。体内に宿す神霊の欠片を使った代償として、激しい倦怠感や吐き気、頭痛などに襲われているのだ。
「あんたはあたしよりずっと代償がキツイでしょ。それに、倒れた男を少女が運ぶのと、倒れた少女を男が運ぶことの効率の違いを考えてよ!」
フォルテナが怒鳴る間にもナギニーユはへたり込んで石畳に寝転がってしまった。
「フォルテナ。後は、頼んだ、ぜ……」
「もーーー!」
暗い路地裏にフォルテナの絶叫が響いた。
マスカダイン企画の「アナザーストーリー」です。
本編を読まなくてもわかるつくりにしたいと思っていますが、読んでいただけるとより楽しんでいただけるようにもなっています。
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