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「四か月、か。」
「うん。」
鍵をかけると、ついていたキーホルダーの鈴の音が鳴った。一足早い涼しげな音色はいつもよりやけに響いた。正午の陽射しは思ったよりもきつかった。
「めっちゃ眩しいな。」
今度は美水都が鍵を取り出した。こんなに近い距離にあるはずなのに、美水都と一緒に見る「凪面」の表札は遠い記憶の奥底から埋もれ出てきたような気がした。毎日毎日初香が、美水都、両親、末っ子の咲琶果のことが身体から離れないのに、こんな気持ちになった自分に不安が募り、嫌気がさした。
「ごめんな。なかなか最近奥まで通してもらえんかったんちがう」
「そやね。そらだって、な。やからほんまにあがっていいんかすごい迷ってんねんけど。」
「あかんねやったらわざわざこっちまで俺が家の鍵開けに戻って来るわけない。」
開けられた玄関は確かに凪面家の匂いに限りなく近かった。ただ少し鼻についたのは、その匂いの温度の違いだった。「いつもと変わらない」というには、今日この家の温度には鼻の奥が少し冷たくなった。
「そうかもしれんけど。」
尻込む瑜里逢の背中に美水都の手がそっと当てられてそのまま軽く玄関へと招き寄せられた。
「ええから、入り。な?」
レンジで暖まり切らなかったお冷物のお惣菜のような気分だった。その手に、声に、暖かさを感じてはいたものの、その暖かさは、素直に芯までは、しみこんでいきはしなかった。
「でも、初香ちゃんは 」
その先を瑜里逢は続けることができなかった。
「いや、初香は誰であっても多分おんなじ運命をたどることになったんやと思う。初香かって、ずっとお前が来てへんかったら寂しいやろし、心配しよるで。」
確かにここでつったっていてどうにかなるくらいなら、誰もが自分を、自分以外の誰かを責めることには今頃なっていない。動いていかねばどうにもならないとわかっているからこそ、今ここにいるのだと思った。
お邪魔します、と小さく呟いて、瑜里逢は中へと上がった。
仏壇には初香の写真があった。その背丈と同じくらいの大きさの戒名が描かれた札は、隣にあった。プラスチックのカップに入った、生クリームたっぷりのマンゴープリンとパールのイヤリングが供えられていた。灯された線香からは、ライラックの香りが立ち上った。春に花をつける背の高いその樹をどこで知ったのかはわからないが、初香はこの香りが好きだった。体が締め付けられて、言葉が出ない。
「あの人たち、今でも舞結のことも万桜のことも好きなんやで。『舞結ちゃん、向こうでもピアノ弾いてるんやろか』とか『万桜はちゃんと布団きてるんやろか。風邪ひいてへんかな』とか色々言うてる。」
「そうなんやね。やけどうちらの顔見てしまうと、また違うんやろね。」
「うん、どうもな。俺もよくわかれへんけどなそこの違いが。あの人らも、このままではだめなんや、あかんねや、ってのは思ってる。」
「うん。」
「分かってはいるんやけどな。」
「うん」
父と母が凪面家の家族に、何度も何度も首から上が転げ落ちそうな勢い頭を下げていたことが、まざまざと思いだされた。「お互い辛いんやから。」美水都と母親はそんな瑜里逢の両親を優しく介抱してくれていたけれど、父親は俯いて唇を噛みしみていた。紗琶果はそこには姿を見せず、どこか別の場所にいた。昨晩まで降り続いた激しい雨は、明け方にはみぞれにかわり、事件から四日目の朝を迎えたのは雪だった。葬儀の参列者らを確認するかのように、受付に一番近い窓の外に根を張ったイロリザキの樹の枝は、窓に向かって大きく枝垂れていた。憂い・興味・憐憫がぎりぎりと突き刺さる式場に、ここから消えたいとさえ思ってしまった。舞結と万桜に申し訳なくて、堪えていた涙が溢れた。
「そやねん。ごめん、もうちょいお前の家んとこに迷惑かかりそうや。」
そして一番、花挽家に会うのが辛くなっているのは美水都の母親だった。
「ううん。おばちゃんの気持ちもやし、おっちゃん、咲琶果の気持ちは私らでも想像はつく。」
久しぶりに美水都の部屋へ向かった。漫画や参考書、小説、雑誌、ジャージで雑然としていた部屋はすっかり床が見えるくらいになっていた。ただ、蛍光灯の上や窓枠、部屋の隅っこには埃が積もっていて、美水都はやはり、近くにはいなかったのだと瑜里逢は改めて感じた。
「だいぶ向こうに持ってったんやね。いっぺんに物なくなってる。」
「うん。おいていこっかなとも思ってんけどな。どうせ向こうでもおんなじ生活するんやし、欲しなるもんも一緒やろ思ってな。」
「そやね、持ってける物は持ってといて正解やろうね。」
「まあな。そやけど片付けめんどくさいねんな。本とか服とかさ、自分で元のところ戻ってくれたらええのにって思わへん?」
「相変わらずむちゃ言うなぁ。」
瑜里逢から笑みがこぼれた。それを見て、もっと嬉しそうに美水都からも笑みがこぼれた。笑った時には無意識のうちに頬を膨らませるようにして二人とも笑う。その頬はいつも赤らむ。昔から、兄妹でもないのに「笑った顔がよく似ている」と、二人はしょっちゅう言われていたものだった。