003
大型ショッピングモールが出来たせいで潰れた商店街を抜けるのが、私の帰り道。本当はもっと近い道があるんだけれど、いつもここを通ってしまう。
その商店街でも、特に錆びているシャッター、汚く剥がされた看板の跡がある店舗。
ここは昔、魚屋さんだった。
そして、私の家でもあった。
お父さんとお母さんが、優しかった頃の記憶が思い出される。
ここの商店街の人達は暖かった。
学校で辛い目にあっても、皆は私を笑顔で迎えてくれたからへっちゃらだった。
年々薄れてく記憶を、ここへ来る度に繋ぎ止める。幸せだった頃を思い出して、浴びた毒を浄化する。
お父さん、元気かな。
大きな声で、元気よく魚を売っていたお父さん。お店が潰れてからは、日に日にやつれて、最後はいなくなってしまった。
いなくなってからのお母さんは、おかしくなった。もう、私のお母さんはいない。今はただの化け物だ。
その頃から、人間が黒い塊に見えてきた。お母さんも、街の人も、クラスメイトも、みんな黒い塊に見えた。
悪意が固まった化け物。
人間は私一人になった。
それからずっと一人。
私は、これからも一人だ。
駄目だなぁ。今日は毒を浴び過ぎて、考えが後転してしまう。
◆
ずっと真っ直ぐ道なりに郊外へ行くと、湖が綺麗な湖畔公園に着く。ここは寄り道なんだけどね。
この湖畔公園は、誰も利用しない割にはしっかりと整備されている。
並木道は綺麗にウッドチップが舗装されているし、ベンチも綺麗に拭かれている。
立派な設備こそはないものの、私はこの綺麗な公園が好きだった。
誰もいないし、静かだし。
だからここで私はマスクを外せる。
肌で息が出来る。それがなによりも幸せだった。
中学生から何度もここへは夜に足を運んでいる。夜が遅くても、お母さんは何も言わないから。
多分、私に興味がないのだろう。
お母さんが興味あるのは、あの変な宗教だ。
いつものように、真っ暗な道を歩く。
コンタクトがなくても、歩き慣れたこの道は平気だ。目を瞑っても歩ける自信がある。
並木道はぐるりと大きく湖を囲うように一周している。一周、三十分はかかるけれど、夜の散歩には丁度いい距離だ。
歩き慣れたこの道は、いつも私の味方だ。
だからこそ、異変がすぐに分かる。
今日は、いつもと違った。
何か、気配がする。
私だけじゃない、気がする。
ピタリと足を止めて、振り向く。
「誰か、いるの」
緊張で声が上擦る。
上擦ると言えども、低く、篭って、ガサガサとした声質にはたかが知れてる。
じりじりと嫌な感じが背中から込み上げてきた。汗こそはかかないものの、焦燥感が背中を照りつける。
視界は案の定、闇しか見えない。
一寸先も霞む状況だ。
今更になって、コンタクトをつけ直さなかったことを後悔する。
こういう日に限って、悪い事は連続するのを忘れていた。
もう、“今日”は終わっていたと思っていた。
“罰”はおしまいだと思っていた。
私は馬鹿だ、なんで気を抜いたんだ。
ぐっと闇を見据える。
これ程、闇が怖い事は今まで無かった。
あれだけ好きだった黒が、今は恐怖でしかない。
しかし、何時まで経っても、返事は無かった。
気の所為なんだろうか。
今日は疲れているから、気が立っているのかもしれない。過剰に神経が尖っているのは、自分でも感じている。
「………………っ!?」
刹那、足元に何かが突然ぶつかり、思わず飛び跳ねてしまう。
何が当たってきたのか。
爪先に硬いものが、襲ってきた。
動物?にしては、あまりに直接的で硬かったような……
スリッパを見るが、特に異変はない。
鳥が木の実を落としたのかな……
柄にもなく少し緊張している。
幽霊、ではないと思う。いやいや、幽霊なんているはずがない。
ちょっと混乱してるな……
屈んで足元を見てみるも、ガスマスクのスモークガラスで視界が悪過ぎて何も見えない。
……マスク、外そうか。
手袋を外す。外気が気持ちいい。
フードを脱ぐ。篭っていた熱が消化される。
ガスマスクを外す。世界の地に足が着いた気がした。
空気が美味しい。
夜露に濡れた草木の匂いが、鼻腔をくすぐる。
肌が深呼吸をするように、人心地着いた。
視界が、鮮明になる。
やっぱり、外は気持ちいい。
大きく息を吸って、肺に新鮮な空気を入れた。
こんな事で幸せと思えてしまう。
可能なら、毎日ずっとここにいたい。
足元に目を凝らして、何か落ちてないか探してみる。
そういえば小さい頃は公園でよく、こうやって虫を眺めていたものだ。
どんぐりだ。まだ青いどんぐりが、数個落ちている。
他には小さな石。あとは――
瞬間、私の身体は後ろへ引っ張られて、並木道を外れて草むらに引き摺り込まれた。
心臓が破裂しそうなくらい唸りを上げた。
声が出せない。
否、引き摺り込まれたのではなく、押し倒されて、口を塞がれたのだと気付くまでに数秒を要した。
とてつもなく強い力で、身体と口を抑えつけられる。
目が縦に回転してるんじゃないかという位、視界がブツ切りに感じた。
近くには、息を呑むくらい美人な顔がある。
吸い込まれそうな大きな黒い瞳に、端整な顔立ち。
真っ黒い濡鴉のような、美しい髪を揺らしている――――
教室で会った人、だ。
理解出来ない程の情報量と状況に頭痛がする。
もしかしたら倒された時に頭を打ったのかもしれない。
ただ、昼と違うのは、彼女はヤバかった。
酷く瞳孔が開いて、にたりとニヒルな笑みを浮かべている。
呼吸は荒々しく、興奮しているようだった。
「イタダキマス」
そして、彼女は艶めかしく、口を開けた。