001
私は死にたがりだ。
それでも、私は生きている。
私は死にたがりでも、死ぬ事が怖い臆病者なんだ。
死にたがりの中でも、死ねない私は“負け犬”だから。
ガスマスクのレンズ越しに見える世界はいつも黒い。もしかしたら、ガスマスクを外しても世界は黒いのかもしれない。
今日も私は世界で一人。
私以外はみんな“化け物”。
私だけが“人間”。
私には、他人が気味の悪い黒い化け物に見える。
黒い世界で蠢く、得体の知れないか。
気が狂っちゃいそう。
もしかしたら、もうとっくの昔に狂ってるのかも。
化け物達が一斉に教室から出ていった。
今日のお昼休みは何もされなかった。
張り詰めていた緊張が少し解ける。
涙が出てきた。泣くことすら、疲れる。
私は神様に嫌われている。
だから、私は地獄に産み落とされた。
この世界は地獄だ。みんなそれが普通だと思って生活しているだけで、気付いていない。
死ねば、天国に行ける。
地獄から逃れる為にはそれしかない。
何度、この思考に至っただろうか。
それでも死ねない私は、地獄から逃れられない。
ガスマスクが、地獄の“毒”から守ってくれる。
ガスマスクだけが、私の味方だ。
だから、私はまだ生きていられる。
鞄から化け物達に押し付けられたノートを広げて、ペンを滑らす。
化け物達の宿題を全てこなすのが、神様が私に与えた罰だ。このくらいの罰は、甘んじて受け入れられる。
だって、この罰は痛くないし、傷つかない。
罵声を浴びないし、水をかけられないし、物を隠されないし、精神が毒されないし、殴られない。
でも、どうして私だけこんな目にあうんだろう。
親からも、妹紛いからも、化け物達からも、通りすがる人達からも。
私だけ何が違うの?
私だって普通の人間だ。殴られたら痛いし、物を隠されたら悲しいし、罵声を浴びせられたら傷つく。
私だって、皆と同じなんだよ。
いつの間にか、身体の奥が煮えたぎるように熱くなっていた。
夏は、神様が用意した拷問だ。
灼熱地獄。汗をかきにくい体質の私は、身体の血が煮沸する思いで耐え凌ぐ。
呼吸が荒くなる。
自らの呼吸すら、熱い。
ガスマスク内で循環した私の呼吸が、顔を照り付けるように焼いていった。
これ以上息をすると、顔が火傷しそうだ。
その瞬間、横から涼し気な風が、かくも心地よく私の身体を吹き付けた。沸騰する血の温度が、多少下がった気がする。
なにが起こったんだろう。
何気なく風上へ振り向いた。
「………………人だ」
思わず小さくガスマスクの中で呟るいてしまう。
自分の声が、頭の中でノイズのように聴こえる。
人だ。人が立っていた。
黒い塊に見えない、“普通の人”が立っていた。
綺麗な黒髪を靡かせて、涼し気な表情の綺麗な人だった。引き込まれそうなくらい底の見えない黒の瞳は大きて、すらっとスカートから伸びる長い脚に目が行ってしまう。
目が覚めるような思いだった。
なんでそこにいるの?
幻ですか?
貴女は誰なの?
クラスメイト?
何をしているの?
いつからいたの?
ぐるぐると同じ様な疑問が頭の中でループする。
こんな事は初めてだ。体育の授業中は、唯一私が一人きりになれる機会だから。
不意に彼女と私の目が合った。
「おっ?」
彼女は少し驚いたように目を丸くした。
驚きで目を逸らす事が出来ない。
暫しの静寂。この人も、黒い塊になって、私に何かしてくるんだろうか。嫌だ。怖い。逃げ出したい。
「佐藤さん、暑くないの?」
暑……え?
話しかけてきた。平然とした様子で。
でもその瞳は少し心配そうな、優しげな目だった。
この人からは、黒い“毒”が感じられない。
私に対して、毒の無い人間なんているの?
信じられない。疑ってしまう。
何か、返事をした方がいいんだろうか。
でも、こんな気持ち悪い声を出したら、笑われてしまう。どうしよう、何をしたら――
「私、ずっといたんだけど気付いてた?」
考えが纏まる前に、急に話題を変えられて思わずぴくりと身体が反応してしまった。
ずっといたのか。と言うことは、この人はクラスメイトなんだろうか。体育の授業へ出席せず、何をしていたんだろう。ただのサボり?
瞳の奥を覗けば、闇がありそうで怖気づいてしまう。表面上は優しくても、なにか裏がありそうだ。だって、私なんかに話しかけてくるなんて……信じられない。
「そのノート何書いてるの?」
ノート……そうだ、ノート。宿題をやらなきゃ、じゃないと、また化け物に殴られる。怖い。嫌だ。
きっ
とこの人だって、いずれは化け物に変わってしまうんだ。中学生の時みたいに、裏切られるんだ。この世に普通の人間は私しかいない。みんな裏の顔は、化け物なんだ。
彼女と化け物達から逃げるようにノートに向かう。
ノートの××色をかき消すように、黒色の文字で埋めていく。
あああああああああああああ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ!!!!
殴り書きのようにペンを走らせる。字が汚くて、また化け物達に殴られるかもしれないけれど、今はとにかく××色から逃れたかった。
それでもどんなに埋めても、××色は消えてくれない。
死にたい。死にたい死にたい死にたい!!!!!!!!
なんで私は死ねないんだろう。
どうして私は死なないんだろう。
死ねない私に来るのは、同じ様に殴られて、馬鹿にされて、蔑まられて、化け物達の宿題をこなして、ガスマスク越しに黒板を見つめる日々。
私は、とっくの間に死んでるのかもしれない。
ふと目線を上げると、彼女が前の席へ座っていた。
思わず息を呑む。驚きに打たれた。
彼女は自分の腕を食べている。
食べているなんてもんじゃない。
彼女は虚ろな目で、自らの腕を貪っている。
鋭利な八重歯が、痛々しい。
腕からは夥しい血が流れている。
溶岩みたいにグツグツと、鮮やかな赤が滴り落ちる。
彼女はハッとしたような表情で、ポケットから包帯を取り出した。なんでポケットに入ってるんだろう。そのまま、乱雑にぐるぐると出血箇所に巻いていく。巻いた所で、包帯の××色は鮮血にすぐ染まる。
その紅色はどんな色よりも、綺麗だった。
「……お、どうかした?」
私の視線に気付いた彼女が、目の焦点を取り戻して問いかけてきた。包帯からは血が滴り落ちて、もうその意味をあまりなしていない。
触れてみたい。
何故かは分からないけれど、芸術的な血染めの包帯に、無意識に手が伸びた。心臓がゆっくりと、そして力強く鼓動を刻む。
黒い革の手袋越しに、彼女の包帯へ触れた。
確か、噛み跡はこの辺り。撫でるように触ってみる。
……手袋越しじゃ、あまり分からない。
痛いのかな。悲しいのかな。辛いのかな。
不意にがたりと彼女が席を立ち上がり、無言で自分の席へと戻ってしまった。
廊下からは化け物達の声が聞こえてくる。
胸が苦しくなったのは、化け物達がやってくるからか、それとも彼女が名残り惜しいせいか。
がやがやと騒がしく入って来た化け物達は、私の机に置かれたノートを各々回収していく。
「佐藤、宿題サンキューっ」
話しかけないで、化け物の癖に。
「佐藤さん、ありがとね〜」
化け物の癖に、言葉を話さないで。
「ご苦労様、佐藤さん」
人間のふりをしないで、化け物め。
化け物達の毒が、私の心に巣食うように蝕んでいく。呼吸がしにくい。苦しい。
「あれ〜、佐藤また靴なくしたの?」
「ウケるんだけど」
スリッパを指差して笑う、黒い化け物達に囲まれる。
かぁっと身体の内側が燃えている。身体が小さく震える。嫌な汗が一気に吹き出た。
にやにやと笑いながら化け物達は私を伺う。化け物達は、私がなにかリアクションを起こすのを待ち望んでいるんだ。
「ねー、佐藤トイレに行こー」
「はい、立って立って」
別に逃げる気も無いのだけれど、化け物達は私の脇を固めて、無理矢理教室外に連れて行かれる。
人数は四人か。十回くらい殴られたら、帰してもらえそうかな。頑張ろう。